ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#67 "届け"

 

 

 

 

 

 長引かせる気はない。

 

 白珠が戻ってくる前にとっととケリをつけて、こんなくっさいくっさい海の底からはオサラバすると決めた。

 

 

 

 

 

 一気に距離を詰めた是印は、咬骸(ヤオハイ)の——脇腹へ、一撃。

 

 剣先が分厚い筋肉を裂く。深くまで食い込んだような手応えこそなかったが、確かに斬った。

 

 

 はずだった。

 

 

 裂けた肉の縁が、盛り上がる。

 

 傷口の奥から新しい肉が押し出されてきて、古い肉へ食らいつくように寄り、ふさがった。数瞬前まで剣の通った場所に、今は何事もなかったような澄ました肌がある。

 

 塞がるのはわかる。

 

 歩離人は豊穣に浸された獣人だ。これまで切り捨ててきた通路のやつらだって、一撃で生命を刈り取ってなければ、その後に回復してむくりと起き上がっていただろう。

 

 

 だが、これは、この速度は——格が違うだろう。

 

 ひょっとしなくてもA.R.Pと同レベルじゃねーかと是印は思う。

 

 斬られた脇腹を一瞥もせずに咬骸(ヤオハイ)は、

 

 

「傷にもならんわ、何をいちいち驚いとる」

 

 

 ふーっと息を吐くと是印は、

 

 

「痛くないもんアピールしてる歳か。アイタタタ」

 

 

 剣を握ったまま、咬骸へ中指を立てる。

 

 このジェスチャーが、はたして向こうに伝わるのかわからなかったが、咬骸の口元に力が込められたのがわかった。

 

 侮辱の意が込められていることは、どうやら非常に上手く伝わったらしい。

 

「よくよく回る口よ。舌の根を引っこ抜かねばな」

 

「それはそのうち閻魔様(えんまさま)にやってもらっからよ。てめーの出る幕じゃねんだよ」

 

 

 是印は剣を握り直し、

 

 

 ——足を止めるな。一閃で断て。

 

 

 鏡流先生の声が、耳の奥で鳴っている。

 

 咬骸の懐へ飛び込む。

 

 まず喉、肩口、回り込んで背。一撃ごとに位置を変え、的を散らす。先生の言うとおり、ひとつひとつを断つつもりで振った。

 

 さっきより速く、さっきより深く。傷が塞がるより先に、次を入れる。

 

 斬る。

 

 斬った。

 

 斬れている。

 

 剣は、ちゃんと斬れているのだ。

 

 

「——!?」

 

 

 なのに、追いつかない。

 

 喉の傷がふさがり、肩の傷が閉じ、背の傷が治る。

 

 是印がひとつ刻むそばから、すぐさま肉が縫い合わさっていく。斬った数だけ、元へ戻されていく。

 

 底の抜けた桶に水を汲んでいるように、返ってくるのは、ただ手応えのなさだけだった。

 

 

 ——そうです、か。

 

 

 A.R.Pと同レベルってんなら、そりゃそうだと思う。切った端から無かったことにされるというのなら、百回刻もうが千回刻もうが、ゼロはゼロだ。

 

 

 ——と。

 それまで突っ立っていた咬骸の腕が、無造作に動

 

 

 是印はとっさに身を沈めた。頭上すれすれを、丸太みたいな腕が唸って通り過ぎる。掠めた風圧に、髪がぶわりと煽られた。

 

 振り抜かれた腕の先が背後の肉管を叩いて、ぶちり、と壁ごと(えぐ)れ抜かれる。

 

 間断ない。

 

 

 沈んだ是印の顔に影が落ちる。

 

 真上。

 

 咬骸の足が、もう上がっていた。

 

 落ちてくる足の裏から、是印は横へ転がって逃げる。

 

 直後、たった今まで自分のいた床が、陥没(かんぼつ)した。肉の地面が足形にめり込み、下を這っていた管が潰れて、ブシュッと生臭い体液を噴き上げる。

 

 ——こんなもの、まともに食らえばプレスマシンに潰されるのと同じだ。親指くわえて息を吹けば元通りってわけにはいかない。

 

 

「口だけでなく、逃げ足も達者かァ」

 

 咬骸は、追ってこなかった。踏み損ねた足を戻すと、獰猛(どうもう)に笑いながら首を鳴らす。

 

 是印の口から舌打ちが漏れる。

 

 手数じゃ、削りきれない。

 

 このまま殴り合いを続けたところで、先に燃料が切れるのは——たぶん、こっちだ。

 

 

 ギリと奥歯を噛む是印の視界の端で、応星が動いた。

 

 

 人質たちのほうへ回り込んで、鎖に取りついている。

 

 輪と輪をつなぐ細い芯——そこへ携えた工具の先をあてがって、ひとつ、外す。かちゃん、と軽い音を立てて、太い鎖が手品のように手首から落ちた。

 

 その手際は叩き斬るよりも、ずっとずっと速い。縄で縛られた者には、懐から抜いた小刀。ひとり、またひとり、応星の手が自由にしていき——

 

 その手が、一瞬だけ止まった。

 

 瞳は咬骸を捉えている。だが、塞がっていく傷——というよりはむしろ、その塞がり方に焦点が合っているようだった。

 

 

 いけない、集中しろとばかりに己の頬をはたくと、応星はすぐに残りの鎖へ手を戻す。

 

 

 ——あっちは応星がなんとかする。問題は、俺の方か。

 

 

 胸のうちでごちて、是印は正面へ意識を戻した。

 

 

 手数がダメなのは、もう身に沁みた。だったら、残る道はひとつだ。

 

 

 一発で、断つ。

 

 

 塞がる隙も与えないくらい、深く、一息に。治癒しきらないダメージを、たった一度でブチ込む。

 

 それが可能な手札とくれば、ノヴァイレイザーの出番だが、是印は即座に却下をくだす。

 

 

 理由は二つだった。

 

 

 ひとつはどこぞのシロッカの地下聖堂と同じく、こんなとこで本来の威力でぶっ放そうものなら海の藻屑(もくず)エンド直行であること。

 

 

 そして二つ目は——それでは意味がない、ということだ。

 

 

 だとすれば、できることは更に絞られる。

 

 

 ——斬撃飛ばし。

 

 

 

 咬骸(ヤオハイ)のデカく分厚い体をぶった切るためには——今の手札じゃ、アレしかない。

 

 

 問題があるとすれば、

 

 

「……クッソ、もっとコソ練だけじゃなく遅練(おそれん)早練(はやれん)もしとくんだった」

 

 

 正直、全然モノにできていないことだった。

 

 

 ついさっき放った一発は、狙ったところへ飛ばなかった。それでもどうにか数人まとめて薙いでカッコはつけたものの、正直まぐれで上手くいったとしか言えない。

 

 練習時の成功率はせいぜい2割がいいとこで、それをさっきたまたま上手く引き寄せたのだとすれば、次はどうなるかわからない。

 

 現状は鏡流先生のように華麗にはいかず、大振りも大振り。振ったら振ったで、腕から背中が(しび)れる始末。

 

 次にもし失敗したら、その隙を見逃してくれるほど目の前のヤツはヌルかねぇと是印は思う。

 

 うなじのあたりでさっきから嫌になるほどチリついている殺気がその証左だった。だが、

 

 

 それでも、だ。

 

 

 手数で削れないなら、一発の博打に乗るしかない。ここで出し惜しんで、応星が間に合わなくなるくらいなら——

 

 

 是印は、腹の底へ意識を落とした。集中。

 

 

 力の在処(ありか)をさぐる。

 

 

 もう一度、腰を落とし、剣を低く引き、切っ先を床すれすれまで沈める。

 

 

 深呼吸。

 

 

 はたして()()が、気なのか、マナなのか、エーテルなのか、チャクラなのか、オーラなのか、霊力なのか、魔力、闘気、覇気、フォース、プラーナ、念、アストラル、プネウマ、アニマなのかはわからない。

 

 

 それでも、力はそこにある。

 

 

 鏡流先生の絶技を見たとき、それを知覚した。本来ずっと前からそこにあったものを、認識できなかったものを、さも当たり前のようにこなす様を見せられて、自分の世界がひっくり返るような、そんな感覚で、

 

 それを、切っ先の一点へまとめあげるイメージ——、一発で成功させる。本番には強いだろ、そうだろ——是印。

 

 

 

 

 解き放つ。

 

 

 

 

 低く沈めた切っ先が、床を舐めて跳ね上がった。振り抜きの軌道に沿って、剣が斬った"線"だけが、刃を離れて前へ飛ぶ。空気の裂ける、鈍い音。

 

 

 ——うしっ、とりあえず出た!!

 

 

 はたしてちゃんと放てるかが最初の問題、次の問題は、

 

 

 当たるかどうか、だ。

 

 

 固唾を呑む間もなく、

 

 

 咬骸は、動かなかった。

 

 

 

 避けもしない。身をよじりもせず——突っ立ったまま、まともに食らった。

 

 

 

 

 斬撃が、その分厚い体に食い込む。

 

 

 

 

 例のごとく狙いは荒れて、胴の真ん中は()れた。だが逸れたものの、咬骸の巨躯の内だ。左肩から胸にかけてを、これまで剣の間合いで入れたどの一撃より深く、肉を裂き、骨まで穿(うが)って断つ。

 

 

 血が——今度は、噴いた。

 

 

 塞がらない。傷口の縁で肉が(うごめ)いて、また食らいつこうとしている。だが、追いついていない。抉られた量が、多すぎる。縫い合わせるより先に、傷が傷のまま、そこにあった。

 

 

 風穴が、開いた。

 

 

 よっしゃ、と思うより早く、腕に反動が来た。

 

 肩から背中にかけて、()けた芯を通されたような痺れが走る。剣を取り落とさなかったのは、意地だけだった。是印は奥歯を食いしばって、痺れる腕を引き戻す。

 

 

 ——効いた。効いたぞ、これなら。

 

 

 だが、その手応えに浸る間もまた、なかった。

 

 

 咬骸(ヤオハイ)が、初めて、斬られた自分の傷を見下ろしていた。噴き出す血へ、ゆっくりと指を這わせ、その指を口へ運ぶ。舌の上で、確かめるように。

 

 

「ほ——ぉ」

 

 

 喉の奥で、低く。

 

 

妙味(みょうみ)……これがお前の(やいば)か、クハハ」

 

 

 咬骸の口元が、裂けるように吊り上がる。

 

 うなじでチリついていた殺気が獲物を値踏みする気配から、獲物に牙を立てる気配へ変わるのを是印は悟った。全身の総毛が逆立ち、

 

 

 それを契機に、

 

 

 咬骸の輪郭が、内側から盛り上がりはじめる。

 

 皮の下で筋肉が、骨が、体そのものが、みしり、と別のものへ組み変わろうとしている。

 

 

 人質のほうから、声が飛んだ。

 

 

「構えて、兄さんッ!!!」

 

 

 応星が血の気の引いた顔で叫んでいる。

 

 

「あれは——月狂(つきぐる)いですッ!!!」

 

 

 月狂い——?

 

 

 聞き覚えのない言葉だった。だが、訊き返す暇は、どこにもなかった。

 

 

 ミシッ。

 

 バキッ、グチュッ、と。

 

 

 咬骸の体の内側から、何かの折れる音がした。折れて——すぐに、繋がる音がした。

 

 悔しいことに、似たような経験があるばかりに是印はわかってしまう。

 

 だが、知ってるのはそこまでで、そこから先は知らなかった。

 

 骨が折れて、折れた端から、より太いものに継ぎ直されていく。

 

 皮の下では筋肉が幾重にも膨れ上がり、張り詰めて裂けた皮膚の上へ、新しい皮膚がかぶさっていく。

 

 

 それはあたかも、壊れながら、組み上がっていた。

 

 

 治るとか、育つとか、そんな生易しいもんじゃない。自分の体を一度ぶっ壊して、その残骸を材料に、別の何かを建て直している。そうとしか思えない変わりようだった。

 

 せっかく開けた風穴も、呑まれた。左肩から胸にかけての傷の上へ、盛り上がった肉がかぶさり、埋まっていく。

 

 

 

 顔が、伸びる。

 

 

 

 口元が前へ迫り出し、顎が裂けるように開ききって、牙の並びが組み変わる。人の顔の面影が、鼻先から順に、獣のものへ塗り替えられていった。

 

 筋肉によって膨れ上がる背が、天井から垂れた肉管を掻き分ける。ひと回り——いや、ふた回りはデカい。いまや壁を超えて塔のように立ちはだかっていた。

 

 

 ——月で狂う、って。狼男かっつーの。まんまじゃねーか。

 

 

 軽口は、頭の中だけで言えたが声にする余裕は是印になかった。

 

 

「あ——ぁ。……久しく、忘れておったわ」

 

 

 変わり果てた口から、変わり果てた声が落ちてくる。

 

 

「腹の底が鳴るとは、こういうことよなァ」

 

 

 ——直後。

 

 組み上がったばかりの顎が、天井へ向いた。無限の闇が広がる口の奥で、何かが膨らんで、

 

 

 吼えた。

 

 

 音。もはや圧だった。空気そのものが殴りつけてくる。鼓膜より先に胸の底が震え、臓腑を飛び上がらせる。天井から垂れた肉管が一斉にのたうち、粘液の雨がばらばらと落ちた。真っ先に両耳を塞いで屈み込んだのは、応星のみで、他の人質たちは耳を塞いで、うずくまる。

 

 長い長い咆哮の尾が奈落の底を一周して消えるのを、是印は耳ではなく、床づたいの震えで知った。

 

 正面から浴びた是印の耳もまた、もう収まったはずの音の余韻がいつまでも滞留している。世界と自分のあいだに、膜が一枚挟まっている。

 

 

 吼え終えた口から、白っぽい呼気が、ゆらりと尾を引いていた。

 

 

「ッ……ダルそうにしてるかと思えば、これかよッ」

 

 吐いた自分の声すら、綿の向こうで鳴っているように遠かった。

 

 

 が、何もしないわけにはいかない。是印は痺れの残る腕で、剣を構え直そ——うとした時、

 

 

 

 得体の知れないかおりが、鼻腔をくすぐった。

 

 

 

 生臭さとも腐臭とも違う。鼻から入って、頭を素通りして、脊髄を直接掴んでくる。そんな、かおりだった。

 

 

 足が、止まる。

 

 

 根が生えたみたいに、動かなくなった。心臓が勝手に跳ね、手のひらが冷え、呼吸が浅くなる。逃げろ、と体中の細胞たちが(わめ)いている。剣を握る指の感覚が、ない。

 

 

「——は、」

 

 

 なん、だ、これと思う。

 

 

 ヤバい、負ける。死ぬ。終わり。詰んだ。もうダメだ。まずい。来んな。逃げろ。逃げたい。戻れない。間に合わない。助からない。消えたい。来ないで。吐きそう。怖い。怖い怖い怖い。

 

 

 脳内を埋めつくす言葉言葉言葉、

 

 

「て——」

 

 ——おいおい、待て。待て待て。

 

 

 なんだよこれ、と是印が思うのと同時に、足が震え、歯がカチカチ鳴る。

 

 

 これまでくぐってきたどの修羅場で味わった感情とも違う。

 

 

 本能を揺さぶる恐怖が、外から流し込まれてくる。

 

 

 なんでいきなりこんなことになってる、考えられるとすれば——このかおり。ワケがわからない。あまりにも感情が急変しすぎてる。

 

 

 しかし、頭でわかったところで、体の縛りは外れなかった。

 

 

 人質たちのほうからも悲鳴が上がった。このかおりは、是印だけを狙ったものじゃないらしい。

 

 

 奈落の底すべてを、次第に恐怖が満たしていく。

 

 

 ドンッ、と地響き。

 

 

 膨れた巨躯が一歩を踏んだ。

 

 踏まれた一点から、肉の床が波打つ。うねりが盛り上がって、是印の足の下をくぐり、奥へ伝播していく。

 

 波の行く先に、あの穴がある。床を這う管が四方から寄り集まって、根元ごと、ぱっくりと口を開けているのは——骸炉の、口。

 

 波が、その縁を叩いた。

 

 縁のそばで、管が一本、根元から跳ねる。張り詰めた状態から杭の抜けたロープさながらに。

 

 何事かと思う震えが床づたいに、動けない足の裏へ返ってくる。

 

 縁が、下がった。

 

 ほんのわずか。だが確かに、穴の口が——広がった。

 

 まずい。

 

 動け。動け、動け——

 

 あの床は、穴のまわりに張られた皮であり、這う管が、皮を留めている杭だ。とどのつまり、杭が抜ければ、皮ごと落ちる。

 

 すくんだ足は、言うことをきかない。

 

 是印の頬を嫌な汗が流れたとき、

 

 視界の端を、腕と袖口で耳と口元を覆った応星が、駆け抜けていった。

 

 

「——穴から離れてッ!!」

 

 

 応星の声が、悲鳴と地響きを裂いて奥へ飛ぶ。

 

 解かれた人質たちが、走り出す。壁際へ、出口へ。動ける大人が、子供を抱え上げて走る。かおりに炙られて腰の抜けた者を、隣の誰かが引きずっていく。

 

 

 はたして、それを敵が見逃してくれるだろうか。

 

 

 ドンッ——咬骸が、また一歩を踏んだ。

 

 

 波が、走った。さっきより、深く強い。

 

 

 奥の床が——面ごと、傾いだ。

 

 

 骸炉を囲む肉の床が、管の根元ごと、穴へ向かってすり鉢状に沈んでいく。走っていた人たちの足元が、まとめて坂へと変わった。

 

 誰かが転ぶ。転んだ体が、滑る。肉の床は濡れていて、爪も、指も、立たない。

 

 抱え上げられていた子供ごと、大人が滑っていく。

 

 壁際まで渡りきった者は——ひとりも、いなかった。

 

 応星が、跳んだ。

 

 沈みはじめた縁の、いちばん手前。縄をかけられたまま、傾く床にしがみついている、小さい影へ。

 

 滑り込みざま、小刀がひらめく。縄が飛ぶ。片腕が少女の腕を掴んで、引く。少女の踵のすぐ後ろで、床がごそりと抜け落ちた。

 

 

 ——そこから先は、一瞬だった。

 

 

 すり鉢が、底へ雪崩れた。解かれた者も、解かれる前の者も、区別なく、沈む床ごと呑まれていく。伸ばされた手が、いくつも、縁を掻いて、すべった。

 

 

 穴の底で、光がまたたき、

 

 

 幾重もの悲鳴は、途中で消えた。

 

 

 

 

 それきりだった。

 

 

 

 

 骸炉の鈍い鼓動だけが、何ごともなかったように打っている。さっきまで、あれだけの命があった場所で。

 

 崩れた縁の手前に、応星が膝をついていた。片腕に少女を抱え、もう片方の腕を——誰もいない暗がりへ、伸ばしたまま。

 

 

 その指が、ゆっくりと、握り込まれた。

 

 

 応星の唇からは血が垂れていた。

 

 手が届く範囲にさっきまで確かにあった命の数が、ほんの一瞬でほぼゼロとなってしまった。

 

 咬骸(ヤオハイ)は、愉快そうに手を叩く。

 

「おうおう、炉も喜んでおるわ」

 

 叩き終えた手を、ゆるりと炉の方へ向け、

 

「刈る手間も運ぶ手間も省けたわ。……クク、豊作、豊作」

 

 ブチ、と。頭の中で、何かの切れる音がした。

 

 ——ふざけ、やがって。

 

 腹の底から噴き上がった熱が、詰まっていた言葉の洪水を押し流していく。ヤバいも、逃げろも、怖いも。まとめてぜんぶ、ひとつの熱に呑まれて消えた。

 

 ——ふと、気づく。

 

 ネガティブな文言で埋まっていた頭に、余白ができている。指先の感覚が、戻ってくる。冷え切っていた手のひらに、血が通い直す。耳の奥にも、ちり、と熱が動いている。A.R.Pが鼓膜を繕っているらしかった。

 

 かおりが薄れたわけじゃない。鼻の奥では、まだ得体の知れないものが渦巻いている。

 

 

 まるでこのかおりがもたらす効果に適応していっているように、動ける。

 

 

 足が、前に出た。

 

 

 一歩に床がちゃんと応えた。

 

 

 顔を上げると、応星が入口側へ走るところだった。腕の中の少女を、来た通路の陰——肉の壁がひさしのように張り出した窪みへ、降ろす。何ごとかを短く言い聞かせ、小さい頭を、両手で一度だけ包んだ。

 

 少女がうなずくのを確かめて、応星が、こっちへ歩いてくる。

 

 目の縁は赤い。だが、涙は零れていない。

 

 奥歯を噛んで、噛んだぶんだけ、目の芯が据わっていく。そういう顔で、歩いてくる。

 

 その足が、一拍だけ緩んだ。

 

 視線が、是印に引っかかっている。かおりの只中で、立っている是印に。何か言いかけて——応星はやめた。今はそれどころじゃないと、呑み込んだように。

 

 

 そして、隣に並んだ。

 

 

 武器はない。剣は、是印の手の中にある。それでも応星は、敵から目を離さなかった。

 

「兄さん、」

 

 膜の剥がれきった耳に、その声は、やけに澄んで届いた。

 

 

「僕にも、できることが、ありそうです」

 

 

 返事の代わりに、肉の床が爆ぜた。

 

 咬骸の巨躯が、想像の及ばないほどの速さで滑り込んでくる。

 

 

「避けろッ!」

 

 

 言うが早いか、是印は応星の肩を突き飛ばし、自分は逆へ跳んだ。

 

 二人のあいだを、丸太——いや、もはや重機みたいな腕が薙ぎ払い、床の肉ごと管を千切り飛ばしていく。生ぬるい粘液の飛沫が頬を打った。

 

 

 嵐が始まる。

 

 

 腕が来る。潜る。返しの爪が来る。跳ぶ。着地した床ごと、踏み抜かれる。転がる。息を継ぐ隙間には、もう次の薙ぎが視界を塞いでいる。

 

 

 ——休みなしかよッ。

 

 

 守るだけで、精一杯だった。斬り返せる隙は、向こうが振り終わった一瞬の、そのまた半分しかない。そのわずかな隙間に、是印は無理やり刃をねじ込む。すれ違いざま、腿の外側へ一撃。裂けて——塞がる。それでも入れる。入れなければ、押し潰されて終わるだけだ。

 

 爪の先が、肩口を掠めた。

 

 皮が裂け、熱が走り——ひと呼吸で、引いていく。A.R.Pが作動。かすり傷なら、瞬時にこちらも塞がる。

 

 二撃目は脇腹へ。三撃目は、入れる隙がなかった。(さば)いて、潜って、転がって、ようやくの四撃目。

 

 

 その最中——ふと、指先に引っかかるものがあった。

 

 

 

 手応えが、場所によって違う。

 

 深い浅いの程度の問題じゃない。刃が肉を裂くとき、柄へ返ってくる震えの質が違う。ある場所は、水気の詰まった重さがまっすぐ手に返る。別のある場所は——裂く途中で、刃が一度、小さな段を踏む。一枚の肉を裂いたはずなのに、返ってくる抵抗は、二枚ぶんで、

 

 なんだ、この返りは。

 

「……兄さんっ!」

 

 壁際から声が飛んだ。応星が咬骸を見据えたまま、じっと動かない。首をわずかに傾げ、軽く握った手を耳に押し当てている、

 

「左の肩口——さっきの、傷のあった所を斬れますかっ!」

 

「……ったく、注文が細けぇって……了解ッ!」と悪態をつきながらも、是印は再び咬骸との距離を詰める。

 

 振り下ろされる爪を潜り、伸び上がりざま、左肩へ一閃。

 

 ——やはり。

 

 はっきりと、段がある。刃の下で、古い肉と新しい肉が、別々の硬さで剣を噛んでいる。

 

 そんな是印の思考と同期するように、

 

「やっぱり、だ……!」

 応星の声が上ずる。

 

「兄さん、あいつは治ってるんじゃない。新しい肉を、古い肉に継いでるんですっ!」

「あん?」

 

 継いで、る?

 

「継いだ鉄は、どれだけ上手く継いでも、境目だけは音が濁るんです。あいつも同じだ——傷のたびに新しい肉を接いで、体じゅう、継ぎ目だらけになってる。さっきの変身で、なおさら!」

「……ってお前、なんでンなことまでわかんだよ」

「その剣は——僕が打った剣です。叩けば、あれがどんな声で鳴るかは、世界じゅうの誰より、僕が知ってるっ!」

 

 

 ——濁る、ね。

 

 手の中のこいつが、それか。柄に返ってくる、二枚ぶんの震え。製作者サマである応星の耳でしかわからないはずの、些細な違い。

 

 だがそう言われると、是印の眼にも浮かび上がって見えてくるものがあった。

 

 呑まれた斬撃飛ばしの傷痕の上だけ、皮の色が浅い。周りより艶がなく、巨躯がうねるたび、そこだけわずかに動きが遅れる。

 

 今までは治る速さにばかり気を取られて、治った跡のほうは、まるで目に入っていなかった。

 

 

 ——治る、じゃなくて、継ぐ。

 

 

 建て増しに建て増しを重ねた、継ぎ接ぎの塔。だというなら、

 

 

「継ぎ目は、完璧には塞がりません。なら継ぎ目は——切れる、はずです」

 

 

 応星が、握った拳を胸の前で固めた。

 

 

「兄さん。同じ場所を、もう一度斬ってください。同じ線を、何度でも。継ぎ目の上に継ぎ目を重ねれば——」

「そこだけ、ボロくなってく、か」

 

 是印の口の端が、勝手に上がった。

 

 斬るほどに治る化け物が、斬るほどに脆くなるというのなら——、

 

 咬骸は、動きを止めてこちらを眺めている。

 

 虫二匹の羽音を聞き流す顔で。応星の言葉の意味が、届いていないのか——それとも、届いたところで痛くも痒くもないと踏んでいるのか。

 

 どっちでもいい。

 

 是印は剣を握り直した。痺れはまだ腕の芯に残っている。残っているが、動く。なら十分だ。

 

 

 背中越し、半歩だけ振り返る。

 

 

 もはや丸腰のまま、それでも目の芯だけは据わっている弟分へ。

 

 

 

「——ありがとな、応星」

 

 

 

 

 忘れられない顔がある。

 

 あのバカ共の集まった酒の席で、

 

『こんなに楽しいの、初めてで……』と恥ずかしそうに口にした。

 

『いつか、なんて待っていたら……僕には、間に合わないかもしれませんから』とまだロクに呑めもしないクセして酒をあおった。

 

『あいつらが、僕の故郷を……ぜんぶ、奪っていったんです』と吐露した。

 

『僕だけ、逃げたんです。手を引かれて、逃げろって突き飛ばされて。だから僕だけ、こうして……まだ、生きてる』と悔やみきれない過去に(さいな)まれた。

 

『許せない。あいつらだけは。僕から何もかも奪って、のうのうと生きている、あの忌み物共だけは……僕は、ぜったい——』と慟哭(どうこく)した。

 

 

 

 そんな顔を見たら、もう黙って見過ごすことはできなかった。

 

 

 

「そりゃよ——ツラかったよなァ」

 

 

 

 どんなに願っても、代わってやることはできない。

 

 家族友人知り合いを歩離人共に奪われ、自分だけが逃がされた先では差別にいじめ、幼い身の上にはあまりにも惨い仕打ちだった。

 

 

 でも、それでも、

 

 

 ——血と汗と涙とありとあらゆる感情。怨念とたとえても過言じゃない。それをただひたすらに剣に打ち込んできた。

 

 

 もう一度指先に力を込める。

 

 

 

 ——この剣は応星の生きた証なのだ。

 

 

 

 それを、そんな運命に陥れるきっかけを作っておきながら、覚えてないと、咬骸(ヤオハイ)は笑った。

 

 

 

 

 だったら、こいつの"兄さん"として、自分ができることは何か?

 

 

 

 ジジイなんかに誓うより、とっくのとうに、

 

 答えなど決まってる。

 

 

 

 だって、

 

 

 そのために、来たのだから。

 

 

 

 

「約束するよ。俺が見せてやる、

 

 

 ——お前の剣は、あいつに届くってことをな」

 

 

 

 

 咬骸(ヤオハイ)に対して、切っ先を突きつける。

 

 

「ほ——ぉ? よかろう、やれるものならやってみるがいい……!」

 

 

 突きつけられた切っ先ごと踏み潰すつもりか、巨躯が弾丸のように跳んでくる。床の肉が波打ち、振り上げられた爪が空気を唸らせた。

 

 是印に正面から受けるという選択はない。半身で懐へ滑り込み、すれ違いざま——左肩から胸へ走る、あの線。風穴の跡へ、一閃。

 

 

 すかさず、

 

 

「ッ、今のを! 同じ線を、もう一度っ!」

 

 

 応星が叫ぶ。耳で剣の声を拾っているのか、目で継ぎ目を追っているのか——たぶん、両方だ。

 

 

 二度目。同じ線。手に返る段が、さらに深くなる。

 

 

 三度目——は、入らなかった。

 

 

 線の上に、梁みたいな前腕が割り込んだ。刃は咬骸(ヤオハイ)の腕の外側を裂いて、流れる。

 

 

 ——盾にしやがった。

 

 

 かまうか。是印は流れた剣先をそのまま返し、腕の同じ場所へ重ねて刻む。一度、二度。応星の声が「腕でもいいっ! 継ぎ目は継ぎ目です!」と背中を押す。刻むたび、腕の響きが濁っていく。皮の色が浅くなり、巨躯がうねるたび、その腕だけ半拍遅れる。

 

 

 ボロくなってきてる。目に見えて、わかる。

 

 

 このまま腕を落とし切れば——と、是印が踏み込みかけた、そのとき。

 

 

 咬骸が、自分の腕を口へ運んだ。

 

 

 ガブリ、と。

 

 

 組み変わったばかりの顎が、継ぎ目だらけになった前腕を、肘から先ごと噛み千切った。

 

 

「——は?」

 

 

 千切った腕を、そのまま咀嚼している。骨ごと。美味くもなさそうな顔のまま、二度、三度噛んで、呑んだ。

 

 

 肘の断面がもう蠢いている。新しい肉が押し出され、指が生え、爪が伸びる。

 

 まっさらな腕が一本、そこにあった。継ぎ目ごと——丸ごと、取り替えやがった。

 

「……(いた)んだものも、おれが食う。畑に腐りは残さん」

 

 喉の奥で、くつくつと鳴る。

 

「てめぇ……ッ」

 

 ——刻んだ手間ごと胃袋行き。冗談じゃねぇぞ。

 

 腕も、たぶん脚も、こいつにとっては消耗品だ。ボロくなれば千切って、食って、生やし直せばいい。積み上げた継ぎ目が、丸ごとチャラにされる。

 

 なら、どこを積む。千切って捨てられない場所は、どこだ——

 

 

「兄さん、胸ですっ!」

 

 

 応星の声が、是印の思考の先へ届いた。

 

 親指を立てる。

 

「ナーイスッ!!」

「腕は捨てられる。脚も捨てられる。でも胸は——心臓は、自分で食い千切れないッ!」

 

 

 是印は正面の巨躯を見据える。

 

 

 試すまでもなかった。

 

 

 剣先を、すっと胸の高さへ向け——途端、咬骸が退いた。

 

 

 半歩。たった半歩だが、初めての後退だった。生え変わったばかりの腕が、胸の前で交差する。虫の羽音を聞き流していた顔から、眼だけがこっちの切っ先に張りついている。

 

 

 ——当たりだ、応星。

 

 

 言葉より雄弁だった。何を斬られても眉ひとつ動かさなかった化け物が、胸だけは、腕二本で囲ってやがる。

 

 

「オラオラ、どうちちゃったのよ。さっきまでの威勢はよ」

 

 

 煽りに煽りながら、是印は息を整える。肺が熱い。深い一撃を入れるたび、返しの爪が掠め、そのたび体のどこかをA.R.Pが繕っている。——その繕いが、遅くなってきていた。開幕はひと呼吸で引いた掠り傷の熱が、いまは三つ数えても、まだ疼いている。指先が冷たい。視界の縁が、心なしか暗い。胃袋に何かを詰めたくなる。

 

 ——燃料切れの前触れだ。嫌というほど知っている。こっちの時代に来て物乞いをやってた頃、お腹と背中がくっつく寸前は、いつもこうだった。

 

 もはや猶予はない。

 

 だが、道は見えた。

 

 狙う線は、もう一本しかない。

 

 左肩から胸へ——応星の剣が刻み続けた、あの継ぎ目の上。

 

 

 是印は剣を引き絞る。腕の芯に残る痺れごと、握り込み、

 

 

 そして、一気に、

 

 加速する。

 

 

 交差された両腕。その守りごと断つ気で行く——と見せて、是印は膝を折り、低く潜った。

 

 刃の届く高さが変わる。腕の防御の下、無防備な腹から胸へ、擦り上げの軌道。

 

 狙いは一点。左肩から胸へ走る、あの継ぎ目。

 

 切っ先が皮を割り、継ぎ目の濁りを捉え——

 

 視界が、(かげ)った。

 

 

 顎だ。

 

 

 大口を開いた顎が、真上から降ってきて——刃に、噛みついた。

 

 ガキィッ、と。金属が骨と噛み合う音が、柄から腕の芯まで突き抜ける。是印は引——引けなかった。刃が、牙の列に縫い止められている。万力どころじゃない。山に剣を預けたようなものだった。

 

「——ぉんッのッ!」まず——、

 

 

 咬骸の首が、無造作に振られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パキン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軽い音。あっけないほど。

 

 是印の手の中で、剣が跳ねた。柄から先の重さが、消えていた。

 

 

 折れた切っ先が、くるくると宙を舞う。

 

 

 高く、遠く。弧を描いて、是印の後方——肉の床へ、鈍い音を立てて突き立った。

 

 壁際で、何かが崩れる音がした。

 

 

「——え——あ——そ——」

 

 

 応星だ。膝から、力を失っていた。

 

 あの軽い音がなんの音か——剣の声を聞き分け続けた打ち手本人にだけは、誰より先に、わかってしまったのだろう。

 

 

「ぁ、あ、……なん、で……」

 

 

 あとは、声にならなかった。

 

 

 一槌一槌に魂を、情念を、応星の全てをもって叩き込んだ剣が、

 

 

 折れた。

 

 

 届くと信じて刻み続けた線の、あと一寸のところで。

 

 

 

「応————」

 

 

 

 最後まで言えなかった。

 

 

 

「……よい刃、だった。よなァ」

 

 

 もう、目の前だった。

 

 

「だが——刃は、折れたらしまいよ」

 

 

 直後、剣を折った顎が——開いたまま、落ちてきた。

 

 考えるより先に、腕が出た。剣のない側の腕。顔と喉の前へ、盾のように突き出す。

 

 牙の列が、そこへ噛み合わさる。

 

 

 折れ-砕け-千切れる音。

 

 

 

「ァァァァアアアア————ッ!!!!!」

 

 

 

 絶叫がほとばしるのと、二の腕の途中から先の感覚が消えるのは、ほとんど同時だった。

 

 咬骸の首が、無造作にひと振り。咥えたものから振り離された是印の体が、宙を飛ぶ。切っ先の飛んで行った、あの方向へと。

 

 肉の床を二度、三度、跳ねて転がる。

 

 突き立った切っ先の、そのあたりを巻き込んで、転がって、転がって——うつ伏せで、止まった。

 

 

 是印は(うめ)きながら、視線を走らせる。

 

 

 盾にした腕は——真っ赤に染まった服の袖から先がない。

 

 

 すぐにむずがゆさを覚える。

 

 

 千切れた断面へ、体じゅうの熱がかき集められていくのがわかる。血の膜が張り、乾き、栓をする。A.R.Pが、残りの燃料を根こそぎ注ぎ込むように、体内をうごめく感覚があった。

 

 

 血は、止まった、かに思えた。

 

 

 が、そこから先の再生がまだ来ない。

 

 

 残った手の指先が氷水につけたように感覚がない。

 

 視界の明度が更に下がる。

 

 口の端から、血が糸を引いて床に落ちた。

 

 是印は、動かない。

 

 咀嚼の音が、聞こえていた。骨ごと、二度、三度。呑む音。

 

 壁際の悲鳴。

 

 

「兄さぁあああああああああああん!!!!」

 

 

 それから、べっ、と。咬骸が噛み折った刃の欠片を吐き捨てた。食えないものだけを、より分けるように。

 

 

 

 咬骸の瞳には、もぞもぞとそれこそ葉虫のような身動きをしている是印が映っている。

 

 そして、落胆。所詮はこの程度かと視線が外れる。

 

 

 一歩、また一歩。塔は動く。

 

 

 やがて、たどりつく。

 

 

 

 口を固く結んだまま、黙って見上げる是印を、咬骸が見下ろす。

 

 

 是印の手は、空。

 剣は、もはや柄だけ。

 

 

 

 咬骸(ヤオハイ)の眼が、すっと細まった。

 

 

 

「吠えんのか」

 

 

 

 答えは、ない。

 

 

 あれだけ回っていた減らず口が、ぴたりと止んでいた。

 

 

「……おう、そうか。そうよなァ」

 

 

 わかった、というふうに、ゆっくり顎が上下する。

 

 

「折れるは、刃だけではないと。心胆まで、折れたか」

 

 是印は、目だけで咬骸を見ている。唇の端から血を垂らしたまま、何も言わない。

 

「畑は、無駄にはせん。おれが噛んで、呑んで、肥やしにしてやる。ここにおる者、まとめてな」

 

 咬骸の眼が、初めて是印から外れて、壁際へ流れた。

 

「あの刃、折るときに感じたぞ。あれは、肝の入った苦い味がした。だが——なぜ、届かなかったか、わかるか」

 

 誰も答えない。応星も血まみれの兄の姿を見て、唇が震えるだけだった。

 

 咬骸(ヤオハイ)は、答えを待たずに、

 

「打った奴が、まだ青いからだ。熟していれば、そうはならなかったかもしれんがな」

 

 言葉が、肉の壁に湿って吸われていく。

 

 

 倒れた虫と、空になった畑を前に、収穫者だけが喋っている。

 

 のそりと、影が是印の真上に被さった。

 

 巨大な手のひらが、広がる。

 

 

 是印の頭ひとつ、林檎みたいに包める大きさの手が——ゆっくり、降りてきた。

 

 

 頭蓋が、軋んだ。

 

 

 巨大な指が是印の頭を包み、無造作に持ち上げる。足の裏が床を離れ、視界だけがぐんと高くなった。締めつけは、まだ本気じゃない。

 

 林檎を潰す前に、指の腹で転がして遊ぶ——そんな力加減だった。

 

 

 

 咬骸の腕が、ゆっくり動いていく。

 

 吊り上げた是印を、壁際へ——応星のほうへ、向ける。

 

 わざわざ、見せつけるために。

 

 

「見ろ」

 

 

 気だるい声が、奈落に落ちる。

 

 

「お前の刃とやらは、こうなった」

 

 応星は、膝をついたまま動かない。

 

 俯いた顔は見えない。握った拳が、震えているのだけが見えた。

 

「さっきの、軽い音——あれは、お前も折れた音か」

 

 くつ、くつ、と喉が鳴る。

 

「結局、虫よ。この虫は、おれがゆっくり食ってやる。お前の見えるとこでな。頭からか、腹からか……クク噛んでみんと、わからんな」

 

 

 応星の肩が、震える。

 

 

「その後でお前だ。畑はな、順番に刈るものよ。腹が減る。だから種を撒き、育て、食う。それだけのこと」

 

 咬骸の眼が、すっと細まる。

 

「お前は——此度は、見てることすら出来んのだな」

 

 応星の俯いた頭が、跳ね上がった。血走った目からは涙がこぼれていた。

 

 

「はは、それくらいしか出来んものな。よいよい、それも肥やしよ」

 

 

 言い終えて、咬骸は首を回し、

 

 

「……おうおう、そうだ、忘れていた」

 

 

 掴んだ是印を、自分の顔前へ更に持ち上げる。

 

 顔のあちこちに散った傷と、口元の血。腕を千切られた虫の面。咬骸の眼はそこで止まることなどない。

 

 変わり果てた獣の顔と人の顔が、間近にある。

 

「——(じん)。ククッ、つくづく腹に来る名だ」

 

 もう片方の手が伸びる。

 

「約束通り、その舌を抜かねばな」

 

 

 

 是印の顔

 

 

 

 

 

 

 

 

 が——()()()

 

 

 

 

 

 

 固く結んでいた口が、ゆっくりと裂けて、あふれ出る血。赤く濡れた歯列が覗く。

 

 

 

 凄絶(せいぜつ)な笑み。

 

 

 

 咬骸(ヤオハイ)の指が、止まった。

 

 

「……なに?」

 

 

 答えの代わりに、是印は自分の手のひらを口元へ運ぶ。

 

 べっ、と。

 

 吐き出されたものが、手の中に収まった。

 

 

 折れた、切っ先

 

 

 血に塗れた刃が、骸炉の明かりを鈍く返す。

 

 

 咬骸の眼が、それを追って——見開かれた。いつから、と、その顔が言うより早く。

 

 

 是印の腕は、もう伸びていた。

 

 

 狙いは、一点きり。左肩から胸へ——応星が聴き分け、二人で刻み続けた、あの継ぎ目。

 

 

 切っ先が、沈んだ。

 

 

 刃が肉を割った瞬間、指先から何かが、するりとほどけて流れ出た——気がした。確かめている余裕は、ない。

 

 是印は宙で体を畳み、両足の裏を咬骸の胸に当てる。突き立った切っ先の尻に、かかとを重ねた。

 

 

 残ってる力、全部で、

 

 蹴り込んだ。

 

 

 ずぶ、と。刃が根元まで呑まれる感触が、足の裏から返ってくる。

 

 

 咆哮——ではなかった。喉の奥で詰まった、短い音。咬骸(ヤオハイ)の腕が是印を振り払い、是印は床へ叩きつけられて転がる。肩が鳴った。かまわず顔を上げる。

 

 

 咬骸が、よろめいていた。

 

 

 胸を掻きむしっている。生えたばかりの爪が自分の皮を裂き、肉を抉る。だが、届かない。刃はもう、奥だ。掘り返そうと開いた傷は、開いたそばから塞がって、塞がるたびに——刃を、奥へ抱き込んでいく。

 

 治ろうとするたび、肉が刃を締める。

 

 心臓が脈打つたび、刃が内側を裂く。

 

 腕なら、千切って捨てられた。脚でも、そうしただろう。だが胸だけは——心臓だけは、自分の顎が届かない。

 

 

 骸を咬んで生きてきた男が、自分の咬み折った剣に、内側から咬まれていた。

 

 

 巨躯が、膝をつく。肉の床が、深く沈んだ。

 

 

「……折れた、刃で」

 

 

 喘ぐ息の合間から、

 

 

「……おれを、咬むか」

 

 

 是印は立ち上がる。膝が笑っていた。口の中はまだ鉄の味しかしない。それでも、まっすぐ見返して、言ってやった。

 

 

らえ(ナメ)()

 

 

 盛大に床に血玉を吐いて、フーッ、フーッと、荒い呼吸を整え、痛みに顔をゆがめる。ズタズタになった舌を何度も出し入れしながら、

 

 

 一歩、一歩と踏み出す。

 

 

 

 

 

「……は、折れたくれぇで、なんだ、よ。こいつは——魂込めた、応星の(ほこり)なんだぞ」

 

 

 

 

 

 既に虫の息と化している咬骸は、笑うだけだった。

 

 次第に色が薄れていく眼が、是印へ向き、

 

「……(じん)。おれはお前を、見誤っておったわ」

 

 かすれた声。

 

 胸を抱えた指が、楔の在処を、皮の上からゆっくりなぞる。

 

「……妙な味が、染みてくる。……噛んだことのない、味よ」

 

 喘ぎを、ひとつ挟み、

 

「染みた先から、腹の底が……静かに、なっていく。生まれてこの方、一度も満足することのなかった腹が、なクク」

 

 鼻を鳴らし、眼がすがめられた。恐れでもなく、値踏みでもなく——ただ、わからないものを見る眼だった。

 

「……よ」

「あん?」

 

「まるで、(かすみ)でも食った気分よ」

 

 引きつくような笑いと共に、

 

「……噛んで、わからんもんがこの世にあるとは」

 

 咬骸の眼が是印から離れる。もう、興味を失くしたのか——それとも、噛んでもわからんものは諦めたのか。

 

 是印は舌打ちをしてから、壁際を振り返った。

 

 膝をついたまま、信じられない顔をしている応星と、目が合った。

 

「……応、星。こっち、来い」

「……え、あっ、は、はい……」

 

 応星が、立ち上がる。ふらつく足で歩いてくる。目はずっと、喘ぐ咬骸に張りついていた。

 

 

 是印は腰の後ろへ手を回した。引き抜いたものを、応星へ差し出す。

 

 それは——是印が本来使っていた得物。

 

「これ、兄さんの……」

「……貸して、やるよ。まだ、終わって、ねぇだろ」

 

 応星の目が、見開かれる。差し出された柄と、是印の顔とを、二度往復した。

 

 震える手が、光の刃を立ち上げた是印から、両手でそれを受け取る。

 

 

 奈落の底に、初めての澄んだ光だった。応星の濡れた目が、その一本に照らされる。

 

 

 咬骸の眼が、ゆっくりと光を——光を握る応星を、映した。

 

 恐れの色は、なかった。

 

 

「……ここがおれの果てとはな」

 

 

 くつ、と喉が鳴った。笑ったのだと、遅れて気づく。

 

 

「……後悔、するぞ」

 

 

 光は揺れない。咬骸(ヤオハイ)は、かまわず続けた。

 

 

「おれはな、腹が減った。故に、食った。そうして生きてきた」

 

 

 むせる。

 

 

「お前らとて、同じこと。……腹が減れば、いずれかの命を呑む。巣を焼かれれば、焼いた者を殺しに行く。生きるため、な。おれとどこが違う」

 

 喘ぎは、

 

「今、お前がとったそれも——生きとるものを、終わらせるための刃よ。であればいまこの時より、お前もおれも、同じ獣だ」

 

 笑いに変わった。クク、と。

 

「おれは、呑んだものを腹に残さん。恨みも、悔いも、顔も、名もな。だが、お前はどうだ。今日のことをぜんぶ、腹ん中に呑んで、抱えて、生きていく」

 

 呪いの言葉とばかりに、眼が見開かれ、

 

「いずれ、わかる日が来る。——死ねるおれを、羨む日がな

「…………」

 

 光が、走った。

 

 言い終わりの、その口ごと。

 

 音は、なかった。

 

 巨躯が崩れる。肉の床が長く、深く、沈んだ。切り口は——塞がらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 骸を咬んで生きた男の骸は、もう、何も咬むことはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 応星は、光の刃を振り抜いた姿勢のまま、崩れたものを見下ろしている。

 

 肩が、大きく上下していた。構えていたあいだ一度も乱れなかった呼吸が、いま、乱れていた。

 

 長い息を、ひとつ。

 

 それから、ようやく、声が落ちた。

 

 

「————終わっ、たよ」

 

 

 誰に向けた言葉なのか、応星自身にもわからなかった。

 

 

 はたして、足元の骸か、遠い故郷か、届かなかった手のほうか。

 

 

 と——背後から聞こえたその音で、応星は振り返った。

 

「兄さんっ……!」

 

 駆け寄った応星が、倒れ伏している是印の前で固まる。

 

 目は真っ先に、腕へ。失われた腕の、その断面へ。

 

 

 

 血が出ていなかった。

 

 

 

 千切られたばかりの傷口が、乾いた膜に覆われて、静まり返っている。本来、吹き出ているはずの血が見当たらない。

 

 視線が、断面から、頬へ滑る。

 

 爪の掠めた裂け目。さっきまで血をにじませていたはずのそれが、見ている先から縁を寄せて、閉じていく。

 

 

 あとには乾きかけた血の筋だけが残って、傷そのものが、消えた。

 

 

 頬から、口元へ。血に濡れたままの、口元へ。

 

 

「……そう、だ……さっき、声……途中から、戻って……」

 

 

 止まっているはずのない血。閉じていく傷。戻った、声。

 

 

 応星の目が、それらをひとつずつ、辿っていく。

 

 

 

「兄さんは……いったい……」

 

 

 

 

 

 

 これじゃ、まるで、あいつらと——

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







執筆時BGM:
『猗窩座出現』『猗窩座の主張』『煉獄と猗窩座の戦い』from 「鬼滅の刃」無限列車編OST
『鬼殺隊 -OST ver.-』from 「鬼滅の刃」竈門炭治郎立志編OST
『妓夫太郎の猛攻〜譜面の完成』from 「鬼滅の刃」無限列車編OST


ED:『切っ先』Reol
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