ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#64 "彼女は、流星に願いを載せる"

 

 

 

 

 憧れた自由は、そこにはなかった。

 

 

 

 いつものように目を開けば、薄暗い暗がりが広がっていて、血と、不安のにおいが、淀んだ空気に溶けている。

 

 

 ここには空がない。

 

 

 かつては当たり前のように広がっていたもののかわりに、今、頭の上にあるのは、岩と、ひしゃげた鉄、そして海そのものの重みだけだ。誰のものだったかも知れない、沈んだ古い船の巨大な骨——その腹の中で、()()は膝を抱えて固まっていた。

 

 白い骨めいた(はり)に、黒く赤い管が根のように這っている。管はゆっくりと脈を打ち、その下では濁った海水が煮えて、ところどころ泡を吐いた。あれは、死んだものを見境なく呑み込む口だと思う。骨も、鉄も、まだ息のあるものも。腹の奥で別の何かに作り変えて、また吐き出す。脈打つたびに、足の裏の岩がぬるく震えた。

 

 

「——凝梨(ぎょうり)

 

 

 彼女は、隣で小刻みに揺れる肩へ手を置いた。

 

 

「泣かないで」

 

 

 返事はなかった。凝梨の目からは、もう光が抜けている。(さら)われてきた頃には、まだ自分を映していた瞳。それが今は、足元の濁った水とおなじ色をして、何も映していない。

 

 肩に触れた手のひらに、じわりと熱が伝わってきた。この震えは、怯えて泣いているだけではない。凝梨の身体が、明らかな熱を持っている。

 

 

「静かにしなきゃ、あいつらが来る」

 

 

 彼女は声を落とした。狼たちは、弱ったものと、泣き声を鋭敏に嗅ぎ取ってくる。

 

 せめて、何か布きれでもいいからそれを濡らして、凝梨の額に乗っけてやりたいと彼女は頭を巡らす。

 

 気密区画と呼ばれるこの空間は、沈んだ古い船の内臓をくり抜いて作られていた。

 

 もとは何の部屋だったのか、もう誰にも分からない。壁に刻まれた仙舟の古い文字を、海の民の老人がひとつひとつ指で撫でては、声を殺して泣いていた。彼らにとって、ここは神の骨だった。空から降りてきた船が海に沈んで、それが自分たちの始まりになった。そう語り継いできた、祈りの場所だった。

 

 その祈りの場所を、今は炉が喰っている。

 

 海の民の若い者たちは、壁際で身を寄せ合って苦しそうに胸を押さえていた。彼女よりも、ずっと異形の——(ひれ)のある腕、(うろこ)に覆われた肌——姿をした者たちだ。

 

 この星の海に生まれた者は、ある歳を境に身体が変わり、水の中でしか息ができなくなるのだと、老人から聞いた。

 

 変わりかけの者が何人もいた。(えら)が開きはじめているのに、ここには海水に浸かれる場所がない。呼吸のたびに、乾いた鰓の縁が裂けて、薄い血が首筋を伝っていく。

 

 狐族の者もいた。彼女と同じ、別の場所から攫われてきた戦奴たちだ。大人も、子供も。皆、腕か足のどこかに縄の痕があった。

 

 

 最初は、もっと多かったのだ。

 

 

 寝る前に、周りの頭の数を、毎晩数えていたから覚えている。作業に出て、戻ってこなかった者がいれば、翌朝にはその場所が空いている。空いた場所に、別の誰かが寄って隙間を埋めるから、何日かすると、最初からそこには誰もいなかったみたいになる。

 

 でも、彼女は覚えている。隣で眠っていた海の民の少年が、三日前に炉のほうへ呼ばれて戻らなかった。その前は、狐族の老婆が。その前は——数えると、指が足りなくなった。

 

 誰も、その名前を口にしなかった。口にすれば、次は自分かもしれないと認めることになるから。

 

 

 炉のほうから、低い唸りが転がってくる。作業の刻だ。

 

 

 彼女は唇を噛んで立ち上がる。見張りの歩離人の兵士が、節くれだった指で人質の塊を無造作に指していく。あれと、あれと、あれを、炉へ。

 

 その遠回しな死刑宣告を、仲間たちへ渡すのが、彼女に押しつけられた役目だった。

 

 (かしら)のお気に入りの狐の子だからな、と歩離人はわざわざ彼女を選んだ。半分は同じ血のよしみだと薄ら笑いを浮かべながら。

 

 

「……奥の区画。あなたとあなたは、前へ出て……」

 

 

 喉から押し出した自分の声が、やけに遠くで鳴る。

 

 虚無の顔を浮かべた人質たちが、涙と罵倒の言葉を彼女に向ける。

 

 彼女はじっと嵐が過ぎ去るのを待つだけ。

 

 やがて、歩離人たちが舌打ちをこぼせば、のろのろと虚無の面持ちで立ち上がる。

 

 すれ違いざま、いくつもの目が彼女の上を滑っていく。冷たい。狼に尾を振る犬を見る目だ。違う、と言いたい。けれど口を開けば、次に指さされるのは凝梨と自分だ。

 

 

 だから、彼女は俯いて、それを背中で受けるしかない。

 

 

 垂れた尾を、そっと脚の間に隠す。狼たちが時おり、品定めをするように狐の尾を眺めるのを、彼女は知っていた。

 

 

 列が炉のほうへ消えていくのを見送って、また凝梨の手を握る。冷えきった、小さな手だった。

 

 

「大丈夫」

 

 誰に言うでもなく、呟く。

 

「振り返らないで、前だけ見てればいい」

 

 

 ——自分がそう言って、この手を引いた夜があった。

 

 

 空には、長い光の尾を引く星が、ひとつ流れていて。

 

 炉が、ひときわ大きく脈を打った。泡の弾ける音に、記憶の続きは呑まれて消える。

 

 ここには、空がない。星もない。

 

 それでも彼女は、岩の天井の、そのもっと向こうを、見上げずにはいられなかった。

 

 

 

 

  

 

 そうだ。——あの夜は、まだ、頭の上に空があった。

 

 彼女が生まれ落ちたのは、歩離人の領の、その隅っこにある里だった。狼たちは、彼女の一族を窟慮(クールゥ)と呼んだ。掘らされ、運ばされ、血を搾られる、狐の奴隷たち。逃げようとしてぐるっと里を囲むその柵を越えて捕まった者は、見せしめに(やぐら)へ吊るされた。

 

 

 彼女はそんな柵の中で、大きくなった。

 

 

 それでも、柵の向こうのずっと先には、狼のいない、光だけの場所があるはずだと信じていた。こんな場所にいても未来はない。いつか必ず逃げる。そう決めて、そのための道を、幼いなりにずっと胸の内で考えていた。

 

 そんな秘密を共有できたのはひとつ下の幼馴染であった——凝梨(ぎょうり)だけだった。親を既に亡くした彼女と、年齢と境遇の近しい子どもは里において他にはおらず、血のつながった姉妹もかくやと思うほど、いつ何をするときでも一緒にいた。

 

 

 それでも、打ち明けるときは、声が震えたものだ。

 

 

 ——もし、もしさ。凝梨、もしも、あたしがいつかこの里を逃げ出すとしたら、一緒に、来る?

 

 ——もちろんだよ! ■■ちゃん! わたしひとりだけ置いていかないで?

 

 

 

 ふたつ返事だった。

 

 

 

 よかった。嬉しかった。

 

 帰ってから当の本人が隣の寝床で寝息を立てているというのにもかかわらず、薄い毛布もどきをかぶって、それでもニヤニヤする顔が押さえきれなくて、なかなか眠れなかったのを覚えている。

 

 

 だからこそ、気づいたのだ。

 

 

 草木も眠る真夜中だというのに、やけに外が明るかった。ひょっとしたら火事でも起こったのかと凝梨を叩き起こし、慌てて家を飛び出して、見上げれば、

 

 

 夜空を切り裂くように、一筋のまばゆい光が横切っていた。

 

 

 自然と胸をよぎった。

 

 

 きっと。

 

 

 逃げるのなら、今だ。

 

 

 ——どういうわけだか、それが合図のようにしか思えなかった。

 

 

 

 

 果てのない野を、ふたつの小さな影が駆けていく。下生(したば)えが(すね)を裂き、血のにおいのする風が鼻腔をくすぐった。

 

 

 背後では、地を這うように狼の遠吠えが膨らんでいく。それでも、彼女は前だけを見ていた。

 

 

 空の高みを、長い尾を引いて、その光が滑っている。

 

 

「凝梨、しっかり掴まって!」

 

 

 繋いだ手に力を込める。絶対に離さない。

 

 

「あの星に願えば、きっと連れていってくれる。光のある、ずっと遠くまで。——だから、振り返らないで。前だけ見てればいいの!」

 

 

 追われていることも、逃げ切れるかどうかも、その時の彼女の頭にはなかった。願いさえすれば、星は自分たちを照らす。そう信じきれるだけの幼さが、まだ彼女には残っていた。

 

 

 光が、近づいてくる。手を伸ばせば届きそうなほどに——

 

 

 その光と、自分たちのあいだに、影が立った。

 

 

 山のような背と、ゆるく垂れた両腕。月明かりを背負って、歩離人がひとり、道を塞いでいた。慌てる風も、急ぐ風もない。畑を見回りに来た者のような、気だるい静けさだけが、そこにあった。

 

 

 なのに、

 全身が粟立った。

 

 

 誰。

 

 

 ——こんなやつ知らない。なんで。なんで今に限ってこんなのがいるの。勝てない。無理。絶対に。同じ生命体とは思えない。

 

 

 

 完全に呑まれた。

 

 

 

 

 大きな鼻が、ひくりと動く。

 

 

「……ほぉ、」

 

 

 興味深そうな声とともに、豊かな顎髭(あごひげ)を丸太のような腕が撫でる。

 

 

「——逃げた()か」

 

 

 作物の出来でも確かめるように、その目が、こちらを値踏みしていた。

 

 

「ああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 瞬間、

 

 

 彼女は凝梨を背へ庇い、地を蹴った。細い少女の腕、骨張った少女の足で、その巨体に食らいつく。勝てるとは露も思っていない。ただ、目の前の存在に出くわしてしまった以上、自分たち二人は終わり。だが、守らねば。自分が、自分が隣の幼馴染みを連れ出してしまったのだから。だから、それは、

 

 

 ——恐慌がもたらした突貫といえる。

 

 

 彼女は巨体の歩離人の腕に取りついたかと思うとそのまま駆け上がり、身を捻って、歩離人のあご先を狙って全力の蹴りを放った。

 

 

 通常の歩離人であれば、

 

 

 ともすれば、なんとかなったかもしれない。

 

 

 だが、

 

 

「おう」

 

 

 全力の蹴りをまともに顔で受けてなお、この歩離人には毛ほども通用していなかった。

 

 

 喉の奥で、満足げに鳴らす。

 

 

「逃げ足の威勢は、腹の足しにもならん。——だが、その意気はよう()()()かもしれん」

 

 

 節くれだった指が、彼女の襟首をつまみ上げた。抗う手足が、宙を掻く。

 

 

 その時になって、彼女はようやく空を仰いだ。

 

 

 願いを託したはずの星は、何ひとつ叶えないまま、知らぬ顔で、夜の向こうへ流れ落ちていく。

 

 

 ——星は、助けに来なかった。

 

 

「よき牙となれるか、それとも……」

 

 

 歩離人が手首を振るい、意識を刈り取られた。

 

 

 覚えているのはそこまでだった。

 

 

 

 

 

 

 冷たい海の底へ、意識が引き戻される。脈を打つ炉の音が、また、足の裏に返ってきた。

 

 あの夜から、どれだけ経ったのかも分からない。ここには朝も夜もなくて、炉の脈動だけが時間の代わりをしていた。

 

 最初の頃は、まだ考えていた。逃げる算段を。

 

 通路の数、見張りの交代の間隔、管の隙間から吹く風の向き。柵の中でたくらんでいたのと同じように、胸の内で道を探していた。

 

 でも、ここには柵の向こうがなかった。

 

 壁の向こうは海で、海の向こうには何もない。どこへ走っても、水に呑まれて終わるだけだ。そのことに気づいた日から、彼女の中で何かがしぼんでいった。「いつか逃げる」が、「明日まで生きる」になり、それもやがて、ただ凝梨の手を握っていること——それだけになった。

 

 逃げるために数えていたはずの道は、いつのまにか、戻ってこなかった人の数に変わっていた。

 

 凝梨は、彼女の膝に頭を預けたまま、浅い息を繰り返している。

 

 結局、何か濡らせる布きれも見当たらず、手うちわであおいであげることしかできない。

 

 額に触れると、指先が焼けるように熱い。ここ数日で、凝梨の身体はどんどん小さくなっていった。食べるものが足りないのか、この場所の空気が合わないのか、それとも、ただ壊れかけているだけなのか。

 

 

 ——大丈夫。あたしが傍にいる。ここにいるから。

 

 

 そう思いながら、凝梨の汗ばんだ髪を撫でていると、足音が来た。

 

 重い。岩を踏む歩離人の足だ。ひとりではない。見張りが三人、作業区のほうから戻ってきて、人質の塊を見渡した。それから、彼女のほうへ顎をしゃくる。

 

 

「——そいつだ。出せ」

 

 膝の上の凝梨を、指している。

 

 臓腑(ぞうふ)が凍った。

 

「待って! この子は熱があるの。立てない」

 

「炉はまだ喰い足りん。運び手も餌もな」

 

 つまり凝梨すらも、炉のために使うと言っている。

 

 口を開こうとした彼女の手に、熱い指先が触れた。

 

 凝梨はつらそうな顔のまま首を横に振る。余計なことを言ってはいけない、と、

 

 そんなのわかっている。

 

 でも、言わなければ、こんな……ロクに立ち上がれもしなそうな調子でまともに働けるものか。動きが悪ければ、引っぱたかれる。そしたら吹き飛ばされ、地を這い、痛みにうめいていれば、立ち上がるのが遅いと蹴りが飛ぶ。そして、いよいよ使えないと判断されれば——それまでだ。

 

 そんな光景が容易に想像できる。

 

「動ける人なら他にいるでしょ! この子は——」

 

仔狐(こぎつね)。おれたちに指図するのか」

 

 

 見張りの目が、冷たく細まった。彼女の尾を、ちらりと見る。

 

 

「半端な血で、咬骸(かしら)にここまで目こぼしされてきたのを忘れたか。——おまえは、牙のつもりか。それとも、餌のつもりか」

 

 彼女は凝梨を抱き寄せた。答えなかった。答えれば、どちらを選んでも凝梨が連れていかれる。

 

 見張りが手を伸ばした。凝梨の腕を掴み、引き剥がそうとする。凝梨が小さく声を上げようと口を開いて——出たのは、声にもならない、ただの息みたいな音だった。

 

 

 それで——身体が、勝手に動いた。

 

 

 彼女は見張りの手首を噛んだ。歯が皮を破り、血の味が口に広がる。

 

 殴られた。頬の内側が切れて、視界が白く弾ける。それでも歯を離さなかった。二度目の拳で床に叩きつけられ、背中から岩に打ちつけられて、ようやく口が開いた。

 

 這いつくばったまま、凝梨のほうへ手を伸ばす。凝梨も、こちらへ手を伸ばしていた。光の抜けた瞳に、ほんの一瞬だけ、何かが戻っている。

 

 

 指先が、触れる寸前だった。

 

 

 彼女の背を、大きな足が踏みつけた。岩の床に頬が押しつけられる。動けない。息もできない。そのまま、凝梨が引きずられていく足音だけが聞こえた。

 

 

「——やめてぇっ!!」

 

 

 声が割れた。

 

 

「やめて。連れていかないで。あの子は関係ない。あたしが代わりに行く。あたしが——!」

 

 

 届かない。足音は炉のほうへ遠ざかり、管の脈動と混じって、やがて聞き分けられなくなった。

 

 

 それでも、彼女はまだ手を伸ばしていた。指先の先に、もう何もないのに。

 

 奥のほうで、炉がひときわ強く脈を打っている。

 

 光が、膨らんでいく。

 

 ——連れてかれた先で、凝梨の声は、やはり聞こえなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれだけ殴られ、どれだけ蹴られ、どれだけ意識を失い、そしてどれだけ時間が経ったのか分からない。

 

 気づいた時には、自分を踏みつけていた足が退いて、首根を掴まれ、持ち上げられた。

 

 

 目の前に、あの顔があった。

 

 

 あの夜、流れ星と自分のあいだに立った、山のような歩離人。

 

 

 ——咬骸(ヤオハイ)

 

 

 気だるい目が、彼女を見下ろしている。値踏みではなかった。もっと冷たい、結果を確かめるような目だった。

 

 

「わしは言ったはずだがな、仔よ」

 

 

 低い声には、怒りも、蔑みも、なかった。

 

 

「おまえは、良き牙になれるかと。——だが、噛むべきでない手を噛んだな」

 

 

 太い指が、彼女の頭を鷲づかみにした。万力で引き絞るような力に苦悶の声をあげることしかできない。

 

 

「随意の牙になりきれん狐は、そのままでは飼えん」

 

 

 落胆混じりの声とともに、咬骸(ヤオハイ)はパッと彼女を離す。

 

 

 受け身もまともに取れずに背中から着地した。衝撃と共に肺から押し出された空気が、ぐらついていた奥歯を吐き出させた。

 

 

 朦朧(もうろう)とした意識の中で、彼女の耳に届いてくる。

 

 

「——そうか、ククク」

 

 

 手を叩く音がする。

 

 

(おす)であれば、魔羅(まら)去勢(きょせい)するところだが、牝故(めすゆえ)にないものはない——であれば、()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ——なに、を。

 

 

 もう、痛いのは嫌だった。口の中はとっくのとうに鉄の味で溢れ返りそうになっている。笑えるくらいに身体に力が入らない。

 

 

 足音とともに歩離人の兵士が数人、ひとりが持っているのは太刀だった。

 

 

 ——ああ、そうか。あたし、ここで死ぬんだ。

 

 

 もしかしたら。

 

 

 ひょっとしたら、そっちの方が、楽になれるのかもしれない。

 

 

 そんな甘美な考えに引きずられそうになったとき、

 

 

 

 咬骸(ヤオハイ)の地響きのような声が再び、

 

 

 

「——おまえを、こちら側に近づけてやろう」

 

 

 声は穏やかなままだった。畑仕事のひとつを片づけるような、その口調のままで、

 

 

 ——そのとき、天井が鳴った。

 

 

 鈍い震動が、岩を伝って降りてくる。一度。二度。三度目は長く、管という管が一斉にびりびりと震えた。人質たちが首をすくめ、見張りの兵士も一瞬、天井を仰ぐ。

 

 

 彼女には、それが何か分からなかった。

 

 

 だが、咬骸(ヤオハイ)だけが違った。

 

 顔を上げもしなかった。ただ、大きな鼻がひくりと動いて、それから、ほんの少しだけ——口の端が持ち上がった。

 

 

「……来たか。——ようやく腹が膨れる」

 

 

 

 それだけ言って、彼女を見下ろす目が、もう興味を失っており、

 

 

 

 続く言葉は悪魔のように短かった。

 

 

 

 

()()()()()()

 

 

 

 

 ——どういう、こと? と背中を向けて去って行く咬骸(ヤオハイ)をぼんやり見つめていた彼女は、次の瞬間、兵士のひとりに無理矢理頭を手で押さえつけられた。

 

 

 そして、へし折るような力で口を開けさせられ、猿ぐつわを噛まされる。

 

 

 

 ——落とす。

 

 ——何、を。

 

 

 

 彼女の視界の端で太刀を持った兵士が隣の兵士の持つ松明(たいまつ)で刃をあぶっていた。

 

 そして太刀を持った兵士は彼女の視線に気づくと、口端をゆがめ、そして、

 

 彼女の尻尾を踏みつけた。

 

 

 

 ——まさ、か、

 

 

 

「〜〜!!! ッ!!!」

 

 

 言葉を発することは叶わない。いやだ、いやだ、許して、ごめんなさい、いやだいやだいやだいやだいやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ、

 

 

 

 赤熱(せきねつ)した刃が振り上げられる。

 

 

 ——誰か、

 

 誰か、助けて、

 

 お願い、助けて。誰か。

 

 

 

 

 振り下ろされる刃を、彼女は見なかった。

 

 最後に見えたのは、自分の手だった。さっきまで凝梨(ぎょうり)の指先に届こうとして、けれど何も掴めなかった手。

 

 

 

 どこかで鏡を爪でかきむしったような悲鳴が上がった。

 

 

 自分のものだった。

 

 わけがわからない。

 

 視界が明滅している。チカチカ、チカチカ。

 

 痛覚という痛覚が異常値を示し、身体が拒否反応を示す。(あぶく)の混じった胃液が猿ぐつわと鼻から吹き出して、制御できない痙攣(けいれん)が全身を襲う。

 

 

 そこで、白黒を繰り返していた視界が黒で終わった。

 

 

 

 

 次は白。

 

 意識が緊急で寸断されたのだとわかった。多すぎる情報量で脳が壊れてしまわないような機構になぜ戻した、余計なことをするなと怒りがわき、再び、

 

 

 

 

 ——痛い。熱い。

 

 

 

 

 それだけが、世界のすべてだった。

 

 猿ぐつわに歯が食い込んでいる。喉の奥で何かが破れたような感覚がある。声が潰れるほど叫んだのだと思う。涙が世界をにじませる。ロクなものを口にしていないはずなのに、吐瀉物(としゃぶつ)に混じった何かが鼻に詰まっていて気持ちが悪い。

 

 腰から下が、ぬるい。温かいような、冷たいような。それが広がっている。

 

 身体の後ろ側が、ない。腰の下にあるはずのものが、ない。

 

 そこにあった感覚の続きが、熱い空白に変わっている。

 

 何か、フサフサとした何かを手に持って、祭壇にでも捧げるように掲げている兵士たちの笑い声が聞こえた。そして、赤く焼けた刃を水に浸す、じゅうという音。

 

 

 

 ——(ぎょう)()

 

 

 

 目の端から涙が落ちたのか、血が流れたのか、区別がつかない。視界が赤黒く滲んで、炉の脈動が遠い水の底みたいにぼやけた。

 

 兵士のひとりが、彼女の顎を掴んで持ち上げた。猿ぐつわの結び目を確かめるように覗き込んで、何か言っている。聞こえない。耳の奥で、自分の心臓の音だけが弱々しく抵抗している。

 

 

 ——あの時、手を引かなければ、

 

 ——こうは、ならなかったのだろうか。

 

 

 ——届かない、だろうけど、謝るしかない。

 

 

 

「ご()ん、()……ぃょ(ぎょ)うり……」

 

 

 猿ぐつわの奥で潰れた声が漏れる。届くはずがない。凝梨はもう、どこにもいない。

 

 

 ——もちろんだよ!

 

 

 あの声が、頭の中で鳴った。

 

 

 ——わたしひとりだけ置いていかないで?

 

 

 笑っていた。暗い寝床で逃げようと囁いた夜、凝梨は怖がりもせず、ただ嬉しそうに笑っていた。

 

 あの子は、ひとりで残っていれば、こうはならなかった。

 

 柵の中は地獄だった。でも、生きてはいた。息をして、泣いて、明日を迎えることだけはできた。それを奪ったのは、狼ではない。

 

 ——あたしだ。

 

 あたしが手を引いた。あたしが「一緒に来る?」と聞いた。あたしがあの子に答えさせてしまった。

 

 悪魔が不意にささやいてくる。

 

 はたして本当に、凝梨の意志だったのか? ひょっとしたら、一人ぼっちになるのが嫌なだけで、本当は行きたくなかったのではないのか? 誰のせい? 誰のせいだろう?

 

 

 やはり、

 

 あの時、手を引かなければ、

 

 こうは、ならなかったのだろうか。

 

 ——届かない、だろうけど、謝るしかない。けど、謝ったところでどうにもならない。

 

 

 

 だって、もう、いないんだから。

 

 

 

 でも、同時に思うのだ。

 

 

 こんなのは、

 

 こんなのが運命だとするのなら、

 

 あまりにも、あんまりじゃないかと。

 

 自由を望むことの何がいけなかったのかと、

 

 夢見ることすら許されないのかと。

 

 

 だとするのなら、

 

 

 こんな運命なんてもうたくさんだ。

 

 

 誰か、お願いだから、

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——解放、して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 風が、鳴った。

 

 

 聞いたことのない音だった。海の底に、風など吹くはずがない。

 

 なのに、空気を裂いて何かが走った。短く、鋭く。彼女の顎を掴んでいた兵士の手から、力が抜けた。

 

 兵士が、糸を切られたように崩れる。こめかみに、矢が刺さっていた。

 

 残りの兵士が、一拍遅れて振り向く。声を上げる間もなかった。

 

 暗がりの奥から、影がひとつ、飛んだ。

 

 人だった。

 

 鎧ではない。見たこともない黒と赤で構成された服を着た——男。

 

 跳び蹴りが、刃を持った兵士の顎を打ち抜いた。骨が鳴る音がした。あり得ない角度へ頭が向いている。

 

 兵士の巨体がねじれて吹き飛び、岩壁にぶつかって動かなくなる。

 

 着地。最後のひとりが武器を構えるより早く、男の拳が鳩尾(みぞおち)に突き刺さった。重い音。崩れ落ちた歩離人の後頭部に肘鉄を叩き込み、床に転がる先ほど太刀を焼いていた松明の上に落とした。

 

 

 絶叫。

 

 のたうちまわり、

 

 ほどなく、そいつも動かなくなった。

 

 

 

 

 肉の焼ける音がする中で、一瞥もせず、男はこちらへ向き直った。

 

 

 ——な、に?

 

 

 朦朧とした頭の中で、それだけが残った。

 

 

 男がしゃがみ込んだ。

 

 

 猿ぐつわに手をかけて、乱暴にならないぎりぎりの速さで解いていく。彼女の頬に触れた指先が、温かかった。歩離人の手とは違う。人を壊すためではない手だった。

 

 

 

「——待ってろ、自由にしてやる」

 

 

 

 声が聞こえた。別に真剣でないわけではない。なのに軽い調子で、本当に場違いなほど軽い声だった。

 

 でも、泣いてしまいそうなくらい、優しい声だった。

 

 

 その声に安心したのか、急に全身から力が抜けた。視界が赤黒く滲んで、傾いで、沈んでいく。

 

 

「おい。——おい、寝んな!

 

 

 頬を軽く叩かれた。温かい手だった。

 

 

「名前。名前なんてんだ。聞こえるか? 言葉わかるか!」

 

 

 ——名前。

 

 名前、と男は言った。遠い。声はもう、水の底から聞こえるみたいにぼやけている。

 

 

 名前。あたしの、名前——

 

 

 ——暗闇の底で、声がした。

 

 

『——■■ちゃん!』

 

 

 凝梨の声だった。

 

 

『——もちろんだよ! ■■ちゃん! わたしひとりだけ置いていかないで?』

 

 

 ——ああ、そうだ。あたしの名前。凝梨だけが呼んでくれた、あたしの名前。

 

 

 唇が動いた。声になったかどうかも分からない。

 

 

 でも、この温かい手の人に、伝わればいいと思った。

 

 

 

「——薩蘭(さらん)

 

 

 

 どうにか言うことが出来た。安心して——

 

 

 

 もう一回頬をはたかれた。

 

 

 

 痛かった。

 

 

 

 そんなことで、まだ生きてるんだと思った。

 

 

 

薩蘭(さらん)か。いい名前じゃねーか。……眠てぇのはわかる。でもな、

 

 

 女の子だろ。

 

 だったら、気合いで——目玉ひん()いてろ」

 

 

 

 

 先ほどの絶叫を聞きつけて、わらわらと湧いてきた歩離人たちに向き直る。

 

 すぐさま「是印さんっ!」と弓を片手に男の元へ駆け寄ってくる狐族の女と少年が二人いる。

 

 

 

 男は歩離人たちの前に一歩踏み出ると、その内の一人の少年に対して、後ろ手をくいくいっと差し出し、

 

 

 

「てめーら全員、タダで済むと思うな。

 

 ——応星、お前の自信作。よこせ」

 

 

 

 そして、手渡された剣を鞘から抜き放つ。

 

 

 

 

 

 

 

「——(シツケ)の時間だ、(イヌ)っころ(ども)

 

 

 俺が猫派だったことを、

 あの世で怨めやあああああああああ!!!」

 

 

 

 

 

 

 駆け出していく、その姿は、まるで、

 

 

 

 

 

 

 ——彼女にとって、流星のように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






執筆時BGM:「青空のナミダ」高橋瞳




▼おまけ▼

???「はぁ、まったく。そういうところだよ……まったく」
 ※ ここで#6の発言を振り返ってみよう!



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