DARK SOULS Trilogy Collection 作:神父三号
ご承知おきください。
王家の悲願、"薪の王"の資格者たる"ロスリック"。
そんな私に与えられた、"牢屋"である私室。
その寝台で私が眠りから目覚めた後も、城は何度も大きく揺れ続けていた。
謎の襲撃者"ルカティエル"が引き起こしている揺れだ。
太陽のごとき、赤い火球。
空から落ちる、無数の雷。
二頭の飛竜を一瞬で消し飛ばした、極太の青白い光線。
"ルカティエル"はまだ、戦っている。
この城を、国を、揺らし続けている。
私は完全に閉ざされた暗い"牢屋"の中で、"ルカティエル"の大いなる業によるものであろう、その揺れを楽しんだ。
朝昼晩の食事を運ぶために一日に三度は必ず顔を見せる乳母のエンマが、城が揺れている間は一度もやってこなかった。
しかしやがて、城の揺れは収まった。
"ルカティエル"が死んだのか。それとも去ったのか。
最初の揺れから、どれだけ時間が経っただろうか。
二日か、三日か。
長く飲み食いしていないために、流石に腹が減った。
いっそこのまま飢え死にできればと思っていたところに扉が開き、エンマが食事を持って入ってきた。
「ロスリック様。誠に申し訳ございません」
「いや、構わぬ。……"ルカティエル"というものはどうなった?」
「ご心配には及びません。ロスリック様にはこの祭儀長エンマがついております」
エンマは感情の無い声で、そう言った。
質問の答えになっていない。
しかし、暗闇の中に浮かぶ老婆の顔は明らかにいつもと違う。
あの日急いで駆け込んできた時と同じく、やはりひどく強張っている。
おそらくまだ、何かが起きている。
あるいは、何かが変わったはずだ。
窓の外で、何かが。
だが、私はそれ以上追及せずに、いつものようにエンマが見張る前で食事を腹に収めた。
「……窓を開けてくれ、エンマ。長いこと真っ暗だった」
「畏れながら、ロスリック様。もう窓の格子は、決して開けられません」
「何だと? 私に火を継ぐまでずっと、暗闇の中で過ごせというのか?」
「…………」
「外は今、どうなっている? 城が何度も揺れるほどの戦があったのだろう? 兄上は? 騎士たちは? 飛竜は?」
「王におなりください。"ロスリック"様」
エンマは私の問いかけにも答えずに、聞き飽きた呪いの言葉を投げかけ、去っていった。
熔鉄の扉がまた、固く閉ざされる。
暗い闇が"牢屋"に満ちた。
「……祭儀長エンマ。それが、王家の悲願の王とやらに対する態度か」
私はそう呟いて、寝台の上で蹲った。
もう窓の格子の隙間から時折城下を眺めることすら、かなわない。
もう火を継ぐまで、"薪"としてはじまりの火に焚べられるまで、ずっとこのままか。
何とくだらない人生だろうか。
だがそれでも私は、王家の悲願なのだ。
"薪の王"の資格者なのだ。
それを全うする、責務があるのだ。
永く永く続いてきたという、この国。
そこには無数の王族や臣民の願いがあったと、エンマは語る。
火を継ぐ"薪の王"を、この世の至上の名誉を、必ずや王家より輩出するという、願い。
だから悲願の資格者である私は、自分で死を選ぶことすらできない。
全てを裏切ることになるからだ。
この国が今まで積み上げてきたものを、全て崩してしまうことになるからだ。
そもそも、あらゆるものを裏切ってまで成し遂げたいことが、私には何も無い。
だからもう──
ガシャン。
音と共に、暗闇に光が差し込んだ。
顔を上げると、窓の格子の隙間が勝手に開いている。
いや、開かれたのだ。エンマではない、誰かによって。
音も無く、隙間から白い何かが私の"牢屋"に滑り込んできた。
一体、何だというのだ。
私は力を振り絞り、寝台からずり落ちて、床を這いながら、その何かを手に取った。
驚くほどに軽い。
細く短い棒きれに、何かの毛が美しく生え揃っている。
これは一体、何だ。
「っ!?」
手に取った何かが、じんわりと光り始めた。
床に白い円模様が浮かび上がる。
そして。
「よし、上手くいった。解読に苦労したが、中々便利なスペルだな。特にこういう面倒な国では」
何が起きたか分からなかった。
目の前に、一人の騎士が立っていた。
見慣れぬ異国の鎧。凝った意匠の帽子。
顔の表面だけを覆う、奇妙な薄い兜。
大剣を背負い、直剣を腰に携え、頭をかく手には異形の爪が装着されている。
そして何より、全身から滲み出す極大のソウルの気配。
滲み出ている分だけでも、エンマのそれとは比べることすらおこがましい。
その内側にあるソウルは、"血の営み"で受け継がれて蓄えられ続けてきた私のソウルよりも、おそらくは。
この騎士は一体、誰だ。
いや、決まっているではないか。
少し前まで、この城を揺るがし続けていた存在だ。
「"ルカティエル"……様ですか?」
「いや、違う」
「え?」
「どこに行ってもよく間違えられるが、ルカティエルはこっち。翁の仮面の持ち主で、俺の友の名だ。……俺は、あくまで俺だ」
騎士はそう言って自分の名を名乗り、翁の仮面とやらを外してひらひらと振りながら、朗らかに笑った。
私や兄上と同じ、若い男性だ。
初めて直接言葉を交わした、エンマ以外の人間。
だがその眼差しは、エンマとはまるで違っていた。
雄々しく、力強く、あたたかく。
私の知る言葉では表現できない、鮮やかな色の瞳。
その瞳は、私を確かに見てくれていた。
"薪の王"の資格者"ロスリック"ではなく、私自身を。
「まあ、ルカティエルと呼んでくれてもいい。もうそっちの方が呼ばれ慣れてるくらいだからな。ただ、俺自身の名もちゃんと覚えておいてくれよ? ははは」
「あ……はい、ルカティエル様」
「……それにしても惨い部屋だな。ローリアンからあらかた話は聞いたが、ここまで惨いとは。しきたりがやがて歪になっていくのはどこでもよくあることだが、限度ってものがあるだろうに」
「ぅ、ぁ……」
「"黒い手"は今まで何をやってたんだ? こういうことを引き起こさないために、妹の方が仕組みを作ったはずだが。その仕組みすらも、代を重ねる間に歪んだか」
「ぇ、"黒い手"? 妹の方?」
何の話をしているのか、理解できない。
理解できず床に這いつくばったまま見上げていると、ルカティエル様はそっとしゃがみ込み、私のフードを優しく外して、視線を合わせた。
そして、悲しそうに眉をひそめた。
「やはり似ているな。お前は妹の方に似ている。だが、ローリアンやゲルトルードと同じだ。どうにも他のものが、複数混ざっている。……これで確信が持てた。成果が実らずに焦り、どこかの代で何か別の禁忌にも手を出したな」
「別の禁忌……? ゲルト……? 貴方は一体、先ほどから何を言って……」
「ローリアンは、兄の方に似ていた。ゲルトルードは、お前と同じで妹の方だ。……"血の営み"を歪ませながらも、本当に延々と続けてきたんだな。この国、ロスリックは」
ルカティエル様は床に横たわる私を抱きかかえて、寝台に座らせてくれた。
その隣に、全ての武装を解いた彼がどかっと座る。
まだ成人していない私よりも、僅かに小柄だった。
しかし、隣り合うとはっきり分かる。
格が違う。
その身に宿す、ソウルの格が。
大いなる存在に思わず、身体が震えた。
「さて。こんな惨い扱いを受けていても建国の話くらいは、流石に聞かせてもらってるだろ?」
「……はい。才に恵まれた神の裔たる兄妹が、歴代の"薪の王"の故郷が自然と流れ着くこの地を見つけ、ここがこの世界の聖地であるとして……史上最高の"薪の王"を輩出するべき選ばれた地であるとして、ロスリックという国を建てたと」
「それで?」
「……兄が初代の王となり、妹がその妃となり、"薪の王"を得るための……永い"血の営み"が始まった。乳母からはそう聞いています」
「兄妹の名は?」
私は答えた。
「違う。兄も妹も、本当の名はロスリックだ」
「えっ……!?」
「あのガキどもと初めて出会った時、兄の方が俺に言った。『僕たちは二人で一つ。だから二人ともロスリックなんです』とな。ガキどもが成長して国を建てて"俺達"にあれこれと面倒な手伝いをさせる際に、兄妹の名をそのまま国の名へと移し変えたんだ。それから、お前がさっき挙げた偽物の名を名乗り始めた」
「な、何故そのようなことを……?」
「何故かは分かりきっている。自分の名を、確かにこの世界に刻み込むためだ。国の名として受け継がせ、やがて誕生する"薪の王"の資格者に自分の名を与える。そうすれば今の自分が"薪の王"になれなくても、いつか"ロスリック"という存在は"薪の王"になれる。火継ぎが続く限り、火を継いだのだという至上の名誉を、いつか"ロスリック"は手に入れられる。……兄の方は、そう固く信じていた。妹も"俺達"も、あれだけ忠告したというのにな」
「…………」
「偽物の名を名乗ったのは、そんな自己顕示欲で国を建てたと後世に残ればどこかの代で致命的な破綻が来てしまうだろうと、妹の方が提案したからだ」
次々と明かされるこの国の過去に、頭が追いついていかない。
国の成り立ちからして、欺瞞があったというのか。
建国の王ロスリックの、私欲があったというのか。
火を継ぐ"薪の王"を輩出するという、王家の悲願。
その根底は、一人の男の単なる自己顕示欲だったというのか。
そしてそれを、ルカティエル様は知っている。
建国者のロスリック兄妹を、「ガキども」と呼んだ。
もしも語られた話が真実ならば、この人は一体いつから生きているのだ。
エンマのように老いていないのに。
窓の格子の隙間から眺めていた兄上や騎士たちのような、壮健な若者にしか見えないのに。
「……貴方は、何者ですか?」
私がおそるおそる問うと、彼は腰の袋から小さな木箱を出して、その中から一つの古びた指輪を取り出した。
乳母である祭儀長エンマが身に着けているものと、非常に似通った意匠だ。
そこに刻まれているのは、本を携えた男。
王を支える、この国の三柱。
祭儀長。
騎士。
そして、賢者。
祭儀長、騎士の長、賢者の長はそれぞれ、特別な指輪を着けるとエンマに聞いたことがある。
私はそれを、祭儀長のものしか見たことがない。
だが、これはおそらく賢者の長の指輪だろう。
それをこの人が持っているということは。
「あー……すまん。"修復"をかけて時を戻すのを怠けてた。古びてしまってるな」
ルカティエル様は申し訳なさそうに笑って、寝台に立てかけていた直剣を抜いて、指輪をとんとんと叩いた。
黄金の光が、古びた指輪を新品に戻した。
時を戻す。そう言ったか。
時を戻した? どうやって?
どうだ、と言わんばかりに綺麗な指輪を見せてくるその笑顔に、言葉が出てこない。
「この国……ロスリックの開闢。そこで旅仲間のあの兄妹に乞われて最初の賢者になったのが、"俺達"だ。まあ、賢者らしい仕事は大書庫を作って本を適当にかき集めて、魔術をいくつか残しただけなんだがな。むしろそれ以外のことを、色々と手伝った」
私はもう、頭がどうにかなりそうだった。
なんと応えたらいいのか、一切分からない。
声にならない呻きをあげるしかなかった。
「……悪いな、急に押しかけてだらだらと喋って。聞くのも疲れただろ? とりあえず今日はもう帰ろう」
「え……ぁ……」
「この"天使"の羽根を、隠し持っておいてくれ。それでいつでも、俺はここに来れる。じゃあな、近い内にまた来るから」
ルカティエル様は私の頭を乱暴に撫で、再び武装して、翁の仮面を着けた。
そして直剣が振られて熔鉄の格子の隙間が閉じ、さらにいつの間にか持っていた竜を象った何かが振られて、心地良い音を立てたと思った瞬間。
白い円模様が再び発生し、彼は光の柱の中に消えた。
"牢屋"が再び、真っ暗になった。
手渡されたものを見る。
暗闇の中でも、光っていなくても、しっかりと白い。
"天使"の羽根。
"天使"とは、羽根とは、何だ。
"俺達"。
ルカティエル様は、お話の中で何度かそう言った。
"俺達"とは、何だ。
それに、ゲルトルード。
あの口ぶりだと、私には兄上以外にもゲルトルードという名の兄弟がいるのか。
「何なのだ、急に色々と……何も分からない……分かりません、ルカティエル様……」
私はそう呟いてフードを被り、寝台に横たわった。
そして"天使"の羽根を、産着の懐に隠す。
何も分からない。
分からないが。
私はそれが無性に嬉しかった。
知るべきこと以上のことを、知ってはならない。
王の資格が、消えてしまうから。
エンマはいつもそう言った。
しかし、私は知ってはならないことを、これからあの方にたくさん教わるのだろう。
それがとても、嬉しかった。
………
……
…
「文字の読み書きは?」
「……申し訳ありません。教わっていません」
「別に謝ることじゃない。乳母の婆でも恨んどけ。他にも色々教えてやりたいことはあるが……まあ、まずはそこから始めるか」
再び現れたルカティエル様は、また格子の隙間を開けて太陽の光で"牢屋"を明からせ、私を支えて机の前の椅子に運んでくれた。
机も椅子もこの"牢屋"にありはするが、まともに使ったことはさほど無い。
乳母のエンマがこの国や火継ぎに関する特に畏まった話をする時にだけ、寝台から椅子に移動させられていた程度だ。
「時代や国によって使われる文字は様々だが、古い神族への信仰が残る国は基本的に、ずっと同じ文字を使い続けている。この国もそうだ。だから、それを覚えれば色々な本が読めるようになる」
「本を? しかし私は……」
「本なんて、ここの大書庫に腐るほどある。持ってきてやるよ」
翁の仮面を机の上に置いたルカティエル様が、私に笑いかけた。
私も、何とか笑い返した。
エンマ相手に笑ったことなど、一度たりとて無い。
「ル、ルカティエル様……私は上手く笑えているでしょうか?」
「うーん……下手だな。口元がひくついてるだけだ、そりゃ」
「そ、そうですか」
「まあ、読み書きのついでに笑い方も教えてやるさ」
小さな木箱から、読み書きのための道具が次々に出てくる。
明らかに収まりきる量ではない。
私が仕組みを聞くと、"貪欲者"と呼ばれる零落した古い神の一族の幼体らしい。
道具扱いするのは神に対して不敬ではないのかと尋ねたら、最近もうっかり食われて死んだからおあいこだと笑い飛ばされた。
ルカティエル様は、やはり不死のようだ。
不死は火の陰りが生む呪われ人だと、エンマは言っていた。
人の世からは追放されるべき、穢れた存在だと。
しかし、ルカティエル様からはそんな穢らわしさなど何も感じなかった。
「いいか? 基本的にこれらの字を組み合わせて、単語を作る」
「はい」
「この筆と墨で、字を一度全部書いてみろ」
私はルカティエル様の手本を見ながら、渡された筆と墨というもので字を書いた。
病で萎びた細指では力加減が上手くいかずに、酷く不格好な字になった。
「も、申し訳ありません」
「初めてなんだから、当たり前だ。じゃあ俺が書いた字の上を、何度もなぞってみろ」
「えっ……しかし、そのような無礼は」
「無礼なもんか。そうやって字の書き方を覚える奴はいくらでもいる」
私はルカティエル様の字を、筆で慎重に何度もなぞった。
何となく、筆に対する力加減が分かってきた。
「感覚が掴めてきたら、もう一回自分で書いてみろ」
「……はい」
ルカティエル様の字を見ながら、なぞった感覚を思い出して、自分で書いてみる。
まだ少しぎこちないが、先ほどよりも遥かに上手く書けた。
「やるじゃないか。初日でこれだけ綺麗に書けるなら、すぐに上手くなる」
「あ、ありがとうございます」
乱暴にわしゃわしゃと撫でられる頭。
普通の家では、こうやって親や乳母に褒められるのだろうか。
兄上も、こうやって褒められながら剣を学んだのだろうか。
私の口元が、勝手に綻んだ。
「お? さっきより上手く笑えてるぞ」
「そ、そうですか?」
「ああ。笑うのは良いことだ。嬉しい時や楽しい時は、どんどん笑っていけ」
「嬉しい時、楽しい時……」
「そうだ」
そんな時は、今まで無かった。
だが今の私は、上手く笑えているという。
ならばそれは、ルカティエル様のおかげだ。
「初日だが、せっかくだし単語も覚えるか。まずは、"私"だ。これが、"あなた"。もっと畏まった書き方や砕けた書き方や古めかしい書き方もあるが、この時代の基本はこれだ」
「はい……はい……」
初めての読み書きの練習は、楽しかった。
笑みが自然とこぼれ続けた。
「……ん。ローリアンの言ってた乳母の婆が上がってくるな。一度中断するか」
「おそらくは昼食と掃除です。……あの熔鉄の扉越しに、エンマの気配が分かるのですか?」
「分かる。よいしょっと」
ルカティエル様は机に広げたものを素早く片づけて、私を寝台に運んでくれた。
そして窓の格子の隙間を埋め、また光の柱と共に消えた。
少しして、本当にエンマがやってきた。
エンマは、何も気づいていない。
ただ暗がりの中で私に食事を取らせ、何やら手に握りしめた謎の火で"牢屋"を照らしながらいつものように箒で軽く掃き掃除をして、頭を下げて出ていった。
私はエンマに、何も言わなかった。
エンマも私に、何も言わなかった。
このまま火を継ぐその時まで、もうそれでいい。
あれとはもう、話す気になどなれない。
話す必要も無い。
何故なら、私には──
「……帰ったか? 帰ったな。よし、続きだ」
「ルカティエル様は何故、遠くからやってくるエンマの気配が分かるのですか? 何かの魔法でしょうか?」
「いいや、これだ」
ルカティエル様は、右手に着けた指輪を私に見せつけた。
青白い石が埋め込まれた、素朴な指輪だった。
「"ささやきの指輪"と言ってな。他人が近づいてくると、教えてくれる」
「指輪にそのような特別な力が……!? どこかの国の秘宝でしょうか?」
「いや、知り合いの猫から買った」
「猫?」
「にゃーん」
「にゃーん……?」
猫とは何だろうか。
にゃーんとは何だろうか。
私が尋ねてもルカティエル様は適当に笑い、また今度教えてやると誤魔化した。
「乳母の婆は日に何度来る?」
「朝、昼、晩。基本はそれらの食事の時だけです。特別なことを教えられる時や、兄上や騎士たちの外征の時などは別ですが、もう窓の外すら見せてくれなくなりましたから、おそらくそれらも……」
「そうか。じゃあ晩まで色々やるか。読み書きだけじゃなくて、色々な」
「っ……はい!」
読み書きの練習がひと段落すると、ルカティエル様は今度は魔法について教えてくれた。
私を椅子に座らせたまま、ルカティエル様は寝台に腰かけて対面する。
「魔法……俺の若い頃はスペルと呼ばれていたが、魔法は大きく分けて四つ……いや、今の時代はもう三つに大別されている」
「三つ……」
「魔術、奇跡、呪術。基本的に各魔法に対応した触媒を用いて使うが、類稀な素質に恵まれた人や強力な魔物、デーモン、あるいは神……そういった連中は触媒が無くても使える」
「ルカティエル様は、触媒を使われていましたね。直剣と、竜を象ったような物を」
「竜の方は、"聖鈴"と呼ばれる触媒だ。今の俺はもう別に無くても使えるが……それでも触媒を使ってるのは、気持ちの問題だ」
「気持ち、ですか?」
「そう。遥か大昔の、貧弱な一人の不死だった頃の気概を忘れたくなくてな」
ルカティエル様は腰の直剣を抜き、熔鉄の扉に対して青白く細い何かを放った。
何かは扉に命中し、しかし何も起こらずに弾けた。
「これが魔術。基本的に、己の中のソウルを制御して行使する業だ。今のは基本中の基本の、ソウルを矢にして飛ばす術だな」
「……その矢の魔術を極めると、初めに飛竜を薙ぎ払ったあの光線になるのですか?」
「あれはまあ、"俺達"の邪法だがな。一応大書庫にもスクロールを残したが、あの時の反応から見るにおそらくは失伝したか、扱える賢者がいないんだろうな」
「"俺達"の邪法……」
「あと一応言っておくが、あの時俺が消し飛ばした飛竜二匹はもう駄目な奴らだった。"人の膿"に寄生され始めた、危険な存在だった。他の飛竜はまだ大丈夫そうだが……」
「"人の膿"……?」
その説明もまた今度だと言ったルカティエル様は何を思ったのか、直剣の切っ先で自分の手を浅く斬った。
だが竜の聖鈴を鳴らすと、傷は癒え、血が止まった。
「これが奇跡。物語を学ぶことでその恩恵を授かる業だ。基本的に傷や病を癒したり、光の王グウィンのように雷を操る術となる」
「傷や病を……では、私のこの身体も……?」
「いいや、残念だが生来の宿痾は治せない。かつてそういう術を探し求めて挫折した高名な放浪騎士がいたそうだが、俺もついぞ見つけられていない」
「……そう、ですか」
「悪いな、力になれなくて」
「いいえ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
ルカティエル様は最後に呪術を見せると言って拳を握り、火を生み出した。
ついさっき見たものだ。
エンマが手に握っていた、謎の火。
「呪術は火を操って身体の内外で色々な力に変質させるんだが……これは原初の憧憬の業だ」
「……?」
「理解しづらいよな。要は火に憧れて、自分の火を熾そうとして、意のままに操ろうとする……そういう試みから生じた業だ。ほらよ」
ルカティエル様の握っていた火が大きく燃え上がり。何かあたたかい光を生み出した。
光に触れていると、心が落ち着く。
まるで、自分の本当の居場所にいるかのようだ。
私は目を閉じ、そのぬくもりにしばし浸った。
「心地良いか?」
「はい……とても」
「だろうな。その感情がきっと、人が火継ぎを続けてきた本質だ」
「!?」
思わず目を見開いた。
ルカティエル様の目が、呪術のあたたかい光の向こうで冷めている。
「闇に生まれた人はかつて、光の王によってその闇に"火の封"を施され、仮初の姿を得た。たとえ仮初でも偽りでも、今や人にとって"火の封"は生まれながらのもので、優しく美しい。……だから、人は火に憧れ、惹かれ、そのぬくもりの中に安寧を望む。封が綻び、神の枷が外れて闇が漏れ出すのを、酷く恐れるようになった。そうして"火の封"があまりにも永く続き、人の内側の闇は、もはや"膿"になってしまったものすらある」
私はルカティエル様の意図を理解しようと、必死に頭の中で彼の言葉を繰り返した。
しかし、分からない。
太陽の光の王グウィン。
はじまりの火が陰った時、そのグウィンが最初の"薪の王"となった。
そして再び火が陰った時、一人の不死が最初の火継ぎを為して、二番目の"薪の王"となった。
はじまりの火が陰る度に、火を燃え上がらせるための火継ぎが行われてきた。
火が陰れば、人の世界には不死の呪いが蔓延する。
不死はやがて白痴の亡者へと堕し、人の文明は衰退して、世界は滅ぶ。
だから、火継ぎを続けなければならない。
だから、"薪の王"となって火を継ぐことは世界を救うことであり、至上の名誉なのだ。
乳母の祭儀長エンマは、そう私に教えた。
だと言うのに。
人が闇に生まれた?
"火の封"? 神の枷?
仮初の姿? それが安寧?
闇が漏れ出すのを恐れる?
永く火に封じられすぎて、人の内側の闇は"膿"になった?
人が火継ぎを続けてきた、本質?
「……申し訳ありません、ルカティエル様。私の愚かな頭では、到底理解できません」
「構わない。そもそも魔法の話の途中だったからな。とにかく、この魔術、奇跡、呪術の三つが今の世で言う魔法で……」
せっかくのお話を、私は集中して聞けなかった。
頭の中で、先ほど語られた言葉の数々がひたすら旋回している。
いくら頭の中で回しても、理解できない。
しかし、やはりこの人はまぎれもなく賢者なのだ。
それも、この世界の在り方や仕組みそのものを知っているほどの。
『知るべきこと以上のことを、知ってはならない』
エンマが私に語った"薪の王"の制約が、何故か強く思い起こされた。
だが私の口は、勝手に開いた。
「ルカティエル様」
「ん? 何だ?」
「火はもうじき、陰り始めてしまうのですか?」
「…………」
「兄上とも話をしたと、ルカティエル様はおっしゃいました。ですからとっくにご存知でしょうが……私は王家の悲願、"薪の王"の資格者"ロスリック"として生まれました。ですから、この"牢屋"にいます」
聞きたくない。
やめろ。それ以上聞くな。
この人は、おそらく答えを知っているのだ。
だから決して、聞いてはならない。
そう分かっていても、自分を止められなかった。
「はじまりの火は、いつまでもちますか? 私の火継ぎの時は……いつですか?」
ルカティエル様は私から視線を逸らして、窓の方を見た。
私もそれに従う。
窓にはめられた熔鉄の格子の隙間からは、空が覗いている。
いつもの、晴れた空だ。
「空の色は何色だ?」
「はい?」
「今日の空の色は、何色に見える?」
「黄色、ではなくて……黄色に近い灰色……黄金色……? いえ、太陽に近い色……っ、申し訳ありません。あの空の色を正確に指す言葉を、私は知りません。しかし普段通りの、晴れた昼の空に見えます」
「充分な答えだ。お前はまだ少年だもんな。……なら、もう一つ聞こう」
ルカティエル様は逆手に直剣を握り、何らかの魔術を使って、青く発光させた。
「これは何色だ?」
「……? 青色です」
最初の賢者は頷き、その青い剣の切っ先を空に向けた。
「本来の空は、この青色だ」
息が止まった。
「火はとっくに陰っている。高壁の下は既に、不死と亡者で満ち溢れている。この城の騎士達にも兵士達にも、大書庫の賢者達にも、不死となった者が大勢いる。どうせ乳母の婆からは何も聞かされていないだろ?」
最初の賢者は、語り続ける。
「はじまりの火は、あと十年もたないだろう。おそらくお前は成人すれば"ロスリック"として……"薪の王"として、すぐさま火に焚べられる。成人の儀は、いつだ?」
私は、震える声で答えた。
「三年後です」
"牢屋"を、沈黙が支配した。
「分かった。ならそれまでに教えられるだけのことを、教えてやる。俺がしてやれるだけのことを、してやる」
「……何故ですか?」
聞かずにはいられなかった。
ルカティエル様との楽しい時間の中で、薄々と感じていたことを。
「この国の開闢に携わったという貴方が何故今、私の前に現れて様々なことを教えようとするのですか? 文字の読み書きも、魔法の知識も、全て無駄でしょう? だって私はもう、三年後には火に焚べられるだけの"薪"なのですよ? こんな病で萎れた"薪"に、何故」
「友と約束をしたからだ」
「約束?」
「そうだ。この地に国を築いた、俺の二人の友。"薪の王"に強く憧れる兄のロスリックと、声を失った聡明な妹のロスリック。……"俺達"が約束をしたのは、妹の方だ」
最初の賢者は寝台から立ち上がり、木箱から数枚の紙切れを取り出して、私へと手渡した。
美しく繊細な文字が、無数に並んでいる。
だが、一切読めない。
文字の読み書きを習い始めたばかりなのだから、当然だ。
「『"薪の王"の資格者が王家に生まれ、"ロスリック"の火継ぎが迫るまさにその時、これを資格者に読ませる』……"俺達"は確かに妹のロスリックとそう約束した。だからその手紙の内容を、お前が自分で読めるようにしてやる。そしてそれを読んだ後……どうするのか自分で考えろ」
私は手紙から視線を上げた。
こちらを見下ろす、最初の賢者の不思議な色の瞳。
その瞳の中に今、ルカティエル様以外の者たちもいるように感じられた。
数えきれぬほど、大勢の者たちが。
ルカティエル様の言う、"俺達"が。
どうするのか自分で考えろ。
ルカティエル様は、間違いなくそう言った。
渡された手紙は、まったく読めない。
しかし、その内容は何となく予想できた。
きっと恐ろしい内容だろう。
決してあってはならない、唆しだろう。
「お前が考えろ。その手紙を自分で読んだ後……血統の末の聖王"ロスリック"じゃなくて、お前自身がどうするのか考えるんだ。どこの誰が何を言おうとも"俺達"だけは、決してお前の選択を否定しない」
私の萎びた細指に、未だかつてない力が漲った。
この感情が何なのか、私にはまだ分からない。
それでも一つだけ分かる。
やはりこれは、唆しだ。
王家の悲願。
火継ぎの宿命。
それらに対する、裏切りの唆しだった。