ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#81 "彼は、永久(とこしえ)の契りを結ぶ - 中編 - "

 

 

 

 

 

「——おぉ~おーッ! 先生、先生! 見てくださいよ、やばくないすかアレ、凄くないすかアレ!」

「はしゃぎすぎだ。馬鹿者」

 

 峠へ出た途端、是印の声がひときわ大きくなった。

 

 背負われている滄淵(そうえん)が、耳元で騒がないようにしてくれないか……とため息を漏らす。見かねた鏡流も保護者でもないのに何故我が……と思いながらも謝罪とともに軽く頭を下げる。

 

 が、そんな馬鹿をたしなめはしたものの、鏡流自身の足もまた、しばらくその場を動かなかった。そして、なんだかんだ丹楓も滄淵も感嘆の息を漏らしている。

 

 

 

 それくらいには、素晴らしい景色だった。

 

 

 

 切り立った山々が、霞の奥まで幾重にも連なっている。

 

 岩肌に根を張る松。その上を白く流れる雲。遠くの山腹から落ちる滝は、途中で霧に紛れ、遥か下の湖へ注いでいた。青とも緑ともつかぬ水面に、峰々の影が長く映っている。

 

 そして何より、湖畔(こはん)には――桜が爛漫(らんまん)と咲いていた。

 

 枝をいっぱいに広げた木々の間からは、灰色の瓦屋根が覗く。岸を繋ぐ反り橋には人影が行き交い、その上を、荷を積んだ星槎がゆっくりと横切っていった。

 

 

 ――あそこが、翠蓮(すいれん)の暮らす集落のはずだった。

 

 

「……第一、お前はナナシビトだったんだろう。このような絶景、これまで他の星でいくらも見たことがあるのではないのか」

「そりゃまぁ、負けずとも劣らない絶景は確かにありましたけどぉ、でもやっぱどんな絶景であれ、初見は心揺さぶられるじゃないすか。もっと素直にいきましょうよ」

 

 容易に頷くのは癪だったが、……たしかに一理あると鏡流は思う。

 

「いやぁ……どっかの絵師に描いてもらいたいくらいだわな」

 

 何かを思い返しているのか、少し遠くを見つめていた是印は首を伸ばし、右を見て、それから左を見た。

 

「先生、……こんだけ豊かな自然だからこそ、鍛錬に使えるとか言わないでくださいよ?」

「お前……我をどう捉えている。殴るぞ」

「……あの、拳がすでにめりこんでるんすけど。事後宣告ってなしでしょ……」

 

 肝臓のあたりを狙ういわゆるレバーショットを食らいながらも、是印は背負っている滄淵を振り落とす訳にもいかず、百面相をすることで痛みを紛らわせていた。

 

「――是印。景色を楽しむのは構わないが、足元も見てくれないか」

「おっとわりわり」

 

 言われて、是印は滄淵を背負い直して、ようやく歩みを再開する。

 

 その後ろへ鏡流、殿(しんがり)が丹楓と続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 鏡流の休暇は滞りなく許され、四人は羅浮を発(た)った。

 

 初顔合わせの際、滄淵(そうえん)は是印の軽薄な調子に幾度か眉をひそめていた。背負われることにも難色を示したが、翠蓮と話すためにも余力を残しておけと丹楓に説かれてからは、素直にその背を借りている。

 

 方壺(ほうこ)の港では、前もって聞いていた通り、通行証を検められ、荷も開けて見せることになった。

 

 いささか厳重が過ぎる警戒態勢だったがやむを得まいと、一同は従う。

 

 どうにか検問を突破し、連絡用星槎を乗り換え、集落に近い船着き場へ降りたのが、つい先ほど。

 

 

 それから是印は、ずっとあの調子だった。

 

 

 滝を見つければ足を止め、見慣れぬ鳥が鳴けば振り返る。同行者の名を呼んでは、あれは何だ、あっちも見てくれと忙しい。

 

 出立する前は、はたしてこの男の背で大丈夫だろうかと心配した滄淵(そうえん)も、今では時折、尋ねられるより先に見るべき景色を指すようになっていた。

 

「湖の向こうを見てごらん。あそこにも吊り橋がある」

「え、どこ? あれか……ちょっと確実に渡ったら、真ん中あたりでイベント発生しそうなやーつ。先生どうですか度胸試ししてみます?」

「我が綱を切る前にお前が渡りきれるかどうかでいいならな」

「あ、俺がやるのね」

「安心せよ。幸い水には困らぬ。受け止めるのは余に任せよ。——経験があるのでな」

「こら、メッ、ふーたん! 趣旨(しゅし)が変わっちゃうでしょーが!」

 

 やれやれと鏡流は肩をすくめる。

 

 目も足も、しっかり橋のある方向を向いて止まっていたことに気づくのには——しばらくかかった。

 

 

 

 

 

 

 峠の東屋(あずまや)で、ひと息入れることにした。

 

 滄淵を腰掛けに座らせると、是印は肩を回しながら、早速とばかりに眺めのよい方へ歩いていく。鏡流も荷を置くと、湖全体を見下ろせる欄干(らんかん)へ手をかけた。

 

 風が爽やかだった。

 

 東屋の傍らに咲く桜から、花びらがいくつか舞い込む。

 

 鏡流が片手を上げ、掌に落ちた一枚を、指先でそっとつまむ。薄い花びらを透かすようにして眺め、それから頭上の枝へ目を向けた。

 

「……よく咲いているな」

「でしょ。ほらー、来てよかったでしょ? 先生絶対旅行前にはアレコレぶつくさ言うけど、旅行中はなんだかんだ楽しむタイプだと思ったわ〜」

「うるさい! つくづく一言も二言も多い男だな、お前は!」

「俺が誘わなかったら見てないじゃないすか。ほら、そこはひとつ、宇宙一かわいい弟子の心遣いというものに感謝の意を示すとか——って、あれ?」

 

 食い気味に言い返してこなかったことを不審に思った是印が小首を傾げると、

 

「手を出せ」

「……はい?」

 

 言われるがまま、右手を差し出す。

 

 鏡流は、その掌へ花びらを載せた。

 

「ほら」

「……ん?」

「望みのものだ。受け取れ」

「ええ~感謝の意、現物支給なの~? しかも腐るほど舞ってるし……いや嬉しいすけど、もうちょっとこうさぁ~っとと!?」

 

 突風が載せたばかりの花びらをさらい、うざったい羽虫でも捕まえるように拍手を何度も空振りしながら是印はそれを追いかけていく。

 

 その滑稽(こっけい)な様に、鏡流の肩が揺れた。

 

 口元を隠すのも間に合わず、小さく笑い声が漏れる。

 

 どうにか花びらを捕まえた後で、振り返った是印は何かを言い足していたが、丹楓の耳にはうまく入ってこなかった。

 

 

 

 ——あんなふうに細めて笑うのだな、と彼女の目を見ていた。

 

 

 

 戦場で勝利を確かめた時とも、剣の道をまた一段進んだ手応えを得た時とも違う。何かを成し遂げたわけでも誰かを救ったわけでもない。

 

 ただ、隣の男のやることなすことが可笑しくて、笑っている。

 

「丹楓」

 

 不意打ち気味に声をかけられ、手元へ目を戻す。

 

 滄淵へ渡そうとしていたはずの水筒が、まだ自分の手に残ったままだった。

 

「……すまぬ」

「ありがとう」

 

 友が受け取り、喉を潤す。

 

 そして、鏡流たちの方をまぶしそうに見る。

 

「意外だな」

「余があのような男と知り合いであったことがか」

 

 自覚が余程あるのか、何度も噛みしめるように丹楓は頷く。

 

「違うよ」

「では——何だ」

「君が、あんな表情で人の顔を眺めることさ」

 

 丹楓は冷水をぶっかけられたように、まじまじと滄淵を見つめ返す。

 

 友は素知らぬ顔のままで水筒の蓋を閉めている。

 

「……そのように見ていた、のか」

「ああ。鏡流殿が笑ったら、君まで笑っていた」

 

 自分の口元へ手をやりかけ、止めた。

 

 そもそも目撃されていたのだ。今更、滄淵の前で取り繕っても仕方がない。

 

「つい珍しかったのでな。鏡流があれほど気を張らずに自然体で過ごす姿は」

「そうか」

「……半ば無理に協力してもらった手前もある。せめて楽しんでおるのなら……よいと思ったまでだ」

 

 滄淵は何も言わず頷いた。

 

 まだこの雑談を続けるかと思ったが、友はまた桜を見上げただけだった。

 

 責められたわけでも、問い詰められたわけでもない。そのことがかえって落ち着かず、丹楓は荷の口を閉じ直した。

 

 葉の間を風が鳴らしている。

 

 視線を感じ、ちらりと目を上げると、鏡流がこちらを向いていた。

 

「丹楓」

「……何だ」

「下の道だが、あの桜の下を通って行けるのか」

 

 示された先には、湖に沿って続く桜並木。

 

 閉じ直したばかりの荷の口を開くと丹楓は地図を確認し、

 

「……問題なかろう。少し回るようだが、集落へ入る道だ。翠蓮の家へもそこから向かえるはずだ」

「そうか」

 

 鏡流は、もう一度並木へ目をやり、

 

「ならば……そちらを通らぬか」

 

 是印が喧嘩を売ってるような顔で横から口を挟む。

 

「ほぉ~ん、先生から寄り道の提案とは。あんだけ我は行かぬもん! とか言ってたのになー」

「ねつ造するな。嫌ならお前だけ別の道を行け」

「やめましょ、それは逆死亡フラグで俺だけ生き残っちゃうからね! 是印は今後とも末長くご一緒させていただきたいなって!」

 

 鏡流はとりあえずと言わんばかりのおざなりな動きで、是印を蹴飛ばしている。

 

 丹楓は……今も気づけばその顔を目で追っていたことを改めて自覚する。

 

 隣から控えめな咳払いが飛び込んで来る。

 

「滄淵?」

「いいや、私は何も言っていないよ」

 

 友は涼しい顔で、手拭いを畳んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 坂を下り、桜の下へ入ると、日差しがやわらいだ。

 

 枝の間から湖が見える。水際には小舟が繋がれ、岸へ寄せる波の音に、どこかで食事の支度をする音が混じり始めていた。

 

 道沿いの水路では、一人の持明族と思しき男が流れへ手をかざしていた。

 

 水が両脇へ寄り、真ん中だけ底の石が見えている。その空間へ別の男が降りていき、溜まった枝や枯れ葉を掻き出していた。

 

「ふーたん。あれもお前みたいな、えー、な、なんつったっけ、あ、そうそう、雲吟(うんぎん)の術か?」

「うむ。あのように用いれば、水を抜かずとも手入れができるゆえな」

「えー便利〜。つーこたぁさ……この水、さっき見た滝から来てんのかな?」

 

 首肯しつつ、丹楓は山腹を指した。木立の切れ目には白い堰(せき)がある。

 

「元は同じだ。あの奥に貯水湖があるらしい。流す量を加減し、滝や集落の水路へ分けておるとのことだ」

「ほぉーん。あんな上から引いてんだ」

 

 是印が目を凝らしている間に、枝葉を積んだ籠が岸へ引き上げられた。水路にいた男も上がると、寄せられていた水が戻り、掃除を終えた石の上を再び流れ始める。

 

 それを横目に是印は滄淵を背負い直し、また先頭を歩き始める。

 

 鏡流は隣に追いつくと、今度は呼びかけられるより先に、見事に咲いた桜の枝を見つけていた。

 

 何かを言っては是印を振り向かせ、指した先を見せる。

 

 羅浮にいる時には、見ることのできなかった彼女の姿だった。

 

 丹楓は三人から少し遅れて橋を渡り、

 

「そこを左へ」

 

 指示を出す。

 

 

 

 家々の軒が近づき、道が細くなる。

 

「その先——、おそらくあの門の脇に甕(かめ)がふたつ置いてある家であろう」

 

 丹楓が地図から顔を上げると、滄淵が是印の肩を叩いた。

 

「すまない是印。ここで下ろしてくれるか」

「あん? もう、すぐそこらしいけど?」

「ああ。大丈夫だ。ここからは自分で歩こうと思う」

 

 是印が頭だけ半分振り返れば、滄淵は道の先を見据えていた。

 

「……この姿を見たら、あの子が心配するからね」

 

 丹楓もまた立ち止まる。

 

 滄淵(そうえん)は翠蓮(すいれん)に脱鱗の兆候を知らせていなかった。彼女へ出した返事には、その身体を気遣う言葉ばかりで自分のことはほとんど書いていない。

 

 ——まずは、顔を見て祝ってやりたい。

 

 そう話していた友の肩へ手を置き、丹楓は頷いた。

 

「辛くなればすぐに申せ」

「ああ、ありがとう」

「了解。じゃ下ろすぞ、ゆっくりな」

 

 是印がしゃがみ、丹楓が腕を支えた。

 

 両足を地につけた滄淵は、少し息を整える。差し出された手を一度借り、一息に立ち上がってしまうと、もう大丈夫だと再度礼を言った。

 

 襟を直し、手首が隠れるよう袖口を引くと、一歩を踏み出した。

 

 是印は荷を持ち直し、その歩みに速さを合わせる。丹楓も、手を伸ばせる距離を保って横へ並んだ。

 

「是印」

「ういうい、すみますうぇーーーん!!」

 

 鏡流にうながされ、進み出た是印が声を張って呼びかけると、

 

 

 

 やがて開かれた門の向こうから、一人の女が顔を出す。

 

 

 

 ふくらんだ腹に手を添え、何事かと困惑の眼差しをこちらに向けている。その視線が初対面の是印から、その背後から顔を出した見慣れた男へ移った。

 

 

 信じられないように、まばたきを二回。すぐに目が大きく見開かれ、

 

 

「——嘘、……滄淵さん?」

 

 その言葉に、滄淵が片手をあげる。

 

「……ああ」

 

 声を出す前に、一度、息を吸って、

 

 

「達者そうで何よりだ。——翠蓮」

 

 

 あわあわと、翠蓮がお腹を気遣いつつも足早に門を出てくる。

 

 小走りになりかけた足を滄淵の声が止めた。

 

「走らなくていい。大事な身体だ」

「……で、でもっ、どうして急に!?」

「手紙を読んでね。やはり、顔を見たくなったんだよ」

「私が会いに行くって、書いたでしょう!」

「ああ。だが、待ちきれなくなってしまった」

 

 翠蓮は驚いた顔のまま両頬を押さえる。

 

「来るなら言ってくれればよかったのに。どうしよう、何も用意していないわ」

「構わない。君が元気でいてくれれば、それで十分だ」

 

 滄淵の目が、翠蓮の身重の身体へと落ちる。その眼差しにはなんとも言えない優しい色が満ちていて、

 

 

「——母に、なったのだね。翠蓮」

 

 

 翠蓮の唇が、わずかに震えた。

 

 

「……うん。お陰様です」

 

 

 言って、滄淵の着物を掴んだ。

 

 滄淵は少し足を開き、その身体を迎えた。手が背へ回され、ゆっくりと翠蓮を抱擁する。

 

 何人も寄せ付けない空気がそこにはあった。

 

 翠蓮の肩越しに一度だけ目が合い、滄淵が小さく頷く。それで丹楓は支えるべきかと、とっさに伸ばしかけた手を下ろした、

 

 ところで、

 

「……滄淵さん、少し痩せた?」

 

 翠蓮が顔を離した。

 

 着物を掴んでいた手が、その腕へ移る。

 

「ちゃんと食べているの?」

「食べているとも」

「もおっ、信じられないわ。一人だと、すぐ適当に済ませるんだから」

 

 いつもの調子でたしなめながらも、翠蓮は、あっと口元に手を寄せると、

  

「それでその……後ろの方々は?」

 

 丹楓はともかく、是印と鏡流のふたりはこの空気どうしたもんかなという当然の表情のまま頭を下げるのだった。

 

 

 

 

 

 

 丹楓が二人を紹介し、同行することになった経緯(いきさつ)をかいつまんで伝えた。

 

 是印と鏡流は丹楓の友人で、彼が滄淵と方壺へ行くと聞き、花見を兼ねてついてきたのだと。ちょうど桜が見頃で、先の戦も片づき、ようやく休暇を取れたところで都合がよかったのだと。

 

 滄淵の体調については触れなかった。是印も途中で見た湖や桜並木の話に乗り、どれほど見事だったかを身振り交じりに語る。

 

 道中ずっとこの調子だったと鏡流と滄淵が呆れたように添えると、翠蓮も笑った。

 

 どうあれ滄淵を連れてきてくれたことへ何度も礼を言いながら、一行を家の中へ招き入れた。

 

 居間へ通されると、窓から桜の枝が見えていた。卓の上には縫いかけの小さな衣があり、その脇には、糸を通したままの針が置かれている。

 

「ごめんなさい、散らかっていて。すぐお茶を――」

「はい、ちょい待ちちょい待ち、お湯は沸いてる? ないなら沸かすよ」

 

 荷を下ろした是印が、台所の方を覗いた。

 

「ええ!? でも、お客様にそんな」

「こう見えても、天下の羅浮、雲騎軍の飯係をしてるんすわ。茶の場所だけ教えて。こっちはこっちでやっとくから、滄淵さんと座ってなよ。会うの久しぶりなんだろ」

 

 翠蓮は少しためらったが、背後に寄ってきた滄淵を見て、茶の入った棚の位置を教えた。

 

 丹楓が窓辺の長椅子へ案内すると、滄淵はゆっくりと腰を下ろした。膝へ置かれた手に力が入っている。門の前からここまで、ごく短い距離とはいえ無理をしたのだろう。

 

 だが翠蓮が隣へ座る頃には、その手もいつも通り静かに重ねられていた。

 

 一方で鏡流は、翠蓮がどけようとしていた衣類の籠を持ち上げていた。

 

「――翠蓮殿、これは、どこへ置けばよい」

「あ、そちらの棚へ。ごめんなさい。取り込んだままで、まだ畳んでいないんです」

 

 頷きかけた鏡流の目が、籠の中で止まった。

 

 小さな袖が、縁からはみ出している。

 

「……これを、着るのか?」

 

 翠蓮は微笑むと、

 

「ええ。すぐ大きくなるから、あまり縫いすぎないようにって近所のお姉様方からは言われたんですけど」

 

 鏡流はおもむろに籠を置き、その衣を両手で広げた。自分の掌と、短い袖とを見比べている。

 

「こんなにも小さいもの、か?」

「わかりますっ。私も作りながら、何度もそう思いました」

 

 茶を運んできた是印が、横から覗き込んだ。

 

「茶ぁ淹れたけど、……先生、ちっとそれは入らないんじゃない?」

「馬鹿者、我が着るわけなかろう!!」

「ちょちょちょ!? 暴力へんたーい、熱いのいっぱい運んでんだからやめてくださいよ!」

 

 怒りの余り小刻みに震えている鏡流へ淹れたての茶を盾にしながら待避すると、是印は早速椀を配り始めた。

 

 翠蓮がくすくすと口元を押さえて笑う。その隣で、滄淵も小さく息を漏らしていた。

 

 丹楓は最後の椀を受け取り、卓へ置く。

 

「そういや、来る途中で水路を掃除してる人たちがいたんだけどさ。畑の水なんかも、あの人らが見てんの?」

 

 茶をすすりつつ、是印が尋ねると翠蓮は頷いた。

 

「ええ。雲吟師(うんぎんし)の方たちですね。この辺りの畑も上の湖から水を引いているので、流す量や順番を相談するんです。田植えの頃なんて、あちこちから呼ばれて忙しそうですよ」

「まぁあんな芸当ができりゃあ、そりゃ、助かるわな」

「ええ。それでも、私が通りがかると声をかけてくださって」

 

 翠蓮は苦笑しつつ、

 

「近頃はもう生まれたのかって、そればかり。まだですって答えるのが、すっかり朝の挨拶みたいになってしまって」

「ははっ。そんだけ楽しみにしてくれてんだろ」

「そうですね。無事に生まれたら、ぜひ皆さんにも抱いていただきたいです」 

 

 翠蓮によれば、担当の女医士(おんないし)は今朝も往診に来てくれたらしい。その際に出産予定日もそろそろだと言われたのだと、少し落ち着かない様子で腹を撫でた。

 

「名は、もう決めておるのか」

 

 鏡流が問うと翠蓮は、

 

「ええ。夫と二人で、ずいぶん悩んだんですけど……春寧(しゅんねい)にしようかと」

 

 滄淵は腕を組むと、

 

「どんな字だい」

「季節の春に、安寧の寧です」

 

 卓の端へ紙を引き寄せると、翠蓮は筆をすべらせる。

 

 

 春寧。

 

 

 二文字を書き終えると、滄淵の方へ向ける。

 

「この季節に生まれてくるから、春。それから、穏やかに暮らしていけるように。……そのまますぎるかしら」

 

 滄淵は差し出されたそれを手に取ってしげしげと眺める。

 

 丹楓の場所からもその字が見えた。丁寧な払い方に、教えた者の筆跡が残っている。

 

 こうして目の前で筆を持っている妊婦がまだ紙からはみ出すほど大きく、そしてものの見事に間違った字を書いていた頃が胸をよぎる。

 

 今ではその手が次に生まれる子の名を書いていることに、滄淵に比べれば遥かに浅い丹楓程度の関わりでも、感慨深さを覚えてしまうのは致し方のないことだった。

 

「いい名だ。うん、——いい名だ」

 

 滄淵が一回じゃ足りないとばかりに繰り返す。

 

「呼んでやるたびに、君たちが何を願ってつけたのか思い出せるだろう」

 

 翠蓮の肩から、少し力が抜けた。

 

「よかった。滄淵さんに、そう言ってもらえて」

「採点は合格か。よかったじゃんか」

「いいや、名に点などつけないよ」

「そうなん? なんか紙持ったままじーっと見てるからさ。添削でも始まんのかと思ったわ。〇〇だけで伝わりますって」

「是印」

 

 丹楓がたしなめるより先に、翠蓮が笑った。

 

「でも是印さんの仰る通りかも。もしも字を間違えていたらこの場できっと直されたと思います」

「それはそうだ。間違えたままにはできないだろう。大事な翠蓮の子の名なのだから」

 

 滄淵は真顔で返し、紙を卓へ戻した。

 

 鏡流が、手にしていた衣をそっと畳みつつ、

 

「春寧、か」

 

 袖を重ね、襟元を指で整えながら、小さくその名を繰り返した。

 

 

 その時、翠蓮が、あ、と腹へ手を添えた。

 

 丹楓が顔を向ける。彼女はすぐに笑って首を振った。

 

「大丈夫です。今、動いて」

 

 隣の滄淵へ顔を向けると、その手を取った。

 

 

「ここ。分かるかしら」

 

 

 滄淵の掌が、ふくらんだ腹へ置かれる。

 

 しばらく、誰も何も言わなかった。

 

 やがて、滄淵の指がわずかに動いた。

 

「……ああ」

 

 

 翠蓮が、滄淵の顔を覗き込む。

 

「分かった?」

「ああ。分かったよ」

 

 

 もう一度、同じ文句を繰り返してしまう。

 

 手を離してからも、滄淵はしばらく、名残惜しそうに自分の掌を見ていた。

 

「鏡流さんも、よかったら」

 

 誘われるものの、鏡流はためらいがちに目を伏せ、

 

「……い、いや我は……」

「遠慮なさらず、ほらっ」

 

 ひたすら勧めてくる翠蓮に降参したのか、鏡流は衣を籠へ戻し、椅子の傍らへ寄る。

 

 伸ばしかけた手が——途中で止まった。指を開き、一度、自分の掌を見てから、翠蓮に示された場所へそっと触れる。

 

 是印も、卓の向こうから身を乗り出していた。

 

「どうすか?」

「……まだだ」

「じゃあ——どうすか?」

「少し黙れ」

 

 声こそ低かったが、いつものような剣呑(けんのん)さはなかった。

 

 鏡流はただ、掌の下へ意識を向けていた。

 

 ふと、その目が見開かれ、

 

「――今」

 

 翠蓮が頷いた。

 

「ええ。元気でしょう」

 

 鏡流は返事をせず、もう一度腹を見た。その口元が、ゆっくりとほころんだ。

 

「……ああ」

 

 丹楓は茶へ伸ばしかけた手を止めた。

 

 鏡流がこちらへ振り返り、

 

「丹楓。動いたぞ」

 

 

 まるで、自分にも今の感触を伝えようとするような声と顔だった。

 

 

「……ああ。元気な子のようだな」

 

 

 それだけ答えると、彼女はまた翠蓮へ向き直った。

 

「どすか先生。蹴られる側の気持ちは」

「お前と一緒にするな。春寧に失礼だ」

 

 即座に返され、是印が大げさに倒れてみせる。

 

 今度は翠蓮も声を上げて笑った。

 

 丹楓は椀を手にした。

 

 

 

 口をつけるまで、少し間が空いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——皆が茶を飲み終える頃、滄淵が咳き込んだ。

 

 翠蓮が顔を覗き込む。

 

「大丈夫、滄淵さん? 疲れたでしょう。今日は泊まっていってください」

「いや、まだ――」

「話なら、起きてからでもできるわ」

 

 滄淵の言葉を制する翠蓮の横で、是印が立ち上がる。

 

「悪い、旅の疲れが出たのかもしれねぇ。横になれる場所とかあるかな?」

「奥に客間があります。すみません、そちらへ運ぶのをお願いしてもいいですか」

「我も手伝おう」

 

 是印と鏡流が両側から滄淵に肩を貸すと、客間へと移動し、そこにあった寝床に横たえる。

 

 その途中でも、大丈夫だと滄淵は何度もつぶやいていたが、心配そうに見つめる翠蓮に気づくと、

 

「……すまない。では、少しだけ眠らせてくれ」

「余がついている。翠蓮たちは戻るといい」

 

 丹楓の申し出に最初は躊躇していたものの、当の本人である滄淵からも大丈夫だからとうながされ、翠蓮は掛け物を直し、「また後で来るから」と言い残し、鏡流と是印と居間へ戻っていった。

 

 

 三人が去ると、沈黙が室内に落ちた。

 

 

 滄淵は、先ほど翠蓮の腹へ当てていた自分の掌をじっと見る。

 

 

 

「……抱いてやりたいな」

 

 

 

 小さな声。

 

 丹楓はまだ無言を保っている。

 

「顔を見て、祝ってやれれば。それで十分だと思っていたのだがね」

 

 掌が、ゆっくりと閉じられる。

 

「いざ会うと、まったく欲が出るものだ」

 

 丹楓はその手から目を上げ、ようやく口を開く。

 

「ならば、今は休め。翠蓮も言っていたであろう——起きた時に、また話せるようにな」

 

 滄淵は一瞬だけ丹楓を見つめ、それから頷いた。

 

「ああ……そうしよう」

 

 丹楓は、友が寝息を立て始めるまで傍らに座っていた。

 

 

 

 

 

 

   

   *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 夕餉(ゆうげ)の支度が整う頃には、窓の外の桜も薄闇に沈んでいた。

 

 滄淵には一足先に是印特製の粥を少し食べてもらった。翠蓮と二言三言交わした後はまた眠り、今も奥の客間から物音はしない。

 

 その寝顔を確かめて戻った丹楓を、卓を囲んだ三人が迎えた。

 

「よし、ふーたんも来たし。食おうぜ、冷めないうちにさ」

 

 中央の大皿には、揚げた魚と野菜が甘酢の餡をまとっている。是印が台所で借りた鍋を振っていたものだ。その隣には翠蓮の作った煮物が並び、椀からは湯気が上がっていた。

 

「本当に美味しそう。こんなに賑やかなお夕飯、久しぶりです」

 

 翠蓮が嬉しそうに箸を取った。

 

「今日は、ご主人は戻らぬのか」

 

 丹楓が尋ねると、彼女は戸口を見やる。

 

「集落の見回りの当番なんです。最近は夜も人数を増やしているそうで。交代になれば戻るんですけど、夕飯には間に合わないことが多くて……」

 

 それから、卓へ視線を戻した。

 

「一人だと、作ってもつい余らせてしまうのでこぢんまりとしちゃって。だから今日は嬉しくて。お手伝いまでしていただいたのに、私ばかり得をしてしまいましたね」

「いやいや、こっちこそ台所借りちゃって。——それで先生、どうです、お味の方は?」

 

 是印が、隣へ得意げな顔を向ける。

 

 鏡流は返事をしなかった。

 

 魚の身をほぐし、口へ運んでいる。

 

「……もしもーし、先生? 俺、ご感想を訊いたんですけど?」

「聞こえている。食べている時に話しかけるな」

「あ、そ。じゃ、お口に合ったようで何より——あーはいまた取った。今取った。気に入ったんでしょ? 甘酸っぱいの気に入っちゃったんでしょ?」

「うるさい!! 翠蓮殿の前で騒ぐな!!」

 

 誰よりも大きい声をあげながらも、鏡流の箸は止まらない。

 

 是印はますます腹の立つ顔芸を披露し、さぁてと自分の分を箸で取ろうとすると、その手を鏡流にはたかれ、大皿ごと彼女の近くへ寄せられてしまった結果、お預け状態にされてしまう。

 

「や、あの、作ったの俺……」

「食べるのは我だ」

 

 意趣返しとばかりに言い放つ鏡流に、翠蓮が口元を押さえて笑った。

 

「ほんと、仲がよろしいのですね。くすくす、お二人のやりとりを見ていると退屈って言葉を忘れてしまいます。まだまだ料理はありますから。遠慮せず召し上がってください」

「いや、我は別に——」

「よかったっすね、くいしんぼ先生、おかわりあるって」

「お前は黙って食え!」

 

 丹楓も椀を持ち上げる。

 

 ——滄淵が目を覚ましたら、魚も少し食べられるだろうか。身を柔らかく煮直せばよいかもしれぬと、そんなことを考えた。

 

 

 卓を挟んだ向こうでは、翠蓮が煮物を取り分けている。

 

 

 誰の椀が空いたかを見ては声をかける。そのたびに是印が軽口を返し、鏡流に睨まれ、また笑いが起きた。

 

 

 

 

 

 だが、皆の胃袋も満足に近づき、ふと会話が途切れた頃、翠蓮の目は奥の客間へ向く。

 

 一度、二度。

 

 丹楓が箸を置いた時、彼女もまた、手を止め、

 

 

「あの、——皆さんは……なぜ、滄淵さんが急に私を訪ねてきたのか、ご存知ですか?」

 

 

 是印の箸が、皿へ届く手前で止まった。

 

 翠蓮は、三人の顔を順に見ていく、

 

「手紙を読んで、会いたくなったと言っていましたけど……本当に、それだけなんでしょうか」

 

 丹楓は椀を置いた。

 

「そなたが母になると知って、たいそう喜んでおった。それは確かだ」

「はい。……それはもちろん、私も嬉しいです」

 

 翠蓮は頷いた。

 

「でも、あの人なら、まず手紙をくれるはずなんです。いつ着くとか、泊まる所はこちらで用意するから心配はいらないとか。私がいいと言っても、そういうことはきちんとする人だから」

 

 知っている。

 

 丹楓が羅浮を発つ前に宿を手配しようとした時も、滄淵は費用を自分で持つと言って譲らなかった。

 

「なのに、今日は何も知らせないまま、門の前に立っていて」

 

 翠蓮は自分の腕へ手を添えた。

 

「抱きついたら、前よりずっと痩せていて……。ご飯を食べていないんだと思いました。あの人、一人になるとすぐ、自分のことを後回しにするから」

 

 

 言葉を切り、客間の方を窺う。

 

 

「でも、あんなに疲れているところは、見たことがなくて」

 

 

 鏡流も咀嚼をやめ、箸を置いた。

 

 翠蓮はそれに気づき、小さく頭を下げる。

 

「……ごめんなさい。せっかくのお食事なのに」

「いや」

 

 鏡流は首を振った。

 

「……構わぬ。続けてくれ」

 

 翠蓮は膝の上で指を重ねた。爪の先で、もう片方の指を押さえている。

 

「私が聞いても、大丈夫だとしか言わないんです。昔から、そういう人で」

 

 少し笑おうとしたが、うまくいかなかったのだろう。微妙に口の端をゆがめた程度で、

 

「滄淵さんにもし何かあれば……私は」

 

 それ以上の言葉は紡がれなかった。

 

 是印が何か反応しかけ、口を閉じる。

 

 丹楓は、先ほど客間で聞いた願いを思い出していた。

 

 

 ——翠蓮の子をこの手で抱いてやりたい。

 

 

 あの時、滄淵は、今ここに座る娘と同じように、自分の手を見つめていた。

 

「……子供の頃、熱を出したことがあって」

 

 翠蓮が、ぽつりと言った。

 

「夜中に目が覚めたら、滄淵さんが隣に座っていたんです。寝ないのって聞いたら、本を読んでいるだけだって。でも、私が手を握っていたから、頁なんかめくれなかったはずなのに」

 

 丹楓の脳裏に、翠蓮の寝台の脇へ置かれていた椅子が浮かんだ。

 

 滄淵の家へ行くたびに、座りにくそうな所へ出してあると思っていた椅子だった。

 

「朝になってもう一度目を覚ました時、変わらず同じ所にいてくれました。私が起きたら、今度は食べられそうなものを訊いてくれて」

 

 翠蓮は唇を結び、一度うつむく。

 

「私にとって——父親って、そういう人なんです」

 

 誰も口を挟まなかった。

 

「本当の両親を忘れてはいけないって、何度も言われました。お腹を痛めて産んでくれて、愛してくれた人がいたんだから、その人たちに感謝しなさいって。……私も、そう思っています」

 

 腹へ置いた手で、衣の皺を伸ばす。

 

「この子を授かってから、前よりもずっと、そう思うようになりました。会えるものなら……会ってみたかったです。私を産んでくれた本当の母にも、父にも」

 

 その手が止まった。

 

 

 

「でも、だからって、滄淵さんを——父だと思ってはいけないんでしょうか」

 

 

 

 丹楓を見つめる目が、濡れていた。

 

「あの人、自分のことになると、少しも聞いてくれないんです。私が何て呼びたいかなんて、一度も……」

 

 声が震え、翠蓮は口元を押さえた。

 

 是印が卓の端の手拭いを取り、彼女の前へ差し出した。

 

「……ありがとうございます」

 

 受け取って目元へ当てる。しばらくそうしてから、翠蓮は息を整えた。

 

「すみません。こんなこと、皆さんに言っても困らせるだけなのに」

「いいえ。困ってなど、おらぬ」

 

 鏡流が言葉を句切りつつも、はっきりと答えた。

 

 翠蓮は小さく頷き、

 

「その……もし何か理由があるのなら、私にも教えてください」

 

 今度は、目を伏せず尋ねる。

 

「何も知らないまま、また、ちゃんとご飯を食べてねって……それだけ言って帰したくないんです。家族……ですから」

 

 丹楓は、向かいに座る是印へ目を向けた。

 

 いつもの調子で口を挟むこともなく、黙って煮物の芋を咀嚼し、こちらを見返している。その隣では鏡流がわずかに顎を引いた。

 

 滄淵は、まず翠蓮を祝ってやりたいと言っていた。

 

 あの堅物の哲学を捨て置けば、その願いはもう叶ったのだ。だが今、目の前にいるこの娘もまた、養父——いや父のために何かしたいと願っている。

 

 丹楓は客間へ続く戸を一度見た。

 

 

 

 ——どうするべきか。

 

 

 

 すっと息を吸い、

  

 翠蓮へ向き直る。

 

 

 

 

「翠蓮。滄淵は——」

 

 

 甲高い音が、窓の外を走り抜けた。

 

 

 食器類が鳴らす音も、誰かの声も、たちまちその下へ呑まれた。

 

 一度鳴りやむ。

 

 再び、同じ音が響いた。長く、引き延ばすように。

 

 既に鏡流は立ち上がっていた。窓へ寄るその横で、翠蓮は困惑のまま手拭いを握りしめている。

 

 

「……警報?」

 

 

 戸外で人の叫ぶ声。

 

 続いて、軒先の拡声器が雑音を吐いた。

 

『上流の貯水施設で異常が発生! 河岸(かし)にお住まいの方は、直ちに高台へ避難してください! 繰り返します——』

 

 丹楓の耳に、昼間見下ろした滝の音が蘇った。

 

 その下に続いていた水路。

 

 桜並木と、家々。

 

「ふーたん」

 

 是印も雑に口元を袖で拭いながら、腰を上げる。

 

 あごをしゃくった先には、滄淵の眠る客間がある。

 

 丹楓は途中まで口にしかけていた答えを呑み込むと、

 

 

 

「——まず、ここを出るぞ」

 

 

 

 

 是印は返事をするより先に、客間へ向かっていく。

 

 丹楓も後に続くと、警報に目を覚ました滄淵が寝床から身を起こしかけていた。その背を支え、足を下ろすのを手伝う間に、是印が前へしゃがみ込んだ。

 

「何があった」

「上流で何かあったみてぇだ。だから高い所へ逃げろって警報がさ。——乗れ」

 

 滄淵は戸口へ目をやる。鏡流に付き添われた翠蓮が、心配そうにこちらを見ていた。

 

 反転し、向けられた是印の背へ腕を回すまで、わずかに間があった。

 

「……すまない。頼む」

「心配すんな。安全運転には自信があんだ。誰かさんとか誰かさんとかとは違ってな」

 

 是印が滄淵を背負って立ち上がる。滄淵の肩へ丹楓が上掛けを掛けてやっている間も、翠蓮は滄淵を見つめていたが、何かを尋ねるより先に鏡流が彼女の手を取った。

 

「高台への道は分かるか」

「……はい。裏手の橋を渡れば、坂があります」

「案内(あない)を頼む」

 

 

 

 全員で門を出ると、高台へ通ずる道は既に人でごった返していた。

 

 子を抱えた者や、老いた親へ肩を貸す者が、灯りを掲げた警備の男に導かれていく。まだ閉じたままの隣家の戸を叩き、逃げるぞと声を張っている者もいた。

 

「荷は置いて! 橋を渡ったら、そのまま坂を上がってください!」

 

 鏡流は翠蓮が人波に押されぬよう横へ立ち、是印も滄淵の脚を抱え直して後に続く。

 

 

「あ、あの、翠蓮です! 夫の行明(ぎょうめい)は——北側の見回りに出ているはずなんですが無事でしょうか!」

 

 

 翠蓮が尋ねると、警備の男は人々を誘導しながら答えた。

 

 

「わかりません。ですが、そちらも避難の誘導に入っています。合流するなら高台で。ご家族も、まずそちらへ」

 

 彼女が唇を結んで頷く傍らで、丹楓は水路へ目を向けていた。

 

 歩くにつれ、水音が急激に大きくなっている。昼間は岸を歩く人々の話し声に紛れていたはずだ。それが今は、家々の間から響いてくる。

 

 

 ——理屈ではなく、本能的にこれはまずいと悟る。

 

 

 橋のたもとへ出ると、石で組まれた水路の縁近くまで、濁った水が迫っていた。折れた枝が橋脚にぶつかって弾かれ、その後を、土のついた草の塊が追っていく。

 

「止まらず渡って! 向こうへ着いたら道を空けてください!」

 

 欄干の脇には、昼間、水路の手入れをしていた持明族の男がいた。両腕を広げて流れを分け、橋脚への直撃を防いでいる。対岸にも一人。下流にも、灯りの下で術を使う人影が見えた。

 

「下流の様子は!」

「仲間が水路を空けています! ただ、上から来る量が——」

 

 振り返った男の視線が、丹楓の顔で止まった。

 

「あ、あなたは……飲月(いんげつ)、君(くん)様!?」

「手を止めるな! 湖までの水路に人がおらぬか、確かめよ!」

 

 龍尊の突然の出現に呆然としていた男も、その一喝で我に返り、慌てて肩の通信器へ指示を飛ばす。その間も、水かさは悪夢のように増していく。

 

 上流の曲がり角では、とうとう濁流が石壁を越えた。

 

 道へ溢れた水に足を取られ、逃げてきた住民が転ぶ。近くの者が引き起こしたが、その背後からは、丸太を押し立てた濁流が迫っていた。

 

 

 

「まずい——走れ!」

 

 

 警備の男が叫ぶ。

 

 丸太が家の軒へぶつかり、瓦が散った。

 

 鏡流が剣の柄へ手をかけるより早く、丹楓はその前へ踏み出す。

 

 

 広げた掌を折る、そして二指を伸ばし、持ち上げる。

 

 

 橋へ襲いかかる寸前、意を得た水が跳ね上がった。

 

 丸太ごと宙へ巻き上げられ、幾筋もの流れが絡み合う。濁った水の中を青白い光が走り、鏡流の白髪が風に煽られた。

 

 丹楓が腕を横へ払うと、巨大な水の龍が橋から首を背ける。

 

 屋根を越え、人も舟もいない沖へ突っ込んだ。

 

 巻き込まれていた丸太も、割れた石も、遠くで砕けた白い飛沫の中へ消えた。

 

 欄干脇の雲吟師(うんぎんし)は、両腕を突き出したまま、頭上を過ぎた水龍をぽかんと見送っていた。

 

 橋脚へ当てぬよう流れを逸らすだけで両の足を踏ん張っていた。その幾倍もの水を、丹楓はたった一振りで屋根より高く持ち上げたのだ。

 

 

「……あれだけの水を、一度に……」

 

 

 男は思わず畏怖を込めて丹楓を見た。

 

 だが腕を振り抜いた龍尊は、もう次の濁流の対処に動いている。

 

 

「——呆けるな、走れ!」

 

 

 頭上を見上げたまま立ち尽くしていた人々が、鏡流の檄に突き動かされる。

 

 その脇で、別の雲吟師の男が通信器へ怒鳴っていた。

 

「水路へ流すぞ! 人は上がったか!」

 

 雑音交じりの返答に耳を澄ます。

 

 舟も離した、誰もいない——そう聞こえるなり、男は顔を上げた。

 

「龍尊様、こちらは空きました!」

「では、次は両岸だ!」

 

 丹楓は、続いて押し寄せる水を脇の水路へ導いた。

 

 下流の雲吟師たちも手をかざす。石の縁を越える高さにまで膨れ上がった水が、その手に挟まれるようにして家々の間を抜け、湖へ注いでいく。

 

 橋脚が姿を現した。

 

 渡っていた子供が欄干にしがみつき、その下を覗き込もうとして、母親に手を引かれる。

 

「ふーたん、大丈夫か!?」

 

 近くで足を止めていた是印にも、丹楓は顎で橋を示した。

 

「無論だ。そなたも疾(と)く渡れ!」

「……ああ、任せた!」

 

 是印はそう言うや否や滄淵を背に、橋へ踏み出していく。鏡流に支えられた翠蓮もすぐにその隣へ並ぶ。

 

 歩きながら、彼女が養父へ震える手を伸ばすのが見えた。

 

 滄淵はそれを取り、何かを言って頷いた。水音に紛れて言葉までは届かなかったが、翠蓮も小さく頷き、手を握ったまま渡っていった。

 

 

「堰(せき)の方と連絡は!」

 

 

 警備の男もまた、通信器へ呼びかけていた。

 

「こちらは増水しています。流入を止めてください! そちらで——な、に?」

 

 返事を聞くにつれ、その顔が強張っていく。

 

 丹楓にも、雑音の向こうの声が聞こえた。

 

『操作所が襲われた! 見張りが斬られている。水門の操作も受けつけない!』

「襲われた、だと?」

『上の通路にも誰かいる! 作業員の服だが、止まれと言っても——』

 

 何かが砕ける音を最後に、通信が途切れた。

 

 男が繰り返し呼びかける。丹楓は流れを保ったまま、昼間見た白い堰(せき)の方へ目をやった。

 

 闇に沈んだ山腹で、灯りがいくつも動いている。

 

 

 ——その一角が、赤く弾けた。

 

 

 

 遅れて、腹に響く音が届く。

 

 

 

「あそこは、水を分ける方の——」

 

 あるひとりの雲吟師が言いかけて、上流へ向き直った。身構えたその横で丹楓も足を開く。

 

 

 

 ほどなく、腹の底を震わすような激しい水音。

 

 

 

 曲がり角の向こうから恐るべき威圧感が漂ってくる。

 

 増した濁流が流れの外へせり出すたび、両岸に並んだ雲吟師たちが押し返している。丹楓は下流に溜まりかけた水を持ち上げ、湖へ引いた。再び水が動き始めると、隣で踏ん張っていた男も短く息を吐く。

 

 袖へ飛沫がかかる。

 

 

 ——これだけなら、まだ抑えられる。

 

 

 だが、先ほどから枝や土に混じり、割れた石材まで流れてきていた。上を壊し続けられては、水路そのものが保たない。

 

 

「——丹楓!」

 

 

 気づけば、鏡流が戻ってきていた。

 

 示された対岸では、年配の女が翠蓮へ肩を貸している。

 

「翠蓮殿を診ている医士がいた。是印も一緒についていく」

 

 剣を抜き、鏡流は山腹を見据えた。

 

「我は堰(せき)へ向かう。これ以上、壊させるわけにはいかぬ」

「頼む。こちらは余が引き受ける」

 

 頷くや、鏡流は欄干を蹴った。

 

 屋根の端へ飛び移り、そのまま駆けていく。翻る白髪を目で追えたのはわずかな間で、すぐに山へ続く闇へ消えた。

 

 橋の上では、まだ避難が続いていた。

 

 家に残っていた者を連れ出してきたのだろう。警備の者に肩を借り、片足を引きずる男が渡ってくる。こちらへ頭を下げかけたので、丹楓は声を張った。

 

 

「礼など不要だ。前を見よ!」

 

 

 男は頷き、肩を貸す者とともに橋を渡っていく。

 

 渡り終えた者が坂へ向かい、空いた所へ次の者が進む。濁流の傍らを行くその足が、ようやく滞りなく続くようになった。

 

 それを確かめてから、丹楓は再び上流へ険しい顔を向ける。何条もの汗がいつも涼やかな男の頬を伝い落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 坂を上りきると、見えてきた学舎(がくしゃ)の窓から灯りが漏れていた。

 

 机が壁際へ寄せられ、床には敷物が並んでいる。先に着いた者たちで溢れかえる中を、是印は滄淵を背負ったまま縫っていく。

 

「——ここでいいか? 下ろすぞ」

 

 壁際にゆっくり座らせると、滄淵は浅く息をついた。是印が肩からずれた上掛けを直している間にも、その目は何かを探している。問えば、

 

 

「翠蓮、は……」

 

 

 いない。

 

 すぐに駆け寄ってきそうな翠蓮が——まだ来ていなかった。

 

 はぐれたかと是印もすぐさまあたりを見回せば、医士に腕を支えられた彼女が、戸口のあたりで足を止めていた。

 

「……翠蓮! どした!?」

 

 しかし、この避難場所に詰め込まれた人々のざわめきに掻き消される。

 

 舌打ちし、是印が足早に人混みをかきわけ近づくと、翠蓮は腹を押さえて俯き、額から落ちる汗を拭おうともせず、浅い呼吸を短く繰り返していた。

 

「ちょ、おい!?」

「——いつから痛むの」

 

 是印を気にかける余裕はない。そんな張り詰めた顔で医士が翠蓮を覗き込む。

 

「坂の、途中から……でも、歩けないほどじゃ、なかったので」

「——ッ、こちらへ。もう歩かなくていいから!」

「任せろ、手伝う」

 

 是印も反対側から支え、すぐ脇の敷物へ座らせた。その身体が傾くのを受け止めた時に気づく、衣の裾に——赤い染みが。

 

「奥の部屋を空けてください!! この方は妊婦です!」

 

 医士もとうに気づいていたのだろう。声は落ち着いていたが、それまでとは速さが違った。

 

 的確に指示を飛ばしていく。近くにいた者へ戸を開けるよう伝え、火の近くにいた者には湯を沸かせと叫ぶ。

 

 事情を察した様子の妙齢の女連中が敷物類を抱えて走ってくる。

 

 是印は運び込んだ翠蓮を横に寝かせてから、医士に注文を尋ね、戸口に集まりかけた野次馬へ声を張る。

 

「悪ぃ、戸口は空けといてくれ! それで女の人はすまねぇけど壁を作ってくれ! 誰か、清潔な布、持ってないか。あと灯りも頼む、こっちまで回してくれ! 早く!!」

 

 医士が鞄を開く横へ、借りた灯りを置いた。

 

 診察が始まると、翠蓮の顔から血の気が引いていくのが分かった。寒いのか、小刻みに震えている。

 

「……赤ちゃんは」

 

 問いかける声も細かった。

 

「今、診ています。翠蓮さん、こちらの声は聞こえますね!?」

 

 頷いた彼女の手を取って脈を確かめると、医士は戸口に立つ是印を呼んだ。

 

「お産が始まっています。ただ、出血が多い。ここでできる処置は始めますが、搬送の手配もお願いします」

「わかった。誰に声かけりゃいい?」

「入口にいる警備の方へ。救護の星槎を回してもらってください」

 

 是印は戸口から呼びかけ、来た男へそのまま伝えた。通信器を取り出したのを確かめて戻れば、医士は新しい布を受け取り、手をひたすら動かし続けている。

 

 

 取り替えられた布は、ぎょっとするほどに赤かった。

 

 

「翠、蓮……」

 

 

 背後から声がした。

 

 滄淵が戸の縁へ手をかけて立っていた。近くにいた者の肩を借り、ここまで来たらしい。

 

「なにしてんだ滄淵! あんたも無理すんなって!」

「頼む……あの子の、そばへ」

 

 その訴えかける顔を目の当たりにし、是印はそれ以上言わず、寝床の脇へ椅子を寄せた。

 

 腰を下ろすのも待たずに伸びてきた翠蓮の手を、滄淵は両手で包んだ。

 

「滄淵、さん……」

「ああ。ここにいるよ」

 

 指が強く握り込まれる。

 

 爪が食い込んでいたが、滄淵は顔をしかめることもなく、娘の顔を覗き込む。

 

「ここにいる。だから、医士殿の言うことを、よく聞きなさい」

 

 翠蓮が頷く。痛みに耐えるたび、その手が滄淵の指を握り直していた。

 

 是印は医士にそっと耳打ちする。

 

「……どうだ」

「……処置を続けます。ですが……血が止まりません。このままでは、母子ともに非常に危険です」

 

 滄淵たちには届かぬほどの声だった。そう答える間にも医士は手を休めず、翠蓮へ何度も声をかけ、その返事を聞いている。

 

「血を補わなければ。ですが、輸血用の血も、器具一式も診療所に置いたままです……この往診の鞄に針や検査器はありますが、血を送るための管までは……」

「救護の星槎は?」

「まだ手配がつかないそうです」

 

 是印は寝床へ目をやった。

 

 翠蓮が何か言おうとしている。滄淵が耳を寄せたが、唇が動いたきり、声は出なかった。

 

 一瞬だけ考え込む素振りを是印は見せ、

 

「……血を分けられる奴がいれば?」

「まず、翠蓮さんに使える血かを確かめなければなりません。その検査はできます。ただ、それでも、どうやって血を送り込むか——」

「悪ぃ、難しいことはあんたが頼む」

  

 是印の目が、窓へ向いた。

 

 坂の下から絶え間なく水音が響いてくる。

 

「……とにかく、血(・)が(・)翠(・)蓮(・)に(・)渡(・)れ(・)ば(・)い(・)い(・)んだな!」

「は、はい……もちろん、出血を抑える処置も続けますが何——あ、ちょっと!?」

「——すぐに戻る! 待ってろ!」

 

 返事を待たず、是印は戸口をブチ抜く勢いで駆けていく。

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 ——後方から何か聞こえた。

 

 

 坂を駆け下りてくる足音に、丹楓が振り返れば、

 

 血相を変えた是印だった。

 

 避難する人々とは逆の方向へ走り、橋の上でも足を緩めない。その姿を見た途端、胸の奥が冷えた。

 

「何があった」

「翠蓮だ。上で産気(さんけ)づいちまった。けど、血が足りねぇ。輸血したくても、道具がねぇんだとよ」

 

 是印は肩で息をしながら、丹楓の腕を見た。その手に従い、濁流が橋を避けて流れていく。

 

 

 

「丹楓。お前のその術って——血にも使えるか」

 

 

 

 丹楓の目が細まった。

 

「……血を移せと申すか」

「できんのか、できねぇのか、どっちだ」

「余であれば可能だ。だが、誰の血でもよいわけではない」

「んなこたぁわーってる。それは医士のセンセが調べてくれる」

 

 丹楓は高台へ目を向けた。

 

「——滄淵は」

「翠蓮の側についてる。……来てくれ。頼む」

 

 すぐには答えられなかった。

 

 上流へかざした手を動かすと、水路を塞ぎかけていた石材が浮き、濁流に乗って湖へ流れていく。

 

 雲吟師たちは、まだ両岸を守っていた。

 

 是印もその様子を知ると、息を呑んだ。

 

「橋を渡る者の残りは、あとどれほどだ!」

 

 丹楓の問いかけに隣の男が通信器で確かめると、最後の家から出てきた者たちが、今、こちらへ向かっているという。

 

「……下流の者にも伝えよ。流れを作り直す」

 

 男が目を見開く。

 

「余が退いた後も、そなたらで保てるようにする。水を受ける箇所を、今より湖側へ移すのだ」

 

 丹楓は腕を広げた。

 

 急に折れ曲がっていた濁流が、緩やかに弧を描き始める。橋へ戻ろうとする水を引き寄せながら、下流にいた術師たちへ、岸を移るよう声を飛ばした。

 

 一人が持ち場を変える間は、その分も引き受け、移った先で水を受け止めたのを確かめてから、次の者を動かす。雲吟師たちが必死で押さえていた曲がり角を、今度は水が溢れることなく通り抜けていった。

 

 是印は催促こそしなかった。ただ、拳を握り、坂の上と丹楓とを交互に見ている。

 

 最後の一団が橋を渡りきった。

 

 その後ろを追ってきた警備の者が、残っている住民はいないと告げる。

 

「……どうだ」

 

 丹楓が尋ねると、雲吟師の男は両足を踏み直した。

 

 流れを見据えたまま、手の角度を変える。対岸の者も頷いていた。

 

「この流れなら、——我々で保てます」

 

 なおしばらく水の動きを確かめてから、丹楓は手を下ろした。

 

 濁流は、湖へ向かって進み続けていた。

 

「異変があれば、すぐに知らせよ! 余は上の学舎に!」

「承知しました。どうか、翠蓮さんを!」

 

 

 丹楓は頷き、是印へ向き直った。

 

 

「行くぞ」

 

 

 

 

 

 それ以上の言葉を交わすことなく、二人は坂を疾駆する。

 

 開いた戸口を抜け、奥の部屋へ戻ると、翠蓮は目を閉じていた。滄淵が名を呼ぶと薄く瞼を開いたがすぐにまた閉じかける。

 

 丹楓は寝床の傍らへ膝をつき、医士から容体を聞いた。

 

 手首へ指を当てる。その手は、ひどく冷たかった。

 

「……丹、ふ、う様」

「動かずともよい」

 

 腹へかざした掌に、淡い光が灯る。

 

 雲吟の術が操るものは、河川の水に限らない。丹楓ほどの使い手であれば、身体の内を巡る血にもその力は及んだ。

 

 ただし力任せに押し流せるものではない。細い血の道を傷つけぬよう、弱まった流れを支えながら、漏れ出る箇所を探っていく。

 

 やがて医士が、取り替えた布を見た。

 

「出血が……」

「抑えておる。だが、失った血までは戻らぬ。使える血を探してくれ」

 

 医士が戸口へ向きかける。

 

「私の血を」

 

 滄淵の声が、それを止めた。

 

 娘に握られていない方の袖を、肘までまくり、

 

「私の血を使ってくれ。必要なだけ、いくらでも」

 

 医士は首を横に振った。

 

「……申し訳ありません。持明の血は、殊俗の民である翠蓮さんには使えません」

「だが——」

「滄淵」

 

 丹楓が呼んだ。

 

 友は言葉を詰まらせ、まくった袖へ目を落とす。

 

 理を説かれれば、いつもなら納得する男だった。その男が、分からないはずのないことを、もう一度尋ねた。

 

「少しでも……駄目なのか」

 

 医士は、頷かなかった。

 

 ならばと戸口の警備の者が、外へ声をかけに走った。だが、隣室から返ってくる声を聞く限り、最悪なことに近くにいるのは仙舟人と持明族ばかりだった。殊俗の民がいるとしたら——

 

 

 

 

「——んじゃ、俺のを調べてくれ」

 

 

 

 

 是印が上着を脱ぎ、医士の前へ、腕を差し出す。

 

「俺は仙舟人じゃねぇ。……合うかどうかは、見てもらわねぇとわかんねえけどさ」

「……ご協力、いただけますか」

「もちろん」

 

 鞄から取り出された小さな検査器へ、医士が翠蓮と是印、二人の血を採って収めた。結果を待つ間も処置を続け、是印はその邪魔にならぬよう寝床の端へ座る。

 

 滄淵の袖は、まだまくられたままだった。

 

「……是印」

「任せろ。あんたは、その手、握っててやれ」

 

 目を伏せた滄淵の指を、翠蓮が弱く引いた。

 

「滄淵、さん……私……」

「ああ。いるよ。ここにいる」

 

 娘の顔へ身を寄せ、もう一度その名を呼ぶ。翠蓮はわずかに頷くと、手を握ったまま目を閉じた。

 

 短い音が鳴った。

 

 医士が検査器を取り上げ、表示を確かめる。

 

「……使えます! この方の血なら」

「聞いた? 運がいいのよ、俺」

 

 誰も聞いてないのにそう言うと、是印は腕を伸ばした。

 

「ふーたん。いっちょ頼むぜ」

「軽く申すな。……翠蓮の失った血の分、そなたからも血が失われるのだぞ」

「知ってるよ。なんとかなる。だからお前に頼んでんだろ」

 

 丹楓は、その顔を見た。

 

 是印は笑っていたが、差し出した腕を引こうとはしなかった。

 

「……具合が悪くなれば、すぐに申せ」

「あいあい」

「是印!」

「わーってるっての、ちゃんと言うって」

 

 

 医士が是印と翠蓮、それぞれの腕に針を留めた。

 

 丹楓は二人の腕を確かめ、空いている手をかざした。

 

 二つの針の口を結ぶように、細い管の形をした水膜が宙へ伸びる。

 

 その内側を、赤い血が流れ始めた。

 

 是印の腕から引き出され、翠蓮の腕に留められた針へと届く。医士が用意できなかった管を、丹楓は術で補っていた。

 

 先ほど屋根を越えて流した水に比べれば、あまりにも細い。だが、丹楓は一度も目を離さず、翠蓮の脈に合わせて、流れを少しずつ調整していく。

 

 もう片方の手は、彼女の腹へかざしたままだった。

 

「医士よ。こちらは任せよ」

「はい!」

 

 翠蓮が息を詰め、滄淵の手を握り込んだ。

 

 是印もそちらへ顔を向けかけたが、丹楓に腕を押さえられ、その場に留まる。

 

「……じっとしてりゃいいんだな」

「ああ」

「おーけい。そいつは、あんま得意じゃねーんだけどなぁ……」

 

 言い終えると、是印は黙って目をつぶる。

 

 丹楓もまた、その腕へ添えた手を離さなかった。

 

 

 

 

 

 

 灯りの下で、医士の手が懸命に動いていた。

 

 丹楓と是印によって失血による危機は一時的に去ったとはいえ、予断を許さない。

 

 布を受け取り、翠蓮へ声をかけ、そばについている女たちへ短く指示を出す。誰かが部屋を出ていき入ってくるたび、戸の向こうのざわめきが近くなったような気さえしてくる。

 

 二人を繋ぐ水膜は途切れていない。丹楓は是印から血を送りながら、翠蓮の腹へかざした手を器用に動かし、その後の流れを探っていた。

 

 

 ——まだ、この手は引けない。

 

 

 抑えている箇所から力が逸れれば、また血が漏れ出す。水膜を流れる血と、身体の中で押さえている傷の双方へ意識を配り、丹楓は医士の次の言葉を待った。

 

「翠蓮さん。私の声、聞こえますか」

「……はい」

 

 かすかな返事に医士は頷き、翠蓮の額を拭いてやるよう傍らの女へ頼んだ。頬まで拭い終えるそばから汗が滲み、濡れた髪が張りついていく。

 

「……滄淵さん」

「どうした」

「手、痛く……ない?」

 

 滄淵の手の甲には、娘の爪の跡がくっきりと残っていた。

 

「君が気にすることではないよ」

 

 次の痛みに、翠蓮はまたその手を握り込んだ。

 

 滄淵は寝床へ身を寄せたまま、椅子の背も使おうとしない。自分の身体を起こしているだけでも辛いはずだが、娘の呼びかけにはすぐに応じた。返事が掠れると、咳払いをひとつして言い直す。

 

 

「……ふーたん」

 

 

 是印が片目を開けていた。

 

「お前も誰かに汗、拭いてもらえよ。目に入んぞ」

 

 言われて初めて、眉に溜まった汗に気づいた。

 

 そばにいた女が手拭いを持って寄ってくる。礼を言い、額を拭われる間も、丹楓は手の位置を変えなかった。

 

 是印も、それ以上は口を挟まない。

 

 戸が開き、新しい湯が運び込まれた。

 

 医士が声をかけるたび、翠蓮が頷く。返事ができない時は、滄淵の手を握る指が動いた。それを確かめてから、医士はまた次の言葉をかけていた。

 

 

 

 やがて、——翠蓮が大きく顔を歪めた。

 

 

 

 腹へかざした手に血の流れの乱れが伝わり、丹楓は術を調整した。

 

「翠蓮さん。大丈夫よ! 大丈夫だからね! そのまま、落ち着いて息を繰り返して! 吐いて、吸って、吐いて、吸って、はい! そしたら、——力んで!!!」

 

 滄淵がせめてと空いている方の手も重ねた。それを万力のように歯を食いしばって翠蓮は握りしめる。

 

 

 命を産み落とす神聖な時間であり——ここが正念場だった。

 

 

 翠蓮が苦悶にあえぐ。滄淵が祈る。

 

 気を散らさぬよう丹楓は息を止め、術を保った。

 

 

 

 

 

 

 やがて、

 

 

 

 

 

 その声に、もうひとつ、小さな声が重なった。

 

  

 

 細く聞こえたそれが、次の息で部屋いっぱいに響き渡る。

 

 

 

 そう、それは産声(うぶごえ)。

 

 

 新たな命がこの世に誕生した号砲に他ならなかった。

 

 

「翠蓮さん、頑張ったわね! ——生まれましたよ!!」

 

 

 医士の腕の中で、血にまみれたしわくちゃな生き物がいる。そして嬉しいのか悲しいのかわからないような表情で大口を開けて泣き叫んでいる。

 

 そんな生き物の、小さな拳が開いた。

 

「翠蓮さん、わかる!? 赤ちゃんですよ。元気に泣いていますよ!!」

 

 汗だくで憔悴(しょうすい)している翠蓮は返事をしようとして、だけどどうしても言葉にならず、涙が目元からこぼれる。ようやくしぼりだしたのは、

 

 

「……あ……か、ちゃん」

「ああ、翠蓮! お前の子だ……っ!」

 

 かたわらで、滄淵が椅子から腰を浮かせていた。

 

 すぐに座り直したが、伸ばしかけた手は宙に残ったままだった。医士が赤子を包み、母の顔へ近づけると、その手がゆっくり下がっていく。

 

 

「ほら。お顔が見えますか!?」

 

 

 頷こうとする翠蓮の顔に、医士が赤子をもう少し近づけた。

 

「……春、寧」

 

 心に決めていた名前を口にして、翠蓮は腕を伸ばし、我が子にもう一度呼びかけた。

 

「春寧……」

 

 医士に支えられた小さな身体へ、その指が触れる。

 

 赤子は泣いていた。母が名を呼んでも、滄淵が覗き込んでも、構わず手足を動かし、包まれた布を押している。

 

「……滄淵さん。見て、……かわいい……」

「ああ」

 

 滄淵は娘の手を握り直した。滄淵の顔もまた涙と鼻水にまみれていた。

 

 

「よかった……本当に、よかった……ッ」

 

 

 戸の向こうでも、生まれたのか!?、と誰かが尋ねていた。見物に入ろうとした者が追い返され、それでも外で、よかった! よかった! と喜びに湧く声がする。

 

 是印が丹楓のそばで、空いている手の親指を立てた。口元が緩んでいる。それでようやく、丹楓も肩の力を抜き

 

 

 ——かけた、その時だった。

 

 

「まだ、術を保ったままで解かないでください」

 

 

 医士の声は低かった。

 

 赤子をそばの老女へ託すと、すぐに翠蓮の処置へ戻る。老女は母に顔が見える位置で赤子を抱き、そっと布を整えた。

 

「……分かっておる」

 

 丹楓は血の流れを確かめた。術を解けば、止めている箇所から再び血が失われる。産声を聞けたからといって、翠蓮まで救えたわけではない。

 

 彼女は赤子の頬を撫でていた。途中で腕が震え、老女が肘の下を支えてやる。

 

 ——まだだ。まだ、

 

 そこで、戸が叩かれた。

 

「龍尊様!?」

 

 

 警備の男が戸口に立っていた。先ほど、救護の星槎を手配するよう頼まれた者だった。

 

 

「搬送の手配がついたか」

「いえ。……鏡流殿から、急ぎの報せです!」

 

 差し出された通信器を、是印が空いている手で受け取った。丹楓にも聞こえるよう、二人の間へ持ってくる。

 

『丹楓、是印。聞こえるか!』

「ああ、二人で聞いている。堰はどうなった」

『操作所は取り返した。襲った豊穣の手の者どもも押さえたが、……堰(せき)に亀裂が走っている。先ほどの爆破で、脇を支えていた岩盤まで崩れたらしい』

 

 通信器の向こうで、何かを引きずる音がした。人の怒号も混じっている。

 

『ここにいた者の話では、割れ目が広がれば水が集落の裏手へ抜ける』

 

 一拍だけ間が空き、

 

 

 

『——お前たちのいる学舎は、その下だ』

 

 

 

 学舎の背後には山腹が続き、貯水の堰はさらに高い所にある。下の水路が溢れても届かぬ所まで上がってきたのに、今度は、その裏から水が来るという。

 

「あと……どれほど保つ」

『分からぬ。だがもはや猶予はないに等しいだろう。ここからも人を退かせている。そちらも、動ける者は山腹の道を使って横へ逃がせ。水の来る筋から離れろ』

 

 唇を噛みしめ、すぐさま丹楓は、

 

「聞いたな。皆を移せ。下に残っている雲吟師にも、退くよう伝えよ」

「はっ。こちらのお部屋の方々は——」

 

 医士はすぐには答えなかった。手伝いの女へ新しい布を頼み、処置を続けながら言った。

 

「……運べる支度はします。ただ、処置は続けなければなりません」

 

 運ぶとして、寝床ごと外へ出せるか。自分も是印も、翠蓮のそばを離れられない。

 

『——なっ!?』

 

 通信器の向こうで鏡流が驚愕の声をあげた瞬間——足元が、低く震えた。

 

 湯を張った椀の水面に波紋が走る。

 

 外で誰かが叫んだ。続いて、屋根へ小石を撒いたような音がし、老女に抱かれていた春寧がひときわ強く泣いた。

 

 通信器の向こうで、鏡流が声を張った。

 

 

『——まずいっ、そちらに向かったぞ!!!』

 

 

 その声が轟いたのとほぼ同時に、

 

 

 

 

 窓硝子が、内側へ弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

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