DARK SOULS Trilogy Collection 作:神父三号
「大火球」で知られ、ゲーム本編から200年以上も前の人物です。
しかし、ザラマンの名は3の時代でも呪術師達に知られています。
青年ザラマンは汗を拭い、鼻を擦った。
蒸し暑い。
臭い。
不快極まる。
古い王達の地、ロードラン。
その底である病み村の毒沼が漂わせる腐臭は、あまりに強烈だ。
もう順応したと思っていても、天候によってはその感覚を容易く上回ってくる。
見上げた空は、どんよりと曇っていた。
もうじき雨が降るのだろう。
雨粒が沼を叩けば、発せられる臭さは今以上となるに違いない。
「……まったく。何という場所だ」
ザラマンは独り愚痴をこぼし、熾していた"火"を弱めて、地面から腰を上げた。
そして毒沼に足を突っ込み、歩き出す。
ぶ厚い革製のブーツに、拾い集めたボロ布を何重にも巻き付けた代物だ。
すぐさまに毒は身体を侵さない。
それでもなお、毒沼を歩くことは辛かった。
『沼を歩け。自然の在り方を知れ』
師は確かに、そう言った。
だがこんな毒沼を歩いて、何が知れるというのか。
板切れを乱雑に張りつけた村の住人達が撒き散らした、排泄物や廃棄物の溶け混ざった沼。
これのどこが、自然だというのか。
沼であることは間違いない。
泥濘と水草によって構成された、水溜まりなのだから。
ザラマンが故郷のヴィンハイムで教わった、沼の有り様には合致している。
だがこの毒沼は、自然によるものとは思えない。
放逐された疫病者達が産んだ不始末であり、人工物と呼ぶべきではないのか。
「たまらないな……」
寝泊りをしている横穴へ戻ったザラマンは、すぐにブーツを脱いで苔玉をかじった。
毒に蝕まれたとは感じないが、念のためである。
疲れと不快感に一度寝そべるも、すぐさま身を起こした。
惰眠を貪っている暇など無い。
今はとにかく、"火"だ。
ボッ。
ザラマンは左手の"火"を握りしめ、再びその勢いを強めた。
それは確かに燃え盛っているにもかかわらず、ボロ布で編んだマンシェットすら焼き焦がしはしない。
じんわりとしたあたたかさだけが、掌に伝わってくる。
"呪術の火"。
そう呼ばれるものだ。
師から、イザリスの魔女クラーナから分け与えられた、特別なものだ。
………
……
…
竜の学院始まって以来の、神童。
稀代の天才。
ザラマンは入学当初からそう呼ばれた。
多くの魔術を習得し、高度に駆使し、洗練させた。
名誉の証である竜印の指輪すら、齢十五に達する前に手に入れた。
しかし達成感と優越感、己の才に酔いしれる甘美な時は、あっという間に終わりを告げた。
魔術の国ヴィンハイムの実質的支配者である竜の学院で、名声を高めること。
それは即ち、その暗い一面を知ることだったからだ。
穢らわしい派閥形成、権力闘争。
醜い権謀術数。
ここでは一人たりとも、真なる探求を為していない。
誰も彼も目先の力と地位を追い求め、本質的なものに興味を抱いていない。
だから自分も数百冊の書物を読もうが、数千回杖を振ろうが、決して進歩出来ないのだ。
この竜の学院にいる限り。
「馬鹿者どもが。一生やっていろ」
ザラマンは人知れず出奔した。
いずれ現れる後進へのせめてもの置き土産に、巨大な帽子一つを作って。
………
……
…
「ああ、お前か。今日は見える日のようだな」
「ええ。そのようですね」
毒沼の中にある、小さな陸地。
そこに生えた得体の知れない柱の陰に、ザラマンの師は座り込んでいた。
師はどういうわけか、見える日と見えない日があった。
本人は「いつもここにいる」と言うが、ザラマンには見えない日の方が多かった。
見えないだけでなく、気配も無ければ言葉も聞こえない。
いつも座っている場所に手をやっても、触れる感触すら無い。
ロードランという地はどうやら、時空が淀み、ねじれて入り組んでいる場所らしい。
おそらく自分と師は本来、別の世界を生きているのだろう。
二人の世界が重なった時だけ、見える日が発生するのではないか。
だが、今はどうでもいいことだ。
今日は師が見える。それだけが重要である。
「この沼を歩いたか?」
「はい。陸地から陸地へ、あるいは陸地から寝泊りしている横穴へ。ひたすら、歩き回りました」
「何を知った?」
何も知れるわけがないでしょう。こんな臭いゴミ溜めで。
そう言おうとした青年は、しかし自尊心が故に、抽象的で聞こえの良い言葉を連ねた。
竜の学院で覚えたくもないのに覚えた、処世術の一つである。
「ふっ、馬鹿弟子が。心にも無いことを言っているな?」
「……お察しの通りです」
「この沼地では、無意味な行いだ。お前自身が初めに言ったのだぞ? 『"呪術"の外面を知りたいのではない。その本質を知りたいのだ』とな。それなのに、外面の格好をつけるのか?」
師が焼け爛れた白い手を口元に添えて、クスりと笑う。
僅かに覗く形の良い鼻と、黒い瞳。
黒金糸のフードに容貌の大半を覆われていてもなお、確信できる。
ザラマンの師、イザリスの魔女クラーナは、自分が生涯出会った中で最も美しい女性だ。
彼女は古い伝承にある最初の王の一人、イザリスの娘であると名乗った。
それが偽りでないことは、滲み出るソウルの熱と量で察せられる。
一体、何百年生きているというのだろうか。
あるいはこのロードランの時空の淀みで偶然、今この場にいるだけか。
「……クラーナ様。『自然の在り方を知れ』と貴方はおっしゃりました。しかし、この毒沼は病み村の疫病者達が作り出したもの。人間が生んだこの掃き溜めで、何を知りえるというのですか?」
「…………」
「私が"呪術"の本質を知るにあたって、どう役に立つのですか?」
「相変わらず、できの悪い男だな。私から"呪術の火"を受け取るのにすら時を費やし、沼を歩いても何も学べない。成果なしか」
「っ、私は」
「お前の語る"探求"とは積み上げられた書物を読み、年長者の説教を聞き、既存の原理や物語を知ることか? 他人が示した道筋をただ辿るだけか? 違うはずだな?」
ザラマンは押し黙る。
師の言う通りだ。
そんなものは、自分が望む探求ではない。
だから竜の学院を見限り、ロードランにやってきたのだ。
この病み村にやってきたのだ。
そしてクラーナと出会い、魔術から枝分かれした魔法──"呪術"の存在を知った。
未知の術、その本質を知りたいと乞い願った。
「まあよい。馬鹿弟子を相手には、忍耐も必要というものさ」
師はそう言うと、億劫そうに立ち上がる。
「ついてこい」
「どちらへ行かれるのですか?」
「決まっているだろう? 沼の中だ」
フード越しに微笑んだ師が、歩き出す。
ザラマンは咄嗟に制止の言葉を吐いた。
裸足だ。
毒に侵されてしまう。
「心配するな、小僧」
師は気にせず毒沼に入った。
そして、進んでいく。
「何をボーっとしている? お前のためにわざわざ、私が時間と手間をかけているのだぞ?」
「あっ、はい! 今すぐに!」
苔玉はまだ充分にある。
ブーツも今朝、何度目かの補強を済ませた。
ザラマンはそれを心の中で確かめ、師を追いかける。
「少しくらいは気にしろよ? 童の手を引いてやるのも疲れるんだ」
「……申し訳ありません。情けない弟子で」
「ふふっ、常にそうやって素直でいればよいものを。見栄張りが」
どこか楽しそうな師と並んで、ザラマンは毒沼をゆっくりと歩いた。
いつも座り込んでいた師の背丈は、やはり低かった。
こちらの肩ほどしかない。
悪臭の風に揺れるフードからは、絶世の美貌がちらついている。
どこか人の国に生まれれば、たとえ市井の身であっても妃となれたことだろう。
また、いつもは焼けた手と顔にしか視線がいかなかったが、こうして隣り合っていると黒金糸のローブ越しに豊かな──
「いたっ」
「気にしろとは言ったが、そういうものについてではないぞ? ませた小僧め」
頬を強めにつねられた。
ザラマンは即座に謝罪し、痛む頬をさすりながら前を向いて毒沼を進む。
ませたも何も、既に成人した身だ。
そもそも魅力的な女性と歩いているのだから、仕方が無いではないか。
「それでクラーナ様……このようなことをして何が分かるというのです?」
「来たぞ」
細指が指し示したのは、羽虫だった。
この沼地では珍しくもなんともない、鬱陶しいだけの矮小な存在だ。
ブブブ。ブブブ。
歪に肥大化した虫が不愉快な羽音を鳴らしつつ、近寄ってくる。
こちらを攻撃して殺め、ソウルを得るためだ。
あの手の生物は、ただ獲物の血肉を狙うだけではない。
相手の有する根源的な力、ソウルを求めるのである。
ロードランの外でも、そうだった。
「どうする?」
「どうする、とは?」
「私たちを狙っているぞ」
ザラマンは、左手に握りしめた"呪術の火"に一瞬視線をやる。
まだ隣の師からは、"呪術"の業を何も教わっていない。
ならば。
ドウンッ。
右手の杖から放たれた"ソウルの矢"が、一撃で敵を叩き落とした。
羽も胴体も潰れた虫が、沼に落下する。
プシャッと、血飛沫が爆ぜた。
病み村の住人から吸い上げた物だろうか。
そして死骸から零れた僅かなソウルがすがりつくように、ザラマンとクラーナの体内へと駆け込んでくる。
「死んだな」
「はい、殺しました」
「行き場を失くしたソウルが、私たちを新たな拠り所とした」
「……つまり?」
「もう少し進み、一度陸地に上がるぞ。お前の身体が毒に蝕まれる」
言われた通りにしてザラマンは陸地で苔玉をかじり、ブーツを乾かした。
そうしている内に、また羽虫。
また殺し、ソウルが零れて懐に入った。
次は大ヒルだ。
魔術の天才を謳われた、ザラマンの敵ではない。
これも一撃で殺し、ソウルを得た。
ヒルは無様にひっくり返り、腹の底にこびりつかせた汚らしく輝く老廃物を晒した。
「…………」
ザラマンとクラーナの間に、沈黙が流れる。
師は、何も語ろうとしない。
まだ遠方から大ヒルが数匹、この陸地へ迫ってきている。
ソウルを求めてのことだろう。
ザラマンが一人で毒沼を歩いても、これほど敵は近寄ってこない。
師が先ほどからあえて剥き出しにしている強大なソウルが、有象無象を引き寄せているのだ。
ザラマンは迫りくる敵を全て、魔術で殺した。
ソウルを求めて殺そうとしてきたのだから、当然のことだ。
そして彼らのソウルを、逆に得た。
「何故奴らは、わざわざ殺されに寄ってくる?」
「……貴方が大きなソウルを発しているからです。それを欲しがったのでしょう」
「ソウルの大きさを感じられるのならば、それを有する者の危険性だって察せられてもおかしくはない。なのに何故、奴らは寄ってくると思う?」
「それは……あまりに低能すぎて、察せられないからでは? 炎に蛾が向かってくるのと、同じようなものかと。近づき過ぎれば虚しく死ぬことを、理解出来ない」
「そうだな。だから奴らは死んだ。大きな力に惹かれ、手に入れようとして、結果的に全てを失った。……畏れを知らなかったばかりに」
クラーナが僅かに俯き、声を震わせた。
いつも泰然としている師が初めて見せた、動揺。
ザラマンの頭の中に、何かが迸る。
左手の"呪術の火"を、思わず見つめた。
「これが貴方のおっしゃる、自然の在り方なのですね」
「……その通りだ。そしてそれは、虫やヒルだけに当てはまるものではない」
師が再び、指を差す。
今度は上方。
そこにはロードランの全てに拒絶された、疫病者達の粗末な村がある。
ザラマンはこの底の沼に辿り着くまでに、何度も彼らに襲われた。
食い物を寄越せ、ソウルを寄越せ、お前の全てを寄越せ、と。
そしてその悉くを魔術で返り討ちにし、幾人ものソウルを得てきた。
では彼らは今まで、一方的に虐げられるばかりの無辜だったのだろうか。
長く溜め込んだ怨嗟と渇望が偶然、自分だけに牙を剥いたのだろうか。
いや、そんなことは無いだろう。
手には刃こぼれして血に染まった短剣、あるいは殺した敵を携えていたのだから。
生きていくために必要なものを手に入れ、さらに欲するものへ手を伸ばす。
一方で、不要なものや邪魔なもの、気に食わないものは捨て去る。
自分を害そうとするものは、殺して蹴散らす。
そうした積み重ねがこの病み村の底に吹き溜まり、ドロドロに溶け、澱となって毒沼を生んだ。
「人も虫もヒルも……お前も、私たちも。何が違う?」
何も違わない。
虫やヒルの生き方。病み村の生き方。
竜の学院を捨て、今こうして"呪術"を学ぼうとしている自分の生き方。
それらは全て、自然の在り方そのものなのだ。
だがこの自然の在り方が、"呪術"の本質と何の関係がある。
師は一体、自分に何を気づかせようとしている。
「手を引いてやるのは、ここまでだ。馬鹿弟子……次は"火"とは何なのか、よく考えてみろ。そのできの悪い頭を、頑張って回してな」
師はそう言い放って沼の中へと入り、薄らぐように消えていった。
「"火"……"火"か……」
ザラマンは握り拳を開き、己の"呪術の火"を見つめた。
………
……
…
『心に、竜を宿せ。竜を育てよ』
竜の学院で、生徒が初めに教わることだ。
ザラマンが入学した時には既に上辺ばかりの言葉となっていたそれは、しかし確かに自分の心に刻まれていた。
朽ちぬ古竜を思え。探求の長きを知れ。
外面は石のごとく佇め。内面は竜のごとく吠え猛れ。
あの薄汚れた学び舎にあっても、ザラマンの竜は吠え続けた。
もっと知りたい。もっと、もっと、と。
それは今でも変わっていない。
"呪術"という未知の業の本質を知るために、目の前に翳した"呪術の火"と、ひたすら向き合い続ける。
師が指し示してくれた、自然の在り方。
それを足掛かりとして、ひたすら思索に時間を費やす。
長い時をこの毒沼で過ごしたザラマンはもう、青年ではなくなっていた。
それでも、行き着かない。
探求の果てへ。"呪術"の本質へ。
「ここまでなのか?」
心の竜は吠え続けている。
虚しい咆哮だ。
時は流れ続ける。
やがてザラマンは何も見つけられぬまま、老い始めた。
強い焦燥が、火の代わりに燃え上がる。
どれだけ掌に乗せた"火"を見つめても、何も思い浮かばない。
これが自分の、限界なのか。
いや、違う。
ただ壁にぶつかっているだけだ。
乗り越えられるはずだ。乗り越えなければならない。
「……変える、か」
そうだ。竜の学院を出てから、このロードランを訪れたように。
行き詰まった時は考え方を、やり方を、変えなければならない。
どうする。何をすればいい。
ザラマンはすっかり自分の住処となった横穴から出て、毒沼を眺めた。
ブブブ。ブブブ。
羽音。
だが、その主は羽虫ではなく異形だ。
『ウ、オォォ……』
羽が生え、蜘蛛のような脚と火を宿した大口を持つ異形。
混沌の病み人。
母の罪の証。
師はそう呼んでいた。
俯く彼女に対して、それ以上は聞かなかった。
『オオォッ!』
近寄ってきた病み人が、鞭のような炎を吐く。
ザラマンは他愛もなく躱し、"ソウルの太矢"で一蹴した。
いつの間にか、自分も師のようにソウルの量を嗅ぎ取られる存在となってしまった。
それよりも。
パチ、パチパチ。
外れた病み人の炎が転がっていた木片を炙り、火を灯している。
ただの火だ。
こんな蒸し暑い毒沼では、さして必要なものではない。
ここの醜く腐った異形の肉など、口に入れはしないのだから。
食糧は、疫病者達が作ったであろう大がかりな昇降機を使って、外へ取りに行く。
薄暗さにだって目は慣れたから、灯りすら不要である。
とはいえ、火。
火だ。
ザラマンは燃える木片を拾い、他の木片をもかき集め、横穴に戻った。
すっかり古びた炭松脂を使い、火の勢いを強めて薪を組む。
強く燃え盛る、立派な焚火が出来上がった。
「……これも、"火"だな」
師が一度だけ、"火球"という術を見せてくれた。
着弾した"火球"は、そのまま眼前の焚火のような火を燃え上がらせた。
だから"呪術"とはおそらく、こういった火を熾す業なのだろう。
火など、ザラマンはこれまでの人生で見飽きるほど見てきた。
そして、それに何の感慨も抱かなかった。
しかし。
パチパチ、パチパチ。
勝手に手が伸びる。"火"に向かって。
熱い。
もうじき、触れる。
「つっ」
触れたか触れないかの瞬間。
刺すような痛みに、ザラマンは手を引っ込めた。
一瞬のことで指先は焦げてすらいない。
だが、痛い。当然のことだ。
ただの火に触れようとしたのだから。
師から分け与えられた、特別な"呪術の火"とは違うのだから。
しかし。
ザラマンは、また手を伸ばした。
心の中で、竜が雄々しく吠えた。
………
……
…
今日は、見える日だった。
ザラマンは松明の火を掲げ、沼を歩き、柱の下に佇む師の元へと向かう。
「ああ、お前か。随分と久しぶりだな。少しは進歩したのだろうな?」
「はい」
師の前で、ザラマンは地面を杖の先で掘り始めた。
何も言わず、それを見守る師。
掘られた穴に、松明が立てられた。
ザラマンは座り込み、燃える火を挟んで、イザリスの魔女クラーナと向かい合う。
長い時が流れても、師は変わらず美しいままだった。
見た目だけで言えばもう、「小娘」と呼んでしまえるほどに。
「いただいた"呪術の火"をどれだけ見つめても、進歩はありませんでした。だからある時、何となしにただの焚火を熾した。そして、それに触れようとしました」
「……ほう」
師に両手を見せる。
指先は、軽く焼け爛れている。
「一度目は、すぐに手を引きました。二度目も。馬鹿なことを繰り返したと思った。危ういことをしている、とも」
「…………」
「それでも……つい三度手が伸びたのです。その後も、幾度となく」
ザラマンは視線を横へ向けた。
疫病者達が時間をかけて築き上げたであろう、大きな集落がある。
そこかしこで、火の灯りが揺れている。
「この世で火に初めて触れようとした者はきっと、途方も無く愚かだったことでしょう。自然の気まぐれで生まれた火に、手を伸ばす。鋭い痛みが走る。その者はそうやって馬鹿を見ただけで、すぐさま逃げ去ったかもしれません」
「…………」
「しかしその最初の者か後に続いた者はおそらく、そこで終わらなかった。"火"の力に気づいた。かざして振り回せば多くの生物を遠ざけ、その灯りは暗い闇を照らす。果実や肉を炙れば味が変わり……金属の形を変えて刃と為し……ありとあらゆる事象の根源となる」
右手の杖を見る。
丁寧に刻み整えられた、木の杖だ。
だがこの杖を形作った物は、鋭い刃。
その鋭い刃を形作った物は、火。
焚火にひたすら手を伸ばして、ザラマンはようやく悟った。
世の営みの礎は、まさしく"火"なのだ。
「クラーナ様。貴方の"呪術"とは、根源たる力の"火"を熾す業……突き詰めれば、それを御する業なのではありませんか?」
「……何を根拠に、そんなことを語っている? お前にはただ一度、"火球"を見せただけだというのに」
「『沼を歩け。自然の在り方を知れ』……"呪術"の本質を知りたいと願った若かりし頃の私への、貴方の言葉です」
ザラマンは口を開く。
心中の竜が得た、探求の答えを示すために。
「要る物を手に入れ、要らぬ物を捨て去り、生きる。だが時に大いなる力に惹かれ、手を伸ばし、見誤って全てを失うことがある。それが生命の……自然の在り方。"呪術"とは自然と共にありつつ、"火"を力として、それでもなお身を滅ぼさぬために御する業。私はそう感じたのです」
パチパチと松明が燃える音だけが、沼地に響く。
「……大したものだ、お前は。もう馬鹿弟子なんて呼べないな」
師が両手を突き出した。
焼け爛れている。
ザラマンのそれとは比較にならぬほどに。
「私の母の手は、こんなものではなかった。おぞましいほどに醜く、焼け爛れていた。自分だけの"火"を……追い求めたが故に」
母。
最初の王の一人、イザリス。
炎の嵐を巻き起こし、古竜を打ち破って今の時代を築いた、伝承の魔女。
彼女がその後どうなったのか、ザラマンは知らなかった。
後世に残されておらず、その娘である師もまた、多くを語ろうとしないからだ。
「お前は確かに、"呪術"の本質を知った。上っ面の言葉を聞いて学んだ気になったのではなく、自ら探求して辿り着いた。……合格だ。今こそ、私の"呪術"を教えよう」
「ありがとうございます、クラーナ様」
だがな、と師は声を低めた。
「お前は既に、"火"の持つ強大な可能性に気づいている。……私が教える"呪術"をもって、どうする? お前もまた、自分だけの"火"を手に入れるか? 母と同じ道を歩むか?」
師が問いかけてくる。
フードの隙間から覗く黒い瞳が、試すように暗く輝いている。
「継がせます」
「……継がせる?」
「私はもう貴方から"呪術"の業を学んでも、何か大事を為し遂げられる段階を通り過ぎました」
己の髭を撫でつけるザラマン。
その髭は長く、いつの間にか白髪が多く混じっていた。
「気づきが遅すぎた。私のようなただの人間は、老いて死ぬ。それもまた、自然の在り方」
「だから継がせる、か」
「はい」
老人ザラマンは、左手で握った"呪術の火"に視線を下ろした。
それは思索を重ね、この沼地を歩き、ソウルを蓄えている内に、強く激しく燃え盛るように育っている。
「かつて貴方から授かり、私が育て上げた"呪術の火"……これには無限の可能性がある。だから私もまた、後進達に分け与えます。ある者はこれを、ただの力として振り回すでしょう。ある者は、私では想像もつかぬ業を為すでしょう。またある者は、貴方の語るように自分だけの"火"を志すかもしれない」
そうだ。それでよい。
己の中の竜はもう、吠えていない。
ただ石のように、佇んでいるのだから。
"呪術の火"を軽く薙ぐと、松明の灯りは消えた。
師と、見つめ合う。
「私の弟子、ザラマンよ。"呪術"の初歩の初歩。最初の教えだ。……"火"を畏れろ。畏れを忘れた者は、燃え盛る炎に飲まれて、すべてを失う」
「しかと心に刻みます」
「ふふっ。今さらだな。お前の手はもう、"火"の痛みを充分知っているのだから」
師が焼け爛れた白い手を口元に添えて、クスりと笑う。
その微笑みは、変わらない。
何も分からず、漠然と毒沼を歩いていた、あの頃と。
「……なあ、ザラマン。私にとって、"火"とはどこまでも畏れだった。母が憑りつかれ、そして全てを失った原因だ。歪んだ異形の生命すら生み出してしまった、罪過の象徴だ。私はその償いとして、"呪術"を編み出した。二度とそれを、繰り返さないために。"火"を御するために」
イザリスの魔女が独り言のように、禁忌を語る。
「お前にとっての、"火"とは何だ?」
「憧憬です」
問いかけに、ザラマンは即座に答える。
「貴方にお会いし、初めて本物の"火"を見て、それに強く憧れた。生涯を捧げるほどに、焦がれた。この憧憬が歪めば確かに、貴方の語る破滅へと至るでしょう。しかし初めて"火"に触れ、熱さに驚き、それでもその力を得ようとした者のように……畏れを抱きつつも、果敢に前へ進む。その歩みが、この世界を発展させてきた。だから決して、"火"への憧憬は捨ててはならない。捨てればそこで、歩みは止まる」
「そうか……そうか。ふふ、ふふふ」
クラーナは、嘲るように笑う。
嘲っているのは、ザラマンではない。彼女自身だ。
「ならば私はもう、立ち止まってしまったのかもな」
「いえ、クラーナ様は立ち止まっておりません」
「……何だと?」
「私が、貴方の"火"と想いを継いだからです」
「っ!!」
ザラマンの左の握り拳が、開かれる。
師から継いだ"火"が、雄々しく燃えている。
「私の"火"と想いもまた、誰かが継ぎます。そうして継がれ続ける限り、私達の歩みは止まらない。もし遥か未来にこの継がれた"火"が歪もうとも、衰えていこうとも、あるいは消え去ろうとも……それでも"火"と共にあった私達の想いはきっと、いつまでも受け継がれていくはずだ」
師が俯き、肩を震わせた。
一筋の涙が、頬を伝う。
「……ふん、よいだろう。そこまで言うなら、絶対に引き継げ。私たちがかけた時間を、決して無駄にするな。絶やしたら、許さないからな?」
「はい、誓います」
クラーナが、手を差し出した。
彼女の"呪術の火"もまた、しっかりと燃えている。
呪術師ザラマンは歩み寄り、師弟の"火"を触れ合わせた。
「さっさと業を覚えて、ここを出ていけよ。馬鹿弟子」
罵倒の言葉が優しく、耳をくすぐった。
………
……
…
大沼。
そう呼ばれる僻地に、一人の老人が立ち入った。
大自然の全てがあるような、だが異端の者達が密かに住まう場所である。
「おいおい、何だ爺さん。ボケて迷い込んだか?」
「ここはあんたみてえな、お偉そうな人が来る場所じゃねえぜ。常識ねえのかよ」
向こう見ずな若者が数人寄ってくる。
老人は彼らの頭上を飛び越すように、"大火球"を投げた。
着弾。
爆発。
炎上。
水面に波紋が大きく広がり、大量の水草が焼き尽くされる。
「っ……!!」
唖然として固まる若者達。
しかし一人の少女が、燃え盛る火と老人に視線を往復させ、目を強く輝かせた。
「我が名は呪術師ザラマン! 誰ぞ、我が"火"を継ぐ者はおらぬか!!」
それは人の世に広く永く受け継がれる魔法、"呪術"の始まりだった。