ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#82 "彼は、永久(とこしえ)の契りを結ぶ - 後編 - "

 

 

 

 

 

 間髪なく。

 

「——伏せろッ!!」

 

 是印が通信器を足下へ放り出す。

 

 針の刺さった腕はそのままに空いた手で医士の肩を押し下げる。春寧を抱いた老女も身を縮こめ、滄淵は翠蓮の頭へ覆いかぶさった。

 

 硝子片(がらすへん)が掛け物の上にきらめきを撒き散らす。拳ほどの石が床を跳ね、湯の入った椀を粉々に砕く。

 

 

 その直後、窓いっぱいに泥水が膨れ上がった。

 

 

 丹楓の双眸(そうぼう)に青い光が茫(ぼう)と灯り、

 

 

 ——窓からせり出した泥水は、そのままの形で、時を止めたように静止していた。

 

 

 丹楓は雲吟の術で泥水自体を固め、割れた窓の代わりの障壁にして塞いだのである。

 

 

 だがなおも後ろから押し寄せてくる濁流はその障壁へぶつかり、窓枠ごと軋ませる。壁越しにも鈍い衝撃が伝わり、柱に掛けられていた額が落ちて形をなくす。

 

 

 ——窓だけを塞いでも、壁ごと破られては意味がないか。

 

 

 丹楓は奥歯を噛み合わせ、翠蓮へかざした掌を保ったまま、術の及ぶ範囲を広げた。窓に張った障壁を外側に膨らませ、壁に沿って半球の径を延ばし、迫る水を学舎の脇へ逃がそうとする。

 

 やがて、窓枠の軋みが弱まった。

 

 代わって、壁の向こうから激しい水音が響き始める。正面から叩きつけるような衝撃は遠のいたが、足元の震えまでは消えなかった。戸口の警備の男が壁へ手をつき、どうにか踏みとどまる。

 

 

 室内の誰もが衝撃の余り固まっており、いや、それは一人を除いていた。

 

 

「——医士よ。手を止めるな!」

 

 

 はっと身を起こした医士が、翠蓮の側へ戻る。

 

 翠蓮の腕へ血を送り込む水膜も、辛うじて形を保っていた。丹楓はその細い流れを整えながら、戸口の方向に向かって命じる。

 

「横手の出口は使えるか!」

「確かめます!」

 

 男が廊下へ駆け出す。

 

 是印は滄淵の背を軽く叩き、

 

「滄淵。もういい、春寧も無事だ。翠蓮に重いって怒られちゃうぞ」

 

 滄淵はゆっくり身体を起こす。娘の頬へ落ちていた硝子を袖で払い、そのまま自分の上掛けを、娘の肩に乗せてやる。

 

「……ごめん、なさい」

「謝る必要はないよ」

 

 翠蓮はまだ何か答えようとしたが、咳に遮られた。滄淵はそれ以上言わせず、掛け物の下へ手を差し入れ、もう一度翠蓮の手を握り直す。それは言葉よりも雄弁に伝わるはずだった。

 

 その近くでは春寧の泣き声が続いている。

 

 丹楓にはむしろその声がありがたかった。振り返る余裕はなくとも、泣いてさえいれば春寧は大丈夫なはずだった。

 

 

『——二人とも無事か! 応答しろ!』

 

 

 床に転がった通信器が鏡流の声を発した。是印はそれを拾い直し、口元へ寄せると、

 

「はいはい先生、ちょっちピンチっすわ! 土石流で窓割れたけど、ふーたんが抑えてる!」

『そちらは動けるか!?』

「それがまだ——」

「もう少しだ」

 

 丹楓が答えると、医士も処置の手を休めず言った。

 

「血を送る方は止めていただいて結構です。出血を抑える術はまだそのままで」

 

 是印の血を運んでいた流れを絞る。水膜の赤みが薄れ、医士が二人の腕から針を外すと、役目を終えた水が椀へ落ちた。

 

「そちらの腕は、血が止まるまでしばらく押さえていてください」

「おっけい」

 

 是印は渡された布を腕へ当てる。ようやく自由になった肩を動かし、長く息を吐く。

 

「——先生、春寧はさっき爆誕したよ。なんとか翠蓮も無事だ、今、医士のセンセが頑張ってくれてる」

 

 通信器の向こうで、鏡流がほっと息を吐いた。

 

『……そうか』

 

 すぐに、人へ何か命じる声が続く。

 

『我もそちらへ向かう。横手の道へ出ろ。学舎より下へは降りるな』

「了解。先生も気ぃつけて」

 

 返事の代わりに、何かを断つ鋭い音が響いた。

 

 通信器を懐へ収め、是印は寝床の周りへ散った硝子を、脱いであった上着で払いのける。

 

「運ぶんだよな。担架は?」

「ありません。戸板でもあれば——」

「戸なら腐るほどあんだろ。おーい、誰か手ぇ貸してくれ!」

 

 呼びかけに、廊下を走っていた男たちが足を止めた。

 

 ほどなく隣室で戸を外す音が始まる。その間に、手伝いの女が荷紐を集め、医士の鞄を肩へ掛けた。

 

 

 こんな状況においてでも、皆が新しい命とそれを産み終えた母を救うべく動き出していた。

 

 

 丹楓は寝床の脇へ片膝をついたまま、外へ逃がす水の幅を広げた。

 

 水だけなら学舎を避けて流せばいい。だが引き裂いた流れの奥には、折れた木や岩が混じっている。沈んだ重い物ほど曲がりきらず、真っ直ぐこちらへ突っ込んでくる。それを一つずつ水で掬い、建物から遠ざけなければならなかった。

 

 壁の向こうでは何か重いものが擦れる音。

 

 すぐ頭上でも瓦が砕け、続いてばらばらと破片が落ちる音がする。

 

 流木か何かが屋根に引っかかったらしい。

 

 丹楓は屋根際の水を持ち上げ、引っかかったものごと押し流そうとした。そちらへ力を込めた途端、翠蓮の腹へかざした指が、わずかに強張り、筋が浮かび上がる。

 

「——っ」

 

 翠蓮の短い息に、すぐさま力を緩めた。

 

 ——丹楓は今、学舎へ迫る土石流を逸らしながら、翠蓮の体内では傷口から血が漏れぬよう、その流れを制御している。

 

 たとえ同じ雲吟の術でも、求められる力加減はまるで異なっていた。外の岩を押し流す勢いで体内の血まで動かせば、翠蓮を内側から破裂させることになりかねない。

 

 雲吟師の誰かに代わりにこれをやれと言われたら、顔面蒼白で首を横に振るだろう。これほど緻密で繊細な制御かつ失敗が許されない重圧を要求されれば、常人なら気が狂う。

 

 丹楓の顔には汗がびっしり浮かび、何度も袖で拭っている。それでも集中を途切れさせることは許されない。

 

 掌を動かさず、指先の強張りだけを解いていく。

 

 隣で医士が新しい布を受け取るまでの間にも、壁の向こうでは石のぶつかる音が絶えず続いていた。

 

 

「——横手は通れます!」

 

 

 警備の男が戻った。片方の肩がずぶ濡れになっている。

 

「外壁に沿って右へ進めば、山道へ出られます。ただ、角の所に水が回り込んでいて、そちらも押さえていただければ——」

「……わかった。動ける者から出すのだ」

 

 男が踵を返しかけた時、是印が呼び止めた。

 

「待ってくれ。……赤ん坊とそっちの男を先に頼む」

 

 滄淵が椅子から立ちかける。

 

「是印、私は——」

「翠蓮は俺が運ぶ。すぐ後ろから行くから、あんたは春寧と一緒にいてやってくれ」

 

 滄淵の手には、まだ娘の指が絡んでいた。

 

 翠蓮が、かすかに頷く。

 

「……滄淵、さん、春寧を、お願い」

 

 その一言で、滄淵は立ち上がった。

 

 警備の男が腕を支える。赤子を抱いた老女が並ぶと、滄淵は布の端を直してやり、娘へ言い残した。

 

「すぐ、そこで待っているからね」

 

 春寧の泣き声が廊下へ遠ざかる。

 

 戸板を担いだ二人の男と入れ違いになり、開いた戸の向こうでは、残っていた人々も列を作って進み始めた。

 

 丹楓は休むことなく、警備の男が告げた角の水を押し退けた。外壁に沿って障壁を広げ、人が通れるだけの隙間を作ろうとする。

 

「水が引いた! 山道まで通れるぞ!」

 

 外から歓声が上がった。

 

 壁と濁流との間に、ようやく道が通った瞬間だった。

 

「壁から離れず進め!」

 

 呼びかけに続いて、大勢の足音が廊下を抜けていく。

 

 寝床の脇には戸板が置かれ、是印たちが医士の合図を今か今かと待っていた。

 

「龍尊様。少しずつ、術を弱めていただけますか」

 

 丹楓は翠蓮の腹へかざした手を下げた。

 

 途中で止める。医士が確かめ、もう少し、と促す。二度、三度と繰り返しても、押さえていた箇所から新たに血が漏れ出す気配はなかった。

 

「……大丈夫です。こちらで術がなくとも処置を続けられます」

 

 ようやくその手を引いた。

 

「……よし、続けるぞ」

 

 丹楓はよろけつつも立ち上がり、両腕を広げる。

 

 窓の外に青白い光が走った。

 

 丹楓は外壁沿いに保っていた水を、より一層、遠ざけた。先ほどは歩いて逃げる者が通れればよかったが、今度は担架を傾けずに運べる幅がいる。

 

「これなら担架も通せます!」

 

 外から届いた声に、医士が運び手たちを呼んだ。

 

「今よ。運んで!」

「おし行くぞ!! せーのっ!!」

 

 医士の掛け声に合わせ、是印たちが待ってましたと翠蓮を敷布ごと戸板へ移す。そしてそこから翠蓮が落ちないように縄をくくりつけていく。

 

 丹楓は足元の硝子を踏み越え、廊下までの道を空けた。

 

「よし、頭側、頼めるか。ゆっくりでいい、傾けんなよ」

 

 是印が足側を持ち上げ、二人の男が反対側を支える。医士もそれに添うようについていく。

 

 戸口を抜ける寸前、翠蓮が掛け物から手を出し、

 

「丹楓、様……」

「話は後でよい。滄淵が待っておる」

 

 付き添う医士が、その手を掛け物の中へ戻してやる。

 

「そうそう。春寧の初抱っこ、取られちまうかもよ」

 

 翠蓮がわずかに笑った。

 

 是印はそれを確かめてから、丹楓へ短く声をかける。

 

「外、頼んだぜ」

「任せよ」

 

 即席の担架が廊下へ出る。

 

 丹楓もその後を追い、横手の出口へ進んだ。戸の外には、水を押し退けて空けた道が、闇の中へ細く続いていた。

 

 

 

 

 

 

 外へ出ると、すぐ脇を岩が流れていった。

 

 人の頭ほどもあるそれが泥水の中で一度浮き、また沈む。是印は担架の足側を抱え直し、外壁へ肩を寄せた。

 

「……これじゃ、道っていうか川底じゃねぇか」

 

 片側には学舎の壁。もう片側には、人の背丈を越す濁流がせり上がっている。その間に空いた地面を、避難民たちは一列になって進んでいた。

 

 丹楓が水を押し退けている間だけ使える道。術を解けば終わり、たちまち濁流の下へ沈む。

 

「その先で右へ! 石段を上がって、岩の裏へ回って!」

 

 灯りを掲げた警備の男が、先から呼んだ。

 

 学舎の端まで続く道の先に、山腹へ上がる石段があった。そこまで行けば、張り出した岩が上流からの水を遮ってくれるだろう。先に出た住民たちは、次々とその岩陰へ姿を消していた。

 

 赤子を抱いた老女もすでに石段へ足をかけている。滄淵は警備の男に支えられながら、その後ろを上がっていた。

 

「翠蓮さん、もう少しですよ」

 

 担架に付き添う医士が、安心させるように翠蓮の胸を撫でる。

 

「あちらへ着いたら、赤ちゃんに会えますからね」

 

 翠蓮は鼻をすすりながら、小刻みに頷く。

 

 その一団を守るように、丹楓は最後尾についていた。

 

 濁流へ片手をかざし、水の壁を可能な限り担架から遠ざける。さらに自分が通り過ぎた所から順に力を緩めると、誰もいなくなった道へ泥水が戻っていく。

 

 もう学舎全体を守る必要はない。最後の一人が岩陰へと入るまで、この道さえ保てばいい。

 

「——っ!?」

 

 心臓が跳ねた。ふらついた拍子に危うく足を踏み外すところだった。

 

 ——力を、使い過ぎたか……。

 

 思えば休憩を挟むことなく、ひたすら住人たちの避難、翠蓮の輸血、学舎の保護と術を酷使してきた。さしもの丹楓といえど、疲労困憊だった。

 

 だが前をゆく是印たちに悟られぬよう、丹楓は残った力をかき集めて、担架の進みに合わせて壁沿いを半ば這うように進

 

 後ろで何か聞こえた気がする。

 

 ——木の折れる音。

 

 思わず振り返れば、外壁に亀裂が走り、その下からは既に濁った水が噴き出ていた。

 

 何故。

 

 瞬時に、丹楓の脳がありとあらゆる可能性をはじき出す。そして残ったのは、丹楓が押さえていた流れとは別に、建物の下へ入り込んでいた水が、気づかぬうちに土台を徐々に洗い崩していたというもの。つまり、

 

 

 

「——全員、壁から離れよ!!!」

 

 

 

 声を潰しかねないほど声を張ると同時に、濁流をさらに押し退ける。

 

 担架を持つ男たちが、丹楓の声に押されるように出来たばかりの空間へ足を踏み出した。

 

 

 その頭上へ——壁が傾く。

 

 屋根の重みを支えきれなくなった柱が折れ、瓦と壁材が一緒になって倒れかかってくる。

 

 逃げるにも、翠蓮を運んでいては走れない。

 

 

「……させ、ぬッ!!!」

 

 

 丹楓はかざした腕を跳ね上げた。

 

 道の脇から立ち上がった水が、崩れる壁の下へ潜り込む。担架へ落ちるはずだった瓦礫は間一髪、水に受け止められ、そのまま学舎の中へ押し返された。

 

「止まるなッ! そのまま進——」

 

 言い終えるより先に、右脚へ衝撃が走った。

 

 丹楓の視界が傾ぐ。

 

 別の柱に繋がっていた梁が落ち、足首を巻き込んでいた。片端は崩れた石積みに乗っているが、もう片端が丹楓の脚を地面へ完全に押さえつけている。

 

 ——まともに受け身をとることもできなかった。

 

 殴り倒されたかのような勢いで丹楓は泥に叩きつけられる。

 

 体勢が崩れた途端、水の壁が担架へ寄る。丹楓は泥に手をつき、左膝を身体の下へ引き寄せる。梁に挟まれた右脚はびくともしない。それでも上体を起こし、両腕を広げ直そうともがく。

 

 前方をゆく是印たちのくるぶしのあたりまで上ってきていた泥水が、引いていく。

 

「おい!! 大丈夫か丹楓!!!」

「よ、い……前を見よッ、翠蓮を運べ!!」

 

 是印が叫び返していることだけはわかった。

 

 だが、理解に割く余裕はなかった。

 

 石段の手前まで水を押し退ける。

 

 是印たちがそこを進めば先に着いていた警備の者が二人、石段を駆け下りてくる。

 

 担架に手が掛かった。

 

 運び手が増えたことで翠蓮の身体を乗せた担架がようやく安定する。是印たちは声を掛け合い、翠蓮に負担がかからぬよう、一段ずつ石段を上がり始める。

 

 

 ——それで、よい。

 

 

 丹楓が挟まれた右の足首を捻ろうとした途端、骨にまで響く痛みが全身を走り抜ける。梁の上には崩れた壁材が重なり、その重みが、脚へかかっていた。

 

 頭上で、また柱が鳴る。

 

 まだ立っている外壁が、こちらへゆっくりと、傾き始めていた。

 

 水を回せば梁を持ち上げられる。だがその間、担架の脇を守っている流れを緩めるわけにはいかなかった。

 

 

 ——あと少し。

 

 

 せめて医士が最後の段へ足をかけるまで。

 

 

 丹楓は迫る壁を背に、石段へ通じる道を保ち続けた。

 

 自分の脚へ回しかけた水も石段の脇へ押しやる。今、そちらへ力を割いて、最後のところで翠蓮を水に呑ませては、何のためにここまで来たのか分からない。

 

 

 たとえ、ここで自分自身を犠牲にしたとしても。それは。

 

 

 

 

 

 

「————クソ馬鹿野郎!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 泥を蹴立てて、人影が視界に飛び込んできた。

 

 

 何故と思った。

 

 

 馬鹿なのかと思った。

 

 

 是印だった。

 

 

 担架の足側は駆けつけた警備の二人へ引き継がれていた。是印は翠蓮を彼らに託し、一人だけ逆戻りしてきたのだ。

 

「な、来てはならぬ! 壁が——」

「見りゃわかる! 早く抜くぞ!」

 

 是印は梁の脇へ膝をついた。泥が跳ね、互いの顔に貼り付く。

 

 石積みと梁の間を覗き込み、足元に落ちていた板を拾う。梃子の要領で梁の下へ差し込み、石の角を支えにして、その端を押し下げた。

 

 が、動かない。

 

「無理、だ……」

「るせぇ!!! 天才印なめんな! ンぎィ、動、き……やが……れッ」

 

 

 顔を真っ赤にするほど是印が全力を込める。梁が少しずつ、浮き始める。

 

 

 丹楓は脚を引き寄せた。

 

 わずかに動く。踵が抜ける手前で、板が大きく撓(たわ)んだ。

 

「……っきしょ、ぐ、っそ、重てぇなぁッ!」

 

 是印は板へ膝を乗せ、更に身体の重みをかけた。空いた手で近くの石を掴み、梁の下へ押し込む。

 

 その背へ、壁から剥がれた人の頭ほどの大きさの破片が当たった。

 

 鈍い音。

 

 短い呻きが漏れる。それでも膝は浮かさず、石をもうひと押しした。

 

 ——その時、ようやく担架が岩陰へ入った。最後に残った医士も段を上がりきる。

 

「——ッ!!」

 

 丹楓は石段へ送っていた水を呼び戻す。

 

 脚を挟んでいる梁へ水を潜り込ませようとした途端、何かに気づいた是印が叫んだ。

 

 

「——ッ”、ダメ、だ、伏せてろ……ッ!」

 

 

 頭上の壁が折れた。

 

 丹楓は咄嗟に水を上へ差し向ける。立ち上がりかけた流れを追い越し、屋根から外れた木材が槍のように落ちてきた。

 

 是印が板を離し、丹楓へ覆いかぶさる。

 

 濁流の轟きに紛れず、何かの砕ける音がした。

 

 すぐ耳元で。

 

 是印の身体が大きく沈み、丹楓の顔の脇へ血が飛び散った。折れた木材の先がその肩口を深く抉った。背中の衣を引き裂いて身体から外れると、すぐ脇の地面へ突き立つ。

 

「……づぁ」 

 

 ——飛び散った血は、是印自身の顔にもかかっていた。目を開こうとしても、血に濡れた睫毛(まつげ)が貼りついている。

 

「是印ッ……!!」

  

 続いて落ちてきた瓦礫は、とっさに丹楓の水が受け止めた。

 

 雄叫びとともに崩れた外壁の大半が、そのまま学舎の中へ押し流されていく。

 

 その下で、是印は目を開けるに開けられないまま、途切れ途切れに声を絞り出す。

 

「……だいじなツノ、お、れてねーか」

「そなた……!」

「あ、し……はやく、ぬけ」

 

 噛ませた石が、梁を支えていた。丹楓もその下へ水を送り込み、足首の上にわずかな隙間を作る。

 

 丹楓は上体を反らし、その勢いを利用し右脚を引き抜く。

 

 抜けたと伝えると是印はすぐさま手探りで丹楓の腕を掴み、どうにか傷のない側の肩へ回す。

 

「わり、まだ見えねぇ……から指示してくれ」

「……あ、あ」

 

 二人でよろよろと立ち上がる。

 

 丹楓が水を引いた直後、重なった瓦礫がずり落ち、支えの石を押し潰した。今しがたまで脚が挟まっていた場所へ梁が落ちる。

 

 丹楓は石段へ腕を振る。

 

 二人の行く手から水が退き、石段までの地面が現れた。

 

「少し右だ。……そうだ。そのまま進め」

「ああ……」

 

 是印は足を滑らせるようにして進んだ。見えぬ足元を探っているのだろう。丹楓もその歩幅に合わせ、傷めた右脚を引きずる。

 

「前に石がある。少し、足を……上げよ」

 

 是印の爪先が石の縁へ当たった。一度引き、持ち上げて乗り越える。その拍子に身体が倒れかけ、丹楓は肩へ回した腕に力を込めた。

 

 耳元で、息を詰める音がする。

 

「す、すまぬ……」

「おた、がい……さまだろ」

 

 是印は腕を抱え直した。

 

 裂けた衣から血が滴り、泥の上へ落ちていく。

 

 丹楓は空いている手を伸ばした。避難のために広く取っていた道を、今度は二人が通る分だけ残して狭める。流木を遠ざけ、足元へ入りかけた水を押し戻した。

 

 石段は、もうすぐ目の前だった。

 

「あと三歩ほどだ。その先に段がある」

「……三歩ね」

 

 是印が頷いた途端、がくんと膝から崩れた。

 

 丹楓も引かれてよろめく。踏ん張った右足に激痛が走った。

 

 倒れる——と思った時、前方の灯りを遮って、白髪が翻った。

 

 

「——是印! 丹楓!」

 

 

 鏡流だった。

 

 石段を駆け下り、道へせり出してきた流木を斬り払う。返した剣を鞘へ収めながら、是印の空いている側へ回り込んだ。

 

「お前、その傷は——」

 

 言いかけた声が途切れる。

 

 すぐに腰へ腕が回り、崩れかけていた是印の身体を支えた。

 

「……こちらへも体重を預けろ」

「あれなに天、国? ……て、この匂いと声は……先、生?」

「ああ。我だ。もう少しだ、しっかりしろ……もしも死んだら我が殺す」

 

 是印は、おーこわーとこぼし。小さく頷く。

 

 鏡流が腰を支えて引き上げると、どうにか歩けそうだった。

 

「足元に段がある。上がるぞ」

 

 その声に合わせ、一段ずつ上る。

 

 丹楓は右脚を庇いながら、最後まで水を押さえていた。三人が岩の張り出しを回り込み、流れの筋から外れたところで、ようやく手を下ろす。

 

 背後で、轟音がした。

 

 岩の向こうで木の折れる音が続き、瓦の砕ける音が水音に呑まれていく。

 

 腕を回していた是印の肩が、がくりと下がった。

 

「是印!」

 

 鏡流が腰を抱き留め、その場へゆっくり座らせる。丹楓もすぐ隣へ膝をついた。

 

 荒い呼吸の向こうから、赤子の泣き声が聞こえる。

 

 少し先に敷かれた敷物では、医士が翠蓮の処置を続けていた。傍らには滄淵と、春寧を抱いた老女の姿もある。

 

 

 とうとう、切り抜けた。

 

 

「布を。水も持ってこい!」

 

 鏡流の声に、警備の者が走った。

 

 受け取った布を濡らし、鏡流は是印の顔へ当てる。眉から頬へ血を拭い、閉じた瞼の周りにも、布の汚れていない所を押し当てた。

 

「……目を開けられるか」

 

 是印が何度か瞬きをする。

 

 薄く開いた目が、目の前の鏡流を捉えた。

 

「……美人な、おねーさんが、見えました」

 

 掠れた声に、一瞬はたこうとした鏡流もその手を下ろし、短く息を吐く。

 

「そうか。動くなよ」

 

 別の布を肩口へ当てると、痛みが走ったのか是印の口から呻きが漏れた。

 

 丹楓も掌をかざした。

 

 裂けた肩から、まだ血が流れている。流れを探り、漏れ出している箇所を押さえていくと、布へ広がっていた赤みがようやく弱まった。

 

 それでも、既に衣はひどく血と泥水で濡れていた。

 

 先ほど翠蓮へ血を分けたばかりなのだ。その上、これほどの傷まで負っている。なのに、

 

「……ふーたん」

 

 乗ってた船が遭難したような顔で、

 

 

「足、どうよ」

 

 

 言葉がなかった。

 

 九死に一生を得て、出てくる言葉がそれか。

 

 これほどの愚か者は、いまだかつて出会ったことがなかった。 

 

 

「……そなたは、自分の心配をせぬか」

「してるって。くっそ、いてぇ……し」

 

 

 唇を突き出そうとして、咳き込む。

 

 鏡流がずれかけた布を押さえ直す。是印は息を詰め、今度は大人しく肩の力を抜いた。

 

「是印」

 

 丹楓は、その名を呼んだ。

 

「なぜ、戻った」

「……あ?」

 

 もう、限界だった。

 

 何言ってんのといわんばかりの反応に、たまらず丹楓は声を荒げる。

 

「危うく、そなたまで死ぬところだったのだぞ!!! 余を助けるために、そなたがそこまでせねばならぬ理由など——」

 

 

 

「たりめーだろ。助けんのに理由がいるなら、そいつは友達じゃねーよ」

 

 

 

 言い終えると是印は息を継いだ。

 

 丹楓は、呆けたように口をわななかせる。

 

 傷へ布が触れ、是印がアイテテテと眉を寄せた。

 

 梁を押していた時も、背に破片が当たった時も、この男は痛みに呻いていた。それでも、自分が脚を抜くまで、そばを離れようとしなかった。

 

 その結果が、この溝鼠(どぶねずみ)もかくやという有様だ。

 

「……そなたは、」

 

 ようやく、それだけ返せた。

 

 片手は傷口へかざしたまま、もう片方の手を伸ばす。

 

 触れられた指が動いた。

 

「およ? ……なに、ふーたん」

「――じっとしていろ。血が、まだ止まりきって——」

「あー、へいへいって、あ、おい……丹楓ッ!?」

 

 丹楓の記憶があったのは、そこまでだった。

 

 

 

 

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

 

 

 

 

 丹楓が目を覚ました時、窓の外はすっかり明るくなっていた。

 

 身を起こしかけ、右の足首に走った痛みに顔をしかめる。掛け物の下には、幾重にも包帯を巻かれた脚があった。

 

 是印の肩を裂いた傷と、そこへかざしていた自分の手を思い出す。

 

「……ッ、是印は!?」

 

 丹楓が意識を取りもどしたことに気づいた医士が、寝台の傍らへ寄ってくる。

 

「よかった! 是印さんは別のお部屋で休んでいらっしゃいます。鏡流殿が付き添っておられますよ」

「そうか……、翠蓮は。子はどうなった」

「大丈夫です。お二人ともご無事です。出血も止まっていますから、どうか落ち着いて」

 

 そうなだめられ、起こしかけていた身体を、枕へ戻した。

 

 

 ——ここは、水害を免れた隣の集落の診療所だという。夜明け頃に救護の星槎が着き、意識を失っていた自分も、皆と一緒に運び込まれたらしい。

 

 

 医師は丹楓が目を覚ますまでの流れを語る。

 

 差し出された水を飲み、丹楓は、ようやくひと息ついた。

 

「……滄淵は、どこに」

 

 しばらく休んでから、医士に肩を借りて廊下へ出た。

 

 翠蓮の病室の前に、滄淵が座っていた。母子の無事を聞いても、翠蓮が目を覚ますまではと、椅子を離れずにいたという。

 

 丹楓に気づくとすぐさま立ち上がろうとする。丹楓はその肩を軽く押さえ、隣へ腰を下ろした。

 

「……君まで倒れた時は、どうなることかと思ったよ」

「……すまぬ。心配をかけた」

 

 滄淵は首を振り、深く頭を下げた。

 

「ありがとう。翠蓮(すいれん)も、春寧(しゅんねい)も……君たちのお陰だ」

 

 その声を聞きながら、丹楓はまだ閉ざされている戸の前で、友とともに呼ばれるその瞬間を待った。

 

 翠蓮の夫、行明(ぎょうめい)もすでに駆けつけていた。別の場所で救助活動をしており、負傷して合流できずにいたらしい。

 

 妻の寝台の脇で、助けに行けずすまなかったと、どうかどうか……帝弓の司命よと、ひたすら謝罪と祈りを繰り返しているという。

 

 

 

 やがて、翠蓮が目を覚ましたと知らされ、丹楓は滄淵とともに病室へ入った。

 

 

 

 寝台の脇には小さな寝床が置かれていた。目を赤くした夫が場所を空けると、医士は滄淵の椅子をそこへ寄せた。

 

「——翠蓮、よかった……本当に」

「——滄淵さん」

 

 枕へ頭を預けたまま、翠蓮が微笑む。

 

「手紙に書いたお願い、覚えてる?」

「え……ああ……?」

 

 滄淵は戸惑いつつも、頷く。

 

 けれど、差し出そうとした両手を、膝の上へ戻してしまった。

 

「私で、大丈夫だろうか」

「何を仰いますか。座ったままで結構ですよ。腕はこちらで支えますから」

 

 医士は肘の下へ畳んだ布を当て、それから春寧を抱き上げた。

 

 小さな頭を迎えるよう、滄淵の腕が曲がる。

 

 首の下へ添える手に、もう迷いはなかった。

 

 ただ——赤子の重みが腕へ移った途端、滄淵は深く息を吸った。

 

 

「——ああ」

 

 

 医士がまだ手を添えている間も、その顔を覗き込んでいる。

 

 春寧は目を閉じていた。口を小さく動かし、包まれた布の中で身じろぎをする。

 

 

「これほど、軽かった、か」

 

 

 翠蓮が笑った。

 

「もしかして、私もそうだった?」

「ああ。君も、このくらいだった」

 

 滄淵の指が、春寧の頬に触れかけて止まる。

 

 起こすのをためらったのだろう。代わりに、口元へ寄っていた布の端を折ってやった。

 

「……春寧」

 

 昨日、翠蓮が紙へ書いた名を呼ぶ。

 

 すると赤子の眉が動いた。続いてゆっくりと口が開き、小さな泣き声が上がる。

 

「おや。起こしてしまったな」

 

 滄淵はそっと身体を揺らした。

 

 それでも泣きやまないので、自分の髪へ手を伸ばそうとして、両手で赤子を抱いていることに気づく。

 

 翠蓮が、ふふっと息を漏らす。

 

「髭(ひげ)、作ろうとしたでしょう」

 

 滄淵の手が止まった。

 

「……よく分かったね」

「忘れるわけないわ。私が泣いたら、いつもそれだった」

 

 翠蓮に頼まれ、夫が滄淵の髪をひと房取り、その手へ渡した。

 

 滄淵は医士に赤子を支えてもらいながら、鼻の下へ持っていく。口をすぼめてみせると、翠蓮の肩が小さく揺れた。

 

「そう、それ」

 

 春寧は構わず泣いていた。

 

 滄淵は苦笑して、髪を離す。

 

「君と同じようには、いかないか」

「でも、私は笑っちゃった——」

 

 翠蓮は目元へ手を当てた。

 

 その指が、なかなか離れなかった。

 

 

「——お父さん」

 

 

 滄淵が顔を上げる。

 

「翠、蓮?」

 

 いつものように、名を呼んだ。

 

 娘は頷いた。それでも、言い直さなかった。

 

「私、この子に話してあげたいの。お母さんは、どんなお父さんに育ててもらったのか」

 

 声を出すたび、喉が震える。

 

「字を間違えたら怒られたことも、熱を出した時に、朝までそばにいてくれたことも。……この髭のことも」

 

 滄淵は唇を開いた。

 

「君には、君を産んでくれた——」

「うん。それもちゃんと伝える」

 

 翠蓮は腹の上で、掛け物を握った。

 

「だからお母さんには、

 

 

 ――お父さんが二人いるのって」

 

 

 春寧の泣き声が、二人の間を繋いでいく。

 

 

「その時も、名前で呼ばないと駄目?」

 

 

 滄淵は何も言わない。いつもなら、娘が納得するまで言葉を尽くしたはずだったが、今は腕の中の赤子を抱き直すばかりだった。

 

 その身体を支える手は、いつかの日にひとり避難船で泣いていた翠蓮を抱きしめた手でもあった。

 

 

「……私は」

 

 声がしゃがれた。

 

 一度、唇を結ぶ。

 

 

「ずいぶん、君に我慢をさせてしまったね」

 

 

 翠蓮が首を振りかけ、途中で止めた。

 

 やがて、涙を拭いながら頷く。

 

「……うん」

 

「すまなかった」

 

 

 滄淵はゆっくりと頭を下げた。

 

 膝の上で、春寧が泣きやむ。だぁ、と小さな手が布の端から出て、宙を掻いた。

 

 指を添えてやると、それを握った。

 

 

「……お父さん」

 

 

 今度は、滄淵も娘の名で遮らなかった。

 

「ああ」

 

 そう返してから、もう一度頷いた。

 

「ああ。翠蓮、君は、私の大切な娘だ」

 

 翠蓮は片手で顔を覆った。

 

 夫が肩へ手を添える。その手へ一度触れ、それから顔を拭いて、父の腕の中へ呼びかけた。

 

 

「春寧。——おじいちゃんだよ」

 

 

 滄淵の口元が歪んだ。

 

 声を出そうとして、できなかった。

 

 春寧に握られた指を動かさぬまま、目元を肩へ押し当てた。

 

 しばらくして、医士が赤子を小さな寝床へ戻した。

 

 滄淵は軽くなった腕を膝へ置く。

 

 その手へ、翠蓮が指を伸ばした。

 

 

「……ねえ」

 

 

 触れた手首で、袖が少し上がる。

 

 肌の一部が、鱗のように剥がれかけていた。

 

 翠蓮の指が止まった。

 

 

「それ……もしかして、」

 

 

 滄淵は袖を直そうとして、やめた。

 

 娘の手を取る。

 

 

「そろそろ、——脱鱗の時が来るんだ」

 

 翠蓮とて持明族である父とかけがえのない時を過ごしてきたのだ。

 

 その言葉の意味はわかった——わかって、しまった。

 

 誰も言葉を挟まなかった。

 

 翠蓮は父の手首から、顔へと視線を上げる。

 

「だから……急に、会いに来てくれたの?」

「ああ」

「私が会いに行くまで——待てない、ってこと?」

 

 滄淵は頷いた。

 

「君の顔を見て、おめでとうと言ってやりたかった」

 

 

 その掌が、娘の指を包む。

 

 

「私が、覚えているうちにね」

 

 

 翠蓮の唇が震えた。

 

 

「……どうして、教えてくれなかったの」

「心配をかけたくなかったんだ」

「するわよ! 当たり前じゃない。心配くらい、するよ……」

 

 声が詰まる。それでも、翠蓮は手を離さなかった。

 

 

「いつ来るの。その……脱鱗は」

「私にも、はっきりとは分からない」

 

 

 滄淵は、小さな寝床へ顔を向けた。

 

 

「だから、春寧を抱けるとは思っていなかった。君にも、そう、父と、呼んでもらえるとは」

 

 

 翠蓮は首を振った。

 

 

「いやよ……まだ呼び、足りないよぅ……」

 

 父の手を、自分の頬へ寄せる。

 

「これからは何度だって呼べるって、今まで呼べなかった分も取り戻せるくらい、お父さんって、いっぱい呼べるって……」

 

 

 ——そう、思っていたのに。

 

 

 滄淵は目を閉じた。

 

 指先が、娘の涙に濡れていく。

 

 

「……私は、つまらない男だった。幼少のみぎりより、理(り)を好んだ。

 

 人は間違う。だからこそ、理がそれを支えるのだと信じていた。

 

 だが、君に出会えてからというもの、そんな私の狭い世界観は粉々となったよ。虫を捕まえることを楽しみ、不細工な人形に泣き、腹が空けば悲しみ、髪で作った髭で笑う。

 

 およそ、私の尊(たっと)んだ理など、到底まかり通らない世界があることを、教えてくれたのは、君だ」

 

 

 ——だから、と、

 

 

 滄淵は震える声で。

 

 

 

 

「私は——君の父親になれて、心から幸せだった」 

 

 

 

 抱き合い涙を流す親子に、丹楓は背を向けた。

 

 

 ——これ以上は無粋だろう。廊下へ出て、戸を閉じかけた時、

 

 

「お父さん……、お父さん……ッ!! 行かないで、もっと長生きして……よぉッ!!」

「翠蓮。どうか哀しまないでくれ……たとえ、記憶がなかろうと、

 

 

 君が覚えていてくれさえすれば、

 

 

 ——私はいつも、そこにいるのだから」

 

 

 友の言葉が聞こえた。

 

 丹楓は、音を立てぬよう戸を閉めた。

 

 

 取っ手から手を離しても、すぐには歩き出せなかった。

 

 

 ——中から、また父を呼ぶ声がする。滄淵の返事は聞き取れなかったが、娘の声が少しやわらいだので、何か答えたのだと分かった。

 

 

 廊下の先で、湯を運ぶ医士が足を止める。

 

 

「お部屋へ戻られますか。お手をお貸ししましょうか」

「いや……是印の部屋はどちらだ」

 

 

 教えられた戸まで、傷めた脚を庇って進んだ。

 

 戸を軽く叩き、名乗った。

 

 

「是印。余だ。丹楓だ——入ってもよいか」

「——え? あ、ちょい待ちタンマ!!??」

 

 中で騒々しい物音がした。

 

 

 不審に思い、開けるぞと言いながら部屋へ入ると、是印が寝台へ飛び乗るところだった。

 

 

 両手で身体を支え、勢いよく足を引き上げる。枕へ倒れ込み、掛け物を胸まで引っ張ってから、ようやく丹楓と目が合った。

 

  

「……お、お−。ふーたん。よく来てくれた……げほっ、ごほっ。俺はもうダメだ……」

 

 わざとらしく咳き込み、肩を押さえて身を丸める。

 

「…………」 

 

 丹楓は虚無の表情で、戸口から入った位置で立ち止まった。

 

「……そちらではない」

「ん?」

「傷を負った肩は、反対だ」

 

 是印の手が止まった。

 

 それから、ゆっくりと反対の肩へ移されるのを、丹楓は黙って待った。

 

「……見てくれ、窓の外のあの花が散ったら俺もきっと……」

「満開だが? それにたった今、両腕で軽々と身体を持ち上げていたな?」

 

 滝汗が顔に浮かぶと、是印は丹楓に背を向けるように寝返りを打つ。

 

 枕元には、空になった椀が置かれている。血の滲んだ布もあったが、寝台の上の男は、肌の色まで昨夜の状態とはまるで違っていた。

 

「……鏡流は」

「……飯のおかわりをもらいに行ってくれてる」

「食欲もあるようだな」

「えへへ、ほら、怪我人だから栄養とらないと……」

 

 言いかけて、是印は口を閉じた。

 

 丹楓は椅子を引き、寝台の脇へ腰を下ろす。

 

「その肩を見せよ」

「なななな何を言い出すんだオメーはよ、ハっ、ハレンチだわっ!」

 

 

 だが、やがて是印は、閉じた戸の方を気にしながら、

 

 

「……驚くなよ」

「既に驚いていて言葉がない」

 

 

 いつの間に冗談が言えるようになったんだっつのとぶつくさ言いつつも、ついに観念したのか是印は襟を緩めた。肩へ留めてあった布を自分で外し、その下をさらす。

 

 

 

 傷が、なかった。

 

 

 

 丹楓は数度、瞬きをした。

 

 木材が深く食い込み、肉を抉っていった場所だ。血を止めるため、どこから漏れ出しているのかまで探った。場所を取り違えるはずがない。

 

 だが、肩の後ろまで確かめても、滑らかな肌が続いているだけだった。

 

 

「……誰か、余が寝ている間に治癒の術を使ったのか」

「うんにゃ。勝手に治るんだよ」

 

 是印は外した布を膝へ置いた。

 

「先に言っとくぞ、豊穣のヤツらと関係ないからね! えっと……、俺の身体、ちょっとばかし治りが早いんだわ。ただし、そのためにはご飯をたらふく食べねーといけないの」

「……ちょっと、だと」

「訂正。だいぶね」

 

 先ほどまでの怪我人の芝居は、すっかり消えていた。

 

 丹楓がしたのは、血を止めることだけだ。失われた肉を補い、皮膚まで元に戻した覚えはない。

 

「鏡流は……このことを知っておるのか」

「んーっと、……はい。まあ、色々あってねぇ……」

 

 先ほどはたしかに、この男を失うかと思った。

 

 その間も、身体はひとりでに傷を塞いでいたのだろうか。問いはいくつも浮かんだが、今ここで答えを求める気にはなれなかった。

 

 別にこの男ならそういうこともあるかと、不思議と納得していた。

 

 是印が衣を戻す。腕を上げても、もう顔をしかめることはなかった。

 

「えっと……根掘り葉掘り聞かねーの?」

「聞いたところで答えぬのだろう。それに、そなたはそなただ」

「え、や……そりゃまぁ……」

 

 自分で言っておきながら、ぐっとうなだれる是印。

 

 丹楓は寝台の端へ手を置いた。

 

 

「あの時、……そなたが死ぬかと、思った」

 

 

 是印は頭を上げるが、丹楓の指が敷布を掴んでいるのに気づいたのか、開きかけた口を閉じた。

 

 やがて、少し頭を下げる。

 

「……それについては悪ぃ。ごめん。心配かけた」

 

 その声を聞いて、ようやく指から力が抜けた。

 

 どうであれ、是印は今、目の前にいる。傷も塞がり、腹まで満たして、また人をからかう余裕さえある。

 

「礼を言う。……そなたが戻ってくれて、助かった」

「よせやい。もういいよ、そういうのは」

「よくない。余はまだ正面から申していなかった」

 

 是印は頭を掻いた。そのまま後ろ髪をぐしゃぐしゃにしてから、

 

 

「……どーいたしまして」

 

 

 とだけ返した。

 

 

 ——平然と人を友と呼んでおきながら、礼を言われるとこれだ。

 

 

 丹楓の口元が、わずかにほころんだ。

 

 

「……で、どうだったんだ。あっちは?」

 

 

 照れ隠しもあったのだろう。けれど、尋ねる声は真剣だった。

 

「母子ともに無事だ。翠蓮の夫も来た。滄淵は今、あの子ら——いや、家族と一緒だ」

 

 最後の言葉の意味が伝わったのか、是印も、ははと笑い、

 

「そっか。春寧ちゃんは抱いてもらったのかよ、じーちゃんに」

「ああ。無事にな」

 

 

 是印は枕へ背を預け、長く息を吐いた。

 

 

「あーよかった……ったく、色々スゲー目にあったな」

 

 

 廊下から誰かが医士を呼ぶ声がした。急ぎ足がこの部屋の前を通り過ぎ、別の戸が開く。

 

 

 ——ここへ運ばれた者は、自分たちだけではない。丹楓も、昨夜救った全員の容体を確かめられたわけではなかった。

 

 

 それでも、あの親子は生きている。

 

 

 父と呼び、娘の名を呼んで、これまで言えずにいたことを、今、伝え合っている。

 

 

「……例の、滄淵の身体のことは?」

 

 是印が、声を落とした。

 

「翠蓮には……話したのか?」

「ああ」

 

 短く答えたきりで丹楓は目を伏せる。

 

 呼び足りないと、翠蓮は泣いていた。

 

 滄淵もまた、会って祝ってやれれば十分だと言っていたのに、いざ娘に触れると、生まれてくる子を抱きたいと願った。

 

 では、その願いの叶った今なら、どうなのだろう。

 

 春寧が名を呼ばれて笑うところを。翠蓮に手を引かれて歩くところを。できることなら、その先も、もっと、もっと——

 

 丹楓でさえ思うのだ。滄淵が、もう十分だと思えるはずがなかった。

 

 だが、同時に思うのだ。どう足掻こうと、人は生まれ、やがては死ぬ。短命種であろうと長命種であろうと、その尺が違うだけであり、はじまりとおわりは変わらない。

 

 

 はたして一体、どれほどの人間が、自らの望む終わり方を迎えられるのだろうか。

 

 

 

 滄淵は——きっとその、自らの望む終わり方を見つけられたのだ。

 

 

 

 部屋を辞する時の言葉は、彼がたどり着いた答えだったのだろう。

 

 

 ——では、と丹楓は思う。

 

 ——余、自身は、と思う。

 

 

 

 

「是印」

 

「……んだよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「——子供は好きか」

 

 

 

 

 

 

 沈黙だった。

 

 

 というか、絶句だったと言った方が正しい。

 

 それはもうたっぷりと間をとってから、

 

 

「——は? 急に何?」

 

 顎が外れたかと思うほど大きく口を開けている是印が、

 

「い、いや、まぁ、別に嫌いってわけじゃねぇけど……ほんとどしたんだよ、急に」

「いつか、子を持ちたいとは思わぬか」

「え”!? ゆ、ゆくゆくね、ゆくゆくゆくゆくゆくゆくくらいには家庭内サッカーチームを作るぐらい持ちたいとは思ってっけどぉ」

 

 是印はクネクネしてから、真面目な顔に戻すと、

 

「……だからなんだよ、ふーたん、翠蓮たちにあてられたのか? ……まぁたしかに、好きな女と一緒になって、子供ができてさ。毎日うるせぇだろうけど、なんか楽しそうじゃん、とは思うよ」

 

 

 その言葉を、丹楓は胸の内で繰り返した。

 

 赤の他人が出会い、恋をし、番(つがい)となり、やがて生まれた二人の子を育てる。

 

 それは大多数の人が連綿(れんめん)と紡いできた血の歴史だ。

 

 一方で、持明族は脱鱗を繰り返し、ひとつの命をつないでいく。その一族に生まれた自分には、血を分けた子は持てない。

 

 

 だから、そうした暮らしを思い描くことを、どこかで避けていたのかもしれない。

 

 

 だが、滄淵は、たとえ血が繋がってはいなくとも、血よりも固い絆で翠蓮の父となった。

 

 

 子をなせぬ身であっても、誰かを愛し、その者と過ごした日々を、生涯の幸福と呼んだのだ。

 

 

「……そなたの言う通りだ。楽しそうだな」

 

 

 自然と、別の声が蘇った。

 

 

 ——丹楓。動いたぞ。

 

 

 翠蓮の腹へ触れた鏡流が、こちらへ振り返った時の声だった。小さな衣を両手で広げていた姿も、桜の下で笑った顔も、鮮やかに思い出せる。

 

 

 そのそばに、自分もいたかった。

 

 

 あの笑顔を、自分へ向けてほしかった。

 

 

「ふーたん?」

 

 

 是印の呼びかけに、丹楓は息をついた。

 

 

 昨日、彼女に花びらを渡され、追いかけていたのはこの男だった。可笑しくてたまらぬとばかりに鏡流が笑い、つられて自分も笑っていた。

 

 

 彼女が楽しそうなのが、嬉しかった。

 

 

「そなたといる時、鏡流はよく笑う」

「……は、今度はなんだよ——って先生が? いや、むしろ怒ってる方が多くね?」

「だとしたら、そなたの眼はとんだ節穴だ。余には、そう見えた」

 

 是印は何か言い返そうとしたが、結局、またもや後ろ髪を掻いただけだった。

 

 丹楓は枕元の空の椀を一瞥した。

 

 鏡流は今、この男に食べさせるものを取りに行っている。傷が治ると知っていても、そばを離れずに世話をしていた。

 

 

 もしも、この二人が家族になったなら。

 

 

 鏡流が子を抱き、是印が食事を作る。子が泣けば二人で困り、笑えば顔を見合わせる。

 

 

 自分が父となる姿を思い描くよりも、その様子は、よほど容易に浮かんだ。

 

 

 胸の奥が少し痛んだ。それでも、その家を訪ねてみたいと思った。

 

 

「……誰かを愛するとは、不思議なものだな」

 

 

 是印が真顔になった。

 

 

「共にいたいと思う。できるなら、その者が喜ぶことを、自分がしてやりたい。だが、自分がそれを為せず、他の誰かがそれを為せるのだとするならば、それは——」

「む、難しいんだけど……それ、なんの、つか、誰の話?」

 

 

 丹楓は答えず、わずかに口端を上げた。

 

 

「さてな、余もまだまだ未熟だ。そこまで教えてやる度量はない」

「……なんなんだよ、ったく……意味わかんねーよ」

 

  

 面食らったせいで、是印からはいつものような軽口は返ってこなかった。

 

 少しだけ、いい気味だと思った。

 

 

 あの二人が、いつかそんな暮らしを選ぶなら、その幸福を守るために力を尽くしたい。

 

 

 丹楓は椅子の縁へ手をつき、ゆっくりと立ち上がる。

 

 傷めた右脚を庇い、左脚へ重みを預ける。

 

 そして胸の前で右手を拳に握り、その拳を左の掌で包み、拱手(こうしゅ)を取る。

 

 是印が、その真剣な表情に思わず背筋を伸ばす。

 

 丹楓は静かに一礼した。

 

「余の名は持明族が飲月君、丹楓。今、ここに契りを結ぶ。是印、これから幾星霜、永久(とこしえ)に、脱鱗を経ようと経まいと、記憶があろうとなかろうと関係などない。

 

 

 ——そなたの大切なものは、余が必ず守り抜くと」

 

 

 しばらく、返事がなかった。

 

「……は、はぁ」

 

 是印は掛け物へ両手をついたまま、半端に口を開けていた。

 

「ええ……いや待って……何? あのぅー今、何かすげぇこと言わなかった?」

「言ったな」

「それは分かってるっつの。だからなんで……?」

 

 丹楓は顔を上げた。

 

「……もしかして、さっき助けたから? いや、だから、俺は別に、お礼とかそういうんじゃ——」

「承知の上だ」

「わかんないわかんない。じゃ、なんでそうなるんだよ」

「余が、そうしたいと思った。それだけだ」

 

 

 是印はなおも何か言おうとして、困り果てたように自分の頬をつねった。

 

 

「……これ、俺も何か言わなきゃいけねぇの?」

「不要だ。ただ聞き届けてくれればよい」

「えぇ……。じゃあ、えっと……一応聞いたけど」

 

 どこか落ち着かない調子で言ってから、丹楓の組んだ手をもう一度確かめる。

 

「……これでいい?」

「十分だ」

 

 丹楓が拳をほどくと、是印もようやく肩の力を抜いた。

 

「子供が好きかって訊かれてから、俺、全然話についていけてねぇんだけど」

「そなたのよく言うノリとやらについていけない気持ちがわかったか」

「なに、その嬉しそうな顔。お前、もしかして俺のことからかってる?」

 

 

 丹楓は鼻で笑いながら、椅子へ腰を戻した。

 

 

「——誓いは偽りのない本心だ。それは覚えておけ」

 

 

 是印はまだ腑に落ちない様子で唸っていたが、やがて、

 

 

「あーあー、もういいよ、勝手にしろ。よろしくお願いしまーす。

 

 あ、でもな、その守るべき対象ってやつに、

 

 ——ちゃんとお前自身も数に入れとけよな」

 

 

 

 ——ああ、まったく、この男は。

 

 

 

 丹楓が天を仰ぐのと同時に、

 

 

「まったく、師匠遣いの荒い馬鹿弟——む、丹楓、来ていたのか。ちょうど呼びに行こうとしていた」

「? どうし——ほう」

 

 戻ってきた鏡流が盆を両手に持っており、そこには小料理の数々と、そして、

 

 

「おっわー、やっぱわかってるぅ、さすが先生! よっ、宇宙で一番かわいい師匠!」

「うっ、うるさいっ!! 勝手にお前と一緒にするな!!」

 

 ぴょーんと寝台から飛び降りて、是印は盆の上にあった酒(・)瓶(・)をかっさらい、片手で掲げると、

 

 

「なんだかんだ、したりねーし!」

 

 

 もう片方の手で窓の外を指して、

 

 

 

「ここでもっかいやっちまうか、

 

 

 ——花見!!」

 

 

 

 

 

 

 

 ——その指の先では、満開の桜が咲き誇っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




スペシャルエンディング
『さくらびと』SunSet Swish




どうぞ、ご一聴を by 収束アツシ
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