ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#80 "彼は、永久(とこしえ)の契りを結ぶ - 前編 - "

 

 

 

 

 

 造翼者(ぞうよくしゃ)と慧駿族(けいしゅんぞく)との大戦(おおいくさ)が終わり、仙舟はつかの間の安らかな時を得た

 

 ——かと思いきや、

 

 朝一番に穏やかな空気を切り裂くように響いてきたのがこんな声だった。

 

 

 

「——先生〜〜!! 桜を見に行きましょうッ!!」

 

 

 

 絶え間なく一定の間隔で振り下ろされていた木剣は、鏡流のため息と共に動きを止める。

 

 見れば、案の定というか朝の清浄な空気を引き裂いた是印。そしてその後ろから続くようにやってきた丹楓の姿がある。

 

 なんというべきか、……頭でも痛そうに眉をひそめていた。

 

「……朝から何だ、是印。丹楓も」

「いや~花見のお誘いってやつっす、花見。なんかふーたんから教えてもらったんすけど、方壺(ほうこ)で桜が咲いてるらしいんですよ。ちょうど戦も片づいたことですし、ここらでひとつ、ぱーっと小旅行でもしましょうよ~」

「行かぬ」

「俺の先生が即答過ぎる件」

「誰がお(・)前(・)の(・)先生だ!!」

 

 鏡流は木剣を是印の鼻先に突きつける。なんなら先端が少し当たってしまっており、豚鼻のようになっていた。

 

 だというのに、焦った様子はなく、是印はちらと丹楓の方へ視線をやってから、頭を動かし、

 

「――やーだって、約束したじゃないですか。先生に素晴らしいものを教えるって」

 

 距離を詰め、小声で耳打ちをしてくる。

 

 こそばゆさについ声を上げそうになったが、どうにか裏拳を是印の鳩尾に打ち込むことでこらえる。

 

 

 ——豊穣じみた面妖な体質を持つこの男は、どうせ下手に切り捨ててもすぐに治ってしまう。

 

 

 であるならば、少なくとも罰という意味においては斬るより、殴った方が効くと最近ではわかってきた。

 

 いかに傷が早く治ろうとも痛いは痛いわけで、切り傷が「その瞬間に場所がハッキリとわかる痛み」だとしたら、打撲は「後から広がって居座る痛み」と言えるだろう。

 

 反省を促す(わからせる)上では後者の方が好ましいし、たまには剣を持たずブン殴ったほうがスッキリするというのは、ある意味この男に教えられたことなのかもしれぬと、口にこそ絶対にしないが鏡流も少し思っていたりする。

 

 

 さておき、ぬおおお……と悶絶して地べたを転がり回っている是印を避けつつ、丹楓は額を押さえ、

 

「――つくづく、この男は経緯を飛ばすきらいがあるとは思っていたが……」

「……どういうことだ」

 

 

 

 

 

 

 聞けば、丹楓はある友に頼まれ、方壺(ほうこ)まで付き添うことになっていたらしい。

 

 是印に声をかけたのも、旅の間、その者の世話を手伝ってもらうためだった。

 

 

 ——その友の名は滄淵(そうえん)。

 丹楓と同じ持明族であり、彼らで言うところの寿命――すでに脱鱗(だつりん)の時が近づいていた。

 

 滄淵は丹楓に輪をかけた堅物で、およそ理の通らぬことには、頑として首を縦に振らぬ男なのだという。それは相手が龍尊であろうと例外ではなく、丹楓自身、若い頃には何度となく諫(いさ)められたらしい。

 

 もちろん最初の頃は丹楓とて、分をわきまえぬ無礼者という腹立たしい思いはあった。

 

 だが、不思議なもので、そんな彼ら持明族の序列においては頂点に位置する龍尊にも、物怖じすることなく言うべきことは直截(ちょくせつ)に伝えるこの滄淵(そうえん)という男の存在は、丹楓にとって新鮮かつ貴重であり、そう時を待たずして、二人は友と呼べる間柄となっていった。

 

 また滄淵は吝嗇家(りんしょくか)でもあり、俗世にはびこる数多の悦楽の類いからも距離を取り、晴れの日は畑を耕し、近所の子供に学問を教え、雨の日にはひとり読書に耽(ふけ)る。そんな男でもあった。

 

 自分の欲に厳しいこの男は、人との付き合いでも情に流されることをよしとしなかった。

 

 ——情にほだされて親しい一人に便宜を図れば、同じように願っても聞き入れてもらえなかった者へ申し開きが立たないよ。

 

 滄淵はそう言って、相手が誰であろうと決まりを守らせた。まして、自分だけが例外であってよいはずもない。

 

 そんな他人にも厳しいが自分にはもっと厳しい男が、どうしても会っておきたいと願う相手がいた。

 

 

 

 ——方壺に暮らす、翠蓮(すいれん)という短命種の女性だった。

 

 

 

 彼女はかつて、応星がそうであったように、戦火に呑まれた故郷の星から仙舟に落ち延びてきた難民の一人だった。

 

 大勢を乗せた避難船は長い航行の末に食糧も底をつき、広大な宇宙空間を漂いながら、救難信号を発していた。仙舟の一団がたまたまその信号を受信し、たまたまその場に居合わせ、捨て置けないと義侠心を熱くしたひとりが滄淵だった。これを巡り合わせと言わずして何と呼ぶべきか。

 

 だが、有志を募り救助に向かう途中で、滄淵たちに避難船を追ってきた敵艦と思しき存在の接近が報じられた。戦闘を予期していなかった滄淵らは見捨てるかそれでも救うかの選択を迫られ、

 

 

 ――救助を取った。

 

 

 付近の雲騎軍へ応援を求める通信も発した。だがいつ到着できるかという返答を待つ余裕はなかった。

 

 救助用の星槎を避難船へ接続し、衰弱した老若男女たちが折り重なっている異様な光景

の中で、まだ息がある者たちを片っ端から星槎へ運び込んでいく。時間はあまりにも少なく、数回往復したところで、

 

 

 ——切り上げ時だと誰かが叫んだ。

 

 

 すでに助け出した者たちを無事に連れ帰らなければならない。滄淵は捜索を打ち切り、他の者たちに退避するよう命じた。

 

 最後に自分が殿(しんがり)として周囲を確認した時、崩れた隔壁の奥から聞こえたのは、

 

 赤子の泣き声。

 

 最初は気のせいかと思った。

 

 息を止めてみる。耳を澄ます。

 

 ——気のせいではなかった。

 

 そこまで辿り着けるかも、戻る時間があるかも分からない。自分が戻れば仲間たちも後を追いかねない。が、この逡巡(しゅんじゅん)すらも惜しかった。滄淵は、自分が戻るための星槎を一艇だけ残し、仲間たちには離脱するように言い残し、

 

 そして、たったひとりで引き返した。

 

 崩れた隔壁の隙間は、肩を通すのがやっとなほど。

 

 滄淵は横向きに身体を押し込む。めくれた金属の縁に袖が引っかかる。引けば、布と一緒に腕の皮膚まで裂けた。走る痛みに顔をしかめ、それでも構わず向こう側へ身を滑り込ませる。

 

 泣き声はまだ奥から聞こえていた。

 

 携行灯を向ける。倒れた座席と荷物が通路を塞ぎ、その向こうまでは照らせない。

 

 一個一個をどけている時間などなかった。手荒でも蹴飛ばし、乗り越え、隙間へ手をつき、声のする方へ進んでいく。

 

 

 その時、船体が大きく突き上げられた。

 

 

 肩を壁に打ちつけ、倒れたところへ、棚から剥がれた金属板が落ちてくる。間一髪、上体を横にずらし、どうにか腹のあたりで真っ二つになることは避けられた。

 

 だが、その代償か。脚に鋭い痛みが走った。いったい何が起きたと振り仰いだ頭上で、天井の継ぎ目が開口していた。どうやら半分落ち、それは避けられたが、もう半分が続いて落ちてきて脚に当たったらしい。

 

 ——痛ゥ……敵が追いついたか。

 

 腰の通信器から、救助者を乗せた星槎はすべて離脱したと報告が入った。それに続いて、仲間の切迫した声が響く。

 

『敵艦がそちらへ撃ち始めた! 滄淵、今どこにいる!?』

 

 その声に重なっていたはずの泣き声が、気づけば途切れていた。

 

 息を飲む。

 

 船体の軋む音ばかりが聞こえる。

 

 灯りを左右に振った。座席の陰へ、荷物の間へ。どこにも小さな声の主は見えない。

 

 

 ——間に、合わなかったのか。

 

 

 そう考えた途端、まだ捜してもいない場所へまで勝手に見切りをつけかけている自分に気づいた。

 

 滄淵は歯を食いしばり、脚の上の金属板を押し退けた。立とうとしたがガクンと膝が折れた。どうやら、骨もまた折れているらしい。

 

 這う形となり、それでも最後に声が聞こえた辺りへ手を伸ばす。

 

 

 ——もう一度。もう一度だけ、泣いてくれれば。

 

 

 普段は騒ぐ子供たちへ静かにしなければいけないよと教えているが、この時ばかりはひたすら信奉する帝弓の司命(嵐)に対し願、——視界の隅

 

 

 倒れた座席の下に毛布の端が見えた。

 

 

 滄淵はそちらに進む。灯りを床へ置き、頬が床につくほど頭を下げる。

 

 奥に、小さな手が見えた。

 

 手を伸ばし、指先で触れても、動かなかった。

 

 手首を取る。細すぎてそれだけで折ってしまわないか心配なほどだった。引っ張ることはできず、座席の脚へ肩を当て、軋むそれを少しずつ押しずらしていく。

 

 ようやく、毛布の中へ両手が届いた。

 

 包まれていた赤子は、目を閉じていた。

 

 ——頼む、と、

 

 滄淵は顔を寄せた。

 

 小さな唇が、わずかに開く。

 

 息を吸い込む音がして、

 

 そして、エゥとしゃくりあげるように泣いた。

 

 ひょっとして気のせいかと思うほど、ひどくか細く頼りない声だった。

 

 だがそれでも確かに、その命の火はまだ消えていなかった。

 

 滄淵は赤子を抱き上げる。どこへ手を添えればよいか見当がつかず、おっかなびっくりに毛布ごとすくい、胸元へ引き寄せた。

 

「…………よかった」

 

 色々言葉が浮かんでは消え、最終的に出てきたのはそれだけだった。

 

 通信器の向こうでは仲間が必死の呼びかけをしている。

 

 滄淵はそれに短く「見つけた」と応え、座席へ背を預けて立ち上がった。脚の痛みに顔をしかめざるを得ないが、どうにか気付け代わりに自分の頬を叩き、叱咤し、気づく。

 

 壁際に事切れている女がいた。その手は先ほど赤子がいた方向に向けて伸びている。

 

 ひょっとしたらこの女がこの子の母親なのかもしれないと滄淵は思うが、確固たる証拠もなく、今の状況ではただ冥福を祈ることしかできなかった。

 

 また、避難船が揺れる。

 

 女から意識を無理やりはがし、滄淵は来た時に身体をすり抜けさせた隙間を、今度は片足が使い物にならなくなった状態、かつ、赤子を庇いながら通っていく。

 

 愚痴を言っている暇などない。

 

 背を丸め、傷ついた腕を金属の縁へ押し当て、小さな頭に当たらぬよう、踏ん張りの利かないその身で歯を食いしばり、どうにか隙間を広げた。

 

 接舷口までようやっと戻り、窓の向こうの光景を認めるなり——脚を止める。

 

 

 

 残しておいたはずの星槎の船尾が、なくなっていた。

 

 

 

 砲撃で引き裂かれたらしい船体が接続部に辛うじて引っかかっている。誰がどう見てもこれで飛べるとは冗談でも言えなかった。

 

 血で汚れた毛布の中で赤子が身じろぎをした。滄淵はその顔を確かめ、壁に手をついて向きを変える。

 

 その先では、非常脱出区画への案内が灯っていた。

 

 片足を引きずり、辿り着いた先には救命ポッドが並んでいた。自力で遠くまで飛べるものではない。誰かに拾われ、命を繋ぐための小さな希望の方舟(はこぶね)だった。

 

 それでも、赤子を抱いて乗り込んだ。

 

 座席へ身体を押しつけ、射出の操作をする。

 

 

 動かなかった。

 

 

 さすがの滄淵でもたまらず操作盤を叩く。表示が一瞬だけ明るくなり、また消えた。

 

 船内の動力が不安定なようだった。

 

 万事休す。天は我を見放したのか——そんな言葉が滄淵の頭をかすめる。

 

 ——だが、諦めるわけにはいかない。自分はよくても、この子は。

 

 何かないか。

 

 あった。

 

 本当に余裕がないらしいと思わず滄淵は苦笑する。

 

 脇の覆いを外し、見つけた非常用の手動レバーを掴んだ。赤子を片腕に抱いたままでは、力が入らない。血で滑る掌を服へ擦りつけ、握り直す。

 

 船体が、割れたかと思うほど揺れた。

 

 その拍子に膝をついてしまう。もう一度立つことができず、レバーに取りつき、身体の重みをかけて引き下ろした。

 

 扉が素直に閉じる。ここまで動けば後は自動だ、頼むともう一度願う。

 

 気が遠くなるような間があり、激しい加速が身体を座席へ押しつけてきた。

 

 小窓の向こうで、避難船の外壁が遠ざかっていく。その船腹を砲火が貫き、吹き飛ばされた破片が窓の外を次々と横切った。

 

 ——どうか、どうか当たらないでくれ。

 

 当たれば最後。このかよわい救命ポッドなどひとたまりもない。

 

 紙一重の状況でただひたすらに滄淵は小声でつぶやき続ける。その面持ちが恐かったのか、あるいは伝わってくる衝撃の余波のせいか、

 

 赤子が泣き始めた。

 

「こ、こら。泣いてはいけないよ」

 

 なだめるつもりが、つい、いつもの子供を叱る時のような口調になってしまう。

 

 赤子はいっそう顔をくしゃくしゃにした。

 

 滄淵は口を閉じた。

 

 何をすればよいのか。腹が減っているのか。どこか痛むのか。何も分からない。

 

 ただ、泣きながら開かれた目に、自分の顔が映っていた。

 

 滄淵は強張った口元を揉む。

 

「……すまない。怖い顔だったね」

 

 今度は口の端をゆっくりと持ち上げようとする。

 

 笑いかけたつもりだった。だが、滄淵とて命の瀬戸際だ。恐怖で引きつった頬はうまく動かず、とても笑顔とは言えない表情しかできない。

 

 赤子は泣きやまなかった。

 

 そういえば、家の近所の母親たちはあやすとき、どうしていたか。たとえば、

 

 滄淵は自らの長髪を片手で一房まとめて髭をつくる、そして、

 

 頬を膨らませ、すぼめる。舌を少し出して、また引っ込める。実に不器用なべろべろばぁ。普段なら行儀が悪いとたしなめるような顔を何度も何度も作ってみせる。 

 

 「ほら。……ほら、どうだ」

 

 赤子がしゃくり上げる合間に、もう一度、頬を膨らませていると、

 

 その目が滄淵の口元で止まっていることに気づく。

 

 じっと見ている。

 

 滄淵はひたすら同じことを繰り返した。外の惨状との落差などもはや気にしていなかった。

 

 ひょっとしたら現実逃避で。

 

 ひょっとしたら狂気の沙汰で。

 

 ひょっとしたら死を前にした今、できることなどもはやこれくらいで、おまけにこの世に生を受け、本来ならばこれから数多待ち受ける希望と絶望の波間を進んでいかんとする幼子(おさなご)に、これほどまでに早く、泣き顔のまま最期を迎えさせることが忍びなかったのかもしれない。

 

 首を傾げ、少しだけ、おどけた声まで出してみせた。

 

 小窓の外で、また光が弾けた。

 

 肩が跳ねる。赤子を抱き寄せた腕に力が入り、傷が痛んだ。

 

 だが、眉を動かすだけでどうにか堪えた。

 

 だって、この幼子がまだ見ているから。

 

 

「……大丈夫だよ」

 

 

 震える口元で、もう一度挑戦し、今度はちゃんと笑ってみせた。

 

「私は君の側にいるから」

 

 

 その時、通信器が鳴った。

 

 

『こちら雲騎軍。そちらの救命ポッドの信号を捕捉しましたっ。しばしお待ちをっ!!』

 

 滄淵は信じられないと顔を上げた。

 

 窓の向こうでは新たな砲火が敵艦へ向かっていた。救援要請を受けた戦闘用星槎が到着し、追手との間へ割って入っている。

 

 

 ――後から聞けば、先に離脱した仲間たちが避難船の位置を伝え続けていたのだという。そして、それは雲騎軍でも屈指の飛行士の元に届いたのだと。

 

 

 敵艦は応戦したが、ほどなく艦首を巡らせ、さらに増援が続く雲騎軍の砲火から逃れるように遠ざかっていった。

 

 滄淵は通信器と窓に交互に目をやる。

 

 迎えが来る。つまりそれは。

 

 

 

 ――生き、長らえた。

 

 

 

 胸の奥に詰まっていた息が細く漏れる。固い簡易座席に体重を預け、身体を弛緩させていく。

 

 腕の中から発せられた小さな声が耳に届いた。

 

 濡れた睫毛(まつげ)の下で翠色の瞳が細まる。

 

 小さな口が開き、そして端っこがふにゃりと持ち上がる。人の気なども知らずに、

 

 

 のんきに笑っていた。

 

 

 滄淵は息をするのも忘れて、しばらく、その顔を見つめていた。

 

「……そうか」

 

 それは、

 

 誰もがまだ夢の中にいる早朝にひとり、水辺を散歩していた際に見かけた、蓮の花がほころぶ瞬間に似ていると思った。

 

 もう一度、頬を膨らませようとした。

 

 だが、口元が震えて、うまくいかなかった。

 

 やっと息を吸うと今度は喉まで震えた。赤子の顔が滲んで、瞬きをしても、なかなか元に戻らなかった。

 

 

 

「このような戦禍という地獄にも咲く――花はあるのだね」

 

 

 

 袖で目元を拭う。

 

 赤子が手を伸ばした。宙を掻いた指が、滄淵の髪の端を掴んだ。

 

 引かれるまま、少しだけ顔を寄せる。

 

「……怖かったろう」

 

 言ってから、意味が伝わったように小さく頷いた。

 

「私も、怖かった」

 

 赤子は髪を掴んだまま、口を動かしていた。

 

 滄淵はその顔を覗き込み、微笑む。

 

 やがて、髪を掴む小さな手をそのままに、自分の上着で赤子を包み直した。

 

 その顔がよく見えるよう、襟の端を折ってやってから、通信器を口元へ寄せた。

 

 

 ――すまないが赤子が一人いる。先に診てやってほしい。

 

 

 居場所を伝えた後も、滄淵は何度もそう頼んだ。

 

 髪を掴んだ小さな指は離れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    * 

 

 

 

 

 

 

 

 救助された後も、赤子の両親はついぞ分からなかった。

 

 滄淵は生き残った者たちに、あの避難船で赤子の近くにいた女について尋ねてまわったが、そもそもあの赤子の名を知る者さえ見つからなかった。

 

 

 だから、医士から赤子の名付けを勧められた時、滄淵は深く考え込んだ。

 

 

 はたして自分が決めてよいものだろうか。

 

 

 本当なら、親が愛を込めてつけたはずの名があるだろう。それを取り戻してやれないまま、新しい名を与えることがためらわれた。

 

 だが、見舞いに来るたびに、赤子は彼に対し、あの蓮の花のような笑顔を向けるようになっていた。

 

 その子に、名前で呼びかけてやりたかった。

 

 でも、では仮に名付けるとしたら、どんな名がよいのだろうか。

 

 

 思い浮かんだのは、やはり忘れもしないあの救命ポッドで初めて見た笑顔だった。

 

 

 涙に濡れていた、翠色の瞳。

 

 そして、蓮の花がほころぶように笑った、小さな顔。

 

 

「……翠蓮(すいれん)」

 

 

 寝台の傍らで、その名を口にした。

 

 赤子が、声の方を向く。

 

「翠蓮」

 

 今度は、ちゃんと、呼びかけた。

 

 伸びてきた手へ指を添えると、小さな指がそれを握った。

 

 

 

 腹が定まった瞬間だった。

 

 

 

 滄淵は医士へ示すために、紙に二文字を書いた。

 

 いつも講師として子供たちの書き損じを厳しく直す滄淵も、その日は何か間違いがないかと自分で書いた字を何度も確かめてから、ようやく筆を置いた。

 

 

 

 ――その日を境に、赤子は翠蓮となった。

 

 

 

 少し時間が経って丹楓がその話を聞いた時も、滄淵は勝手に名付け親となった自分の判断が正しかったとはかたくなに言わなかった。

 

 だが、あの時、声を聞き、避難船の奥へと戻ったことは、自分の生涯でも誇れることだと小さくこぼした。

 

 救える保証も、生きて戻れる確証もなかった。

 

 ただ、あの声を聞いた後で、聞こえなかったことにはできなかったのだと。

 

 いつもなら、丹楓が頷くまで理を滔々(とうとう)と述べてくるはずがそれ以上何も言わなかったらしい。

 

 

 

 

 

 やがて医士から許可が下りると、滄淵は翠蓮を自分の家へ連れ帰った。

 

 それまで一人きりで長年暮らしていた質素な家に、小さな寝台がひとつ増えた。

 

 書を広げていた文机(ふづくえ)には、乳を飲ませるための道具や、洗い替えの布が並ぶようになった。夜更けに灯りがついていても、以前のように滄淵が読書をしているとは限らない。

 

 近所の者が恐る恐る様子を窺えば、赤子を抱いた滄淵が困り果てた顔で部屋を行ったり来たりしていたという。

 

 

 抱き方も、おしめの替え方も、ひとつずつ周囲の仙舟人の母親たちに頭を下げて教わった。

 

 

 場合によっては自分よりはるかに若い母親たちの言葉へ、真剣に耳を傾け、分からなければ何度でも書き取り、訊いた。教える側に立つことの多かった男が、教わる側となったのだ。

 

 それでも、いくら教わった通りにしても翠蓮が泣きやまぬ夜はあった。

 

 困り果てたそんな時、まさかと思い立って、長い髪をひと房ほど鼻の下へ持っていく。

 

 

 あの時と同じように髭を作り頬を膨らませてやる。

 

 

 翠蓮はそれを見ると、決まって手を伸ばし、声を上げて笑った。

 

 

 いつしか滄淵も、翠蓮が泣き止まぬ夜は必ずそれをするようになっていた。

 

 丹楓もそんな二人の家には幾度となく足を運んだという。

 

 ある日などは用向きを切り出した途端、口の前に指を一本立てられたことがある。滄淵の膝では、ようやく寝ついた翠蓮が、小さく寝息を立てていた。

 

 龍尊を指一本で黙らせた男は、姿勢を変えることもせず、そのまま娘が目を覚ますのを待っていた。

 

 

 

 翠蓮が歩くようになると、家の中から割れそうなものが減った。

 

 話すようになると、一人静かに書を読む時間はなくなった。

 

 それでも滄淵は本を閉じ、膝へよじ登ってくる小さな身体を受け止めた。何か尋ねられれば答えた。すぐには答えられぬことは調べ、翌日になってでも教えた。

 

 教えを受ける近所の子供たちの中に、やがて翠蓮も加わった。

 

 身内だからといって、滄淵が甘く採点することはない。むしろ、どうして私にばかり厳しいのかと、頬を膨らませて抗議されることさえあった。

 

 自分の着物はすり切れたとしても繕って着るのに、彼女の着物となるとどこか破れてないか、窮屈になってやしないかと一月と経たずに確かめてくるし、市に出かけた時には必ず翠蓮のために新しい着物を買い求めていた。

 

 

 別に暮らしが楽になったわけでも、手間が減ったわけでもない。むしろ出費も苦労も増えたといえる。

 

 

 だが思えば、なんと心穏やかな、幸福な日々なのだろうかと滄淵はふとしたときに丹楓に語ったという。

 

 

 

 日が昇り、そして落ちていく。それを――何度繰り返した頃だろうか。

 

 

 

 

 

 

 ある日。

 

 

 

 

 夕刻になると戸口から、「滄淵さん」、と呼ぶ声がした。幾度となく耳にしてきた翠蓮の声だ。

 

 滄淵は歴史物の小説を読みふけっていた顔を上げ、声のした玄関まで歩いていけば、

 

 

 ――翠蓮がいた。そしてその隣には、人の良さそうな青年が立っていた。

 

 

 腕を組み、うっかり失念していたとばかりに滄淵はひとつ頷くと、

 

   

「早いものだ。そうか、……もう、そんな歳か」

 

 

 翠蓮が添い遂げたいという相手を家へ連れてきたのだった。

 

 

 聞けば、方壺で暮らす青年らしい。二人で相談した結果、「結婚した後は向こうへ移りたいの」と翠蓮は言った。だが、話し終えても、滄淵の顔を窺ったまま立ち上がろうとはしなかった。

 

「滄淵さん、一人になってしまうでしょう。……大丈夫?」

 

 滄淵は眉を寄せた。

 

「何を言うんだ。君は知らないだろうが、君が来る以前は、ずっと一人で暮らしていたんだよ」

 

 そう答えてから、翠蓮と、その隣に座る青年とを交互に見据えた。

 

「よく考えて、二人で決めたのだね」

 

 揃って頷くのを確かめると、滄淵も苦笑しつつ頷いた。長く生きてきた分、男女の上手くいかない形は数え切れないほど見てきたが、どうやら目の前の二人は該当しなさそうだった。

 

 

「ならば、私が言うことはないな。翠蓮、――幸せになりなさい」

 

 

 出立の朝は、忘れ物がないかと滄淵は何度も確かめたという。

 

 ないと翠蓮に言われても、繰り返し訊いた。連絡用星槎の時間も、向こうの家の場所も、何かあった時に頼れる相手が自分以外にいるかも。

 

 翠蓮は笑いながら、そのひとつひとつに答えていく。そして、とうとう滄淵の口から質問が途絶えた。

 

 

 最後に、数えきれぬほどの時間を共に過ごした家の玄関で二人は向かい合う。

 

 

「ご飯はたまには栄養のつきそうなものをちゃんと食べてね。夜更かしもしないで」

「それはこちらが言うことだよ」

「そうよ。おと――」

「翠蓮」

 

 首を振って、その先を言わせない。

 

 ——この子には、血の繋がりがある本当の父母がいた。事情が事情ゆえに養父となることはやむを得なかったが、父と呼ばせるのはその領分を越えている。身の程はわきまえねばならないと滄淵は考え、幼い頃から翠蓮には『滄淵』と名前で呼ばせてきた。

 

 同じ堅物仲間である丹楓ですらもが、少々律儀が過ぎるのではないかと何度となく苦言を呈してきたが、それでも滄淵は認めることはなかった。

 

「……滄淵さんが、ずっと私に言ってくれたこと」

 

 滄淵も今度は言い返さなかった。

 

 翠蓮は深々と頭を下げ、

 

 

「——長い間、御世話になりました。本当にありがとうございました。滄淵さん」

「——ああ。向こうに行っても身体に気をつけてな。翠蓮」

 

 

 それが二人の、この家での最後のやりとり。

 

 翠蓮を送り出すと、久方ぶりにひとりになった滄淵はいつもより早く夕餉の支度をした。いつもとできるだけ、変わりないように。

 

 

 

 

 

 翠蓮が離れてから、頻繁に手紙が届くようになった。

 

 滄淵さんへ、と始まる便りには、新しい家のことや、近所で買えるもの、失敗した料理のことまで仔細に書いてある。

 

 滄淵は律儀に翌日には返事を出す。

 

 間違えた字の訂正まで添えるくせに、届いた手紙は一通たりとも捨てなかった。翠蓮へ荷を送るときには、自分の畑で採れたものを、収まりきれぬほど詰めていたという。

 

 そして、先ごろ届いた便りには、子を授かったとあった。

 

 母子ともに落ち着いたら、子供を連れて会いに行く。

 

 その末尾には、こう添えられていた。

 

 

 ——私の子も抱いてやってください。

 

 

 滄淵は、長いこと、その手紙を読んでいたそうだ。

 

 訪ねてきた丹楓が声をかけると顔を上げ、その内容を見せてくれた。いつになく嬉しそうに、あの子が母になるのだと、そして、

 

 

「最期に、一目、会いたい」

 

 

 ――その頃にはすでに、滄淵に脱鱗の兆しが現れていた。身体の動きが鈍くなり、さながら本物の鱗のように、肌の一部がポロポロと崩れていくのである。

 

 

 残された時間は少なかった。

 

 

 翠蓮が子を産み、その子を連れて来るまで、今の自分で待っていられるかは分からない。

 

 生まれ変わった後にも、翠蓮は会いに来てくれるだろう。

 

 だが、滄淵さんと呼ばれたとしても、その時の次(・)の(・)自(・)分(・)には、この娘を育てた日のことが分からないのだ。

 

 

 避難船での出会い、髭を作って笑わせたことも、髪を引かれて困ったことも、初めて書いた字を褒めてやったことも、嫁いでいく背中を見送ったことも、何もかも。

 

 

 せめて、それらを覚えているうちに、会いたかった。

 

 

「あの子に、顔を見て、おめでとうと言ってやりたいんだ」

 

 滄淵は、そう言ったという。

 

「生まれてくる子にも会えたら、それに勝る喜びはない。だけど、まずは翠蓮に会いたい」

 

 手紙を畳み、丹楓へ向き直った。

 

「一緒に、方壺へ行ってはもらえないか」

 

 

 丹楓が断る理由はなかった。

 

 

 

 もっとも滄淵の体調には波がある。

 

 単に速さだけを望めば、白珠の星槎で向かえばよい。だがジュコンでの戦が終わると、仙舟の各船の軍はそれぞれの船へ引き上げ、白珠もまた所属する曜青へ帰っていた。

 

 人のよい白珠のことだ。事情を話せば何かしらの理由をつけて文字通り飛んできてはくれるだろうが、あれが操るのはもっぱら曜青の軍の星槎である。

 

 ごく個人的な用向きに軍のものを使うなど、白珠が許しても滄淵が首を縦に振るはずもない。龍尊の名で船を仕立てる手も、同じ理由で退けられるのは目に見えていた。

 

 ならば、市井(しせい)の誰もがそうするように、連絡用の星槎を乗り継いで向かう他ない。

 

 だが今度は、乗り換えのたびに滄淵を運び、宿や食事、荷物のことまで、丹楓一人で手を回すのは難しいという問題が出てくる。

 

 加えて、方壺では先の戦で敵方に情報を流していた者が捕らえられ、港での検問が厳しくなっているという。待ち時間が延びることも考えれば、手続きの間、滄淵についていてくれる者も欲しかった。

 

 そこで思案の果てに丹楓は、サボって昼寝をしにきていた是印に致し方ないと声をかけたところ、「いいぜ」と二つ返事で引き受けたのだという。

 

 そればかりか、

 

「その、滄淵、だっけか。歩くのもしんどいなら、俺がおぶってやるよ」

「……そなたには、食事や荷のことを頼むつもりであったが」

「そっちはそっちだ。ふーたんは具合や調子を見ねーといけねぇだろ。だったら、力仕事は俺に任せとけよ」

 

 是印は事もなげに言った。

 

「ま、それに俺は全然地理に明るくねぇからさ。むしろ道案内とか休憩の配分とかタメになる土地の解説とかそっち頼むぜ」

 

「ただの観光旅行と勘違いするなと申したいところだが……承知した」

 

 丹楓が礼を述べると、是印はよせやいと片手を振った。

 

 

 ——と、そこまではよかった。

 

 

 のだが、行き先の方壺では、折しも桜が見頃だと聞いた途端、この男は鏡流先生も誘おうぜと抜かし始めたのである。

 

「人手が多い方がいいだろうし、旅は道連れ世は情けとかいうじゃん? あと、ちっと約束があってさ、頼むよ〜ふーたん〜」と元はこちらが頼んだというのに頭を下げてきた是印に、丹楓は何も返すことができなかった。

 

 挙句の果てが、先ほどの鏡流に対しての切り出し方で、本来は丹楓から最初に事情を話すはずだったのだ。

 

 

 

 

 

 話を聞き終えた鏡流は足元へ目を落とした。

 

 是印はまだ腹をさすっていたが、こちらと目が合うとニヤッと笑う。

 

「……初めから、そう言えばよかろう」

「いや、俺としては先生と花見に行きたいってのも、ちゃんと本題でして」

 

 悪びれもせず、そんなことを言う。

 

 さっき耳元で囁かれた言葉まで思い出してしまい、弾かれたように鏡流は丹楓の方へ顔を向けた。

 

「滄淵殿は、我まで同行しても構わぬのか」

「既に余から話してはある。実際、何があるかはわからぬからな。理さえあれば、話のわかる男だ。そなたが来てくれるなら心強い」

 

 鏡流は手にした木剣を見やる。

 

 戦は終わり、帰還後の務めもひとまず済んでいる。多少、休暇を願い出ることに不都合はないはずだった。

 

 ただ、休んで何をするのかと考えれば、結局はここへ足が向き、やることは鍛錬くらいしか思い当たらない。それでよかったはずなのだ――これまでは。

 

 花の見頃に合わせて旅支度をするなど、随分と遠ざかっていたことだ。

 

「……分かった。休暇を願い出ておく」

 

 是印が、がばりと顔を上げた。

 

「やっりぃ!」

「許しが出、れ、ば、の話だ」

「いや大体、先生ほとんど休んでないんだから出るでしょ。なんなら騰驍将軍に俺も下座(ゲザ)りに行きますよ」

「よせ、お前が来たら話がややこしくなる」

「大丈夫でしょ、どうせ『いいよ~、おじさんはねぇ~鏡流ちゃんに常々休暇を取ってほしいと思っていたんだよ~。承認しちゃうよぉ〜』とか適当に許してくれますって」

 

 是印のデフォルメした物真似に、鏡流は口を真一文字に結んだものの、鼻の奥から笑いをこらえた結果の息の音が聞こえたし、肩も小さく震えていた。

 

 そんなやり取りを眼前でされ、丹楓も小さく笑った。

 

 失笑されたと思った鏡流は顔を赤くしながら、是印に何度も蹴りを落とす。その雨が止むと、よろよろと是印は立ち上がって、

 

「いででで……、おーっし、それじゃ、行くぜ方壺ォ!!」

 

 

 

 

 

 

 そう青空に向かって指を突き立てるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






執筆時BGM『桜の樹の下』Kokia
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