ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#59 "我はメシヤ"

 

 

 

 

 

「応星——?」

 

 

 いてもたってもいられなかったとばかりに、叫び声と共に物陰から姿を現していた我が弟に色んな疑問が一斉に湧き上がる。

 

 なんでお前がここにいんの。どうやって来たの。見なよ俺のかわいい弟を。つか声でかすぎじゃない——

 

 

 

 

 ——いや、そんなん後回しだ。集中しろ。

 

 

 

 

 手の中に、たった今投げ込まれたばかりの剣がある。

 

 

 それを構える。

 

 

 脚が勝手に沈む。腰が据わる。

 

 身体の中の流れが全部繋がったみたいな——ずっとあったはずの微妙なズレが、本来あるべき場所にストンとハマったそんな感覚。

 

 

 丹楓の手は上げられたまま、静止している。

 

 

 連動するように、渦を巻いていた水も途中で止まっていた。

 

 

 おそらく——向こうも気づいている。場に何かが加わったことに。

 

 

 だが龍尊サマの、それこそ深い水の底を思わせる瞳は応星のほうを見ていない。

 

 

 こっちを見ている。

 

 

 違うか。俺の手の中の、この剣を、だ。

 

 

「もっぺん——キツいの行くぞ、丹楓(たんふう)ッ!!」

 

 

 身体が軽い。

 

 

 一瞬、自分の踏み込みが速くなったかと錯覚する。

 

 が、きっと違う。重さが正しい場所にあるというか。振るときに手首が持っていかれないというか。そういう細かい、小数点以下の違いがチリツモとなって、"段違い"の域にまで至っているんだと思う。

 

 

 ——だから、速い。

 

 

 丹楓の短くなった槍が迎え撃つ。

 

 リーチが縮んだ分、攻撃の密度が増している。水がその周囲を壁のように巡り、近づく者を絡め取ろうとする。

 

 最初の一合。

 

 短槍の柄が横殴りに振られた。景元の剣を破壊された、あの横払い。

 

 

 ——を迎え撃つ。

 

 

 新しい剣で受けた瞬間。

 

 衝撃が、通らない。手が(しび)れない。

 

 本来、腕ごと持っていかれるような重い一撃を、この剣は受け止めた。なのに、刃こぼれはおろか軋みもしない。

 

 

 ——すげぇ。

 

 

 感慨は一言だけしか許されず、丹楓の短槍が突きに転じた。穂先が喉元を狙う、最短距離の一撃。

 

 身体を捻って避ける。穂先が頬のすぐ横を抜けていった。

 

 その、わずかに伸びきった腕めがけて——返す刃を、横に走らせる。

 

 丹楓が短槍を引き戻す。

 

 翻った穂先が、俺の刃を真横から打った。

 

 金属と金属が、噛み合う。

 

 景元の剣なら——ダメだったろう。

 

 だが、

 

 

 今度は、こっちの刃が、競り勝った。

 

 

 丹楓はわずかだが、確実に()()()()()()()()()を既に認識している。

 

 

 ——すげぇ!

 

 

 この剣ならいけるッ!!

 

 

「へっへぇ……」

 

 

 口から声が漏れていた。相当悪い顔で笑っていたかもしれない。

 

 

 

 しかし、それならばと丹楓の動きが、変化していく。

 

 間合いを、離した。

 

 こっちの剣が通用するようになったことを知り、それならばと主体を槍からお得意の水操作へ切り替える。

 

 水が左右から滑り込み、俺の足元に集中し始めていた。

 

 

 俺は逆にその距離を埋めるべく動く。

 

 

 足元の水が大蛇のように足首に巻きつこうとする——のを咄嗟に剣で切り払って、

 

 

 水が割れた。

 

 

 

 

 ——割れた?

 

 

 

 

 たとえるなら、透明な袋に包まれている水風船を割ったような。形を成していたものが、そのガワを破壊されて、中の水が弾け飛ぶ。

 

 

 

 丹楓の口から犬歯が覗く。

 

 

 

「——面白いッ」

 

 

 

 それだけ言って、俺を迎え撃つべく、丹楓はすぐさま短槍を回した。

 

 

 

 常人なら一突きで終わる速度で、三倍の刺突が襲いかかってくる——それらをしのぐたびに確信が膨らんでいく。

 

 

 ——よっしゃ、理屈は知らんけど、この剣なら戦える。

 

 

 

 水の壁にも、短槍の密度にも、食らいつける。

 

 

 

 ——応星。お前の剣、マジでスゴヤバだぞ。

 

 

 そこに、

 

 

 景元が視界の端に入ってきた。

 

 

 口笛を吹きそうになる。

 

 

 武器はないが、どうやらまだ目は死んでねぇ。俺が丹楓を正面で受け止めている間に、あいつは横から、後ろから、丹楓の隙を窺っている。

 

 俺と丹楓の打ち合いのリズムに合わせて、必ず丹楓の視界の端にいるように位置を変え続けている。

 

 景元がそこにいるだけで、丹楓は多少なり意識を割かないといけなくなる。その分、俺の負担が軽くなる。

 

 

 剣を握り直す。手が震えている。疲労? ノンノン、——(たかぶ)りだ。

 

 

 この剣で丹楓と打ち合うたびに、手と刃の間にあった隙間が埋まっていく感覚がある。人刃一体(じんばいったい)ってのはこのことかよ。

 

 

 

 この剣なら。

 

 

 

 そこから先が、口に出ていた。

 

 

「——なんでも斬れる気がするぜ」

 

 

 丹楓が、こちらを見据えた。

 

 

 初めて——本当に、初めて、丹楓の目の中に何かが灯った。

 

 

 興味、とも違う。

 

 期待、とも違う。

 

 

 量る者が、量りの先に何かを見つけた——そういう目だった。

 

 

 

「——なんでも、か」

 

 

 

 丹楓が呟いた。

 

 

 短槍がゆっくりと天を差す。

 

 

 その動作ひとつで壇の上の温度が、急に下がった気がした。

 

 

 

「ならば——」

 

 

 

 水が、うなりをあげる。

 

 

 

 壇の周囲を覆っていた水の壁が消える。足元にあった水溜まりも消える。丹楓が展開していた水の全てが——一箇所に収束し始めた。

 

 

 短槍の穂先に。

 

 

 最初は小さな渦だった。穂先を中心に回転する水球。それが膨らんでいく。膨張していく。

 

 水が壇の外——波月古海からも引き上がってくる。壁のように控えていた海の水が、壇の縁を乗り越えて丹楓のもとに集まっていく。

 

 

 穂先に収束した水が、形を変え始めた。

 

 

 細長く、うねるように。

 鱗のような波紋を纏いながら。

 

 

 

 それは、

 

 

 ——龍だった。

 

 

 

 水が龍の形を取っている。

 

 蒼い。深い海の底の、光が届かない場所にだけ存在するような色をした、巨大な水の龍が——穂先から伸び上がり、頭上高くまで身をもたげた。

 

 

 

 ざっと二十メートルはある。

 

 

 

 ——なんだあれ。

 

 やっぱ龍って存在感だけですげぇな。圧が凄まじい。ここに立っているだけで、笑けてくる。

 

 そんな現実逃避のかたわらで、グノモンが震えていた。

 

 

 もはや今どういう意図で震えているのか脳の処理が追っつかない。

 

 

 それに今、視線や集中を切らせば、終わる。

 

 

 丹楓の目が開かれている。冷たい顔の奥で、何かが燃えていた。

 

 

 

「——見せてみるがいい」

 

 

 

 龍が、動いた。

 

 

 振り下ろされた穂先から解き放たれた水の龍が、天を泳ぐように——こちらへ雪崩れ込んでくる。

 

 

 

 速い。デカい。恐ろしく、そして美しい。

 

 

 

 避けるという選択肢はない。

 

 

 理由は簡単だ。逃げる場所? あのサイズでどこにあんだよ。

 

 そして、なんでも斬れる気がする、と言ったのは俺だ。ここで避けたら嘘になる。

 

 

 

 嘘をついて勝ったところで、それで何が量れるっていうんだ。

 

 

 

 ——なんだろうな。この感覚。

 

 根拠のない自信……なんてのは毎度のことなのかもしんねぇけど、

 

 同じような感覚を覚えたのはいつだったか——

 

 

 足を踏み締めた。腹に力を込める。

 

 

 剣を両手で握った。

 

 

 誰かが俺の名を叫んでいる。白珠か、応星か、景元か。鏡流先生だったら嬉しくて泣いちゃうよ俺。

 

 

 水の龍が視界を埋め尽くすのが見えた——蒼い鱗が、水の牙が、すぐそこに

 

 

 

 振り下ろした。

 

 

 そう、振り下ろした。

 

 

 ——何の技でもない。何の型でもない。

 

 

 ただ、頭の上から真っ直ぐに、この剣を振り下ろしただけのスーパーシンプルな動作。

 

 

 

 けど——

 

 

 

 手応えは、あった。

 

 

 刃が水に触れた瞬間、パチンと何かが弾けた。

 

 手首から肘、肘から肩、肩から背中へ——不思議な感覚が走った。電流じゃない。もっと深い、骨の奥を流れるような。

 

 

 剣の軌道に沿って、龍が——

 

 

 裂けた。

 

 

 蒼い龍の身体が、真ん中から左右に割れた。水が飛散する。大量の飛沫が壇の上に降り注ぎ、土砂降りよろしく俺の全身を叩いた。

 

 

 ぶ、ぶえっ、つ、冷てー……!

 

 

 龍だったものが、ただの水に戻って石畳に広がっていく。

 

 

 グノモン選手が激しく震えている。連続振動が止まらない。こりゃ警告——いや記録中の振動だ。何かを、ものすごい勢いで記録している。

 

 

 それを、ごまかすように、

 

 

「やー……はは、できるもんだね……」

 

 

 白々しいが、一番驚いてるの俺だと思う。

 

 

 

 ——切れてないですよどころじゃねーよ、切れちゃったよ。

 

 

 

 顔を上げた。

 

 

 丹楓が——立ち尽くしていた。

 

 

 短槍の穂先はうつむいている。

 

 

 あの冷たい顔が、初めて——驚愕に染まっていた。

 

 

 ——だから、遅れたんだろう。

 

 

 丹楓の全神経が、俺へ——いや、ただ目の前のコトが信じられなかったばかりに。

 

 

 音がした。

 

 石畳を蹴る音。

 

 

 景元が走っていた。

 

 

 

 ずぶ濡れのまま、一直線に丹楓へ向かって走っている。

 

 

 

 それをきっかけとしてようやく丹楓が反応した。

 

 短槍が翻る——が、遅い。指が動き、水が景元を阻もうとした。

 

 だが水の大半は龍に注ぎ込まれていた。残りカスのような水流が景元の腕を叩くが、止められない。

 

 

 全身で飛び込むようにして、景元の右手が丹楓の胸に——

 

 

 触れた。

 

 

 

 

 掌が、丹楓の胸の中央に今——ぽんっと、当たった。

 

 

 

 

 

 

 

 壇の上が、静まり返っていた。

 

 

 水の音も、風の音もなかった。

 

 丹楓が景元を見下ろしている。景元が丹楓を見上げている。

 

 

 ずぶ濡れの、ボロボロの少年が——龍尊の胸に掌を押し当てている。

 

 

「——一撃」

 

 

 景元が、息を切らしながら言った。

 

 

 

「小僧の、一撃です」

 

 

 

 丹楓は黙っていた。

 

 長い沈黙だった。

 

 やがて——丹楓の手から、短槍が落ちた。

 

 石畳に硬い音を立てて転がる。

 

 

「……認めよう」

 

 

 丹楓の声は、静かだった。

 

 怒りも、悔しさもなかった。

 

 ただ静かに——量りの結果を、受け入れる声だった。

 

 

「そなたらの一撃、確かに届いた」

 

 

 景元の手が下りた。膝が折れかけたのを近寄っていた俺が慌てて支えてやる。

 

 

「——あ、——ぃだッ!?」

「やるじゃねーか、景元!! お前信じて良かったわ!」

 

 バシバシ背中を叩く。むせてるけど関係ないね。

 

 水龍を切った衝撃で、ぶっちゃけ俺、一撃入れねーと終わらないこと頭から抜けてたなんておくびにも出さない。えへへ、マジ感謝。

 

 しっかし。っぶねー——勝った、でいいんだよな? ゴネられたらどうしようと思ったけど、意外と龍尊サマ、ものわかりがよくて助かった……俺が向こうの立場なら、「ズルいズルいズルい今のナシ!」って格ゲーでボコしたときの銀狼みたいにわめいてたわ。敗北を知りたい。

 

 

 

 

 そして、握ったままの剣を見つめる。

 

 

 

 ——すごすぎる剣だった。

 

 まさにチート武器。コイツのおかげで龍を斬れた間違いなく。パルくん、ごめんね、あたし、本当はこっちの剣の方が好——…………、

 

 …………、

 

 ……うっぜーな。グノモン選手がまだ震えていた。弱く、長く、静かな振動がひたすら続く。何が観測に引っかかってんだか。

 

 

 

 なでなでしたらひょっとしたら止まるかと思い始めた瞬間、

 

 壇の向こうから、応星が走ってくるのが見えた。

 

 

 

「兄さ——今っ「我が心の弟よォ〜〜〜!!!」

 

 

 抱きしめた。そして両手を繋いだまま回転する。ジャイアントスイングの要領で遠心力が応星の身体を持ち上げる。ハッハッハ、こいつゥ、軽いなぁ。

 

「うわあああああああ兄さん、やめっやめてくださいーッ」

「お前、天才だ! この剣スゲぇぞ!!」

「え、あっ、ありが、じゃない! なにするんですか————」

「応星ったら、かわいいやつめー」

「是印さんっ、是印さんっ、次っ、次は白珠でお願いします!!」

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 壇の上は、ひどい有様だった。

 

 砕けた石畳。あちこちに残る水溜まり。そこかしこに散らばった、折れた槍と剣の残骸。たった今まで龍尊と二人の男が戦闘した場所とは思えないほど——今は、騒がしい。

 

 是印が、応星を抱え上げて振り回している。

 

 遠心力で水平から更に角度が上がっている応星が悲鳴を上げ、その隣では白珠が「次は白珠代わりますーっ」と飛び跳ねている。

 

 ほんの少し離れた場所では、景元がずぶ濡れのまま座り込み、咳き込みながらも口の端だけで笑っていた。

 

 

 

 鏡流は、壇の縁に立ったまま、その光景を眺めていた。

 

 戦いには加わらなかった。

 

 最初からそのつもりだった。自分が剣を抜けば、量りなどそもそも成立しない。

 

 いかに龍尊だろうと、本気で向き合えばお互いがただで済まないだろう。だが、負ける気は微塵もしない。それは鏡流の積み重ねてきた血のにじむ研鑽の日々が裏切らないことを知っているからだ。

 

 それに、龍尊とは別に、こちらもまたあの男を量らねばならなかった。だからこそ鏡流は、ただ見ていた。

 

 

 ——見ていたからこそ、分かることがある。

 

 

 

 あの、最後の一太刀。

 

 

 是印が水の龍に振り下ろした、あの剣。

 

 

 あれは、剣の力などではなかった。

 

 

 鏡流は剣首である。羅浮において、剣の理を最も深く知る者。それ故に断言できる。

 

 

 

 あの一太刀では、龍を断つに足る()などなかった。

 

 

 

 身体の運びも、間合いも、太刀筋も、刃に乗せた力も——どれを取っても、丹楓の編んだ水龍を斬れるものではない。

 

 

 素人が力任せに振り下ろしただけの、粗雑極まる一振りだった。

 

 

 なのに、——奇妙にも、龍は形を失った。

 

 

 「斬られた」のではない。

 

 鏡流の目には、はっきりとそう映った。

 

 あの龍は両断されたのではなく、龍であることをやめたのだ。丹楓が水に与えた「龍」という形、「攻撃」という意志、それを成り立たせていた何かが——剣の軌道に沿って、ほどけた。

 

 

 糸で編まれた結び目が、糸の端を引かれて一息にほどけるように。

 

 

 斬撃ではないだろう。解体ですらないだろう。

 

 

 ——あれは、ばらしたのだ。

 

 

 何の力かは、分からない。

 

 仙舟に伝わるどの術理にも、当てはまらなかった。

 

 "豊穣"の癒しでもなく、"巡狩"の刃でもなく、"虚無"の侵食でもない。鏡流が千年近い生のなかで見てきた、あらゆる運命の力の、そのどれとも違う。

 

 ただ一つ確かなのは——あの男自身が、自分の起こしたことを何も理解していない、ということだった。

 

 「できるもんだね」などと白々しく笑っていたが、あれは本心だろう。

 

 誰よりも本人が、一番分かっていない。

 

 無自覚に、龍をほどいた。その(いびつ)さを前にして、

 

 

 

 

 鏡流の脳裏に、ふと、ひと月ほど前のやりとりがよぎった。

 

 

 

 

 羅浮の司令部。書簡を片手に、いつもの軽い調子で笑う将軍の顔。

 

 

 

 「——鏡流ちゃん。近々、ひょっとしたら、風が吹くかもしれないよ」

 

 

 

 その時は、意味を図りかねた。ただ、この将軍の酔狂な振る舞いや言動も今に始まったことではない。

 

 どうあれ、将軍が言葉を選んで話すときは、まだ語る時ではないということだ。長い付き合いで、それくらいは分かる。

 

 

 「風……ですか」

 

 

 鏡流がそれだけ返すと、騰驍はうららかな日射しの入り込む窓の外に目をやって、いつもより低い声で続けた。

 

 

 「ああ。ひょっとしたら、其と同じく——(らん)に至るかもしれない風、さ」

 

 

 仙舟において最も尊ぶべき星神(アイオーン)を持ち出すという不遜すぎる発言。思わず顔をしかめた鏡流に、「ははは、そう怒らないで、鏡流ちゃん」と騰驍はいつもの調子で笑っていたが、はたして、

 

 

 ——これが、あの「風」なのか。と鏡流は思う。

 

 

 化外から来た、軟派な男。

 

 人の良すぎるきらいがある白珠が、どこからか拾ってきて惚れたと語る、得体の知れない男。

 

 

 知らず、奥歯が鳴る。

 

 

 ——気に食わない。

 

 

 将軍は、知っていたのだろうか。この男が、何かを抱えていると。

 

 

「——そうなのだろうな」

 

 

 処遇は任せると言っておきながら、とうに結論ありきだったのだろう。

 

 殺すべきならば、ためらうことなく将軍はあの辣腕を振るい、今ごろあの男の亡骸には蠅がたかっていたに違いない。あの将軍が羅浮の雲騎軍を統べる将軍足る所以(ゆえん)は、感情を廃しそういう判断をくだせる所にある。

 

 であるならば、

 

 

「……手元に置かざるをえまい、か」

 

 

 鏡流は、小さく息を吐いた。

 

 将軍が先に何を見据えたのか。考えても、今は答えの出ないことだ。そして、将軍が語らぬのなら、自分が先回りして暴くことでもない。

 

 

 

 鏡流は視線を、丹楓へ移した。

 

 

 龍尊は、短槍を取り落としたまま立ち尽くしていた。

 

 足元に転がった折れ槍を拾おうともせず、ただ是印を——正確には、是印が龍をほどいたあの一瞬の残響を、いまだに見ている。

 

 

 その心を動かす言葉を、鏡流が探しあぐねていた時だった。

 

 

「あのっ——剣首、さま」

 

 

 少年特有の甲高い声に振り返ると、是印の振り回しからようやく逃れてきた応星が、ふらつく足で、けれどまっすぐにこちらへ歩いてくる。

 

 たしか名は……化外の男に「応星」と呼ばれていた、朱明の若い工造司。顔自体はたまに羅浮に出入りしていたので見覚えがある。たしか誰かが"燭淵将軍(しょくえんしょうぐん)"・懐炎の弟子のひとりだと言っていたはずだ。

 

 

 その手に、布に包んだ長いものを抱えていた。

 

 

 鏡流の前まで来ると、応星は背筋を伸ばし、震える手で布を解いた。

 

 

 一振りの陣刀が、現れた。

 

 

「これを——剣首さまに、納めたく」

 

 

 応星の声は緊張で上ずっていたが、目だけは逸らさなかった。

 

 鏡流は、その刀に視線を落とす。

 

 ——良い刀だ。一目で分かった。

 

 刃文の流れ、地鉄の詰み、反りの据わり。若い打ち手のものとは思えぬ完成度。

 

 

 先ほど是印が握っていた一振りと同じ手から生まれたものだと、鋼の呼吸が告げている。

 

 

 工造司が、打った刀を剣首に納める。

 

 それ自体は、羅浮では筋の通った行いだ。最も優れた使い手に振るわれることこそ、刀にとっての誉れ。

 

 応星がここまで来た表向きの理由は、それで通る。

 

 

 だが——と、鏡流は思う。

 

 

 ならば先ほど、戦いのただ中に、もう一振りを是印へ投げ込んだのは何だ。

 

 

 あれを「納める」とは言えまい。剣首に捧げる作法ではない。あの男が窮地に立った刹那、考えるより先に身体が動いた——そういう投げ方だった。

 

 

 鏡流は静かに問うた。

 

 

「工造司が剣首に刀を納めるは、道理。だが小僧、なぜここまで追ってきた」

 

 

 応星は、一瞬言葉に詰まり、それから、照れたように視線を落とした。

 

 

「……兄さ——是印さんたちが、剣首さまとこちらに向かったと聞きまして。それで」

 

 

 言いながら、応星は是印のほうをちらりと見た。

 

 その目に滲んでいたものを、鏡流は見逃さなかった。

 

 憧憬、依存、いくつかの色があるが、最も濃厚なのは、自分が打った刀を握る手が、どんな戦いをするのか——それを、この目で見たかった。工造司としての欲といったところか。

 

 

 そして、結果として目にしたのだ。

 

 

 自分の刀が龍をばらす、ありえざる一太刀を。

 

 

「……師から、言われております。刀の本当の姿は、打ち手ではなく、使い手が決めるのだと。だから——羅浮で一番の使い手である剣首さまに使っていただければ、私の刀が、本当はどういう刀なのか、分かるかもしれないと。私は、どうしてもそれを知りたいのです」

 

 

 鏡流は、応星をしばし見つめた。

 

 今、こうして頭を下げ、たどたどしくも真っ直ぐに言葉を継いでいる。そこに嘘偽りはなかった。

 

 あの化外の男のそばで、この小僧もまた何かが、ほどけたのかもしれない。

 

 

「……確かに、受け取った」

 

 

 鏡流は陣刀を受け取り、鞘ごと腰に添えた。

 

 応星の顔が、ぱっと明るくなる。その素直さはまだ、年相応のものだった。

 

 

 

 

 

 

 

「——量りは、終わった」

 

 

 丹楓の声が、ようやく場に降りた。

 

 いつのまにか、龍尊は折れた短槍を拾い上げ、それを杖のように地に突いて立っていた。是印と景元が、はっと姿勢を正す。応星も口をつぐむ。

 

 丹楓は、しばし是印を見据えてから、視線を遠くへ——龍宮の奥、闇に沈んだ波月古海の彼方へと投げた。

 

 

 

「余は、ここを動かぬと決めていた」

 

 

 

 静かな、けれど重い声だった。

 

 

「建木の封を護る責。龍尊は仙舟の駒にあらずという矜持(きょうじ)。そして——民を、この地に置いて行けぬという情。三つを盾に、余はそなたらの誘いを断った」

 

 

 鏡流は黙って聞いていた。

 

 それらは、持明族のまとめ役である龍師たちが幾度も口にしてきた言葉でもある。龍尊たる者かくあるべし、と。丹楓は、その言葉を借りて断っていた。

 

 

「だが」

 

 

 丹楓は、自嘲するように口の端を歪めた。

 

 

「そなたらと刃を交えて、分かったことがある。余はあの三つを、断る方便として使っていただけだ。本当に護りたかったのか、それとも——ただ、外を見るのが恐ろしかったのか」

 

 

 壇の上が、静まった。

 

 

「余は、この海の底しか知らぬ。建木を護り、龍師の声を聞き、民を案じ——それが龍尊の務めだと、そう信じてきた。だが、それは本当に、余が望んだ生か」

 

 

 丹楓の指が、折れた槍の柄を握りしめる。

 

 

「種族の隔てなく、命を救う。閉じた聖域ではなく、広い戦野で我が手にあるこの力を振るう。そういう生もあるのではないか——そう思う余を、龍尊にあるまじきと、断じる声がある。余の()にも、外にも」

 

 

 丹楓は、是印へ視線を戻した。

 

 

「化外の者よ。そなたなら、どうする」

 

 

 問われた是印は、しばらくぽかんとしていた。

 

 難しい話だし、語彙が小難しくて分からない、とでも言いたげな顔だった。

 

 鏡流は、内心で嘆息した。

 

 この男に龍尊の懊悩(おうのう)(かい)せるはずもない——そう思った、その時。

 

 

 是印が、頭を掻きながら、言った。

 

 

「……わかんねーけど」

 

 

 気の抜けるような切り出しだった。

 

 

「もし選択肢がいくつかあって、どれかひとつを選ばねーといけないとき。後悔する選択肢だけは——選んじゃダメなんじゃねーかな。って、俺は思う、すけどね……」

 

 

 

 

 と、いったん言葉を止めて、

 

 

 

 

 

「——そこに寿命とか役目とか責任とか関係なくない?」

 

 

 

 

 

 鏡流の息が、止まった。

 

 

 無責任極まりない単純な言葉だった。そこらの(わらべ)でも言えるような。

 

 

 なのに——それは、丹楓が長々と並べ立てた懊悩の、ど真ん中を貫いていた。

 

 

 護るべきか、出るべきか。正しいか、正しくないか。龍尊にふさわしいか、否か。丹楓はその問いの中で堂々巡りをしていた。だがこの男は、問いそのものの形を変えてみせた。

 

 

 どちらが正しいかではない。どちらを選べば、後悔しないか。

 

 

 

 丹楓が、目を見開いていた。

 

 

 

 やがて——龍尊の喉から、低い笑いが漏れた。

 

 

 可笑しくてたまらぬ、というふうに。肩を震わせ、ついには天を仰いで笑った。

 

 波月古海に、龍尊の哄笑(こうしょう)が反響する。

 

 

 

「——はっ、はははっ。後悔せぬ道、か。なんと、なんと単純な」

 

 

 

 ひとしきり笑って、丹楓は是印を見た。

 

 

「そなたの(げん)の通りだ。余の(まなこ)星霜(せいそう)を経て、とうに曇っていたことにすら自覚できずにいたとはな」

 

 

 その目には、もう、量る者の冷たさはなかった。

 

 

「龍師には、余が戻るまでの建木の封守(ふうしゅ)を命じる。そして民を捨てるわけではない。余の心は常に民と共にある」

 

 

 そして丹楓は、澄み切った瞳を向け、

 

 

 

 

 

 

「だが、余は——外を見ようと思う」

 

 

 

 

 

 

 決着した。

 

 丹楓が外へ出る。それはすなわち、持明族の龍尊が巡狩の戦列に加わるということ。騰驍将軍の依頼であり、鏡流たちが鱗淵境まで足を運んだ目的は、果たされたことになる。

 

 

 果たされた——のだが。

 

 

 ——問題はこの軟派な男だ。

 

 

 応星の刀を提げ、景元の背を「うぇいうぇいうぇい、やー、よかったよかった」と無責任に叩いている——是印。

 

 龍をばらす、得体の知れぬ力。丹楓の心を、わずかばかりの言葉を並べて動かしてみせた舌。

 

 確かに、ただの化外者ではない。それは認めざるを得まい。

 

 

 ——だが。

 

 

 剣士として見れば、是印の太刀筋は粗の塊だ。型もなければ理もない。あの一太刀とて、本人は剣の手柄だと信じきっている始末だ。とうてい救えない。

 

 

 剣首として、この男を「剣の使い手」として遇するのは、どうあっても矜持が許さなかった。

 

 

 かといって、巡狩に加わる丹楓の道連れであり、将軍の麾下に、何の役目もない者をぶら下げておくわけにもいかない。

 

 

 気に食わない。が、捨て置けもしない。

 

 

 鏡流は、その板挟みの中で、ひとつだけ問うてみることにした。

 

 

「お前」

 

 

 是印が「はい?」と振り返る。

 

 

「なんだあれは。剣の腕は、見るに堪えん。あれを使い手の(わざ)とは、口が裂けても言えぬ」

 

 

 歯に衣着せぬ言いように、是印が「うぐっ」と胸を押さえて、「だって我流だもん……」と小声でなんか言っている。

 

 

「だが、丹楓殿を動かしたのは事実だ。ゆえに問う。——お前、剣の他に、何か得手(えて)はあるのか」

 

 

 是印は、きょとんとした。

 

 それから腕を組み、真剣な顔で唸り始める。鏡流の問いの真意——お前を手近なところに置いておく口実がほしい、という含みなど、まるで察した様子もなかった。

 

 

「得意なこと? ……得意なこと、すか……えぇ……あーっと」

 

 

 たっぷり考えて、是印は言った。

 

 

「……料理、とか?」

 

 

 あまりに気の抜けた答えに、鏡流が眉をひそめた、その時——

 

 

「えっ」

 

 

 声を上げたのは、白珠だった。

 

 

「えっ、是印さん、お料理できるんですかっ? 食べたい、食べたいですーっ! 白珠、是印さんの手料理、毎日食べてみたいですーっ!」

 

 

 白珠、目を輝かせて是印の袖に飛びついた。

 

 

「やめやめ。いや別に、メシを作るのは好きだし任されることが多かったってだけ——」

 

「やったーっ! ねえ景元さんも食べたいですよねっ?」

 

「……まあ、腹は空いたかも」

 

「丹楓さまも! 応星さんも!」

 

「待て待て、聞いてる? ひとり分作るのも大勢分(おおぜいぶん)作るのもたいして変わらないってアレ、大嘘なの知ってる??」

 

 話が、勝手に転がっていく。

 

 鏡流は、こめかみを押さえた。

 

 ——だが。

 

 拳を握って戦いを語るより、よほど場が和んでいる。さんざん全力を尽くし合った直後の壇の上に、いつのまにか、飯の話で笑う声が満ちていた。丹楓ですら、満更でもなさそうに口元を緩めている。

 

 

 ……まあ、いい。

 

 剣首として認めるのではない。

 

 飯炊きの当番として、将軍麾下に加える。それくらいの距離が、この男にはちょうどいい。

 

 

 鏡流は、嘆息混じりに言い渡した。

 

 

「……いいだろう。お前は、飯の当番だ」

 

「いやいや鏡流先生まで……って。てっきり追い返されるかと」

 

「勘違いするな。剣士として認めたのではない。腹が膨れねば戦もできぬ。それだけのことだ」

 

「わ、わぁい!」

 

「やりましたね是印さんっ! 就職おめでとうございます!」

 

 鏡流は、それ以上何も言わず、踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鱗淵境(りんえんきょう)を出て、羅浮へ戻る道は、来た時よりずっと騒がしかった。

 

 持明族の老人が再び波月古海の水を割り、一行はもと来た道をたどった。違うのは、その数が一人増えたこと。そして、誰も彼も、口を動かし続けていることだった。

 

 応星は是印にぴたりとくっついて離れず、景元は丹楓に仙舟の外の話をねだられて閉口し、白珠は「ごはんごはん〜是印さんのごはん〜」と鼻歌まで披露し、足取りはそれはもう軽かった。

 

 

 鏡流は、その最後尾を歩きながら、前を行く背中の群れを眺めていた。

 

 

 

 ——妙な、ことになったものだ。

 

 

 

 持明族の龍尊。朱明の工造司。羅浮の少年兵士。朱明の飛行士。そして、剣首たる自分。本来、交わるはずのなかった顔ぶれが、一人の化外者を中心に、こうして同じ道を歩いている。

 

 その化外者ときたら、龍をばらした力のことなど、もうすっかり忘れた顔で、赤面する応星に「お前の刀マジですげぇんだって! 才能あるよ、自信持て!」と力説していた。

 

 

 気に食わない。

 

 

 やはり、どうにも気に食わない男だ。

 

 

 ——けれど、なぜだろう。その騒がしさを、鏡流は、振り払う気になれずにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 羅浮に戻り、報告を済ませるべく執務室へと入ると、騰驍将軍はわかっていたとばかりにニヤニヤしていた。

 

 

「さて、依頼の首尾を聞かせてもらおうかな?」

 

 

 鏡流は一礼し、簡潔に告げた。

 

「龍尊・丹楓、巡狩への助力を承諾いたしました。近く準備が済み次第、鱗淵境を発ち、正式に戦列に加わるかと」

 

「お——! さすが鏡流ちゃん。あの頑固な龍尊様を本当に口説き落としてくるとはねぇ」

 

「私の功ではありません」

 

 鏡流は、わずかに目を伏せた。

 

「丹楓殿を動かしたのは、私ではなく——あの男です」

 

「——是印ちゃんかな?」

 

「はい」

 

 騰驍の口元から、笑みは消えなかった。だが、その目の奥が微量、笑っていない色をたたえた——ように、鏡流には見えた。

 

「将軍」

 

 詰め寄る勢いで、

 

「あの者は、戦いの最中、丹楓の繰り出した水の術を——斬り伏せました。いや、あれは、術そのものを、ばらした。私の知るどの術理にも当てはまらぬ力です。あれは——なんです?」

 

 

 言いながら、鏡流は将軍の顔を窺っていた。

 

 

 驚くか。訝しむか。あるいは——

 

 

 騰驍は、ふむ、と顎を撫でただけだった。

 

 

「そうなんだ。で、鏡流ちゃんは彼をどうするのかな?」

 

 問いを問いで返し、はぐらかされた。

 

 鏡流は内心で眉をひそめたが、表には出さず、淡々と答えた。

 

「飯炊きの当番としてなら、将軍の麾下として加わることを許可しました。剣士として遇するには、あまりに腕が拙い。なれど、丹楓を動かした事実を捨て置くのも惜しく」

 

 

 耐えきれないとばかりに笑い出し、騰驍は腹を押さえる、

 

 

「あっはは! 飯炊き! いいねぇ、それ。鏡流ちゃんにしては、ずいぶん人間味のある裁きじゃないの」

 

「……戦において(かて)の質は士気に関わります。それだけのことです」

 

 騰驍は、しばらく愉快そうに笑っていたが、やがて窓の外——大気のどこか遠くへと目をやって、ぽつりと言った。

 

「ま、いいんじゃないかな。目を離さず、手元に置いておきなよ、彼をね」

 

 

 軽い、いつもの調子だった。

 

 だが鏡流は、あの言葉を、否応なく思い出していた。

 

 

 ——近々、ひょっとしたら、風が吹くかもしれないよ。

 

 

「将軍は——」

 

 

 何を知っているのですか。

 

 そう問いかけて、鏡流は、口をつぐんだ。

 

 ここは他の者の目や耳もある。将軍が多くを語らぬのなら、聞かぬのが流儀だ。それに、たとえ問うたところで、この将軍はまた、はぐらかすだけだろう。

 

 

「……いえ。報告は以上です」

 

「うん、ご苦労さま。あ、そうだ鏡流ちゃん」

 

 退室しかけた背に、騰驍の声がかかる。

 

 

「是印ちゃんが作る飯、おじさんの分も残しといてくれる?」

 

 

 鏡流は答えず、ただ一礼して、執務室を後にした。

 

 

 廊下に出て、息を吐く。

 

 あの将軍の腹の内は、いつもどおり、何ひとつ読めなかった。

 

 

「先が思いやられるな……」

 

 

 ——が、重くなりかけた鏡流の足はすぐに食堂へは向かわなかった。

 

 

 将軍への報告を終えたとて、剣首の務めが終わるわけではない。鱗淵境往来の記録、龍尊受け入れの段取り、雲騎軍への通達。机上に積まれた書簡の山を、鏡流は一つひとつ片づけていった。

 

 

 筆を置き、ようやく食堂の戸をくぐったのは、それからたっぷり1時間以上が過ぎた頃だった。

 

 

 戸を開けた先には、和やかな歓談があった。

 

 白珠、応星、景元、丹楓が卓を囲み車座になって、何やら楽しげに笑い合っている。

 

 

 ——だが。

 

 

 鏡流の視線は、卓の上に吸い寄せられた。

 

 

 空の皿。空の皿。空の皿。

 

 

 大小さまざまな器が、ことごとく綺麗に平らげられ、油の照りだけを残して積み上がっている。一粒の米も、残ってはいなかった。

 

 

 歓談の声が、鏡流の姿を認めて、ぴたりと止んだ。

 

 

 白珠が「あっ」と口を押さえる。景元が滝汗を流しながら、すっと目を逸らす。応星が気まずそうにうつむく。丹楓ですら、興味深げに天井を見上げ始めた。

 

 

 奇妙な沈黙が、食堂に降りた。

 

 

 そこへ——

 

 

「いやー、お前らガツガツ食い過ぎだっての。おかげでもう食材ねー……」

 

 

 手を拭きながら厨房から出てきた是印が、のんきに言いかけて。

 

 

 鏡流と、目が合った。

 

 

「……え」

 

 

 固まった。

 

 

 

「————お前たちィ」

 

 

 鏡流の額に、青筋が浮いた。

 

 

「我が——! 我が将軍への報告に上がり、山と積まれた書簡を片づけている間に!  お前たちは雁首揃えて、のうのうと飯を食らっていたというのか!」

 

「え、ちょ矛先、俺!? い、いや俺作ってただけ、ちが、これは白珠が腹減ってもう待てませんって言うからですね——」

 

「白珠のせいにするなっ!」

 

「いいッ!? すんません!!」

 

「まぁまぁ鏡流、あたしも謝ります。はぁ……白珠は近い将来これが毎日食べられるようになると思うと幸せです……」

 

 白珠は謝罪するもすぐにうっとりと頬を両手で押さえて夢見心地モードに入ってしまい、他の男どもは全員うつむくなり明後日の方向を見て、誰も助けにならなかった。

 

 

 ——ぐぅ。

 

 

 間の悪いことに、その時。

 

 しんと静まった食堂に、小さな、けれどはっきりとした音が響く。

 

 

 鏡流の、腹の虫だった。

 

 

 沈黙。

 

 

 鏡流の白い頬が、みるみる朱に染まっていく。

 

 

「……っ、何を見ているッ!」

 

「見てはないですけどぉ……聞いただけで」

 

「ええい、作れ! 今すぐ 何か! すぐにできるものをだ! これは……これは命令だ!!」

 

 

 実に理不尽な怒号だった。

 

 だが是印は、賢明にも言い返さなかった。

 

「うっす、はァい! ただいま!」と頭を切り替え、厨房へ飛び込み、残り物の冷や飯と、辛うじて残っていた卵と葱を掻き集めて、鉄鍋を熱し始める。煙が立ち始めると、冷蔵されていた豚脂の欠片をその中に放り込む。

 

 じゅう、と油の跳ねる音。揮発したコクのあるにおいが鼻腔をくすぐる。

 

 軽快な鍋振りの音。

 

 塩胡椒(しおこしょう)と、これもまた残っていたニンニクが熱流の中へ投じる。

 

 

 ほどなくして、湯気を立てる一皿が、鏡流の前に置かれた。

 

 

「へい、お待ち。鏡流先生特製ニンニク炒飯でーす」

 

 

 まさに金色に輝く半球は空腹の身には致命傷と言って良かった。

 

 

 だが、己は剣首と戒め、反射的に飛びつかなかった鏡流は偉いと言えよう。

 

 

 努めて冷静を装い、鏡流は、ふんと鼻を鳴らしてからレンゲを取った。

 

 

 飯の山に突き刺し、一口、運ぶ。

 

 

 ……。

 

 

 二口目。三口目。

 

 

 止まらなかった。

 

 作り手に反して、悔しいほどに味は的確に整っている。塩気が絶妙で、疲れた身体の芯から五指の果てまで染み渡っていく。書類仕事で凝り固まっていた心もまた、ゆるんでいくようだった。

 

 

「……どうです、お味は?」

 

 

 是印が、期待を込めて顔を覗き込んでくる。

 

 

 鏡流は、レンゲを動かす手を止めぬまま、ぶっきらぼうに答えた。

 

 

「……まず」

 

 い、と言ってやろうと思ったが、

 

「くは、ない」

 

 言えなかった。悔しかった。

 

「お、あざっす」

 

「勘違いするな。空腹ゆえだ。腹が減っていれば、何を食らったとて美味いだろう!」

 

「そっすね、たしかにー」

 

 軽くいなされて、鏡流の眉がまた吊り上がりかけたが——レンゲを運ぶ手は、止まらなかった。

 

 

 あらかた平らげた頃、是印が、ふと思い出したように尋ねた。

 

 

「そういや先生。結局、将軍的にも俺の扱いってどうなったんすか? 飯当番ってのは聞きましたけど、ちゃんと正式に?」

 

 

 鏡流は、ようやくレンゲを置いた。

 

 しばし、是印を見据える。

 

 

「ああ——当面は、ここに置いてやろう」

 

 

 静かな声だった。さきほどの激昂が嘘のように。

 

 

「飯当番として、だ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

「はい?」

 

「だが」

 

 

 鏡流の目が、すっと細まる。

 

 

「何かおかしな真似をすれば、その時は——我が、即刻、切り捨てる。それは、よく覚えておけ」

 

 

 空気が、ひやりと締まった。

 

 是印は、その視線を正面から受けて——けれど、へらへらと笑った。

 

 

「了解っす。まあ、おかしな真似する気はねぇんで。たぶん」

 

「たぶん、とは何だ」

 

「いやー、この世に絶対はないというか」

 

 

 冗談とも本気ともつかぬ答えだった。

 

 鏡流は、それ以上追及しなかった。ただ、空になった皿に視線を落とす。

 

 龍をばらす力も、その正体も、何ひとつ分かっていない。この男が何者なのかも。将軍が何を企んでいるのかも。

 

 

 ——分からないことだらけだ。

 

 

 それでも。

 

 

 目の前の皿は、温かかった。

 

 卓を囲む顔ぶれは、騒がしかった。

 

 

 その事実だけは、確かなものとして、ここにあった。

 

 

 鏡流は、ふと、何か言いたげに口を開きかけ——

 

 

 結局、その言葉は呑み込んで。

 

 

 代わりに、空の皿を、すっと是印のほうへ差し出した。

 

 

 

 

 

 

 

「——おかわり」

 

 

 

 

 

 

 

 

 




執筆時BGM:「仲間」Good Coming


▼おまけ▼



将軍「あれ……おじさんの分……は」

パルくん「おのれ……おのれ……工造司のガキェ……」


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