ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#66 "@奈落 - 其処"

 

 

 

 

 

 辺りは静けさを取り戻す。

 

 

 最初からそこにあったのにも関わらず、どくん、どくんと肉管の脈動だけが戻ってきたような錯覚を覚えたとき、

 

 是印は剣を下ろして、人質区画を見渡した。

 

 

 

 ——あまりにも、ひどかった。

 

 

 

 壁際に身を寄せ合う人質たちの群れ。最初に目に入るのは海の民で、(ひれ)のある腕、鱗に覆われた肌が飛び込んで来る。

 

 中には首筋に(エラ)と思しき筋がぱっくり裂けている者がいる。皮膚の下から薄い膜のような物が見え隠れし、そのふちから薄い血が首を伝っている。

 

 どうにも苦しそうだった。

 

 何がどう苦しいのかは是印にはわかりかねたが、呼吸の度に膜がひくひくと動く様は明らかに酸素を求める溺れた人のそれに近かった。

 

 見るに堪えず視線をずらせば、狐族もいた。年齢も、性別も問わない。特徴的な耳と尻尾、常人と変わらない腕や足には痛ましい縄の痕。虚ろな瞳が是印を映すが、すぐに逸れる。助けではなく新しい暴力に怯えるように。

 

 端っこでは、海の民の老人がひとりうずくまっていた。壁面に刻まれた古い象形文字のようなものを、骨ばった指が何度もなぞっている。無言のまま、ただ指先だけが、何かを確かめるように同じ線の上を往復していた。

 

 そうやって広がる惨状を一通り確認するうちに、胸に湧き上がる違和感の正体は、

 

 

 隙間だ。

 

 

 人と人のあいだに不自然な空白がいくつもあって、そこに誰かが寝ていた痕跡だけが残っている。毛布の皺。体温の跡。握り潰された布きれ。

 

 

 

 ——人質の末路などそう想像に(かた)い物じゃない。

 

 

 

 苦々しい顔を隠さぬまま、是印は剣を鞘に収めた。

 

 

 振り返れば、さっき自分が横たえた場所に少女——薩蘭(さらん)がいた。

 

 

 その時の姿勢からほとんど変化がない。腰から下を赤黒く染めた小さな体。それでも目は開いている。

 

 目玉ひん剥いてろ——そう言ったのは紛うことなき自分で、彼女はそれを真に受け、歯を食いしばってどうにか意識を保っている。だが、気丈さとは裏腹に、過呼吸気味の浅く短い間隔で横隔膜が震えていた。

 

 

 ——ほんの少し前のことだ。

 

 

 耳に飛び込んできた悲鳴で、気づけば無我夢中で走っていた。

 

 肉管の隙間を抜けて人質区画に飛び込んだら、歩離人の兵士がひとり、狐の尾を掲げて笑っていた。

 

 その足元で、この子が転がっていた。

 

 猿ぐつわを噛まされ、腰から下が赤く——尻尾の根元が、焼き切られていた。

 

 

 状況証拠でしかない。

 

 

 だが、その断片は勝手に脳内で結びついていき、少女が何をされたのかを悟るより先に身体が動いた。

 

 そして、それより更に速く動くものがあった。

 

 白珠の矢が是印を追い越して、薩蘭の顎を掴んでいた兵士のこめかみを正確に射抜いた。残ったやつらには自分の拳と足で十分だった。叩き潰し、火の始末をさせて、少女の猿ぐつわを解いて、意識が落ちそうになるのを紛らわせるべく、名前を聞いたのだ。

 

 薩蘭。

 

 虫の息のなか絞り出した言葉がそれだった。

 

 どうにか気付け代わりの言葉をかけた後、すぐさま増援が湧いて、応星から剣を受け取って、あとは斬った。何体いたか覚えてない。

 

 

 ——それで、静かになり、今に至る。

 

 

 是印は薩蘭から目を離した。

 

 自分に今できることは何もない。傷が深すぎる。どうにか早く外に出して、医者に診せるしかない。

 

 

 いつの間にか隣にきていた白珠の目が赤い。唇を噛んで、それでも弓を下ろさず周囲を警戒している。景元もまた拳を握ったまま人質たちを見つめていた。

 

 応星は——呆然と、へたり込んだまま動かない。

 

 

 炉の方角から、低い唸りが転がってくる。脈動よりもっと深い、地鳴りに似た音。

 

 骸炉はまだ動いている。

 

 ここにいる人質は助けるとしても、炉が動いている限り、歩離人はまた人を攫うだろう。根元となる原因を止めない限り、ここに横たわる悪夢は終わらない。

 

「……クソッ」

 

 拳を壁に叩きつける。あまりにも認識が甘かった。

 

 

 

 

 誰も口を開かないなかで、動いたのは景元だった。

 

 人質たちの群れを一望してから、彼らの間を縫うように移動していく。

 

 しゃがみ込んで海の民の顔色を見て、狐族の大人に何か短く声をかけて、子供の数を指で折っている。ひとりひとり確認する動きに迷いがない。

 

 次に通路の入り口へ戻り、来た道の方角を確かめてから、今度は炉の唸りが聞こえる反対側を覗き込んだ。

 

 もどってきた景元の表情は、さっきまで拳を握りしめていた少年のそれとは別物となっていた。

 

 

「——兄貴、提案がある」

 

 

 声に感情がない。

 

 あえてそうしているのかまでは是印にはわからなかった。

 

 

「動ける人質が十一。自力で立てないのが七、そのうち三人はかなり危ない。あの子——さっきの狐族の娘も含めて、早く星槎に運ばないと保たない」

 

 淀みがなかった。

 

 確認に使った時間はたぶん一分もない。その間に景元の頭は人の数を数え、状態を仕分け、優先順位を出し終わっていた。

 

 だが、そこで景元はわずかに声を落とし、耳打ちしてくる。

 

「……それと、あの娘の傷なんだけど」

 

 是印の眉が動く。

 

「赤く焼かれた断面のはずなのに——跡が小さくなっている。あれじゃ、まるで、治りかけみたいだ」

 

 景元自身、自分の言っていることが信じられないという顔をしていた。

 

「歩離人は傷が勝手に塞がる。さっきの通路で兄貴が斬った奴らだって、死に際まで傷口が動いていた。——だけど、あの娘は狐族だろ? 歩離人にしか起きないことが、なんで起きてる……?」

 

 半ば自問自答を投げかけてから、一度口を閉じて、

 

「歩離人が何か処置したとも考えたけど、わざわざ尻尾を落としておいて傷を塞ぐ理由がないんだ。……どういうことだろう」

 

 A.R.Pという文字が脳裏にちらつくものの、まさかそんなことがあるはずもないと可能性を切り捨てる。

 

 となれば、是印には答えようがなかった。

 

 赤熱した刃で焼き切ったなら、焼灼(しょうしゃく)の跡はそのまま残る。縮むなんてことはない。だが景元の目が見間違えるとも思えない。

 

 わからない。ただ——、

 

「……早く診せたほうがいいのは変わんねぇな」

 

 頷き、景元もそれ以上は追わなかった。

 

「星槎の寝台は全員分ある。来た通路を戻れば星槎まではそう遠くないし——特に状態の悪い三人は待てない」

 

 決然と、

 

 

「おれと白珠さんで搬出をやる。兄貴と応星は炉へ行ってくれ」

 

 

 二手に分かれる。そう言い切った。

 

 是印は一瞬、景元の顔を見た。

 

 命令ではない。かといって、お伺いでもない。こうするのが一番いい、とだけ言っている。是印は、

 

「……動けねぇ人質はどうする」

 

「動ける者に肩を貸してもらう。配分はもう決めた。二人がかりで運べば七人でも足りるよ。白珠さんに星槎の準備を先行してもらって、おれが後ろから全員を連れていく」

 

 もう割り振りまで終わっている。

 

 それだけ算段がついているというのなら、

 

「——わかった。頼む」

 

 

 否定することなんてない。全幅の信頼を寄せて任せるに足る。

 

 景元はすぐに白珠のほうへ向き直った。だが白珠は動かなかった。弓を下ろさないまま、是印と応星を、それから景元を見て

 

 

「……いいんですか?」

 

 問うた。

 

「是印さんと応星だけで行くんですよ。この奥、嫌な気に満ちています。そんな何があるかわからない場所に、二人だけで」

 

 一度、人質たちの方へ目を向けてから、

 

「搬出は私ひとりでやります。動ける方々に手伝ってもらえれば回せます。——景元、あなたは是印さんたちと一緒に炉へ行って」

「白珠さん」

 

 景元が首を振った。

 

「あの通路を、動ける人質に肩を貸してもらうだけで運べるか? 白珠さんは星槎の準備もある。搬出の指揮と操縦を同時にひとりでやったら、どこかで必ず手が足りなくなるよ」

「……っ」

「それに——俺が炉に行ったところで、兄貴と応星の足を引っ張る。あの二人がやるべきことに、俺の剣じゃ……足りないんだ」

 

 白珠の唇が引き結ばれた。反論の言葉が出かかって、閉じた。

 

 景元の言っていることが正しいし、悔しさ交じりの本気がわかってしまったから。

 

「……っ、わかりました」

 

 一拍置いて、白珠は弓を背に回す。

 

「——でしたら、確認です」

 

 切り替えは早かった。

 

「帰りの水路は、丹楓がもう一度開けてくれる手筈になってます。退き際のことは、最初から段取りに入ってますから、そこは心配いりません」

 

 そう言いながらも、白珠の声には、わずかな硬さが残っていた。

 

「ただ……いつ開くかは、海の上の戦況次第です。丹楓が手一杯だったら、水路に力を回す余裕がなくなるかもしれない。そうなればあたしにできるのは、合図を送って、水路の真下で待つことしか……」

 

「大丈夫だ」

 

 是印が、あっさり言った。

 

「あいつなら、あー……きっとなんとかしてくれる」

「なんとかって?」

「どうにかだよ。そういうもんだろ、仲間を信じるってよ」

 

 根拠は、まるでなかった。

 

 白珠が、ぱちくりと瞬きをする。それから、困ったように笑った。

 

「……是印さんと話してると、なんかそんな気がしてくるから不思議です」

「だろ、惚れんなよ?」

「もぉっ、ぜんぜん理屈になってないのに。っていうかそれは手遅れですっ!」

 

 一瞬だけふくれっ面になり、それでも、白珠の肩から、少しだけ力が抜けていた。

 

「……人質を降ろしたら、すぐ取って返しますから」

「……どんくらいで戻れる」

「早ければ、」

 

 白珠が指を折った。

 

「……半刻。遅くても、一刻はかけません」

 

 是印は鼻で笑って、

 

「はっ、んなら、こっちが急がねぇとじゃねーかよ」

 

 ボリボリと頭を掻く。

 

「わーった、人質たちを頼む」

「はい、是印さんもっ」

 

 そして景元と一緒にそのまま人質たちの方へ歩いていく。動ける者を見定めて声をかけ始めた。

 

 

「——応星」

 

 二人を視界からはずし、是印はまだ固まっている応星の名を呼んだ。

 

「お前、大丈夫か?」

 

 応星の肩が跳ねた。それから、自分が茫然自失であったことに、今さら気づいたように顔を歪める。

 

「……すみません。すみません……兄さん。僕が……呼び止めなければ、ひょっとしたら……」

「……お前だけのせいじゃねーよ」

 

 応星の視線の先をたどれば——薩蘭がいた。

 

「あるとすりゃ俺も同罪だ。だから……、一緒に挽回すんぞ」

 

 応星の目がわずかに見開かれた。

 

「あの子の尻尾は戻せねぇ。でも、あの炉が動いてる限り次の誰かが同じ目に遭うんだろ。——それを止められんのは、応星。俺とお前でやるしかねぇ」

 

 応星は袖で目元を乱暴に拭った。是印へ正面から向き直る。

 

「炉がどうとか俺じゃわかんねーんだよ。手伝ってくれ、応星」

「——はいッ!」

 

 背を向けて炉の方角へ是印が足を踏み出しかけたとき、背後から白珠の声が飛んできた。

 

「是印さんっ! 薩蘭ちゃんが何か伝えたいことがあるって言ってます!」

 

 即座に反転する。白珠が薩蘭のそばにしゃがみ込んでいた。搬出の準備で人質たちを確認して回るうちに、薩蘭の唇が動いているのに気づいたらしい。

 

 駆け戻ると、薩蘭の目が、わずかに是印のほうを向いていた。唇をわななかせながら、

 

「……おく、に……バケモノ、が……いる……」

 

 是印の表情が変わる。

 

「……とも、だち……が炉に……つれて、いかれて……」

 

 声はほとんど息だった。だが聞き取れた。

 

「おね、……おね、がい……たす、けて……」

 

「——その友達の名前は」

 

「……ぎょうり。凝、梨……」

 

 是印はうなずいた。

 

「わーった。——見つけたら必ず連れて帰る。待ってろ」

 

 約束を果たせる保証はどこにもなかった。炉に連れていかれた者が無事かどうかなんて、是印にもわからない。でも、この子が最後の力で絞り出したのがその名前だったのなら、根拠などいるのだろうかと思う。

 

 白珠が薩蘭の手を握った。小さく、「大丈夫ですからね」と囁いている。

 

 是印は薩蘭の頭を撫で、立ち上がった。

 

 応星が、もう通路の入り口に立って待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人質区画を背にして、炉の唸りが聞こえる方角へ通路を走る。

 

 さっきまでの通路は岱輿(たいよ)の骨がむき出しで、肉管は壁に沿って這っているだけだった。奥に進むほど、それが逆転する。骨は肉管の下に埋もれ、壁そのものが赤黒い管で覆われていく。足元もぬめっていた。

 

 壁全体が、脈打っていた。

 

 人質区画では遠くから聞こえていた鼓動が、肉管を通して壁そのものを膨らませ、縮ませ、足元の振動となり、靴底を伝って膝まで登ってくる。

 

 

「……兄さん」

 

 

 隣の応星が声を上げる。

 

 

「肉管たちが徐々に集まってきてます……おそらく、炉はすぐそこです」

 

 是印は首肯し、

 

「だろうな。——においも濃くなってきやがった」

 

 

 歩を進めれば進めるほどに、血と鉄と、あの甘い腐臭が、煮詰めたように濃度を増していく。

 

 

「あ、ちょい待ち」

 

 応星に声をかけると、是印は懐から巾着を取り出し、紐を緩め中を確かめながら、

 

「うわちゃー……あの運転だもんな、崩れてら……まぁいいや」

 

 投げやりに言うと、紐を結びなおし、応星にぽんと放る。

 

「持ってろ」

 

「はい……? これ、何ですか?」

 

「後で必要になるかもしんねーからさ。お前に預けとく」

 

 受け取った応星も、巾着の重さを手の中で確かめるように持ち替える。

 

「少しならお前も食っていいぞ」

 

 応星が中身を問うより早く、どうやら食べ物らしきものであることを是印がバラしてしまった。

 

 具体的に何であるのか応星は聞きたそうな顔をしていたが、是印がスピードを上げたので、慌てて巾着を懐にしまって後を追う。

 

 通路が狭まる。

 

 肉管の密度がさらに増して、二人並んでは歩けなくなった。是印が先、応星が後ろ。剣の柄に手をかけたまま、是印は足を進める。

 

 

 唸りが大きくなる。

 

 どんどん、

 

 

 どんどん。

 

 

 

 

 

 その先に——光があった。

 

 

 赤い。肉管の隙間から漏れる、燐光とは違う、鈍い赤。

 

 

 さながら巨大な生物の臓腑(ぞうふ)の芯にたどりついた。そんな印象を抱いたとき、

 

 

 通路を抜けた。

 

 

 眼前に広がったのは、部屋でも洞窟でもなかった。

 

 

 

 白い骨だった。

 

 

 

 岱輿の骨格。壁も天井も床も、白い金属の骨組みが空洞を支えている。かつて動力を収めていたのだろう区画の名残が、巨大な肋骨のように弧を描いて頭上を渡っている。

 

 

 ——ここまでは、わかる。岱輿(たいよ)の残骸だ。

 

 

 わからないのは、その上を覆っているものだった。

 

 

 黒赤い肉管が、白い骨格に根のように這っている。巻きつき、食い込み、骨と骨の継ぎ目に入り込んで、内側から岱輿を喰っていた。管の表面がぬらぬらと蠕動(ぜんどう)し、中を何かが流れている。天井に近い管は太く、人の胴ほどもあった。

 

 足元の格子の隙間から、暗い空洞が覗いていた。底は見えない。肉管が何本も垂れ下がって闇に消えている。格子そのものが脈動に合わせてかすかに軋んでいた。

 

 

 甘い腐臭が一番濃い。通路で嗅いだものの何倍も。

 

 

 是印は、無意識に口を手の甲で拭った。

 

 

 空洞の中心——肉管が一番太く集まっている場所に、何かがある。白い炉心の殻。そこに獣艦の心臓らしき赤黒い塊が縫い合わされ、肉管がすべてそこから放射状に広がっていた。管の根元。この空間の心臓。

 

 

 

 骸炉(がいろ)だ。

 

 

 

 その周囲で——人が動いていた。

 

 十人近い。

 

 海の民や狐族が、歩離人の兵士に追い立てられて働いている。岱輿の骨格から剥がした金属片を運ぶ者、肉管の根元を素手で掘り広げている者、管から漏れた赤黒い液を桶で受けている者。誰もが無言のまま、労働を強いられていた。

 

 足取りはふらつき、腕は枯れ枝のように細い。だが止まれば殴られる。兵士がひとり、座り込んだ老人の背を蹴って立たせたのが見えた。

 

 人質たちに妙な隙間があったのは、こういうことかと得心がいく。

 

 ただでさえ劣悪な環境だったというのに、連れ出されてボロ雑巾のように扱われている。そしてこれ以上は使えないと判断されたら最後、炉に送られ処分される。

 

 ギリと是印の噛みしめた歯が鳴る。

 

 薩蘭の言っていた凝梨とかいう友達もはたして、あの中に、いるのか。

 

 最悪の事態にだけは至っていないことを祈る他なかった。

 

「兄さん」

「……ああ」

 

 後ろで応星が発する声に頷く。

 

「あれ、が……」

 

 

 炉の手前には——数人の人影がある。

 

 

 三人。いや、四人。床の格子の上に横たえられている。手足を縛られ、動かない。だが胸がかすかに上下している者がいた。まだ息がある。

 

 その脇に歩離人の兵士が二人、人質のひとりの足首を掴んで引きずっていた。炉の芯に向かって。管の根元がぱっくりと口を開けた穴——そこに、頭から押し込もうとしている。

 

 

 そして、その全部の中心に——そいつがいた。

 

 

 大きい。歩離人の兵士よりふた回りは大きい体躯が、岩だか骨だかの塊に腰を下ろしている。

 

 片手に何かを持っていた。

 

 白い。長い。人の——骨だった。

 

 長さ太さといい大腿骨だろうか。咬骸はそれを口元に運び、軽く噛んだ。がり、と歯が骨の表面を削る音が空洞に響く。

 

 噛み砕くのではない。味を確かめるように、表面を齧っている。まるで農夫が土を舐めて畑の出来を見るように。

 

 

 そしてまた齧る。

 

 

 がり、がり。

 

 

 ——目の前で人質が炉に押し込まれようとしているのに、そいつは骨を齧っている。止めもしなければ指示もしない。なんの感情の揺らぎなどないとばかりにただ眺めているだけだ。

 

 

 間違うことなどあり得ない。

 

 

「あれが——親玉か」

 

 

 是印は剣の柄に手をかけた。一歩、踏み出す。

 

 

 足元の格子が鳴った。金属と金属のかすかな擦過音。

 

 

 静かな空間にそれだけが響いて——

 

 

 そいつが、頭を上げた。

 

 骨を齧る動きが止まった。

 

 

 ゆったりと、急ぐ気配もなければ、驚いた様子もない。寝ていた獣が物音で片耳だけ動かすような、その程度の反応。

 

 

 顔が見えた。面相こそ体毛の濃い歩離人だが、異様だった。

 

 

 筋骨の上に古い傷が幾重にも重なり、頬から顎にかけての肉が盛り上がって歪んでいる。それは過去に口でも裂かれたことがあるように見えた。

 

 

 だが、是印の足を止めたのはその顔のせいではない。

 

 

 歩離人の兵士は闖入者である是印を見た。殺意か恐怖かはともかく、「敵が来た」という反応があった。

 

 このデカブツには、それがない。是印のほうを向いている。顔はこちらに向いている。

 

 だが、そこに「人が来た」という認識がなかった。

 

 

 じゃあ——何を見ている?

 

 

 わからない。だが、全身の皮膚がざわついていた。

 

 

「——上が騒がしいと思うとったが」

 

 

 そいつが、齧りかけの骨を無造作に放った。格子の隙間を抜けて、暗がりに落ちていく。音は返ってこなかった。

 

 

「虫が2匹、畑に迷い込んだか」

 

 

 まるで独り言だった。

 

 

呼雷(ふーれい)が上で遊んでおるうちに、裏口から入ってきたわけだ。——あいつも戦が好きだからな、細いところに気が回らんらしい」

 

 のっそりと是印たちのほうへ体を向けて、

 

()せとるな。たとえ虫にしても、もう少し肥えた方が腹に溜まるんだが」

 

 

 大きな鼻がひくりと動いた。何かを嗅いでいる。

 

 

「——ふん。どこの土の匂いもせん」

 

 興味とも戸惑いともつかない。

 

「おまえ、何処の虫だ。歩離でもなし、仙舟でもなし。かといって海でもなかろう。——喰ったことのないにおいがする」

 

 

 今度は独り言ではない。

 

 是印に向けた言葉だった。

 

 だが問いかけでもないのだろう。最初から答えを求めていない。

 

 農夫が見慣れない虫を指先で摘まんで、首を傾げるような。

 

 その程度の関心。

 

 

「もっとも、どこの虫であろうと——」

 

 

 齧った骨を放ったときと同じ気軽さで、

 

「畑に入ったものは、駆除せにゃならん」

「その顔だ。――咬骸(ヤオハイ)

 

 

 デカブツの名を口にしたのは、是印ではなく、

 

 応星だった。

 

 

 能面のように顔は色を失い、逆に血走った目はついにまみえた怨敵を捉えて放さなかった。

 

 

「忘れたことなんか、一日もなかった……寝床の上で、お前のその顔を恨まなかった夜は、七年間、一度たりとてなかった……ッ」

 

 声が震えていた。怒りと、それを上回る何かで。

 

 咬骸が、応星のほうへ顔を向ける。

 

 気だるげに、ゆっくりと。

 

「ほ——ぉ?」

 

 それだけだった。

 

 己の顔が誰かの七年を埋め尽くしていたと聞かされてなお、その目には何の(さざなみ)も立たない。むしろ——

 

 

「おまえ、おれを知っとるのか。はて?」

 

 突然知らない人間に私あなたと逢ったことがありますと言われた戸惑いだった。

 

 応星の奥歯が軋んだ。

 

 

「——曦明(きめい)という星を……覚えているか」

 

 こめかみに浮かぶ青筋が破れそうだった。

 

 咬骸が、応星のほうへ顔を向け、

 

 

曦明(きめい)ィ?」

 

 

 その単語を、舌の上で転がすように繰り返し、

 

 

「……さあて。畑の名までは、いちいち覚えとらんが」

 

 

 応星の喉が鳴った。

 

 

「七年前だ。お前たちの艦隊が来た。工房を焼いて、人を器獣の養分にした。村ごと。——父も、母も、隣のおばさんも。みんな、お前たちが肉塊に」

 

 

 声が震えている。怒りと、それを上回る何かで。

 

 

「僕だけが、突き飛ばされて逃げた。だから——生きてる」

 

 

 咬骸(ヤオハイ)は、しばらく応星のほうを向いていた。

 

 何度となく首を傾げ、応星の言葉を収穫の記録と照らし合わせている、そんな間があって、

 

 

「ああ——あの星か」

 

 

 思い当たったらしい。穏やかに、うなずいた。

 

 

「よく肥えた畑であった。仙舟の骨ほど上等ではないが、民がよく肥えていてな。飢えを知らん土地の者は、肉づきがいい。——あれは、出来の良い畑だった

 

 

 応星の握りしめた拳が力なく、ほどける。

 

 

「……出来の、良い?」

 

「おう。そして穫れたものは、もう既に我が血、肉、骨の糧となり、腹の中になぞない。——どの実りがどの畑から穫れたかなど知らん」

 

 何か言わなきゃ。

 

 言い返さないと。お前が奪ったのは作物じゃない、人だ、父で、母で、隣のおばさんで、自分を突き飛ばして逃がしてくれた手で——そう叫ぼうとした。

 

 なのに、声が出なかった。

 

 七年だ。

 

 七年かけて、この顔を恨んできた。いつか追いつめて、問いただして、思い知らせてやるのだと、それだけを支えに生きてきた。

 

 短命種と笑われても、化外の民と見下されても、構わなかった。この日のために剣を打ち、腕を磨いてきた。

 

 その全部を歯牙にもかけず、踏みにじった。

 

 覚えていない。

 

 恨んでいた相手は、恨まれていたことすら知らない。応星が七年間ささげてきた憎しみは、咬骸の中で一秒たりとて存在しなかった。

 

 喉の奥が、焼けるように熱くなった。

 

 目の縁が、ぐにゃりと歪む。

 

 視界がにじんで、咬骸(ヤオハイ)の輪郭が溶けた。怒りなのか、悔しさなのか、悲しみなのか、もう自分でも区別がつかない。

 

 

 

 全部だった。全部が、一度に溢れた。

 

 

 

 熱いものが目尻からこぼれて止まらない。

 

 

 歯を食いしばっているのに、止まらない。剣を握る手も、肩も、震えている。頬を伝ったものが顎の先から落ちて、格子の上で小さく弾けた。

 

 

 声にならない嗚咽(おえつ)が、喉の奥から漏れる。

 

 

 それでも応星はにじむ視界の中で、咬骸だけを睨み続けていた。

 

 咬骸(ヤオハイ)は、そんな応星に興味を失ったように、

 

「フン……くだらんことに頭を使ったせいで小腹が空いたな――」

「ッ! ――くだらないだと、」

 

 

 応星は叫ぶしかない。こいつは、こいつだけは、

 

 

「絶対に許さない……ッ!!」

 

「もうよいもうよい、ほんにうるさい虫だ」

 

 

 

 そこに拍手が響く。

 

 

 場違いなほど、響く。

 

 

 

「よく言った応星。――おい、てめコラ」

 

 

 

 

 進み出る背中がある。

 

 

 

 

 

「――うちのかわいい弟、何泣かしてくれてんだ」

 

 

 

 

 

 ハッとぐしゃぐしゃの顔のまま応星が顔を上げる。

 

 

 

「おん? まだ別の虫がわくか」

「そうだよ? こんな生ぐせーとこに虫がわかねぇとでも思ってんの?」

 

 

 応星の鍛えた細身の剣を肩に載せ、僧帽筋をほぐすように鞘を跳ねさせる。

 

 

「このかぐわしさの価値がわからぬとは。虫が」

 

「誰も言ってくれねーだろうから言ってやるよ、嗅覚(ハナ)がバカになってんぞ、デカワンコ」

 

 言いながら、是印の目は咬骸(ヤオハイ)を見ていない。

 

 その手前。

 

 強制労働の人質を見張っていた歩離人の兵士。ひとりが、騒ぎに気づいて炉のレバーに手を伸ばしかけている。人質を、まとめて落とすつもりだ。

 

 間に合わないだろう。距離があるだろう。走っても、レバーのほうが早いだろう。

 

 

 ——だったら。

 

 

 是印は剣を引いた。腰を落とす。あの日、演武場で見た構えを再現してみせる。

 

 

 鏡流の、横一閃。刃を潰した剣で奇岩を断ち斬った、

 

 

 ——あの一振りを

 

 

 

「——せぇッ、のッ!」

 

 

 薙いだ。

 

 空気が、裂けた。

 

 刃の軌道から、目に見えない圧の塊が飛ぶ。鏡流のそれが流水のように滑らかな線だったとすれば、是印のは——荒れた(つぶて)だった。

 

 まっすぐ飛ばず、空気を巻き込んで唸りながら、それでも兵士たちめがけて殺到する。

 

 範囲が、むちゃくちゃだった。狙ったのはレバーの兵士ひとり。

 

 なのに圧の塊は横に広がって、近くにいた兵士を巻き込みながら扇状に薙ぎ払う。

 

 レバーに伸びていた腕が、肩ごと消し飛んだ。

 

 その勢いのまま、並んでいた二人目、三人目が薙ぎ倒される。一番端にいた四人目が逃げかけたが、広がった斬撃の余波が背を捉えて、格子の上に叩きつけた。

 

 

 

 それで、静かになった。

 

 

 

 是印は、軽く肩を回した。剣を握る手が、まだ痺れている。

 

 この一振り、見た目以上に体に来る。

 

 腕の筋から背中まで、ぴりぴりと痛んだ。

 

 

 

「かーっ」

 

 

 

 息を吐く。

 

 

 

「やっぱコソ練だけじゃ、先生みたいに、まだスパッといけねーな」

 

 

 荒い。雑だ。

 

 鏡流が見たら罵詈雑言の嵐だろう。

 

 あの師匠の絶技、岩に一本の線が走るような美しさには、まるで届いていない。おまけに撃てば体が悲鳴を上げる。連発もできやしない。

 

 それでも——四人、消し飛んだ。

 

 是印は、咬骸に向き直った。

 

 剣の切っ先を、まっすぐ突きつける。

 

 

 

「で、これでも――まだ虫か?」

 

 

 咬骸の、気だるかった目が。

 

 わずかに、見開かれていた。

 

 

「……ほう」

 

 

 咬骸が、ゆっくりと体を起こした。さっきまでの、座っているような立ち方とは違う。背筋が伸び、肩が開く。山が、本当の高さを見せるように。

 

 

「面白い」

 

 

 それは、咬骸が初めて見せた、感情らしきものだった。

 

 

「虫だと思うたが——どうやら、噛みごたえはありそうだ」

 

 

 是印は、応星のほうへ短く声を飛ばした。視線は咬骸から外さない。

 

 

「——おれは咬骸(ヤオハイ)。問おう。お前の名をな」

 

()ィ……」

 

 

 と、口にしかけて、応星の方へ顎をしゃくり、

 

 

「てめーに名乗る名はねぇと言いてぇところだが、今の俺はこいつの一振りの(やいば)みてーなもんだ。だから、まっ、

 

 

 

 ——(ジン)。せいぜい呼びたきゃ、勝手にそう呼べ」

 

 

 そして、

 

 

「応星! こっちは任せろ。人質の鎖、外してやれ! ——鍵がなけりゃ叩き斬れ!」

 

「——ッ、はい!!」

 

 弾かれたように、応星が人質たちのほうへ走っていく。

 

 

 

「自らを刃と称するか、(おご)る阿呆もここまでくると腹にくるわ」

 

 

 応星の背を確かめてから、是印は、

 

 

「好きに腹にきとけデブ、

 

 俺はな、人質たちをなぶり、そして何より、

 

 ——あいつの誇りを笑いやがった、てめーに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっくに、頭にきてんだよッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉と共に床を蹴る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















い  つ  も  の




執筆時BGM:
『Mighty Long Fall』ONE OK ROCK
『ジレンマ』ecosystem
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