日常に飽き飽きしていた。何もかもに。
夜、家の外で黄昏れながらタバコを吸う時間だけが、かろうじて自分を取り戻せる瞬間だった。決まって2本。腐れ縁のようなその時間は楽しくもないが嫌じゃない特別な時間。
電信柱の光に照らされて、数メートル先に黒い影が揺れていた。形ははっきりしないが、どこかシルクハットをかぶったスーツ姿を思わせる、不気味な気配だった――
大学でのはやとはうまく馴染めなかった。教室では周りと違うリズムで呼吸をしているみたいで、笑い声も会話も、まるで別世界のことのように感じられた。 友人はできたが、心から打ち解けられる気がしない。毎日が、淡くて冷たい灰色の繰り返しだった。
「今日って満月なのな…」
数週間後のある夜、満月が空にゆらゆらと浮かぶ。こんな日は、3本目のタバコを吸ってもいい――はやとは、そう自分に言い聞かせた。
いつものように黒い影がそこには静かにあった。
ポケットから取り出すタバコは、いつもの2本とは違って、どこか光を帯びているように見えた。火をつけると、周囲の空気が微かに震え、風の音まで変わった気がした。煙を吸い込むと、体の奥まで何かが浸透していくような感覚があった――
心臓の高鳴り、指先の震え、肌がざわつく
その瞬間、張り詰めるように風も、遠くの車の音も、すべて凍りついたように止まったのだ。
「…!?!」
よくわからない感覚を静まり返った夜の中で、感じていると数メートル先の影が、ゆっくり、しかし確かに動き出していた。先端がふわりと浮き上がるように揺れ、電柱に照らされた壁の影はほんのわずかに形を変えた。
嘘だろうと思いながら、その場から動く事が出来なかった。
影はじっとこちらを見ている――そんな錯覚に、はやとの視線は釘付けだった。 心臓の鼓動が耳の奥で響き、血の流れまで重く感じられる。呼吸を整えようとするが、自然に吸えるはずの空気が、どこか濃く重たく感じられた。
「…動かないのか」 ふと、低く、かすれた声が聞こえたような気がした。
いや、確かに声はした。だが、影が発したのか、自分の心が空気に震えを見出したのか、はやとには分からなかった。
影の輪郭はまだぼんやりとしている。だが、ゆっくりと近づく気配――微かな光の揺れが、視界の端で脈打っている。
恐怖よりも、得体の知れない好奇心が胸を支配した。どうしても目が離せず、体は自然と影の方に引き寄せられていく。
「……誰だ?」 思わず口をついて出たそのか細い声に、影は引き攣るように反応した。 その瞬間、空気の震えがわずかに強まり、冷たくも温かい、説明できない感覚がはやとの体を包んだ。
何かが、間違いなくこの夜に動き始めた――はやとはまだ、その全貌を知らないまま。
ーーー
影は静かに、だが確実に形を変えていく。 ゆらり、ゆらりと先端が揺れ、壁に映る輪郭がまるで呼吸しているかのように膨らんだり縮んだりしている。
「……待ちくたびれたぞ」
低く、けれど明確な声が、はやとの胸に直接響いた。
思わず後ずさりしそうになったが、体は動かず、視線だけが影を追い続けていた。
「なんなんないったい……」
はやとの声は震えた。すると影は一瞬静止し、次の瞬間、微かに前傾して「答える」かのような動きを見せた。 その瞬間、はやとの胸に、今までにない不思議な期待と恐怖が同時に押し寄せた。 世界はまだ止まったまま、だが何か新しい“何か”が、この夜に滑り込んできていた――
影はわずかに揺れ、先端が宙で円を描くように動いた。
「貴様。」 その言葉は、鋭く響き、空気を引き裂くような感覚を与えた。
「遅い。」 影の声は、短く、冷たかった。
「えっ…遅い?」 はやとの声は震え、恐怖が口をついて出そうになる。だが、体は動かず、視線だけが影に引き寄せられた。
影は一瞬、静止した後、再び微かに前傾した。 「貴様、来るのが遅い。」 言葉は少なく、冷徹だが、どこか予期していたような響きがあった。
わずかな間をおいて再び動き出した。 その先端が、ゆっくりと宙を滑るように動くと、周囲の空気がますます重く、静寂に包まれていった。 「選べ。」 言葉は簡潔で、鋭かった。
「…選ぶ」 はやとは、言葉を呑み込みながらも、思わず口に出してしまった。 その問いかけが、ますます不安を煽る。
影の先端がさらに前に出ると、その瞬間、はやとの視界が一変した。
空間が歪み、少しずつ、黒い霧のようなものが凝縮し始める。
「ここから、進むか、戻るかだ。」
影の声がさらに低く、響き渡ると同時に、彼の前にゆっくりと扉が現れた。 それは、まるで空気そのものが裂けて現れたかのように、漆黒の門が立ちはだかった。 その扉は、どこか異世界への入口のように見え、見るものすべてを引き寄せる力を持っているようだった。
「…」 はやとの心臓が跳ねる。 こいつは何を言ってるんだ夢でも見ているのか進む先には何が待っているのか、戻ることができるのか、その答えが見えない。
ただ一つ確かなのは、今、この瞬間に彼の目の前に現れたものが、確実に彼の運命を変えるものであることだった。
「進むか、戻るか…」 その言葉を噛みしめるように繰り返すと、心臓が激しく鼓動を打った。 目の前の扉からは、異世界への誘いを感じさせる圧倒的な力が伝わってくる。
「戻る…」 そう考えるだけで、思わず胸が締めつけられた。 でも、戻った先には何がある? 日常、学校、周囲の冷たさ、無力感――その繰り返しが待っているだけだ。
「進む…」 その先に何が待っているのか、全くわからない。 もしかしたら、異世界に飛び込んだ先には答えがあるのかもしれない。 それでも、怖い。 でも、心のどこかで、何かが呼んでいるような気がしていた。
扉は静かに、確実に、開かれていく。 その隙間から、黒い霧がひとすじ、はやとの足元に伸びてきた。 その霧が触れると、ひんやりとした感触が足元を包み込み、冷たい感覚が全身に広がる。 進むと決めた場合、この霧に足を取られたら、もう戻れないことを意味している。 はやとは少し考えてこの異様な状況で言い放った。
「…あなた、言葉が通じるんですよね…これは今決めなくちゃいけない事ですか?」
はやとの声には、ほんの少しの迷いと冷静さが混じっていた。 この異様な状況で、冷静に問いかけることすら奇妙だが、それでも心の中で何かを確認する必要があった。 少しでも理屈が通るのであれば、迷っている自分にも納得できる答えが出るかもしれない――
影は、ほんの少しの間、沈黙した。 その沈黙の中、はやとの心拍数がますます高まり、冷たい霧が足元を包み込む感触が強まる。 そして、影の声が、どこか遠くから響いてくるようにして発せられた。
「決めるのは貴様だ。」
その言葉は、冷たく、だがどこかしっかりとした決意を感じさせた。
「今決めなければならないのは、貴様の選択だ。」
影の先端がゆっくりと前に出ると、扉がわずかに広がり、そこから漆黒の霧がさらに強く、はやとの足元へと迫ってきた。
「…貴様が踏み込むか、戻るか。だが、いずれにせよ後戻りはできぬ。」
その声には、何か不可避な運命を感じさせる重みがあった。
「進むなら、この霧に身を委ね進め。」 「戻るなら、この瞬間を過ぎれば、貴様の運命は決して変わらぬ。」
その言葉が、まるで空間そのものに深く刻み込まれるように感じられた。 霧の中で、ほんのわずかな動きも見逃せないような、絶対的な選択を迫られていることを実感する。
はやとの視界に、扉の奥がわずかに光を帯びて見えた。黒い霧の合間に、淡く揺れる異世界の気配が差し込む。 その光景に、恐怖と同時に、抗えない魅力を感じる自分がいることに気づく。
「…進む…」
言葉が、かろうじて口をついて出た。声は震えていたが、決意も含まれていた。
影の先端がゆっくりと回転し、まるで承認するかのように動いた。
「…選んだな。」
その一言は短く、冷徹で、だがどこか静かな重みを帯びていた。
黒い霧がはやとの足元を包み込み、冷たさが骨まで染み渡る。 だが同時に、心の奥底で小さな火が灯ったような感覚があった。 恐怖よりも、先に進む好奇心――それは、長く閉ざされていた自分の中の何かを呼び覚ます。
「開通だ。行け」
影の声が、今度は耳元で囁くように響く。 はやとの身体が、自然に扉の向こうへと踏み出していた。 霧が全身を包み、視界が揺らぎ、音が遠ざかる。 後ろを振り返ると、影は静かに立ったまま、ただ彼を見送るだけだった。
扉の向こうで、世界はまだ見えない。 しかし、はやとの胸に確かな手応えがあった。 恐怖と期待が混ざり合い、日常では味わえなかった強烈な感覚―― それこそが、彼をこの異世界へと導く“呼び声”だった。