ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#65 "海の上、水の底"

 

 

 

 

 

 星槎の乗り心地は、とてもじゃないがいいとは言えなかった。

 

 

 操縦席のうしろに、板張りの区画がある。左右の壁沿いに折り畳み式の寝台が並んで、床にはボルト留めの固定具。帰りにここへ人質たちを寝かせる手筈となっている。が、今は空っぽで、

 

 代わりに是印と応星と景元が、壁際の跳ね上げ席に並んで座っていた。

 

 

 ――本来、白珠の愛機は、1~2人乗りの高速星槎である。

 

 

 だが、今、こうして乗船しているのは、それとはまるっきり別の代物だった。

 

 用途が違うのだ。

 

 元々、曜青の救難倉庫から引っ張り出してきた中型の貨物星槎というのがその正体で、推力だけは馬鹿みたいに強いがその代わり、図体(ずうたい)デカめ・小回りは利かない・すぐに止まれないと三拍子揃っていた。

 

 さらに、少しでも高速化を望むにあたり、装甲を削り、武装を外し、座席と酸素膜と救命装備だけを詰め込んで、ようやくなんとか、潜入・救出作戦に使えるかもしれない——という代物。

 

 はたしてこんなもんで生きてタラサの海底までたどりつけんのかよ。しかも丹楓が作るという、いつ潰れるかわからない水のトンネルを通って。

 

 仙舟に存在する戦闘用の星槎はほぼ今回の戦の最前線に回されているとはいえ、もうちょいなんかなかったのか、正気じゃねえって……と是印は思う。

 

 

 そんな思考を知ってか知らずか、操縦席の白珠が、振り返った。

 

 

「皆さん、帯をしっかり締めてくださいね。途中で立ち上がったら、きっと壁に叩きつけられると思うのでっ!」

 

 バスガイドよろしく、にこやかに。

 

 既にここは戦地だというのに、いつもの白珠だった。

 

「あと、吐きそうになっても立たないでくださいね。床に吐いて大丈夫です。あとで拭いておきますからっ」

 

「ええ……吐く前提かよ」

 

「備えあれば、ですっ」

 

 勘弁してくれって、どっかのシルヴァーウルフさんの運転じゃんかよと苦い顔を浮かべている是印の対面(といめん)で、応星が帯を締め直す手を止めて、顔面蒼白になっていた。

 

 

「——白珠さん」

 

 跳ね上げ席に背筋を伸ばして座る景元が口を開く。足が地味に床に届いていないのを、足首を組むことでごまかしていた。

 

「水路の維持時間を確認したいんだけど。三百くらい?」

 

「ええ、ご明察です。丹楓の見立てでは、全力で(ぎょ)して、片道およそ三百数えるくらいだそうです」

 

 景元は口元に手を当てて思案する。

 

 三百。率直に言って、とてもじゃないが余裕があるとは言えない。

 

「それ以上は水壁が保ちません。丹楓がもっと長く御してくれる可能性もありますけど、余裕をもって二百五十で抜けます。景元、すみませんが数えるのお願いします」

 

 スイッチを順番に切り替えていきながら、事もなげに言ってのける白珠に景元は呆気にとられていた。

 

「——来ました」

 

 丹楓からの合図。

 

 操縦席の白珠は点滅する計器を示す。

 

 鏡流たち本隊と共に海上に展開している丹楓が、そこから水路を開く。龍の力で海を御して、海底までの道を作る——はたして道と呼べるものが出来上がるかどうかは、

 

 

 窓の向こうの海面が割れ始めていた。

 

 是印がうめくように、

 

「おいおい……ふーたんの十戒かよ」

 

 

 最初は細い亀裂だった。海が、一本の線に沿って、左右に退いていく。水の壁が持ち上がる。高さは星槎の三倍はある。その隙間に、暗い道が開いた。

 

 道、という言い方は正確じゃなかった。海底へ向かって斜めに落ちていく穴だ。水の壁が両側にそびえて、底が見えない。壁面は実際には静止しておらず、丹楓の力が維持しているあいだだけ保っている、かりそめの空洞。水の脈動が壁を揺らしている。いつ崩れてもおかしくない。

 

 控えめにいっても地獄への入口としか思えない。

 

 あそこに突っ込むのか。この、曲がらない星槎で——

 

 

 

「——行きますよ」

 

 

 

 心の準備というものを許さず、

 白珠が正面を向いたまま言った。

 

 息をひとつ。是印らに見せていた柔らかい笑顔から、飛行士の顔に切り替わる。耳が寝て、尻尾が体に巻きつくように収まる。操縦桿を握る手が、

 

 沈んだ。

 

「掴まって」

 

 敬語が消え、それが合図だった。

 

 

 

 星槎が(おもて)を下に向け、

 

 

 

 墜ちる。

 

 

 

 と思うほど、その直線は凄まじく速かった。

 

 

 しかも、きりもみ回転までしている。

 

 

 推力だけは馬鹿みたいに強い——ということの意味を、是印は全身で理解した。ほぼ落下だ。おまけに回転付きで、もはやドラム式洗濯機の中としか思えない。背中が席に押しつけられる。内臓が置いていかれる感覚。股間が持ってかれたかと思うほどスースーする。視界の端で応星が何か叫んでいたが、加速の圧で声がひしゃげて聞き取れなかった。

 

 水の壁が左右を流れていく。流れていく、というのはあまりにも生ぬるい表現で、ブッ飛んでいったという方が遙かに正しい。水色の壁が窓を埋め尽くして、その表面を気泡と泡沫が弾丸みたいに後ろへ飛んでいく。強化樹脂の向こう側を水滴が叩きつけるたびに、星槎の外殻がびりびりと震えた。

 

 半ば予想できたことであるが、水路は真っ直ぐじゃなかった。

 

 丹楓が御しているのは静止した水面というわけじゃない。海は生き物みたいに脈を打ち、そのたびに水壁の幅が呼吸のように狭まったり広がったりする。

 

 その一回目の「狭まり」が来た。

 

 水壁が左右から迫る。星槎の翼端と壁の距離が、人ひとりぶんまで詰まった。

 

 白珠の手が動いた。

 

 操縦桿を右に切ると同時に、左足で何かのペダルを蹴る。星槎がぐん、と傾いだ。翼を斜めにして、狭まった隙間を斜めに抜ける。是印の体に帯が食い込み、景元が壁に肩をぶつけて、とっさに歯を食いしばった。声は出さなかっただけ上出来に近い。

 

 抜けた、と思った瞬間に二回目が来た。

 

 今度は上からだった。天井——水路の上面が落ちてくる。丹楓の制御が一瞬揺らいだのか、あるいは海流が想定より強いのか。水の天井が迫って、星槎の背を舐めるように圧し掛かる。

 

 白珠が星槎の鼻を下げた。急降下。再度、床が抜けるような浮遊感が腹を突き上げた。応星の口から、ひゅ、と空気が漏れた。

 

 水路の傾斜に沿って、星槎は海底へ向かって落ちていく。重力と推力を両方使って、水路が潰れるより速く下へ抜ける。

 

 背後の野郎連中が魂を吐き出し、白目を剥いていることなどお構いなしか、操縦席の白珠の背中は嘘みたいに静かだ。肩も揺れておらず呼吸は一定。両手は操縦桿の上で微細に動いていて、その動きの一つ一つが星槎の軌道を数ミリ単位で修正している。

 

 白珠の瞳には今、この水路と星槎のあいだにある誤差だけしか目に入っていない。乗客のことも、戦場のことも、視界に入っていない。入れていたら、この操舵はできない。

 

 

 三回目。

 

 水壁が、左側だけ崩れた。

 

 轟音。水が壁を突き破って、星槎の左舷に殴りかかってきた。船体が横に弾かれる。金属が悲鳴を上げた。後部区画の寝台の固定具が一つ、ボルトごと飛んで天井に刺さった。帯からずり抜けそうになった景元が是印の腕をとっさに掴んだ——是印も是印とて余裕はなく、その手を握ってやることしかできない。

 

 

 白珠が操縦桿を引き絞る。右舷の推進器を全開にして、崩れた左壁の水流に機体をぶつけるように押し込む。水に呑まれるかと思いきや、水を蹴って反対側の壁際へ寄せる。壁と壁のあいだ、まだ残っている隙間に——

 

 ごう、と。

 

 星槎が水流を突き抜けた。

 

 機体が揺れる。がたがたと。後部区画で何かが転がる音がした。応星が両手で口を押さえている。顔が白いを通り越して青い。

 

 

「——あと百六十!」

 

 

 景元が辛うじてそれだけ言った。

 

 百六十。あと百六十数える間は、この水路は保つ。それは「あと百六十秒で着く」という意味ではなく、「百六十カウント以内に着かなければ、水路が潰れて全員海の底に沈む」という意味だった。

 

 是印は帯を握り直した。手のひらが汗で濡れていた。

 

 ——大女神カフカディーテさん、どうか、この身をお守りくださいいいいいいいッ。

 

 本当にこれひとり残らず連れて帰れんのかよと思うと同時に全身全霊で祈ることしか出来ない。

 

 

 

 水路の底はまだ見えなかった。

 

 

 

 水壁の揺れが、大きくなり始めていた。さっきまで呼吸のようだった脈動が、痙攣(けいれん)に変わっている。丹楓の制御が限界に近づいているとしか思えない。

 

 白珠は推力を落とさなかった。この速度で降りなければ間に合わないと、計器を見なくても体でわかっているのだろう。操縦桿を握る指だけが動いている。壁の揺れに合わせて、機体の姿勢を微調整し逃がし続ける。

 

「百!」

 

 景元が叫ぶ。こんな状態でも律儀に数えているだけ偉かった。

 

 水路の底がようやく暗がりの向こうに浮かんだ。タラサの外殻——岱輿の残骸が海底に横たわっている。肉管が這い回り、珊瑚のような構造物が外殻を覆っている。生き物の腹の中みたいな光景だった。が。

 

 

 ――まだ遠い。

 

 

 そして水路が、目に見えて痩せ始めた。左右の壁が迫ってくるのではない。壁そのものが厚みを増している。丹楓が御しきれなくなった海水が、壁の内側に染み出してきているのだ。水路の幅が、星槎の翼幅ぎりぎりまで細くなった。

 

「——八十!」

 

 景元の声に、焦りが混じり始める。

 

 外殻の一箇所に、穴があった。作戦前の偵察情報で確認してあった突入口。穴の縁を肉管が覆っているが、この星槎が通れるくらいの幅はある。

 

 あそこだ。あそこに入れば水路から出られる。というか地獄が終わると、後部座席の野郎連中の心がひとつになった。

 

 ——だが、水路がもう保たない。

 

 壁が震えている。細かい震えではなく、大きく、ゆっくりとした揺れ。建物が崩れる直前に見せるような、イヤな揺れ方だった。上方からも水が滴り始めた。雨のように。だが雨は雨でも土砂降りで未曾有とか歴史的とかいったような枕詞(まくらことば)がつくようなレベルだ。水圧で押し出された海水が、天空の隙間から腹を空かせた大竜が咆哮するように噴き出している。

 

 白珠が推力を全開にした。

 

 星槎も吠え返す。推進器が限界を超えた唸りを上げて、小太り中型機が海底に向かって吶喊(とっかん)とばかりに突っ込んでいく。覚悟を決めたように減速も方向修正もなし、

 

 一直線。

 

 是印は帯を両手で掴んだ。帯が食い込んで、肋骨が軋んだ。景元がまた是印の腕を掴んだが、是印にはそれを気にしている余裕がなかった。応星は——もう目を閉じていた。

 

 ひょっとしたら気を失っていたのかもしれない。

 

 

 

 水壁が、崩れた。

 

 

 

 後ろからだった。

 

 

 

 水路の上端から海が落ちてきた。天井が消えた。何万トンもの海水が、星槎の後方から追いかけてくる。水路ではなく、海そのものが戻ろうとしている。

 

 追いつかれたら終わりだ。

 

 白珠が操縦桿をさらに押し込んだ。鼻を下げて、穴に向かって加速する。自由落下に推力を足した、命知らずの最短経路。背後で海が迫る轟音。機体の尾翼を水飛沫が叩いた。

 

 突入口の縁が、前方の窓いっぱいに広がった。

 

 星槎が穴に飛び込んだ。

 

 翼端が肉管をかすめた。がりっ、と外殻を削る音。直後、背後で水路が完全に潰れた。海が元に戻る轟音が、岱輿(たいよ)の外殻越しに響いてきた。

 

 星槎は赤黒い地べたを滑走して、肉壁にぶつかるように止まった。想像以上の衝撃が襲い、全員が前につんのめる。何かが割れる音。推進器が停止する。

 

 

 

 

 静寂。

 

 

 

 水路の轟音が消えて、代わりに聞こえてきたのは、肉管の脈動だった。どくん、どくん、と。生き物の体内にいるような、湿った鼓動。

 

 

「四十二、っと——やはり鸞影(らんえい)とは違うのでズレちゃいましたね……ですが、お疲れ様ですっ。到着しました」

 

 いつもの敬語に戻った白珠が振り返ると、

 

 

 

 

 死屍累々(ししるいるい)だった。

 

 

 

 

 全員が身体を締め付ける帯の恩をもう忘れたかのように外して、床にとんでもないかっこで倒れていた。特にまずそうなのは、

 

「大丈夫ですか? 応星、顔色が悪いというか、どうしてそんな色にって感じになってますよ」

 

「……だ、大丈じょ……やっぱ、り……大丈夫じゃない……」

 

 口元を押さえて応星が、最後の力を振り絞って隅っこまで倒れ込むように駆けていき、胃の中にあったものをぶちまけていた。

 

 景元は——是印の腕を掴んだまま、固まっていた。目を閉じている。顔色は悪いが、意識はある。ただ、口を開くと何か出そうなので迂闊(うかつ)に開けないようだった。

 

 是印は生まれたての子鹿のように立ち上がった。

 

 足下がだいぶおぼつかない。まだ浮いている気がする。

 

 白珠の操舵は、今まで経験した何よりも凄まじかった。あれは座っているだけの人間が味わっていいものじゃない。

 

 是印はナメクジみたいな速度でどうにか操縦席に歩み寄って、白珠の頭をぽん、と叩いた。

 

「——っぷ……お、お疲れ」

 

「は、はひっ!? え、あ、是印さんっ!」

 

 そのまま、頭を差し出すように白珠は背を丸める。

 

「……あ? ぷ、何?」

 

「えへへー、もっと。どうぞ好きなだけ撫でてください」

 

「……っぷ、今ちょっとそのボケにツッコ……」

 

 ボケじゃないですーっと叫んでいる白珠をよそに、一瞬ハムスターの太郎さんのように頬が膨らんだ是印はとっさに口を押さえてうずくまる。小刻みに顔が震えているなかで、喉仏が数度動き……沈黙。

 

 やがて、是印は窓の外に目をやった。そこから覗くのは岱輿の内壁。肉管。暗い通路の奥に、かすかな光が見える。

 

 

 どうやらここが——タラサの底らしかった。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 海が、燃えていた。

 

 

 タラサの海面は獣艦の群れに埋め尽くされ、雲騎軍の戦列が正面からそれを迎え撃っている。空を曜青の星槎が覆い、朱明の補給船が弧を描いて旋回し、玉殿の旗艦が後方で潮を読んでいる。

 

 

 仙舟同盟・四船総出の戦線である。

 

 

 ――その最前線に、呼雷(フーレイ)はいた。

 

 

 雲騎の兵が雄叫びをあげて三人がかりで斬りかかるも、呼雷の腕が一閃し、三人が同時に弾け飛んだ。甲板の縁まで達し、落ちかけた兵士の一人が這い上がろうとして、

 

 腕がないことに気づいた。

 

 

 

 悲鳴が海に呑まれていく。

 

 

 

 呼雷は振り返りもしなかった。

 

 

 次は五。槍と剣。呼雷は槍の穂先を素手で掴み、振り回して剣の群れにぶつけた。人と人がぶつかる鈍い音。呼雷の体を斬りつけた剣があったが、裂けた皮膚がその場で塞がっていく。

 

 歩離人の戦首(せんしゅ)

 

 十の悪逆を尽くした狼群の王。不死身、と呼ばれる所以がそこにあった。

 

 雲騎の兵が束になっても、届かない。

 

 呼雷は兵たちを蹴散らしながら、つまらなそうに海を見て、

 

 

 優れた嗅覚故に、悟った。

 

 

 ——風が、変わった。

 

 

 乱雑に積み重ねた死体の真ん中で呼雷(フーレイ)が振り返る。

 

 獣艦の甲板に、音もなく一人の女が降り立っていた。

 

 白い。それが最初の印象だった。白い髪が潮風に流れ、手にした剣の鞘が海光を弾いている。身にまとう気配が周囲の兵とはまるで違った。場の空気そのものが、この女を中心にして張り詰めていく。

 

 雲騎の兵たちが、本能で退いた。この二人のあいだに立っていてはいけないと、体が察知したかのように。

 

 それをわかっているかのように、女は口を開き、端的に、

 

 

「ここは我に任せろ。他の器獣どもの対処へ回れ」

 

 

 呼雷が、笑った。

 

 

「——ようやくか」

 

 

 呼雷の目が、初めて、正面の相手を見ていた。

 

 

「この海に一人くらいはいると思っていた。——俺の首を獲りに来られる奴が」

 

 

 鏡流は答えなかった。代わりに、

 

 剣を抜いた。

 

 それだけだった。構えも名乗りもない。

 

 甲板の空気が鳴った。

 

 呼雷の笑みが深くなると共に、腰の得物に手が伸びた。一般兵を相手に一度も触れなかったそれを、初めて抜く。鏡流の抜刀に応えるように。

 

 

「いい目だ。俺と——」

 

 

 言い終わる前に、鏡流が踏み込んだ。

 

 一閃。

 

 甲板が裂けた。呼雷(フーレイ)が後ろに跳んでいなければ、胴が両断されていた。跳び退った呼雷の胸に、一筋の線が走っている。

 

 呼雷が、傷口を見下ろした。

 

「浅い、な」

 

 血が流れている。もう塞がり始めているが、一瞬、確かに、斬られた。

 

 呼雷は顔を上げた。笑っていた。歓喜。これだ、と言わんばかりの、獣の笑み。

 

 

「——いい。いいぞ、女」

 

 

 呼雷の体から、圧が膨れ上がった。月狂い——歩離人の王が本性を剥く瞬間。筋肉が膨張し、眼が変色し、肢体を灰色の体毛が覆っていき、植物の育成をタイムラプスで目撃しているかのように、ただでさえデカい巨躯が二回り以上膨れ上がる。甲板が呼雷の足元から放射状にひび割れた。

 

 鏡流は剣を肩口に引き、切っ先を呼雷へ合わせた。それは霞の構えに近い。

 

 風が止んだ。海がその瞬間だけ凪いだように錯覚する。

 

 二人のあいだの空間だけが、世界から切り取られたように静まり返った。

 

 

 

 次の瞬間——

 

 

 

 二つの力がぶつかった。

 

 

 

 海面が爆ぜた。衝撃波が円形に広がり、周囲の獣艦が波に煽られて傾いだ。雲騎の兵も歩離人も、等しく膝をついた。

 

 海の上に、剣戟が響く。

 

 凄まじい、としか言いようのない戦いが始まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 暗く、湿って、生臭い。

 

 三拍子揃えば、顔もしかめっつらになるっつーのと是印は思う。

 

 肉管が壁を這い、天井から粘液が垂れている。足元は金属と有機物が入り混じった床で、踏むたびに微かにたわむ。岱輿の骸の上に歩離人の巣が寄生した、そういう構造だった。

 

 星槎から降りて、偵察情報にあった人質区画へ向かう通路を是印は走っていた。後ろには白珠と景元と応星が続いている。

 

 後続の三人は、ついて行けない速度で駆けていく是印に、息を切らしながら目を見張るしかなかった。

 

 

 通路の奥から、歩離人が来た。

 

 

 人質区画の見張りと思しき四体が通路いっぱいに広がって、牙を剥いている。人の形をしているが、皮膚の下で筋肉が不自然に盛り上がり、爪が伸びている。いびつな長命をもたらす豊穣——その力に浸された獣。

 

 

 目を細め、身を低くする是印は速度を——落とさなかった。

 

 

 敵と認識され、正面から突っ込んでくる歩離人の爪を、半歩だけ右にずれてかわす。体の軸はぶれない。かわした直後に手首を返して、剣で喉を薙ぐ。深く踏み込みすぎない。足を止めない。一体に二太刀を使わない。

 

 

 ——足を止めるな。一閃で断て。

 

 

 鏡流の声が、体の中に残っていた。

 

 二体目と三体目が左右から同時に来た。是印は二体目の爪を剣の腹で弾いて、その勢いで体を回転させた。回転の遠心力が三体目の首筋に剣を届かせる。切っ先が肉を裂く感触。足はもう次の位置に動いている。

 

 四体目が飛びかかってきた。その顔はまだ剣が戻りきっていない「獲った!」とある。

 

 が、是印は左手で歩離人の腕を掴み、引き寄せながら膝を腹に叩き込んだ。崩れた体勢のまま、剣をくるりと翻し、突き立てる。

 

 

 

 四体の屍。呼吸が五つと少し。

 

 

 足は止まらなかった。

 

 

 通路がひとまず開けた場所で、ようやく是印が足を止めたのは背後から「兄さんっ」と声が聞こえた気がしたからだ。

 

 肉管の隙間に空洞がある。小さな広間のような場所。人質区画はこの先と思われた。

 

 ふーっとようやく息を吐き、全員で突入するべく是印が振り返ったとき、汗だくの応星が駆け寄ってきた。

 

「はぁっはぁっ……に、兄さん、待って、ください……」

 

 両膝に手をついて、息を整える応星に是印は、

 

「あ、わり、後ろ気にしてなかったわ。ごめんな」

 

「あの、剣を——少しだけ調整させてください」

 

 きょとんとしてから、是印がまじまじと応星の目を見た。顔色はまだ良くないが、さっきの星槎内の時と目の色が違う。

 

 そこには職人としての炎が(とも)っていた。

 

「……おう」

 

 是印が剣を差し出した。

 

 応星が両手で受け取る。刀身を光にかざして、切っ先から柄元まで、ゆっくりと目を走らせた。刃の角度、刃こぼれの有無、鋼の歪み。指の腹で刀身の面を撫でるように辿る。

 

「……良かった。大丈夫ですね。刃は生きてます。——あ、でも、ここ、少しだけ」

 

 応星は懐から小さな砥石を取り出し、剣の刃先を撫でるように砥いだ。ほんの数回。音も立てず、ほとんど指先の感触だけで調整している。

 

 応星に遅れて合流した白珠と景元が、少し離れた場所で周囲を警戒してくれているのを横目に是印は、

 

「……お前、ほんとすげえな」

 

「すごく、ありません」

 

 応星は顔を上げず、刃先に目を落としたまま、

 

「僕は……剣を振れません。さっきの兄さんみたいに華麗に敵を斬ることもできません。でも決めたんです——」

 

 応星は自分の手を見た。砥石の粉がついた、細い指。

 

「あいつらを切り裂くために——魂を込めたこの剣を、一番いい状態にしておくことは、できます」

 

 ようやく顔をあげた応星は、

 

「これが、僕にできることなので」

 

「ん、じゃ、任せたわ」

 

 応星の髪をわしゃわしゃとかき混ぜて、是印は前を向いた。

 

 

 

 

 

 

 

 そんな是印の背中を見ていたのが景元だった。

 

 (けわ)しい顔の内側にある頭の中を覗き見れば、こんな言葉が並んでいる。

 

 

 

 ——さっきの戦闘。歩離人を四体、呼吸五つで片づけた。

 

 

 

 あの剣は——景元が初めて出逢った頃に見た是印の剣とは、別物だった。

 

 あの頃、是印の戦い方は我流、いやむちゃくちゃだった。身体能力で力技を通し、反射神経で危険を避け、勘で急所を突く。どんな修羅場をくぐってきたのかは知らないが、結果的に磨き抜かれただけであって、まともに鍛錬とか修練とかそういった(たぐ)いのことをしてきたとは到底景元には思えなかった。

 

 もっとも、強いか弱いかでいえば、間違いなく強いのだろう。だが、師匠——鏡流の目から見れば、やはり隙だらけの、まさしく型なしの剣だった。

 

 それがどうだ、

 

 今の是印の剣は違う。

 

 無駄がない。足の運び、体の回転、剣の軌道。一太刀ごとに、鏡流の教えが染みている。我流の荒っぽさは消えていないが、その荒っぽさの中に型がある。型を知った上で崩している。

 

 

 もはや形無しではなく、型破りまで昇華しつつある。

 

 

 景元は、あの稽古場のことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 ——それは、是印と景元が鏡流の弟子となり、しばらく経った頃だった。

 

 

 羅浮の演武場。

 

 朝の光の中で、剣戟(けんげき)の音が響いていた。

 

 是印と鏡流が打ち合っている。

 

 正確に言えば、鏡流が是印を打っている、と言ったほうが近かった。師の剣が弟子の剣を弾き、弾かれた弟子が体勢を立て直すより早く、次の一振りが来る。是印は受け、崩れ、退き、また受けた。それが繰り返される。

 

 

 先んじて散々なほどに鏡流に痛めつけられた景元は腫れ上がる患部を氷嚢(ひょうのう)で冷やしつつ、演武場の端に座って、食い入るようにそれを見ていた。

 

 視界の隅で時折動くのは(つの)で、

 

 そう、景元の隣には、丹楓がいた。

 

 丹楓はいつのころからか、この朝の稽古に時折顔を出すようになっていた。龍尊は多忙の身のはずだが、武を好む性は変わらない。「暇つぶしに過ぎん」と言うが、足を運ぶ頻度がじわじわと増えていることに、景元は気づいていた。

 

 

 鏡流の剣が走った。

 

 是印の剣が弾かれる。体勢が崩れる——が、この時は違った。

 

 崩れながらも、是印の足が動いた。崩れた勢いを使って半歩踏み込み、鏡流の懐に入った。剣ではなく体で距離を詰める。型にはない動き。だが、鏡流の教えた足捌きが基礎となり、この無茶な踏み込みを成立させている。

 

 鏡流が剣を返した。是印の踏み込みを迎え撃つ——が、是印はその剣が来ることを読んでいた。首を傾けて切っ先をかわし、そのまま鏡流の胸元に迫——

 

 

 鏡流の目が、わずかに見開かれた。

 

 

 だが——鏡流は半歩、体を開いただけだった。たったそれだけで、是印の踏み込みは空を切った。「のわっったったっとと!?」と勢いを殺せずに前のめりになった体を、鏡流の剣の腹が容赦なく叩き、是印が無様に地面を転がった。

 

「だぁ〜〜っ!!! ……くっそ、惜っしぃな!」

 

「まぐれだ。もう一度」

 

 鏡流の声は平坦だったが、景元の脳裏には師匠の先ほどの目の見開きが焼き付いていた。

 

 

「——美しいな」

 

 不意に、丹楓が言った。

 

 景元が——え? と顔を向けると、丹楓は演武場を見つめていた。是印ではなく——鏡流を、見ていた。

 

「丹楓?」

 

「剣首の太刀筋は何度見ても飽きん。流水のごとく淀みなく、されど一閃は(いわお)をも断つ。あのような剣を振れる者は、仙舟広しといえど、あの女しかおらんだろう」

 

 丹楓の目が、細くなった。龍尊の口元に浮かんだのは、武人としての純粋な闘争心の表れだった。今すぐ出て行って、あの剣と自分の槍を交えたい。

 

「血が湧き立つとは、斯様(かよう)なことを申すのだろうな」

 

 景元はどういったものか言葉を選びきれず、結局何も言わなかった。それははたして、単なる戦いへの渇望だけなのだろうかとは、流石に言えなかった。

 

 

 

 

 稽古が終わった。

 

 

 

 

 いつの間にか丹楓は姿を消しており、演武場の隅には、是印と景元が壁にもたれて座り込んでいる。全身汗まみれで、息が上がっている。その向かいに鏡流が立っていた。こちらは実に涼やかな顔で、汗ひとつ浮かんでいない。

 

 

「——先生」

 

 

 是印が顔を上げた。

 

「……なんだ」

 

 鬱陶しそうな顔を隠さない鏡流に、息を整えながら、いつもの口調で、

 

「そういや、先生って、仙舟のどこの出身なんですか」

 

 鏡流がわずかに眉を動かした。稽古の後に飛んでくる質問としては、予想の外にあったらしい。

 

「何故そのようなことを知りたい」

 

「ええ〜だってかわいい弟子が師匠の色んなコトを知りたいと思うのは当然じゃないですか。知りたい知りた〜い、な? 景元もそう思うだろ?」

 

 こっちを巻き込むなという顔をして、景元は、

 

「お、おれは別に……」

「おい、思春期ぶってんじゃねーぞコラ」

 

 兄弟子(あにでし)に合わせろと言わんばかりに人差し指を突きつけてから、師匠に向き直る。

 

 若干というか、下心を隠そうともせずに笑みを浮かべて返答を待つ是印に、ひたすら白い目を向けていた鏡流も、

 

 

 ため息。

 

 

 ふっとどこか遠くに目をやって、

 

 

「——蒼城(そうじょう)

 

 

 短く答えた。

 

「そう、じょう……?」

 

 そんなんあったっけ? と首を傾げる是印に、

 

 

「お前が知らぬのも当然だ。()()()()のだからな」

 

「……?」

 

「あ、兄貴ッ……!!」

 

 地雷だった。

 

 焦って小突いてくる景元の勢いに、「え……?」と、是印の声が上擦(うわず)る。

 

「そりゃ、えっと……なんで、なくなったんですか」

 

寿禍の王(ほうじょう)の生んだ妖星に呑まれた。蒼城ごと、すべてな」

 

 鏡流はそれだけ述べる。淡々と。千年以上前のことを、昨日の天気のように。

 

 是印は饒舌だった口をつぐむ。

 

 たぶん——この兄弟子の頭には今、おそらく応星のことがよぎっていると景元は思う。

 

 故郷を器獣に喰われた少年の顔。最近、そういう話をすぐ近くで聞いたばかりだ。

 

 

「……さみしく、とかないんすか」

 

 

 鏡流は是印を見下ろした。逆光の中、静まり返った瞳は月光のようだった。

 

「さみしいかどうかなど、考えたこともない」

 

「…………」

 

 是印が、また黙った。かたわらの景元が見ても、是印の目には色々なものが渦巻いているのがわかった。

 

 応星。故郷。それから——景元にはわからない、是印だけが知っている何かが。

 

 

「——もう随分と昔のことだ。我が初めて剣を手に取った時に、言われた言葉がある。"それほど素晴らしいものは、この世に多くは存在しない"とな」

 

 

 誰に言い聞かせるでもないように、鏡流は言葉を紡いでいく。

 

 

「その時の我は、意味を汲み取ることができなかった。だが、今ならばわかる」

 

 

 すっと腰を落とした鏡流は、()()()()()()()の剣を薙いだ。

 

 

 横一閃

 

 

 それだけで、演武場の端に堂々たる威容を見せていた奇岩に線が走り、轟音と共にずり落ち、

 

 崩れた。

 

 近くにいた鳥たちも青天の霹靂に着の身着のまま飛び立っていく。

 

 

 呆気に取られる弟子二人をよそに、

 

 

「——確かに素晴らしい、とな。これを振るい、忌み物どもを(ほふ)る。そしていずれ、道の果てに天の星々すらも斬り落とす」

 

 残心(ざんしん)の中で鏡流は思う。

 

 

 ——少しばかり、話しすぎた。もう二度と会えない、あの人にかけられた言葉すらも引用してしまうとは。それもこれもこの馬鹿弟子が嫌なことを思い出させるのが悪い。かくなるうえは追加の——

 

 

 

 

 

 

 

「それやりたいッ、やりたいいいいいッ!!!!」

 

 

 

 

 立ち上がって叫んでいる馬鹿がいた。

 

 万感込めて絞り出すように、

 

 

「俺も斬撃飛ばしたい……ッ!!!」

 

 

 鏡流の顔に無が宿る。

 

 一方馬鹿の方は、ゲツガなんとかじゃんとワケのわからぬ文言をまくし立てている。興奮しすぎて口角に泡がついていた。そして、

 

 

 

「それ教えてください先生!!!! 代わりに宇宙一かわいい弟子である俺が、他にも素晴らしいもの僭越ながらお教えしますんで!」

 

 

 

 理解不能すぎて、素直に問うしかなかった。

 

 

「……お前は……何を言っている?」

 

「いっやぁ〜、剣が素晴らしいのはわかったんですけど。先生が言われたのって別に剣だけが素晴らしいってことじゃなくないすか?」

 

 

 虚を()かれる。それは、

 

 

 

「——ふざけたことを抜かすな」

 

 

 

 意図せず、声に殺気がこもった。

 

 

「あ、別にこれ先生の磨き上げた剣を否定してないっすよ。それはそれとして、他にも素晴らしいものがあるはずで、だって、それほど素晴らしい物 () ()()()()()()()()()()()()() 、なんだから」

 

 だが、是印は引かなかった。その顔に剣先が突きつけられる。普段であれば、微動だにしないはずのそれは、わずかに、震えていた。

 

 

 

 

 そんなことを言う訳がない。だって、あの時、あの人は、どうして生き残ったと死ぬことばかり考えていた私の前で、

 

 

 ——蒼城の災禍を生き延びた人は多くない。救援が到着するまで、あなたが一体どんな経験をしたのかはわからないけど……あなたがこのまま過去の恐怖に溺れながら人生を送っていくところは見たくないの。

 

 

  ——それを使えば、私たちのすべてを奪った怪物を完全に消し去ることができる。

 

 

  ——それほど素晴らしいものは、この世に多くは存在しない。

 

 

 だから戦え、と。あの人なりの(げき)だったのだと思っていた。そして、その通り、剣を取ったのだ。以来、どれほど振ってきたことか。雨の日も風の日も、戦場でも日常でも、傷つき傷つけ、ひたすら振って、振って、まだ振って——

 

 

 剣は、素晴らしい。

 

 

 でも、それだけじゃなかったと、したら。

 

 

 戦うだけでなく、

 

 

 生きて、素晴らしいものを知れという意味があるのだと、したら。

 

 

 

 

 

 

「あの……先生、大丈夫すか?」

 

 

 しばらくうつむき黙ってしまった鏡流に、剣先から顔をずらして是印は心配する。

 

 

 演武場に風が通った。

 

 

 それが鏡流の白い髪を揺らし、白く透き通って輝く何かが朝の光を反射して、

 

 

「ッ……馬鹿弟子が」

 

 

 怒鳴られるかと思いきや小さい声で、鏡流はそれだけ言い残し、背を向けて去って行く。

 

 

「え、ちょ、今日終わり? っざしたーっ!」

 

 

 是印は半信半疑のまま軽く頭を下げて、小さくなる鏡流の背中を見ていた。

 

 

 それから、

 

 

「んー、もう少しやってっか、時間あるし。おーし、構えろ景元ッ!」

 

 

 師匠が消えてなお、ふたりで稽古を続けて、まともに顔に一撃を食らったのを景元は覚えている。

 

 

 きっかけなんてそんなものだ。

 

 悔しかった。

 

 師匠の発言の通り、どうやら剣を振るう才能は本当になかった。それは兄弟子という比較対象が身近に出来てからというもの痛感させられっぱなしだった。

 

 それにこの馬鹿な兄貴は剣だけでなく、師匠の鎧すら時に引き剥がしてしまう。

 

 自分には到底できそうにもないことばかり。

 

 

 でも——景元はそれを呑み込んだ。呑み込んで、立ち上がった。

 

 

 剣で兄貴に追いつけないなら、別の道で追い越す。

 

 

 そう決めたのも、たぶん、あの日で——

 

 

 

 

 

 

 

 悲鳴が飛び込んで来たのはちょうどその時だった。

 

 

 

 

 

 







執筆時BGM:
『EASY ACTION』BOOM BOOM SATELLITES(星槎突入)
『Tactics』THE YELLOW MONKEY
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