潮騒のバラード 作:にちにち
七草にちかは、楽屋の鏡に映る自分の顔を、どこか他人事のように眺めていた。そこにあるのは、「八雲なみ」の面影を追い続けた、自信のなさそうな少女でありつつも、確かな人気と知名度を確立した「シーズ」のアイドルであった。
特にバラエティ番組での彼女の反応の良さ、親しみやすいキャラクターは、美琴の孤高なカリスマとは対照的に、広く一般層にユニットの顔として受け入れられていた。歌やダンスでは美琴に圧倒的な差を感じ、その度に深く悩み、自己評価を下げていたにちかだが、バラエティの仕事だけは違った。 誰に言われるでもなく、「自分はバラエティ巧者だ」と明確に自負していたわけではない。 ただ、番組で共演者を前にする時、自分が口にした言葉が笑いを生んだ時、その瞬間瞬間に、確かな手応えを持て、歌やダンスよりはうまくやれているように思えた。周囲の評価も悪くなかった。はたから見れば、自信を持って取り組んでいるように見えただろうが、彼女自身の内面では、それは「比較的、不安なく取り組めている領域」という程度の認識だった。
だが、その人気は砂上の楼閣なのだろうとわかっていた。どこまでいってもアイドルとして必要な技量が足りない。いつか化けの皮が剥げてしまうだろうと思いつつも、それでも折れずに頑張り続けられるほど、かつて抱いた、そして隣にいるアイドルへの憧憬、そして、全力で支えてくれるプロデューサーの存在は大きかった。
彼の視線は、いつだって優しく、時に厳しく、そして何よりも「父性」を感じさせる、温かく大きなものだった。その父性に身を委ねていれば、自分はどこか安心していられた。しかし、ある時から、にちかの抱く感情は、その境界を曖昧にし、仄かな恋心へと変わり始めていた。
その秘めた恋心にひびが入ったのは、プロデューサーと美琴が付き合っていると耳にしたときだった。「ねえ、知ってる?シーズの緋田美琴と、283のプロデューサー、付き合ってるって」 「え、マジで!?あの美琴さんが?信じられない」 「私も聞いた話だけどさ、最近、やけに事務所に残ってる時間が長くて、こそこそしてるんだって。なんか、プロデューサーさんの方が美琴さんのこと、すごく大切にしてるって専らの噂だよ」
にちかの背中に、冷たい汗が伝った。口の中がカラカラに渇き、心臓が耳元で激しく鳴っている。にちかは、その場で立ち尽くし、聞こえないふりをしながら、共演者たちの声が自分の耳に張り付いて離れないのを感じた。
そして、その日の夕方。レッスン室のドアを開けた瞬間、にちかは、廊下の奥、誰もいないはずの非常階段の前で、二つの人影を見つけた。プロデューサーと美琴さんだ。
二人は、にちかからは距離があり、会話の内容はほとんど聞こえない。しかし、美琴は普段見せない、肩の力が抜けた静かな横顔で、プロデューサーは、柔らかく、親密な視線を美琴に向けているように見えた。
にちかの耳に届いたのは、断片的な言葉だけだ。 「……大丈夫だよ、美琴」 「……ええ」 「……無理、しなくていいから」
言葉は、ごく事務的な会話にも取れた。だが、その声のトーン、間に流れる空気、そして二人の間の親密な距離感が、楽屋で聞いた噂を、にちかの脳内で決定的な真実へと変えていった。
美琴の、あの静かで美しい瞳に、プロデューサーの視線が向けられているのを知った瞬間、にちかの胸には、いつもの憧憬とは違う、刺すような痛みが広がった。美琴は、にちかが追い求めてきた「アイドル」そのもの。そんな美琴が、にちかの求めた「プロデューサー」という存在まで手に入れた。
羨望、嫉妬、落胆、そして何よりも深い絶望。
そこから、歯車が狂い始めた。にちかは、悲しみを押し殺し、より一層仕事に打ち込もうとしたが、気持ちのざわつきは抑えられない。バラエティ番組での瞬発力、気の利いたコメント、共演者への配慮。かつては比較的自信を持って出来ていたそれらが、一瞬の戸惑いや遅れを生むようになった。
プロデューサーは気づいていた。優しく声をかけてくれた。「大丈夫か?最近、少し疲れてるんじゃないか」と。その優しさが、ますますにちかを追い詰める。父性を感じさせるその優しさは、相変わらずだった。
「大丈夫です。もっと頑張ります。」
そう答えるしかない。
仕事のクオリティの低下は、数字となって現れた。にちかを起用していたバラエティ番組からのオファーは徐々に減り、露出は目に見えて少なくなった。
そして、追い打ちをかけるように、週刊誌報道が流れた。
速報:283プロダクションのプロデューサーと、人気アイドル緋田美琴の熱愛スクープ!
見出しには「シーズ、どうなる!?」と大きく踊っていた。
美琴はプロフェッショナルだった。報道後も気丈に振る舞い、パフォーマンスの質は一切落とさなかった。だが、世間の目は厳しかった。
「恋愛するようなアイドルはプロじゃない」「裏切られた気分」といった声がSNSを埋め尽くし、「あのストイックな緋田美琴でも、結局Pと…」とファンは失望を露わにした。
美琴個人への批判はもちろん、にちかと美琴のユニット、シーズへの影響は計り知れなかった。世間はユニットを「恋愛アイドルと、その相方」という色眼鏡で見始め、にちかのバラエティでのパフォーマンスの低迷も重なり、番組からは「使いづらい」ユニットとして認識されるようになった。さらに「所属アイドルに手を出すプロデューサーがいる283プロダクション」というレッテルは、事務所への信頼性にも影を落とした。
オファーはピタリと止まった。プロデューサーは責任を取って謹慎。シーズは、事実上「干された」状態になった。
静まり返った283プロダクションの事務所。シーズのロッカーの前で、にちかは美琴に背を向けたまま、絞り出すように言った。
「…美琴さんは、悪くない。プロデューサーも、美琴さんも、悪くない」
それが精一杯の言葉だった。美琴の恋愛は、彼女自身の人生だ。にちかがとやかく言える権利はない。ただ、にちかの努力で少しずつ広げた知名度も、美琴のカリスマも、全てがこの一件で台無しになった。
「……」
美琴は、何も答えなかった。ただ、深く息を吐いただけだった。
「ごめんなさい、にちか」
その言葉は、騒動以降、美琴がにちかに向かって何度も口にしてきた、もはや口癖のようなものだった。だが、そこに込められた誠意が薄れたことは一度もない。常に、美琴の静かで美しい瞳の奥には、にちか、そして283プロダクション全体への深い自責の念が宿っていた。
「私の……責任です」
彼女はそう付け足した。自分がアイドルでありながら、プロデューサーとの恋愛が報道されたことで、どれほど事務所とユニットに負の影響を与えたか。その重さを、美琴は言葉足らずながらも、日々、態度で示し続けていた。
美琴が自分を責めていることが、にちかには痛いほど伝わった。
「…違う。迷惑をかけたのは、むしろ私の方です。」
にちかは、美琴を責める代わりに、静かに、しかし強く、自分自身に刺すように言った。
「美琴さんは、パフォーマンスでプロだった。でも、私は…テレビで結果が出せなくなってた。私が先に、ユニットの仕事を減らしたんです。その上での…今回のこと。私たち二人で、283プロダクション全体に泥を塗ったんです」
「でも、美琴さん。私、頑張ったんですよ。バラエティも、美琴さんのライブに、たくさんのファンを連れてこれるように、私…必死に頑張ってたんですよ」
声が震え、涙がこみ上げる。美琴との関係が壊れたこと、プロデューサーへの恋心が破れたこと。そして何よりも、比較的自信をもって取り組めていた類の仕事ですら、自分の心の乱れで失敗し、こんな形で無に帰したこと。全てが許せなかった。
「私、美琴さんみたいに、パフォーマンスで人を感動させられないから。だから、バラエティで、事務所の役に立とうと、必死に…」
美琴は、ゆっくりとにちかに向き直り、その背中に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
「にちかが頑張ってるのは知ってる」
美琴は、一言だけそう言った。
「あなたの……努力は、見ていた」
その簡潔な一言が、にちかの胸に重く響いた。
「…でも、もう、使えないユニットになっちゃいましたね」
にちかの瞳から、一筋の涙が流れ落ちた。
「どうにか…どうにか、この状況を…283プロダクションの皆にも迷惑かけて…どうにかできる方法を、見つけたいんです」
にちかは、美琴の顔を見上げた。そこにいたのは、傷つき、責任を感じながらも、その美しい瞳に強い決意を宿した、相方だった。
「…シーズを、終わらせないために」
にちかの心には、絶望の淵から、わずかな光が差し込んでいた。それは、プロデューサーへの執着でも、美琴への嫉妬でもなく、シーズというユニット、それだけでなく283プロダクション全体への、贖罪の念から生まれた、新しい決意だった。