一瞬、落ちていた。
また例の白い空間にいたような、いなかったような、そんな混濁した意識のなかで、肩を揺すられながら呼びかけてくる声があって、
「兄さん! 兄さんっ……!」
すぐ近くで聞こえる。重いまぶたをどうにか持ち上げると、視界の真ん中に、応星の顔があった。
体は——重たすぎて動かない。おまけにひどく寒い。飢え死にしかけていたときを思い出すように、身体が熱を失っていることを悟る。
「……お、……」
まだ舌が言うことをきかない。それでも、伝えないと、いけない。
「は、はい、ここにいます。応星です! 兄さん! 意識をしっかり!!」
「お……」
残った力をかき集めて名前を口にしようとしてくれる。
そんな兄の姿に自然と目に涙が溜まる。残っている方の是印の手を取り、応星は懸命に、
「はいっ、死なないで……僕をひとりにしな——」
「お、おなかが……へって、ちからがでないよぉ……」
沈黙。
そして虚無。
表情を一切なくした表情という器用な真似を応星はしていた。
ついさっきまであんなにまぶしかった人と本当に同一人物なのかとすら思う。なに泣いてるときみたいにスンスン鼻を鳴らしながらメソメソしてんだと思う。
「……きん、ちゃく」
「は、はい……?」
「あんなか、の……くれ……」
ひょっとして別人に中身が入れ替わったんじゃないかと、脳が言葉を理解するのを拒否しかけていたが、あ、と声を発するや否や、応星は懐へ手を突っ込み、見覚えのある布の袋を引きずり出す。
紐が解かれれば、中身——半分がた、砕けた欠片の山になっているそれは、
「これ……
「く、う、んだよ……起こ、せ」
肩を借りて、是印が上体だけを起こす。あがぁーと餌をねだる動物のように大口を開けていると、最初戸惑っていた応星もやがておずおずと欠片をつかんで、是印の口へ運ぶ、
もぐもぐタイム。
甘い。
甘さのあとから、血の味が追いかけてくる。一回、反射的にえづきかけたが、どうにかこらえる。
裂けた舌に餡が沁みて、目の奥で火花が散るが、構わず詰め込む。噛んで、飲む。
——月餅と言えば、カロリーオブカロリーな菓子である。
従って、ガス欠状態だった腹の底に、火が
冷えきっていた指先に、熱が帰還する。
視界の縁の暗さが、押し返されていく。口の中で、裂けていた舌が縁を寄せて、閉じていく。
次第に血の味が薄れて、甘さだけが残った。
「——元気、百倍っ!!」
残っている方の手を掲げて、謎のフレーズと共に起き上がった是印を、応星は蘇った死体に遭遇したような目で見つめ、口をぱくぱくさせながら、
「な、なんで……」
「あん?」
最後の欠片を口へ放り込もうとした是印の手が、止まる。
応星の目は、笑っていなかった。
「……なんで、そんなふうに、治るんですか」
静かに、問いただす。
「さっきも……血が、止まってました。頬の傷が、見てる前で閉じました。声も、途中から戻って……それで、いまは、舌まで」
膝の上の手が、握り込まれる。
「そんなの、まるで——豊穣の——」
その先は、視線を落としたことで辛うじて吐き出されなかった。
だが、もうほとんど口にしたも同然だった。
——ば……ばーやい。
若干白目を剥きつつ、是印の脳味噌が滝汗をかいていた。
——ごいすーばーやいですこれ。そりゃそうだよな、見てたよね、全部。むしろ気づかねぇほうがおかしいっつーの。よりにもよって、今このタイミングってのもかなりアレすぎる。
脳味噌だけじゃなく、顔と脇と背中に汗が噴き出る。
「いや、待とう。応星キュン、いったん冷静になろ? あ、そだ、もう粉しかないけど、月餅食べゆ?」
手のひらに残った食べくずを差し出す。
応星には首をすぐさま横に振られ、
「違うの。や、違うのよ、あ~~え~~……そのぅ、これは、ほんと、違くてぇ~だな」
「何が違うんですか」
まっすぐこちらを見据え、答えない限り許さないとばかりに質問を重ねてくる応星に、もうここは言える限りを誠心誠意訴えるしかないと、
「あ~、この身体は……その、特殊な事情があってさ。名前は明かせねーんだけど、ある天才クラブのおねーさまによって魔改造された結果がこれなのよ」
「…………」
「んでまぁ、その、大怪我とかしても飯食えばすぐ治るっていう感じなんだけど……だーッ!! とにかく、こんな感じだが、俺は豊穣のヤツら側じゃねーんだよ。頼む。ほんとだ。信じてくれ。——話せば長ぇんだよ。長ぇ上に、話せねぇことばっかなんだよ」
我ながらひでぇ言い訳だと是印は思う。嘘はひとつも言ってないというのに、どこからどう聞いても嘘つきの台詞にしかならない。
そんな兄貴分を応星は、黙って見つめていた。
黙ったまま是印の顔を見つめて、それから——目が、すっと下がった。
袖へ。
真っ赤に染まったまま、肘の先で力なく垂れている、中身のない袖へ。
「…………腕は」
ぽつりと、落ちた。
「戻って、ないですもんね」
あの男は——
そんな誰でもない、自分自身に。言い聞かせるような声だった。
不意に、応星の顔が崩れた。
見開かれた目に、またもやみるみる水の膜が張っていく。唇が何かを言おうとして、震えて、失敗して、もう一度、
「——兄さんは、無茶、しすぎです……ッ」
「お、おう…………しゃーねーだろ」
肩をすくめ、
「約束したろ。お前の剣を届けるには、ああするくれーしか思いつかなかったんだよ」
考えるより先に体が出た、という動きだった。
膝でにじり寄って、ぶつかるように、応星が抱きついてくる。
肩口に、額。押し殺した嗚咽が、骨を伝って響いた。
「僕は……僕は……ッ」
「……ああ、応星。お前は立派に仇を討ったんだぜ? 胸張れ」
ったく——しょうがねぇな。
残った片手で、その背中を叩いてやる。鎚を振って鍛えたはずの背中は震えていた。
と、その時、
——ん?
熱と、むずがゆさを覚える。
二の腕の途中から先が、腕のかたちのままに、熱が伸びていく。しかもなんか、ぐちゅぐちゅ鳴っていて、是印としても再び脳内警報がやかましく響いている。
チラとだけ視線を滑らせると、
なんか肉の芽みたいのが袖から覗いてハーイと手を振っていた。
命名するならヒダリーしかないと思うそれは、あれよあれよという間に何本も伸びていき、お互いを絡ませあい、へなっとしている筒のような形状となる。そこから骨という名の芯を通すように徐々に
試しに手をぐーぱーしてみる。
——全く問題なかった。
千切れた袖から剥き出しの肌は、
A.R.P製作者である天才おねーさんが無言でピースしている姿が脳裏に浮かび、尊さを感じつつも是印の頬を汗が伝って落ちる。
——ど、どうしよ。
兄は死んでいない。ちゃんと生きていると、命がそこにあることを確かめるように抱きついてくる応星の死角で、是印の目は超高速で泳いでいた。
「……どうかしたんですか、兄さん」
目と鼻を赤くした応星が顔上げたタイミングで、
「見て〜応星、ぜ、是印〜、新しい腕よ〜! はーい!」
両手で万歳をしてみる。
——元気百倍より、勇気百倍がほしいところだった。
* * *
何合目かは、とうに数えるのをやめていた。
甲板と呼べるものは、もう足元にない。砕けて重なった船の骨を踏み替えながら、鏡流は月狂いの王と斬り結び続けている。
灰色の巨躯が沈み、
斬っても、積み上がらない。
舌打ち。
この獣と斬り結んで、どれだけ経ったか。人の身なら百度は死んでいる打ち合いを、向こうは笑いながら続けている。こちらの息は、まだ切れていないし、切らしてやる義理もまたない。
鏡流は、大きく後ろへ跳んだ。船骨の頂に降り立ち、剣を肩口へ引く。深く、静かに、息を落とす。
塞がる端から斬るのではない。塞がる暇のない一太刀を、くれてやるまで。
呼雷が、笑みを深くする。何が来るかを察して、なお退かず、得物を正面へ構え直す。
——いいだろう。その蛮勇ごと。
切り捨てる。
神速の踏み込みと振り抜き——斬撃が、飛んだ。
白い一線が海面を割り、波を左右へ捲り上げながら、獣の王へ奔る。
轟音。
巨躯が、船骨ごと押し流されていく。踏ん張る両足が骨の山を割り、受けた両腕の肉が裂けて、骨が覗く。
呼雷は立っていた。
止めた。
斬撃が散って、潮の匂いだけが残る。
全身——特に肉がほとんど削げた両腕から血を流し、得物は半ばまで
裂けた腕の肉が——見ている前で、編み直されていく。
覗いていた骨に肉が被さり、皮が張り、乾いた血の痕だけを残して、傷が消えた。
——戻るか。これでも。
数えるのが馬鹿らしくなるほど忌み物共を切り捨ててきたが、ここまでの再生力はそうそういないと鏡流は思う。
こちらが剣首であるように、向こうも戦首、すなわち戦の道の極みにいる身。もとより、ぶつかり合えば互いが物言わなくなるまで終わるまいと想定していたが、これは長引く——
と、
一瞬、これに比する存在が海の底にいるとすれば、潜入班、特に白珠の身の安否が気にかかった。ただでさえあの馬鹿と一緒なのが不安だというのに。
——任せてくださいよ〜鏡流先生。あなたの宇宙で一番かわ
それ以上の思考を打ち切る。
殺気は解かぬまま、鏡流は次なる手に移るべく、剣を引き直した、そのとき。
「鏡流様————っ!」
声。
背後の船骨を這い上がってきた雲騎の兵が、青い顔で叫んでいた。背には伝令の旗。この戦場の縁まで相当苦労してやってきたことが窺える。だが、
「本陣より、伝れ——」
——余計な事を。
ひと睨みで殺気を飛ばせば、伝令は泡を食った。
想定外の方向から、相対していた敵——鏡流の名が耳に入ったはずの呼雷の反応は、
圧が、消えていた。
押し込むでもなく、退くでもなく、呼雷の力が、ただ抜けた。
血に濡れた顔の上に、貼り付いていた笑みがなかった。
獣の目は、海へ向いている。
タラサの海の——ずっと、下へ。
「————
低く、名だけが落ちる。
呼雷は、しばらく動かなかった。ただ静けさをもって、海の下の何かを測るように瞑目する。
やがて、ひどく短く、鼻で息を吐いた。
「……逝ったか」
同時に罅割れた得物が、下ろされた。
「終いだ、この星は。勝っても——獲るものが、もう無い」
「待て。逃げられると思っているのか、獣」
剣先は下げない。逃がす気もない。この好機をおいて、この王を討てる時は——
呼雷の焦点が、再び鏡流に戻る。
すでに修復されかけている己の両腕を、罅の入った得物を、一度だけ見下ろして——それを寄越した相手の名を、口の中で確かめるように転がす。
「————鏡流、その名、覚えておくぞ。次こそ最後まで死合う。それまで勝負は預けておく」
問い返す間は、なかった。
巨躯が、反り返り、腹が膨らみ——とっさに鏡流は耳を塞ぐ、
遠吠え
世界ごと震わすほどの音波。
海と空のあいだを埋めて、船という船の骨を震わせる。波紋が、輪になって広がっていく。長い。人の肺ではとうてい出せない長さで声は続き——終わりぎわ、ふっと、調子を落とした。
落ちた声は、空へ散らず、海へ、沈んでいった。
見計らっていたように、潮が、引きはじめる。
戦場のそこかしこで船に喰らいついていた歩離人どもが、一体、また一体と、爪を離していく。競うでも、乱れるでもない。同じ拍で、群れがひとつの意思のように引いていく。
獣艦が、次々と舵を返す。
その中の
砕けた船骨のきわに、濡れた艦体が横づけされる。
呼雷は巨刀を肩に担ぎ、船骨の縁から、一歩で、獣の背へ乗り移った。
——逃がすか。
鏡流は、跳んでいた。
船骨の頂。剣を肩口へ。二の腕の芯が悲鳴を上げる。構うものか。先ほどより、更に練り上げた気の出力を上げ、
斬。
ほとばしる白線は、今度は海面を凍らせながら、獣王の首を落とすべく襲いかかる。
呼雷は、肩に担いだ巨刀を片手のまま、無造作に、後ろへ薙ぐ。
血の色をした斬撃が、白い線を遡ってきた。
白と、赤。
二つの線がもつれ、海のなかばで喰い合った。
閃光。
遅れて、轟音。捲れ上がった海水が壁になって立ち、崩れ、
雨の幕が落ちきったとき——獣の背は、もう刃の届かない空にいた。
巨躯がゆっくりと向き直る。そして、巨刀を、一度だけ、天へ掲げてみせた。
預けたぞ、とでも言わんばかりに。
それきり、王を乗せた獣艦は退いていく群れに紛れ、遠ざかり——他の艦影と、見分けがつかなくなった。
あとには、うねりだけが残る。
誰も、声を出さなかった。
敵が退却していく。
その景色を、海の上の全員が、まだ信じきれていない。
だが、どこかの船で、ぽつりと、誰かが叫んだ。
——勝ったと。
それから
止めていた息をようやく鏡流は吐いた。
その音を聞くことなく——哀れな伝令の兵が、船骨の上に倒れている。耳から血を流し、絶命していた。
無言のまま、鏡流は剣の血を払ってから、ひざまずいてその兵の
「我らが剣首サマ!」
声と共に、砕けた船骨を蹴って、帽子姿の男——ラマンチャが滑り込んでくる。戦線のほつれを縦横無尽に縫って回っていた男は、
「やっ、ハハ、
苦々しい顔をしている鏡流の表情に、一瞬口をつぐみかけ、それでも
「……
「……いや、仕留め損ねた」
ギリと唇を噛み、鏡流は眼下の海へ視線を向ける。
戦のあいだじゅう、壁のように立ち続けていた潮が、ゆるんでいく。海が、大きく息を吐いたようだった。これで龍尊の手が、ようやく空くことだろう。
勝鬨。引いていく敵。緩んでいく海。
要素を並べ立てれば、どれも、勝ちの景色だ。
なのに。
「奴さんの親玉は、妙な雄叫びをあげていたが……どう思う」
「ああ……」
ラマンチャの言の通り、耳の底に、まだ、あの声の尾が残っている。
まるで海底の何かに、届けるように。
「——まだ、終わっておらぬ」
拭いきれない嫌な予感に、鏡流は剣を納めない。
暗い海面だけが、静かに凪いでいた。
* * *
応星が、入口側の通路——肉の壁がひさしのように張り出した窪みへ駆け足で向かう。
人質の少女は、降ろされたときのまま、膝を抱えて、壁の陰に小さく丸まりそこにいた。近づく足音に、薄い肩がびくりと跳ねる。
応星の顔が目に入り、口が「あ」と開く。
その側に膝をついて、目の高さを合わせると応星は、
「終わったよ。大丈夫。もう、誰も来ない」
そっと微笑む。それから、その場に降ろしたときと同じ手つきで、小さい頭を包む。
少女の瞳が応星を映し——遅れて、その後ろの是印を映した。
ひっ、と小さく喉が鳴って、応星の背中に隠れる。
「え……ちょ……ギザショックなんだけど…………俺、そんな怖ぇか」
「怖いと思います。血まみれですし、さっき奇声も上げてましたし」
「奇声じゃねっつの、愛と勇気だけが友達のヒーローと愉快な仲間たち知らねぇのかよ」
「知りません」
まだ色々完全に納得してはないんですとぷいっと顔を背けた応星に、どこぞの白珠さんに似てきてんじゃねーよ……と是印は内心愚痴ったのち、応星と同じくその場にしゃがんで、少女と同じ高さまで目線を落とした。
開いた両手を、ひらひらと振ってみせる。ほれ、なんも持ってねぇし、危害なんて加えないぞっと。
応星の陰から、目だけがこちらを覗いている。
「よう、お前、名前は?」
「…………」
「俺は是印さん。こいつは応星キュン。お前を助けた、大したやつだ」
少女の目が、応星を見上げる。応星が、ゆっくりうなずく。
たっぷり待って——かすれた、ほとんど息だけみたいな声で、
「……
弾かれるように顔を上げ、
凝梨に向き直ると、応星は両肩にそっと手を置いた。
「凝梨。——薩蘭って子を、知ってる?」
少女の目が、初めて、まともに開いた。
「僕たちは、薩蘭に会ってここへ来たんだ。無事だよ。怪我もない。いまは仲間の船で、君を待ってる」
凝梨の唇が、わななく。声未満の息が、ひゅ、と鳴った。
「『凝梨をお願いします』って——僕たちは、そう頼まれてる。だから、助けに来た」
みるみるうちに、目の縁が盛り上がって、決壊した。
声の出し方をすっかり忘れたみたいに、ただ、ぼろぼろと零して、何度も、何度もうなずく。その拍子に膝から崩れかけたのを、応星が抱きとめた。
是印は二人の頭の上にぽんと手を置いてから、
「……立てるか、凝梨。あとちょっとだけ頑張れ、ちゃんとお前の友達に会わせてやる」
手を差し出すと、戸惑いながら見つめて、意を決したように細い指が預けられた。生まれたての手のひらに、氷みたいに冷えた手が乗った瞬間だった。
立たせて、驚く。
枯れ枝みたいな軽さだった。
——どんだけ食ってねぇんだ。月餅、一個くらい残しときゃよかったなと反省する。
凝梨の手を引きつつ戻ると、応星が両手でパルサーエッジを差し出してきた。柄は、きちんとこちらへ向いている。
「……兄さん。これ、お返しします」
「まだだ」
「え……? でも……、
「それはお前のケジメ。俺らの仕事が、残ってんだろ」
顎で、炉の奥を指す。
管が、闇の奥へ何十本も走っている。太いのも細いのも、かすかに震えながら、同じ拍で何かを送り続けている。人質はもういない。
それでも星の腹の底で、炉だけが、休みなく働いている。
潜入班の任は二つ。人質を、取り戻すこと。
そして——骸炉の芯を、断つこと。
「応星、この惑星——お前が救っちまえよ」
応星の目が、飛び出る勢いで見開かれる。
「僕、が……?」
「言ったろ。芯がどこにあるかなんざ、俺にゃさっぱりだ。作られたモンの理屈が視えんのは——工造司の、お前だけだろ」
嘘ではない。ただ、それだけでもない。口にしない理屈が、是印の胸の
応星は手の中のパルサーエッジを見下ろし、それから、炉の奥の闇を見据えた。
「——視てきます」
管の群れへ向かう足取りは、まるで炉の火加減を確かめに行く職人のような、迷いのないものだった。
太い管の前で足を止め、触れる寸前まで手のひらを寄せる。脈をひとつ、ふたつ、数える。隣の管へ。また数える。
目が、流れを追いはじめた。
何十本の管を、視線が上流へ、上流へと遡っていく。細い流れが太い流れに合わさり、太い流れがさらに束ねられて——闇の奥の、一点へ。
その様子を眺めながら、血管みてぇだな、と是印は思う。
どんな体も、血の道を遡れば、最終的に心臓に行き着く。
応星の足が、止まった。
肉の壁のふくらみの前。他より一段暗く、一段熱いその場所が、管という管を根元で咥え込んでいる。
「————ここ、です」
振り返らずに言う。
「全部の流れが、ここで折り返してます。ここを断てば、炉は二度と動きません」
是印と凝梨が見守る中、応星は、光の刃を両手で構えた。
斬るのではない。
切っ先をふくらみへ向け、腰を落とす。楔を打ち込むように。
——ふ、と息が落ちて。
光が、肉の奥へ埋まった。
根元まで。
拍が、跳ねる。
どくん、と床全体がひとつ大きくうねって——
終わりだった。
管が、端から震えを失っていく。太いのも細いのも、送るものをなくして、力なく垂れていく。床の熱が足の裏から引いて、生温かかった肉が、ただの冷たい物質に変わっていく。
凝梨は、是印の隣で、それを見ていた。
何も言わず、管という管が垂れていくのを、熱の落ちていく炉を、まばたきも忘れた目で、最後まで見届ける。
ただ、
袖を握る小さい手にだけ、力がこもっていた。
そして——静かになった。
この星に潜ってから初めてといっていいほどの、本当の静けさだった。
応星が刃を消す。それでも、しばらく動けなかった。
やがて、崩落の暗がりのほうへ体を向ける。届かなかった人たちの眠る、あの暗い口へ。何も言わず、目を閉じて、深く頭を下げた。
七年前、自分の星を救えなかった男が——いま、ひとつの星を救った。
是印は掛ける言葉を探して、やめる。代わりに、
「上出来だ。お疲れさん」
伸びをして、首を鳴らし、
「おーし、んじゃ帰んぞ。白珠もそろそろ迎えに来んだろ。もうこんなくせーとこはおさらばだ」
「……はい」
振り向いた顔は、ひとしきり泣いた後の子どもみたいに、少しだけ晴れていた。
凝梨の手を引き直して、歩き出す。
——と。
新品の腕の産毛が、ぞわりと逆立った。
「……あ?」
足を止める。耳を澄ます。何も来ない。骸炉は死んだ。脈も熱も、もうどこにもないはず。
気のせい、と断じたい。新品だから敏感なんだと信じたい。
だが、
「凝梨、乗れ」
そう言って是印は戸惑う凝梨を背負うと、
「応星、急ぐぞ。……イヤな予感がする」
全力で走り始めた是印たちの足下で、骨の髄にだけ触れる低い低い揺れが、確かに、鳴り始めていた。
来た道をとって返す、
とはいうが——行きと同じ道とは、とても思えなかった。
まず壁の肉がお亡くなりになっている。脈も熱も失せた通路はただの冷たい洞窟に成り果てて、響くのは是印たちの足音だけ。
その足音の底から、揺れが追いかけてくる。骨の髄だけを撫でる、低い、低い地鳴りがまるで得体の知れない怪人の笑い声のように思える。
背中の凝梨はあまりにも軽い。軽すぎて、時々ちゃんといるか確かめたくなる。首に回された細い腕に精一杯の力がこもっているのが、唯一の返事だった。是印は顔を引き締め、
「次、ひだ——」
「兄さん、次、右です! 外殻の穴まで、あと少しッ」
「右ね、右。俺もそう思ってたホントだよ嘘じゃないもんいつ何時何分何秒地球が何回まわったとき」
「よくわからない言葉ぶつくさ言ってる場合じゃないですよッ!!」
一回通ったとはいえ、似たような景色に途中から若干是印の記憶が怪しくなりはじめていたので、応星の記憶力に任せて突っ切っていく。
最後の角を曲がって——足が、止まった。
道が、溺れていた。
下りの通路の先、行きに星槎ごと滑り込んだあの区画が、まるごと黒い水に沈んでいる。天井近くまで満ちた水面が、油みたいに重く、揺れていた。
外殻の大穴から、海が入り込んだのだ。行きの水路が潰れたあと、覆いのない傷口を通って、じわじわと浸食され、
結果として、
出口は、水没していた。
「そ、そんな……」
「……マジか……」
どうすんだこれ。
迎えは来る。頃合いも間違ってないはずだ。だが来るって、どっからだと是印は思う。この溺れた玄関の、どこに翼が降りる。
背中で、凝梨の腕に力がこもった。足の裏の地鳴りは、もう気のせいと呼べない太さに育っている。
——最初、見間違いかと思った。
だが、違う。見間違いではなかった。
水面が、動いていた。
波ではなく、水面そのものが、傾ぐ。
黒い水のかたまりが、見えない手に裾を引かれるみたいに、大穴のほうへ流れはじめる。
引いていく。
渦を巻き、唸りを上げて、区画を満たしていた海水が、穴の外へ吸い出されていく。濡れた床が現れる。壁が現れる。行きに星槎が削った
空になった大穴の向こうに、光の道が立っていた。
水の壁に挟まれた空洞が、海面まで、まっすぐ。遥か頭上、道の果てに、針の先ほどの光。
そんな真似が出来るのはひとりしかいない。
「これ……丹楓さんの水路……入り込んだ海水ごと、引き戻したんだ……!」
「うらっしゃ、ふーたん、帰ったら
思わず応星と抱きしめ合うが、それでも出来上がった路は行きとは別物だ。
行きの水路は、今にも潰れそうに痩せて、脈打って、震えていた。いま立ち上がったばかりの道は、太い。まっすぐで、壁は磨いた硝子みたいに静止している。
どうやら上の戦況も、よりこちらに力を割けるくらいには優勢になってきているのかもしれない。そして、
その光の道を——点がひとつ、落ちてくる。
みるみる大きくなる。翼。細身の機体。水路の壁すれすれを、削るように、一直線。それは、
白珠の、本当の翼だった。
機体は大穴の手前で機首を跳ね上げ、腹を見せて滑り込み、ぴたりと静止した。行きの小太りに散々振り回された身からすると、嘘みたいな止まり方だった。
風防が開く。
「——お待たせしました! 乗ってください!」
待ちわびていた白珠の声だった。
思わずわーいと是印が飛び上がろうとした時、
——首に回っていた細い腕から、ふ、と力が抜ける。
ずり落ちかける小さい体を、是印は慌てて背負い直す。覗き込めば、凝梨は目を閉じていた。呼吸はある。深い。糸が切れたように——いや、実際、切れたのだ。
迎えの翼を見て、本当に助かったと分かった、その瞬間に。
「……頑張ったな、お前も」
誰にも聞こえない声で言ってから、是印は鸞影に歩み寄って、思わず固まる。
鸞影は行きの小太りとは似ても似つかない、速度と戦闘に全部を振った高速星槎である。
近くで見れば一目瞭然、機体のほとんどが推進器と武装だ。翼と機関のあいだに、人の入る隙間をかろうじて彫り込みました、という造りで——操縦席の後ろには、荷物入れに毛の生えた程度の窪みがひとつ。客席と呼べる場所は、それで全部だった。
もともとの算段なら、あの窪みに野郎二人が膝を抱えて折り重なる。詰めれば入る。積み荷と大差ない扱いだが、入るには入る——はずだった。
是印は、背中の眠り姫を背負い直す。
計算に入っていなかった、小さい客。
脳裏をよぎるのは、行きの飛行だ。帯が肋骨に食い込み、固定具がボルトごと天井に刺さった、あの暴力。この翼は、あれより速い。あの中で意識のない子供を腕で抱えて耐える? 万一があれば冗談では済まない。潰すか、取り落とすかの二択になりかねない。
となれば、寝かせるしかない。窪みの底に、機体に密着させる形で。
……で、残る隙間は、詰めてあと一人。
状況を察した白珠も、なんともいえない表情をしており、
「白珠、こいつを頼む。奥に寝かせてやってくれ」
「……わかりました。詰めれば、あとひとりくらいならなんとか……」
「応星、お前が入れ。俺は……外に張り付く」
その発言で以前の光景がよみがえったのか、すぐさま白珠が、
「是印さんっ、危険すぎますっ!!」
「んなこた、わかってる」
信じられないという顔をしながらも、端的な是印の返答に白珠は押し黙る。
肩をすくめつつも、是印は思う。男より女子供が優先と、そう古来より女子禁制の塾の教えで決まっている。それに、
仮に隙間があとふたつ余っていようが、外だ。
足の裏の地鳴りは、止むどころか依然として育っている。そこから去来するイヤな予感もまた、この胸に巣くっているのだ。
その予感がもし的中することがあれば、即座に対応出来るようにしておきたかった。
だが、言ってから、是印は額をかく。
——前にやったときと違うのは、今度はアレがねぇ。死ぬ気で掴まるしか——、
目の前に、ぬ、と綱の束が突き出された。
見覚えのある
「……お前、なんでこんなん持ってんの」
「朱明の一件以来、白珠さんの機体に乗る日は、必ず入れてます」
応星は腰の道具袋を、ぽんと叩いた。
「それに、兄さんは、……いつか絶対、もう一度やると思ってたので」
是印は口をへの字にし、応星の眉間を突こうとして、
「それと——」
束が、もうひとつ出てきた。
「僕も、外に張り付きます。これ、ちゃんと、二人分あります」
「あ? バッカ、お前なに言って——」
「兄さん。外に出る本当の理由、僕に隠してますよね」
「…………」
「この地鳴り。脱出の時と、上で何か来るなら、兄さんひとりの両目じゃ足りません。右と左、前と後ろ、上と下、二人で貼り付いて分担すれば、全部見えます」
「そういう話じゃねぇ。お前にゃ危ねぇっつってんだよ」
「イヤです。譲りません」
まっすぐ、澄んだ目が微動だにしていなかった。
——こいつ。
「……お前、なんか変わったな」
「自分をすぐに棚に上げるし、いつも無茶するし、
華麗にカウンターが決まった瞬間だった。
頭を抱えてひっくり返りそうになるのをどうにかこらえて、是印は、
「…………誰だよそいつ」
「はい。兄さんのせいです」
今度はどストレートだった。
頷くに頷けないでいると、一際大きな振動が辺りを襲う。天井から破片が降ってくる。
議論はそこまでとばかりに、操縦席の白珠が叫ぶ。
「——ああっ、もう二人とも男の子しすぎですっ!! あたしも最善を尽くしますから——もうとにかく頑張ってください!」
「はいッ!」
応星の手は、もう動いていた。是印の索を引き取って機体の係留具に通し、見たこともない速さで結び目を組んでいく。自分の分も、同じ速さで。引いて、確かめて、もう一度引く。
限界まで引き絞ったと思ったその上から更なる膂力で、結び目をガチガチに固めてくれる手があった。
一瞬だけ目をつぶり、自分の胸元に視線を走らせてから、是印は、
「とにかくしがみつくことだけ考えとけ。絶対、手、放すなよ。放しやがったら俺がコロス」
「あうっ」
結局、眉間を応星は突かれた。
「でもま、安心しろよ。——腹ァくくったわ。
何があったって、俺がなんとかしてやる。ジジイに丸焼きにされんのは勘弁だからな」
白い歯を見せて、そのまま、是印は凝梨を後部座席に沈めて、帯を三重に締めた。眠ったままの体が、揺り籠に収まるみたいに収まる。
「準備どうですかっ!」
両翼にそれぞれ手足を引っかけた是印と応星が片手を上げるのを見て、風防を閉じ、白珠は発進工程を進める。操縦桿を握り、
「舌、噛まないでください——ねっ!!!」
言い終わるが早いか——景色が、潰れた。
加速。
風防のない場所で浴びる白珠の加速は、暴力だった。索が体に食い込み、頬の肉ごと後ろへ引かれる。大穴を抜け、機体は光の道を、垂直に近い角度で駆け上がっていく。
——これ応星大丈夫かよ!?
だが。
だが、自分でやると言った。もうケツくらい自分で拭けるとばかりに。だったら信じ
両側は、水の壁。
磨かれた硝子の壁が、猛烈な速さで流れ落ちていく——ように見える。
落ちているのは壁じゃない。昇っているのが、こちらだ。頭上の光の点が、硬貨ほどに、皿ほどにとみるみる育っていく。
行きに三百数えた道を、この翼はいくつで抜ける気だ。
——ふと。
壁の向こうを、影がよぎった。
目の錯覚かと思った。もう一度。
今度は、はっきり。
魚のかたちをした正体不明の影。だが、まさか本当に魚な訳がない。
機体と並んで、水の壁一枚向こうを、悠々と——併走している。
数は、一体じゃなかった。
右に、二つ。左に、もっと。上は、数えるのをやめるほど。ヒレを持つもの。翼のかたちを畳んだもの。大きさも輪郭もバラバラなおびただしい数の影の群れが、水の壁越しに、同じ方向へ昇っていく。
壁は、破られない。龍尊の水は、まだ髪一筋も揺るがない。
ただ——向こうも、急いでいる。
同じ光を、目指して。
頭上の光がさらに巨大になり、水路の出口と化す。その白い円の縁を、影たちの黒がじわりと侵しはじめて——
光が、爆ぜた。
空。
風の質が変わる。潮の匂い。機体が海面を割って、ついに、
光の中へ躍り出た。
潮の匂い。風。頭上に、どこまでも高い天。
一瞬——ほんとうに一瞬だけ、世界には静寂があった。
——是印たちが、知る由もなかったのは不幸と言える。
光すら届かない闇の中で、
タラサの海の底で、骸炉は確かに死んだ。
新たな命が、あの炉から産まれることは、もう二度とないだろう。
——だが、それは「これから」の話だ。
あの炉は、死して停止する寸前まで働いていた。
是印たちが忍び込んだ時すらも、足の裏で、どく、どく、と脈打っていた——あの拍の、ひとつひとつが
昨日も。ひと月前も。そのずっと前から、幾年も——炉は、産み続けてきた。
これから産まれるものは、もう、いない。
だが——すでに産まれてしまったものたちは、いる。
海底の囲いの中で、餌を与えられ、育てられ、出荷の日だけを待っていた群れ。
育ちきったものも、まだ半ばのものも。誰にも数えられたことのない、幾年ぶんの蓄え。
主を亡くし、王に置き去られ、それでもなお、彼らは従順だった。
海底にまで達した、去り際の王の咆哮。
——目を覚ませ。
——喰らい尽くせ。
その呼びかけに応えるよう、
誰にも刈られることのなくなった最後の収穫物——器獣が、いま、一斉に囲いを食い破り、海上を目指し——そして、
たどり着く。
静寂は
右で。左で。前で、後ろで。海面から水柱が林のごとく立ち上がり、その一本一本の中から、濡れた影が躍り出てくる。
ヒレを持つもの。翼を広げるもの。水路の壁ごしに併走していた輪郭たちが、硝子の向こう側から這い出てきていた。
白珠が何事かを叫んでいるのが見て取れ、同時に鸞影が横へ滑る。
翼が波頭を切り、左舷の
が、落としたそばから、海がまたよからぬ命を吐き出す。
見上げれば、空にはもう、翼の影が円を描きはじめていた。
そう、
上を仰いでも、下を睨んでも、右を向いても、左を確かめても。
数え切れないほどの器獣たちが、この小さな翼ひとつへ、全方位から群がろうとしていた。
雲騎軍本隊の艦影は、遥か向こう。
このまま逃げ込めば、この群れをまるごと土産に連れて行くことになる。
振り切る?
無理だ。あまりにも数が違う。
どう——
衝撃。
飛行型の器獣一体が、すれ違いざまに機体をかすめた。
翼端が軋み、機体が
白珠が瞬時に立て直す——その遠心力に、金属の悲鳴が重なった。
そのせいだったのだろう。
係留具が、板金ごと剥がれた。
——どちらの?
是印の方はまだ固着したままだった。
——では?
応星の体が、宙に投げ出される。
実に呆気ないほどに。
光の刃が一閃、自分の索を断ち割って、是印は機体を蹴った。
頭を下に。腕を絞って。体を、一本の矢にする。
風が吠え立てる。目玉が潰れそうになる。遥か下で、応星が回転しながら落ちていく。小さくなっていく。
届け。
届け、届け、届け——
指が、空を掻いた。
もう一度。
——届、
いた。
手首を掴んで、引き寄せる。ぶつかるように抱き合って、二人分の落下が、ひとつになった。
「兄さ……っ!」
「言わんこっちゃねぇな」
笑ってみせる。
風は変わらず吼えている。
海は変わらず迫ってくる。なのに——同じ速さで落ちる二人のあいだだけ、世界が凪いでいた。
上も下もない。目の前に応星の顔があって、その向こうで、空が回っている。
「なぁ、応星」
声は、届く。この距離なら。
「もう過去に縛られんのは、これで終わりにしろよ」
目が、見開かれる。
「お前の大切な人たちが繋いでくれた命をさ、これ以上、過去のために費やすのは——
「……ッ」
「もう、誰かの昨日じゃなくて、お前の明日に生きようぜ」
応星の唇が、何かの形を作りかけて——やめた。
「んじゃ、新しいお前のために景気づけ行くかァ!」
是印は、まるでそこにある何かに伝えるように胸を叩き、応星の顔へ、
にっと歯を見せてやる。
「やるなって言われたからやらない?
きっと後悔する?
取り返しがつかない?
知るかバーーーカ。
大事なモンは、そんなとこにねぇよ!
どこまでだって自由。
それが"解放"だってんなら、そうだ。
それが "俺" だ!!
文句あっか、見とけ、引きこもりィッ!!
なぁ応星、手伝えよ。
——お前だってさ、あのクソ共に、
まだブチかまし足りてねぇよなァッ!!!」
懐から、相棒の銃を引き抜いた。
――
――
――
――
――1.
-> 2.
――
選ばれたことのなかった側の名を、機械の文字が、初めて完全な形で綴った。
――
――
『下僕サンプルへ。新しいおもちゃにはしゃがないこと。あと、悪意の塊みたいな諸刃の剣仕様は——直しちゃった。Herta』
「やっぱヘルタ様しか勝たァーんーーーッ!!」
是印が差し出すカートリッジを応星が受け取る。
促されるまま、応星の目が機構の上を一度だけ撫でて、スライド、装填、ロック。初めて触れる銃のはずだというのに、すぐさま順応していく。
―― ->
——じゃあ、そうじゃない時に使えばいいんじゃない。
いつかの、ひどく雑なお言葉が頭の隅をよぎる。
そうじゃない時が来ましたよ、ヘルタ様。
しかも、とびっきりのやつがさ——
――
銃身が——開いた。
かつて壊れたはずの機構が、花弁のように、翼のように、幾重にも割れて展開していく。
開いた一枚一枚に青白い光が灯って、落下する二人の周りに、光の翼が生えた。
是印は開き切った銃身を、まず眼下の海へ向ける。
薙ぐ。
筒先の通り道で、数字が弾ける。
――
薙いだ先から、片っ端に数字が積もる。そろばんでも弾いてるのかという速さ。
と、グリップの上——重なった手に、ぐ、と力がかかる。
応星の目が、上を向いている。
言葉はもはや不要。重なった手のひらの圧だけが、行き先を教えてくる。
銃身を、天へ振り上げる。旋回しながら円を描いていた翼の群れを、光の筒先が薙いで——
――589……1044……1730……
落下は、止まらない。世界が回る。海が上に、空が下に。
——構うか。
回るってんなら、回転ごと照準にする。
なるほどな——と、頭の隅で、妙に冷めた己が笑っている。
-> 2.
狙ってるのか知らないが、
これだから、性根のひん曲がった
だが、これで整った。
銃身の根元から、花が咲いた。
淡い燐光の球が、二人を包むように膨らむ。球の内側に——世界が、映る。
下半分に、海。上半分に、空。三百六十度の空域がまるごと縮められて、手の届く距離で灯る。
そのそこかしこに、赤。
海に、空に、赤い星が、疫病みたいに殖えていく。一粒が、一体。全天の凶星の星図が、目の前で描き上がっていく。
――2418……2977……3097……
その赤の海をただ一筋——白い光が、縫って飛んでいた。
――
――
――
3246の赤から、たったひとつの白である鸞影が、静かに外される。
――
――
殺し尽くす群れと、守り抜くひとつを——砲が、選り分けた。
「——
――
――
――
「その命が
重なった手に、力がこもる。
群れが来る。全方位から、光の翼へ。
「——解き放て!!」
引き金は、ひとつ。引く指も、ひとつに。
「
世界が、白に呑まれた。
開いた翼の一枚一枚から、無数の光条が、同時に、ありとあらゆる方向へ奔る。上へ。下へ。右へ、左へ、斜めへ、背中の向こうへ。
墜ちていく星の、その中心から——光が、撒かれた。
一条が、一体を。
光が、褪せていく。
耳鳴りの向こうで、世界が静まり返っていた。
海は湯気を上げて、もう何も産まない。
そして空には——軌跡が、残っていた。
万条の光、その夢の跡が、焼きついたまま消えずにいる。すべての線は、たった一点から放たれている。誰の目にも、それと分かる形で。
……あー。やっちまった。と是印は思う。
高揚が引いたあとで、冷たいものが差し込んでくる。
地下の底で振るった剣とは、わけが違う。艦隊の見ている空のど真ん中で、打ち上げ花火をド派手にぶちかました。雲騎の兵が見た。潮を読む
歴史ってやつが、いま確かに、こっちをガン見しているに違いない。
観測しに来た男が、空に落書きしてどうするのか。
取り返しは、つかないだろう。でも、いいのだ。だって、好き勝手生きようとしたら、仕方ない。そのついでに書いてしまったもんは、もう——
——
「——うぇっ!?」
目を、疑った。
空に焼きついていた万条の軌跡が、端から、白く塗り潰されていく。
もっと大きな光が、立ち上がっていた。
海と空の境を割って、途方もなく巨大な何かが、光そのものとなって顕れる。
雷をまとった、山のような影。見上げても、見上げても、全容が目に収まらない。ただ、まばゆい。
神々しいという表現すら、生温く感じ——思い出した。
——羅浮の雲騎には、将軍にのみ従う雷の
食堂で飯をよそってるとき、雲騎兵たちが半分法螺のように囁いてた与太話だ。
帝弓が、将軍の位とともに授けるという守り神。やたらありがたい長ったらしい尊号を持つらしいが、長すぎて誰もまともに覚えちゃいない。
だから頭と尻の字だけ取って、一部の者たちはこう呼ぶ——
千の軍勢より、一柱の神。
話半分に聞き流していた、それが。
あれか。
あれが——神君か。
もちろん見えるわけがない。
是印が睨む雲騎軍本体の方角では、
戟を下ろし、
「ふいー、おじさん、間一髪まにあったって感じ?」
遥かな艦隊の上で、切り札を切ったばかりの泰山の将がごちている。
雷の巨影が海のすべてを白く染め上げ、是印の書いた空の落書きを、桁違いにでかい筆が、上から塗り潰していく。
偶然か。狙ってか。
——考える頭は、もう回らず、とにかくラッキーとしか思わなかった。
落下の風の中で、応星は、その光を見ていた。
ちょうど——差し込む、朝日のようだと思った。
夜が明けるように、世界のすべてが、白く塗り替えられていく。
——誰かの昨日じゃなくて、お前の明日に生きようぜ。
耳の奥で、さっきの声が、まだ響いている。
よぎったのは、両親の顔。工房の鎚の音。故郷の、もう戻らない朝。この七年、振り返ることでしか繋げなかった、大切なものたち。
あの日から、自分の時間は、止まったままだった。
その止まった時間の上に——いま、朝日が差している。
自分を抱える腕は、この期に及んで、少しも震えていない。振り仰げば、砲を担いだままの横顔が、まぶしそうに光を見上げていた。
無茶苦茶な人だ。
無茶苦茶で、隠しごとだらけで、それなのに——誰より、まっすぐに、前だけを見ている。
この光景を、一生、忘れないと思う。
そして。
降りそそぐあの万条の光が、願いを託す流星の雨だと言うのなら。
応星も、ひとつだけ、託した。
言葉にすれば、たった一言きりの願いを。
——この人のように、なりたいと。
光が、引いていく。
風と、落下が、戻ってくる。
耳はまだ、じんと痺れたままだ。
世界から音が抜け落ちて、風のうなり声だけが鳴っている。
空には、もう何もない。
万条の軌跡も。赤い星図も。追ってくる影も。
撃ち尽くした銃身が、熱を吐きながら、ゆっくりと畳まれていく。
腕の中で、応星がこちらを見上げていた。
何か、言っている。風に千切れて、届かない。
眼下に、海。
もう影ひとつ湧かない、ただ広いだけの海面が、恐ろしい速さで迫り上がってくる。
手札は、ない。砲は撃ち尽くした。両腕は銃と応星でふさがっている。
なのに——不思議なくらい、怖くなかった。
「……あとは、おいしいとこ頼むわ。ふーたん」
目もつぶらず、是印はただ、迫ってくる海を見ていた。
その海が——盛り上がった。
海原の一点が、丸く、静かに膨らんでいく。膨らみの頂が割れて、太い水の柱が、真っ直ぐ、二人だけへ向かって伸び上がってきた。
龍尊の水が、迎えに来る。
水の頂が、綿のように二人を受け止める。呑まれる。音が、消えた。
落下の勢いが、腹の底を通り抜けて、水の深くへ、ゆっくりと流れ出ていく。骨に響くはずだった着水が、大きな手のひらに抱き取られるみたいに、殺されていった。
水越しに、光が揺れている。
神君の、光の名残。水面の向こうで、世界はまだ、ほのかに明るい。
柱が、ゆっくりと頭を垂れていく。壊れ物でも運ぶような速さで、二人を海面へと降ろしていく。
波の音が、戻ってくる。潮の匂い。頬を叩く飛沫のひと粒ひと粒が、生きて帰ってきたことを、いちいち教えてくる。
——その鼻先へ。
翼が、滑り込んできた。
鸞影。
風防の中で、白珠が涙を拭って、そして笑った。
波間に揺られながら、是印は応星に目配せをして——、
二人してボロボロの姿で、親指を立てる。
執筆時BGM:『飛天』Ayase×R-指定、『Happily Ever After』中川翔子
さ、最長……てへぺろなりぃ。
でもこの話を書けてよかったと思う。