潮騒のバラード 作:にちにち
シーズへのオファーが完全に途絶えてから、数週間が経った。その時間は、秒針の音すら響かない、静寂の重みで満たされていた。283プロダクションの事務所は、表面上は普段と変わらぬ活気に満ちている。それでも暗い雰囲気はぬぐい切れず、特に美琴とにちかが存在する空間だけは、まるで音を吸収する特殊な壁に囲まれているかのように、重く冷たい空気に包まれていた。
にちかは、事務所の隅にあるソファに深く沈み込み、携帯を握りしめていた。もう、SNSやニュースサイトを見るのはやめようと、何度も誓ったはずだった。だが、彼女の手は、まるで皮膚の一部になったかのように、無意識に画面をタップする。そこには、未だ美琴の恋愛スキャンダルを蒸し返す下世話なコメントと、「Pと関係を持つようなアイドルがいる事務所は信用できない」という、283プロダクション全体に向けられた辛辣な批判が渦巻いていた。にちかの胸の奥に、針が刺さるような痛みが走る。
ある日の夕方、事務所に他のアイドルが帰り、静けさが戻った頃、にちかは意を決して社長室のドアに近づいた。ノックをする勇気はなく、ただ、ガラスの曇りを通して中を覗き込む。社長が一人、照明を落とした薄暗い部屋の中で、資料を前に頭を抱えていた。社長の顔は疲労で深く影を落としており、机の上には、複数の企業からの契約書を破棄する旨を記した書類や、抗議文らしきファックスの山が乱雑に積まれているのが見えた。にちかは、具体的な数字や言葉は知らなくても、この問題が事務所の運営全体にどれほどの打撃を与えているかを悟った。自分たちのユニットの不祥事によって、他のアイドルたちが積み上げてきた努力や信頼が崩れつつある。にちかの抱える罪悪感は、一層重く、彼女の肩を押し潰した。
夜、自宅に帰っても、お姉ちゃんは、にちかのために夕食を用意し、穏やかに話しかけてくれる。ただ、いつも以上に時間のかかっていそうな食事や、いつもはしていたプロデューサーや仕事の話を一切しないことが、シーズのスキャンダルの影響を痛いほどに感じさせた。
美琴は、外部のオファーが完全に途絶えても、練習を止めることはなかった。むしろ、そのストイックさは、過去のどの時期よりも異常なほどに高まっていた。疲労で膝をつきそうになっても、美琴はすぐに立ち上がり、鏡と向き合う。その動きには、一切の迷いや雑念が感じられなかった。
美琴の動機は、にちかには一切語られない。だが、美琴が鏡の中で作り出すパフォーマンスは、もはや「アイドルの完成形」というレベルを超越していた。それは、自己を燃やし尽くし、全てを無に帰してでも、純粋な光だけを残そうとする、凄絶な芸術の領域に達していた。
練習室の照明の下、美琴の身体から放たれる輝きは、人がなしえるとは思えないほどの完成度と神々しい美しさを帯びていた。その光景を前にすると、にちかの抱く怒りや絶望といったすべての感情が無意味なものに思え、心が鎮められてしまうほどだった。
美琴は、汗で張り付いた前髪を気にする様子もなく、全てを捧げ尽くす者の静かな覚悟だけがあった。
にちかは、その圧倒的な光景を前に、胸の奥底が軋むのを感じた。
「こんなに……こんなに、完璧なのに」
にちかの瞳には、練習室の暗がりに沈む美琴の姿と、それを見ている自分だけが映っていた。その美しさが、今、世間の厳しい目と、干された状況によって誰にも見てもらえないという事実に、にちかは深く、鋭い悲しみを覚えた。この神々しい才能が、自分たちの不祥事によって、無為に消費されていく。
「なぜ、こんな時に、そこまで美しくなれるんですか」
それは、美琴の才能への羨望であり、同時に、この才能がスキャンダルによって消費され、闇に葬られようとしていることへの、激しい口惜しさだった。諦めと、怒りと、感動が入り混じり、にちかの心は深い戸惑いと焦燥に支配された。