成り代わりチートたいき君。   作:あとば

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色々と行き詰ったので、新しく小説を書いてみました。

※挿絵があります。手書きです。ない方がいい方は右上の閲覧設定から、もしくはメニュー項目から、挿絵表示を「なし」にすると表示されなくなります。


第一話『どうか幸せで』

 羽が破裂音を響かせて、飛んで行った。

 

「ゲ、ゲームセット……」

 

 ああ──やっぱり、だな。

 

 縦13.40メートル。横6.10メートルの、四角形の中。

 俺と先輩はラケットを互いに握り、向き合って、全力で戦った。

 

 そして今しがた、決着が着いた。

 

「……」

 

 汗だくになってこちらを睨むように見つめる──針生、先輩。

 

 試合の結果は、”21-12”。

 

「マジかよ……また針生に勝ったのかよ」

「自信無くすよな……うちで一番強い奴が、中学生に勝てないなんて」

 

 見ていた先輩方が、口々に感想を述べた。それらは次々耳に刺さる。俺の脳を犯していく。思考の中を暴れ回って破壊していく。

 

 つくづく思う。

 

「ありがとう、ございました……」

 

 ごめんなさい。

 

 でも俺はバドミントンをやらなければならない。そして、やるからには、せめて全力でやらねばらない。先輩も本気だった。だから負けられないんだ。手を抜いたら、それこそが何よりの侮辱行為だ。

 

 俺は、本当は誰より弱い。

 

 例えばそう、強さではなく、他のもの──バドミントン愛で優劣をつけるならば、俺は一回戦敗退の遊び半分で部活する者よりも、ずっとずっと劣っている。

 

 だって俺、バドミントン、好きじゃないから。

 

 だから使命が終われば、すぐに、やめる。

 

「……また戦るぞ。大喜」

 

「……はい」

 

 悔しそうに顔を歪めた針生先輩と、握手をした。

 俺はうまく返す言葉が見つからず、握手を終えた。

 

 俺は、猪股大喜だ。

 

 ──そして、チート憑依転生者である。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 アオのハコ、という漫画がある。

 

 その主人公の猪股大喜は、バドミントンと、恋愛を頑張る高校生。彼の周りの人物たちの恋愛模様や青春も同時に描かれる。

 

 恋愛モノとスポーツモノを融合した感じで、高い人気をほこっている。いわゆる、青春群像劇というやつだろう。

 

 俺は、その主人公に憑依した、何者か、だ。

 

 憑依の時期は、定かではない。いつの間にかとしか言えない。気が付いたら俺は猪股大喜になっていて、猪股大喜として生きていた。

 

 憑依した理由もわからない。前世の記憶は漫画の知識くらいで、それ以外は何もない。だがどうせ何の変哲もない人間だっただろうと勝手に思う。

 

 結局わからない。だがそんなことを一々考えても仕方がないと、今は割り切っている。

 

 では、何より重要なこと。俺が成り代わったことで、物語の何が変化したのか。

 

 変化は多々ある。だが、まだ人間関係ではない。大きな変化はないのだ。しかしこれから起こるだろうと予想している。

 

 基本的に、俺が成り代わったことで起きた変化は、内面のものだ。

 

 それがつまり──チート能力だ。

 

 まず、人間として最高峰の身体能力を有してしまった。具体的には個人的に行った体力測定で、軽く高校生の新記録を叩き出したとか。

 

 そしてそれによって、バドミントンが劇的に強くなってしまった。

 

 原作一話の時点で、針生先輩と戦って、勝ってしまったくらいにだ。

 

 他にも何故か色々チートがある。例えば勉強は教科書読んで話聞いただけで終わりだ。一度読むだけで完璧に暗記できるようになってしまった。

 やろうと思えばアルジャーノンに花束を、の如く他国語を短い期間で習得することもできるだろう。バイリンガルなんて目じゃない。

 

 さて、もう……お分かりか。

 

 俺は、彼らの青春(努力)をバキベキにへし折るような存在だ。

 

 登場人物たちはアオのハコにて全力で生きていた。必死に、青春を送っていたのだ。

 

 でも俺は、どうだ。

 

 苦労して習得する技術や体力、眠い目を擦って行う徹夜の勉強──そんなことをする必要がない。運動は特に努力もせずとも天才と同じように出来て、勉強は一度授業を聞けば完璧にこなせる。他にも色々できてしまう。

 

 そんな奴がアオのハコに入るなんて、物語を汚すだけ。邪魔者になるだけだ。

 

 そして。

 

 何よりも俺が罪深いのは。

 

 大喜くん(主人公)の人生を、愚かにも、奪い取ってしまったこと。

 

 大喜くんが努力して得るはずだった幸せを、俺が無にしてしまった。大喜くんがこれから他者に与えるはずだった幸せも、無にしてしまった。

 

 もう別の高校に行くべきかなんて思った。登場人物たちと一緒にいたら、彼らの放つ輝きで失明してしまうと思ったし、輝きを鈍らせるとも思った。

 

 でも、栄明中学高等学校に、進学を続けている。

 

 大喜くんにせめてもの、罪滅ぼしをしたいがためだ。

 

 じゃあどうやって、身体を奪ってしまった彼に、報いることができるのか。

 

 チートの癖に大して役立たない知能で浮かんだ唯一の答えは、一つだけ。

 

 それだけが、俺がやりたくもないバドミントンを続ける、理由になった。

 

 

「……さむ」

 

 体育館前。早朝。昼にはない朝の、独特な空気が肌を撫でる。

 

 景色は、いつもではないものだ。いつもだと、人がそこら中にいる場所。

 匂いも異なる。みんなキラキラしているから、冬であってもどこか夏の匂いがする。

 音だって違う。俺以外の人が世界から消えたような雰囲気だった。

 

 それらのギャップで、特別を感じているのだなと思った。

 

 きっと人の少なさが、この特別さを作り上げるスパイスだ。普段とは違うが故に、この何てことのない人生の(またた)きを、忘れたくないと思わせる。

 

「……」

 

 いや、もしくは、この人のせいかもしれない。この何ともいえない、特別は。

 

 その人は、体育館前の小階段に座って、本を読んでいた。

 

 集中していて、こちらに気づいていない。茶色がかった横髪が揺れて、頬のラインや口元が隠れる。寒さのせいか、何となく耳や鼻先の赤みが目立つ。

 

 バスケ部。一つ上の先輩。鹿野千夏。

 

 千夏、先輩。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その人が、扉の前に座っていた。本を読んでいる。バスケの本だ。だから邪魔しないようにと、大喜くんは話しかけなかった。

 

「あ、おはよう。いつも早いね」

 

「……おはよう、ございます」

 

 俺の気配に気づいて、先輩が挨拶してくれた。なので挨拶を交わした。でも、それだけ。すぐ本に意識が戻る。

 

 だが先輩はくしゅっと息を吹き出し、読書が中断。くしゃみ。季節は冬。さむがっているんだ。

 

「……」

 

 俺は何もできず、立ち尽くし。

 

 はっとして、俺も座る。原作だとここで大喜君は千夏先輩が凍えていると思って、マフラーとかカイロとか上げようと空回りするが、俺にはそんなことはできなかった。

 

 風が吹きすさぶ音と、ページを一枚一枚丁寧にめくる音ばかりが耳に入って、全く話し声はなく──鍵がやって来る。

 

「おーい、すまん、遅れたぁ」

 

 毎朝鍵を開けてくれる警備員の人である。名前は知らない。先輩が挨拶して、俺も会釈をした。

 

 本来ならばここで先輩は大喜君の名前を知る──ふりをするはずだった。でも俺が交わしたのは挨拶だけ。やはり大喜くんとは違うのだと思わされる。

 

 開かれた体育館へ、先輩が先に入った。俺はまだ入れなかった。代わりに、一人呟いた。

 

「今日は、話しかけろ」

 

 そしてぱちりと、頬を叩いて俺も、体育館へと踏み入った。

 

 ──“彼女“が、バドミントンを続ける理由だ。

 

 大喜くんは、彼女に恋をしていた。彼女を幸せにしたい(・・・)と思った。そのための努力を重ねて、二人は付き合うはずだった。でも俺がそれを台無しにした。

 

 だから、故に俺は、大喜くんの代行。

 

 でも少しだけ違う。俺は主体じゃない。あくまで、その補助。大喜くんは自分が幸せにしたいと願ったが、俺は違う。

 そりゃそうだ。俺なんかが千夏先輩と恋人になって、幸せにできるはずもない。

 

 だから、目的は一つ。

 

 彼女に、幸せになってもらう(・・・)こと。

 

 今日は、その始まり。

 

 俺にとっての、ターニング、ポイントだ。

 

 

 練習が終わった。

 

 いくつか試合があったが、さすがにチート能力があるので負けはない。先日も針生先輩に勝ってしまった。最低の原作崩壊だ。

 

 しかしわざと負けると、向こうもそれがわかるから、侮辱になってしまう。だから勝つしかないが、いつか対処を考えたい。やはりチートで勝つのは、つらいし、つまらない。

 

 さて、俺は原作通り、タオルを忘れて、体育館に戻った。(きょう)は先に帰るらしい。ここはどちらも原作通りだ。

 

 ここからが、重要。今日が、ターニングポイントなのだ。

 

 千夏先輩が日本に残るか、海外へ行くかの。

 

 だから原作のように、中学引退の悔しさを思い出してもらう必要がある。が、俺は大喜くんにはなれない。バドが強いだけなのだ。俺が大喜くんより優れてる点は、本当にそれくらいなのだ。

 

 話しかける勇気もない。精神力もない。根性もない。要するにヘタレ。

 

 でも、今日だけはこんな自分の尻を思い切り叩かねばならない。足を前に、手を振りかざし、頭をぐるぐる回し、口を開かねば、ならない。

 

 体育館に戻る。だむっ、とボールの落ちる音がした。

 

 体育館には千夏先輩の姿があった。シュート練をしている。俺と千夏先輩の二人きり。当然、人影を視界の端に捉えたら誰かと確認される。

 

「あれっ、朝の……」

 

 名前は、知られていない。

 

 先輩の練習が止まった。ここでは会話をしないといけない。とりあえず原作通りの会話の流れに持っていこうと頑張ることにする。ここの会話がなければ、先輩は海外へ行ってしまうからだ。

 

「……まだ、練習してたんですか」

 

 ちゃんと名前は覚えられていない。

 

「うん。今日納得いかない所あったから」

 

 そういって先輩はまたフリースローを始めた。原作と違う。会話は切れた。俺は何も言えない。俺はコミュニケーションが圧倒的に下手くそなのだ。しかし何とか口を動かせと急かすが、立ち尽くすだけ。

 

 そんな俺を見かねたのか、千夏先輩がフリースローを続けながら話しかけてきてくれた。

 

「バドミントン、すごい強いね。針生君にも勝ってたじゃん」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 この前の針生先輩との試合を見られていたらしい。

 さすがに、ここで謙遜はできない。それをしたら、針生先輩の強さをも貶す事となってしまう。故に褒められた時は素直にお礼だけ言うことにしている。

 

 自己嫌悪に満ち満ちている俺だが、これだけは──。

 

「1on1しよっ」

「え」

 

 浮かない顔で立ち尽くすだけの俺を不憫に思ったのか、どういう動機かわからないが、とにかく先輩が原作通りにボールを投げてきた。

 

 そこから、なんだかなし崩し的に原作通りバスケで遊ぶ。

 だが全て原作通りではない。俺は無駄にチート能力があるので……。

 

「おお、上手だね」

 

 普通に千夏先輩とも張り合えてしまう。ドリブルしながら動くのが難しいが、まあ千夏先輩の動きを見ていれば何とか真似できる。

 

 先輩がバックステップした。スリーポイントの構え。俺は飛ぶ。

 

「……おお」

 

 何とか防ぐ。ボールが床に落ちた。防いだ後どうすればいいのかわからなかった。先輩は遊びを中断するのか、ボールを拾ってバスケ部がよくやる人差し指で回すやつを始めた。

 

「びっくり。バスケ部みたいな動きするね。やってた?」

 

「親がやってて……」

 

 これは本当だ。原作でも大喜くん母と千夏先輩母のバスケつながりで、先輩との同居が始まることになるのだ。先輩はだからかーと、ほわほわした。

 

「あときみ、ジャンプ力すごいね、ダンクできそうだ」

 

 スラム、だーんくって感じで、と身振り手振りを加えながら、先輩はそう言った。

 

「……やりましょうか?」

 

「え、できる?」

 

 頷くとパスが来る。期待を感じる。成功すればうまく次の会話につなげられるかもしれない。

 

 ゴールから距離をハーフラインくらいまで取って、駆け出した。ボールは両手で抱えるようにして持っている。

 

「──」

 

 跳躍。両腕でボールを頭の後ろに、思い切り溜める。

 

 解放。がしゃんと軋む音を立てて、バスケットボールはリングを通った。

 

 着地。リングにぶら下がるのは良くないと昔聞いたので、早めに降りた。

 

「……すごいね」

 

 よし。

 これで何とか会話がつながる。大喜くんが原作で言った台詞を何とかここで、いわなければ──

 

「でも、トラベリング……」

「あ」

 

 そういえば、抱えて助走してしまった。ドリブルしてない。どうりで何かすんなり行き過ぎると思った。

 

 そして会話が止まった。止められてしまった。雰囲気が気まずい。俺は先輩から目を逸らした。重ねて言う気まずい。とてもじゃないが、口火を斬れない。

 

「……よいしょっと」

 

 てん、てんと、転がっていったボールを先輩が拾う。そしてこちらに、同時に投げた。

 

「君は、なんでバドミントンやってるの?」

 

 問いとボールが、飛んで来る。俺はキャッチして、考えた。

 

 これは、どういう問いだろう。純粋な疑問なのか? お前みたいな奴がバド部入ってアオのハコを汚すな的な意味を暗に含んだ問いだろうか? 後者ならば今すぐ清水寺から飛び降りたい所存だが。

 

「あ、その……」

 

 俺がどう答えるべきか迷っていると、先輩が何か言おうともじもじした。

 

「……私の勘違いだったら、申し訳ないんだけど……すごく、つらそうだったから」

 

 バドミントンの、試合中。先輩はそうつけ足した。

 

「……!」

 

 見抜かれていた。ボールが手からずり落ちた。

 

 そう言えば、針生先輩に勝った時の試合を見てたのか。あの時、そんな風に見えたのか。チート野郎の癖に、表情管理は下手くそのようだ。

 

「あと、バスケは楽しそうにしてたし、上手だったから。猶更なんでかなって」

 

「……ああ、それは」

 

 まあ、遊びだからだ。遊びなら何の努力もいらない。たらたらやればいいだけ。俺だって気楽にできる。

 

 でも試合は、練習は違う。真面目な努力をしなければいけない。そんな場所で俺は楽しむことができない。努力を否定する存在(チーティング野郎)であるから。

 

 そんな余計なことを考えた後、質問について思う。

 

 なんで、バドミントンやってるか?

 

「あっ、その、答えたくなかったら、全然」

「いや、大丈夫です」

 

 答えは、悩むことなく浮かんだからだ。

 口下手でヘタレな俺であるけれど、こういう決まったことはすんなり口から出てくれるものだ。

 

「誰かのため、です」

 

 あなたのため、だ。

 

 あなたに、原作大喜くんと同じような台詞を言って、中学引退時の悔しさを思い出してもらう。そして海外に行かない選択肢を取ってもらう。

 

 俺はそのために朝練に行っていたのだ。毎日、一緒に朝練を頑張った者でないと、きっと響かない言葉になってしまうから。

 

 だから辛くても、好きではなくとも、バドミントンをやっていけた。むしろ苦しみこそが、罪滅ぼしが罪滅ぼしであるという実感を与えてくれた。

 

「……」

 

 俺の答えに対して先輩は沈黙した。驚いた様子に見えた。人より大きな目が、いつもより見開いて見えたからだ。

 

「そっか……そう、だね」

 

 その後、微笑を浮かべて、へいぱす、と言った。俺はボールを拾って、軽く両手で弾くようなパスを出す。

 

「誰かのためなら、どんなにつらくたって、耐えられるね」

 

 顔の前でキャッチした先輩の顔はよく見えなかった。

 

「……先輩は、なんでバスケットボール、やってるんですか」

 

 言うなら、今しかない。今以外にない。

 

 先輩が居残って練習するのは珍しくないが、完全な二人切りになれるのは珍しい。これを逃せばいつ巡るかわからない。そして、今ならば緊張もさほどない。ヘタレなお前でも、きっと言えるはずだ。

 

「……やっぱり、好きだから、かな」

 

 よし、行ける。ここから、うまくあの言葉につなげるんだ。

 

『中学引退の翌日も、練習してたじゃないですか』に。

 

 それによって先輩は悔しさを思い出して、転勤について行かず、女バスも止めない。

 

「いいですね。好きはやっぱり、強い感情ですから」

 

 原作通りインターハイを目指す。そして今年の夏には行ける。

 

「……! うん、大好きだよ。だからがんばれる」

 

 そしたら、幸せになるだろう?

 

「それだから……」

 

 だから言うのだ。言え。口を開き続けろ。

 

「中学引退の翌日も──」

 

「お前ら、そろそろ帰れよー!」

 

 れんしゅう、してたんですよね。

 

「わ、やばっ。片付けよっか」

 

 ──かき消された。

 

 言った。確かに言った。だが先輩は特に反応しなかった。それどころか良く張るどこぞの部活の顧問の声の方に反応した。

 

 無視? いや聞こえていたならさすがに反応するはず。

 

 ならば、聞こえなかった?

 

「……はい」

 

 ──このヘタレ。言えよ。なんで言えないんだよ。いやでも言ったんだ。でも小声だったんだきっと。

 

 そうやって罵倒(鼓舞)するが、ボールかごの片付けの時も、別れる瞬間も、けっきょく言えず仕舞いだった。

 

 俺という奴はタイミングを逃すと行けないのだ。大縄跳び、あるだろう? あれと同じだ。大事な所で引っかかる人間なのだ俺は。

 

 そして、機を逃した。

 

 じゃあね、と言って先輩は帰った。やはり言葉は届いていなかったと見て間違いない。

 

「……」

 

 ふらふら、夜の住宅街を独り歩く。上を向いていると電柱にぶつかった。

 

「……」

 

 そのまま、電柱にへたり込む。

 

 ああ、タオル、忘れたまんまだ。

 

 

 俺の失意に関係なく、練習は毎日のように行われる。

 

 匡──大喜くんがバドを始めた頃からの知り合いと、アップで基礎打ちを行っている。ドライブ、クリア、ドロップ、ヘアピン、プッシュ、スマッシュの順だ。頭を使わなくてもできる練習なので、今は気楽だった。

 

「大丈夫か、お前……全て終わったような顔してるぞ」

 

 眼鏡をすちゃりと人差し指で整えて、匡が問いかけた。ドロップがネットを超えなかったから、流れが止まった。

 

「……その通りだよ」

 

 ラケットを地面と平行に、手首を捻ってすくいあげるように、シャトルを拾う。

 

 大喜君の幸せを奪ってしまったから、せめて、千夏先輩だけは幸せにって、思ってたのに。

 

「……千夏先輩が、海外へ行ってしまう」

 

 そしたらあの人は後悔する。原作のとある一話で、そういう風なあったかもしれない未来が描かれていたのだ。あれ通りに行くのだろう、後悔しないはずがない。

 

 今日も朝練はあったけれど、言えなかった。どれだけ自分に言い聞かせても、俺が余りにもヘタレすぎて、言葉が口から出てこないのだ。ほんとにお前は駄目駄目だ。

 

「ちなつ先輩……? ああ、バスケの。それでお前──いや……ほんとに行くのか?」

 

「行くよ。お父さんの転勤らしい。なんで疑うんだ」

 

 匡は何やら(いぶか)しんだ。しかしこれは確定している。母も原作通りそう言った。監督とも原作通り、外で会話していた。先輩とはあれから話していないが、間違いない。

 

「いやだって、何の噂にもなってないし」

 

 しかし匡は疑る。まあ俺は大喜くんではないし、仕方ないだろう。

 変わってからも、匡は俺と変わらず接してくれているけれど、多分内心では、色々思うところがあって、でも、それを我慢しているのだ。きっともう原作のような関係ではない。

 

「……? ああ、もしかしたら、直前まで黙ってるのかもな」

 

 しかし、噂にもなってないのか。それは確かに妙だ。千夏先輩は人気だし、間違いなく海外に行くとなれば皆騒ぐはず。噂の残響すら耳に届かないのは、おかしい。

 

 だが案外、千夏先輩は言わないタイプなのかもしれない。

 

 俺自身、いまいち先輩がどういう人間なのか把握し切れていない節がある。原作でも彼女の心情描写は余りないし、まあ、何とも言えないのだ。

 

 だがまあ、確定事項は、変わることなどない。

 

 千夏先輩は、インターハイに行けず仕舞い。

 

 後悔も、後悔のまま。

 

 親友とのわだかまりも、解ける機会はなく。

 

 海外へと、行くのだ。

 

「……」

 

 お前が、ヘタレなせいで。

 

 

「あ、おはよ」

「は?」

 

 千夏先輩が、家にいた。

 

 俺は朝起きて、だらだらと九時半ごろ、リビングに顔も洗わず向かったのだ。

 

 成り代わってからの中で五本指に入る沈鬱な朝。歯磨きも気だるかったからしない。酸を呑んだような刺激が喉にある。気持ちが悪い。

 

 何故だか腹も痛い。下痢になる感じではなく、ずきずき痛むリズムを刻むだけの腹痛。

 

 頭も痛い。脳内を毛虫がずりずり蠢いてる感じがする。

 

 それら全て吹き飛ばす──奇跡のような存在が、いた。

 

「あら大喜、起きてた?」

 

 母だ。後ろにいた。隣にはおそらく、千夏先輩の母らしき人物がいる。俺はだらだらと、汗を流している。朝寒であるのにだ。

 

「あ、いってなかったわね。春から、ウチに住むことになりました」

 

 わーぱちぱちー、と母はよくわからないノリを発する。そんな場合ではないから無視をして、先輩と向き合う。しかし言葉は出てこない。

 

 何を言えばいい? 頭に浮かぶ言葉は一つとしてない。記号ならばあるけど。『?』だ。

 

 しどろもどろになっていると、先輩が、あ、という顔をした。

 

「……そっか。名前、いってないね」

 

「えっ……」

 

 ああ、確かに。そういえば。

 

「鹿野千夏です。よろしくね」

 

 俺は猪股大喜の体に憑依した偽物です──。

 

 などと、そんなことを言えるはずもなく、唇わなわな震えさせて、いのまたたいきですと、ぼたぼた名前を零したのだった。

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