成り代わりチートたいき君。   作:あとば

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第十話『まさかの』

 ガットが羽を叩くとき、ぱあんと弾ける音がする。

 

 その破裂音が聞こえると、俺は不思議と体が強ばり、いっそう集中しなければと、緊張する。

 

 ふと破裂音が、銃撃の飛び交う音なんかに聞こえたりして、じゃあ体育館は俺にとって戦場かもなと思って、やはり気の置けない、きつい場所だと再認識してしまう。

 

 今日は、県大会前日。

 

 大会の前日練習は、さすがに気合が入っている。インターハイに出られるかどうか懸かっているし、三年の先輩にとっては最後の大会だ。

 

 雰囲気も当然、六月で湿気もひどいのに、どこかピリピリと乾燥していた。

 

 そんな中、猪股大喜の体を奪った男は、ひたすらスマッシュをレシーブするという練習を行っている。

 

 その姿をおそらく背後から見る、休憩中であろう二人組。

 

「あいつ、ほんと良く取るな」

「ほんと意味わからないくらい」

 

 針生先輩と、匡だ。

 

「確か、大喜は視力が良いんです。シャトルの回転とか、シャトルの文字とかも見えるっていってました」

 

「なるほどな。打った瞬間のラケットの面の方向、角度からどこに球が飛ぶか予測できてる訳か。だから動き出しが異様に速い」

 

「それが、あの鉄壁の防御力にもつながってる、んだと思います」

 

「……全く、なんで俺は能力値カンスト野郎に挟まれてるんだか」

 

 挟まれている。一人は兵藤先輩のことだろう。そしてもう一人は──あ、スマッシュ受け損なった。

 

「……でも時々変なミスするんだよなあ。粘って粘ってチャンスが出来た所で、プッシュをミスるとか」

 

 その原因がわかれば、勝てる気がするんだがな、と針生先輩は最後に言った。

 

 ……聞こえていますよ。

 ええ、聞こえますとも。お二人さん、もう少しプレイヤーに気を遣った方がいいんじゃないですか。

 

 とりあえず、防御力はチート由来だ。視力もそう。

 

 しかし、時々の変なミス。これは俺が大喜くんになったことで失ったものの一つが原因だ。

 

 メンタルが、弱い。

 

 大喜くんの長所の一つに、精神力の強さがあった。

 俺は運動面ではチート野郎だが、大喜くんは大喜くんで精神面では割とチート野郎なのだ。

 

 例を挙げると、冬の一年生大会の時だろう。あの時大喜くんは色々メンタルに影響しそうなことを言われてたが、ブレずに勝った。

 

 だが俺の場合、外野から何か言われたりするとそれがプレーに影響するし、朝の占いが最下位だと気分も落ち込む。

 

 サーブミスやプッシュがネットにかかるのも精神的な問題だ。ラケットを振り切れなくなる。

 この間の岸祥一郎との試合も、外野の声が聞こえたから時々失点した。

 

 だから、俺を倒す方法があるとしたら、試合中に暴言を吐きまくるとかだと、思う。つまりは精神攻撃だ。どこのボーガーだよ。

 

 まあそんな訳で、チート野郎にも弱点はある。

 

 なので針生先輩、俺をいじめだしたら多分部内戦とか不戦勝で勝てますよ!

 

 ──そんなくだらないことする訳ないだろ。この人たちが。

 

「……さーせん」

 

 飛んで来るスマッシュが一息ついた。俺のレシーブがネットにかかったのだ。なので砕けたすいませんを言った。

 

 しかし、と思う。

 

 もしもこの世界が青春スポコン漫画だったら。

 

(俺がラスボスだろうな)

 

 圧倒的な強さの敵を、主人公が紆余曲折ありながら、何度も敗北を重ねながら、最後には勝つ。

 

 主人公は──大喜くんみたいな人だ。

 

 そんなことを、鈍痛のする右足(・・・・・・・)を動かしながら、考えた。

 

 

 新しい朝が来た。

 

 むくりと体を起こす。しゃっ、とカーテンを開けた。日差しが心地いい。

 

「……そこそこ、寝れたな」

 

『寝起きが異常に良い』というチートがあるので寝覚めはびっくりするほどいいが、日の光を朝いちばんに浴びるのは、チート関係なく気分が良いものだ。

 

 今日は──ダブルスの県大会がある。試合当日の、特別な朝だった。

 

 原作通り針生先輩と組んで出場するのである。おそらく、途中までは原作通りに進むだろうと思う。

 

 だが。

 

 右足を揉んでみる。

 

「……っ」

 

 ずきりと、痛みが走った。

 

「……なんで、痛くなる?」

 

 一応チートはあるのだが、変だ。

『自然治癒速度が速い』は無くなったのか? それとも昔の俺の確認が甘かったか。

 

 最近、右足のふくらはぎから足首にかけてが痛い。

 この痛みの原因は間違いなく、体育祭だろう。やはり人外の力を発揮したせいか。

 

 そしてその違和感を無視して運動し続けたのが、たぶん問題だった。

 足の違和感はこの間のダブルスの試合でも感じていた。それをまあその内治るだろうと思って無視したのだ。

 

「まあ、この程度ならなんとでもなるが……」

 

 この間は試合中に収まったし。アドレナリンがなんとかしてくれると思う。

 それに、まあ、別にいいのだ。今年が終わるまで何とか持ってくれさえすれば何の問題もない。

 

 痛みはあるけど、我慢できる程度。それに不味いのは右足だけだから、フットワークを左足主軸にしてやるのがいいだろう。ネット前の踏み込みとか左にすれば、そこまで問題はないはずだ。

 

 じゃあ今日も走るか。

 

 よしと意気込んで、ジャージに着替えて一階へ降りる。足音は立てない。まだみんな寝ている。そりゃそうだ五時ちょうどである。

 

 居間には、当然誰もいなかった。

 

 そして、だらだらストレッチをしていると、五時半になった。そろそろいらっしゃる頃だろう。

 

 コーヒーでも淹れるかなとキッチンへ向かい、ポットのスイッチを入れた。俺は飲まない派だが、先輩は飲む派なのだ。

 

 ぱたぱたと、静かに急ぐ、階段を降りる音がする。

 

 ゆっくりドアが開いた。

 

「おはよ」

「おはようございます」

 

 顔を出したのは、千夏先輩だった。

 寝間着のままだ。寝ぐせはなかった。

 

 何故先輩が五時半に起きているのか。原作では基本的に六時台なのに。

 

 その理由は──

 

「今日も一緒に走っていい?」

 

 最近、先輩と早朝に、走っているからだ。

 

「もちろん」

 

 この間の水族館からだ。

 もう一月前になるか。水族館は五月半ばだった。先輩も何で走るのかはわからないが、まあ朝練前に軽く運動がしたいんだろう。朝走るのは気持ちがいいし。

 

 五時半とかいう老人高校生の時間帯なのは、先輩は俺の走る時間に合わせてくれているというのもあるが、栄明の高校生に見つからないだろうという意味も含んでいる。

 

「……ていうか、今日試合なのに走るの?」

 

「はい。変えると逆に不調になったりするので」

 

「そうなんだ。ルーティーンってやつかな」

 

 そんな感じですと返す。早起きも、早朝のランニングも、習慣なのだ。これをやらないと体が変になるという類のもの。

 

「でも今日はいつもよりも軽く走ります。大会ですし……十五分くらいで」

 

「それがいいね。あんまり長いと疲れがたまるし」

 

 うんうんと同意する。

 

 痛みもあるし、変に疲れをためて、ダブルスペアの針生先輩に迷惑をかけるとかは最悪なのだ。まあよっぽど全力で走らない限り疲れることはないが。一応チートだし。

 

「たぶん帰る頃には、母も起きてますね」

 

 毎朝毎朝弁当に家事に、本当にご苦労様ですという感じである。これを当然だと思えるはずもなく、非常に有難い。

 

「いつもありがたいね。私負担になってない?」

 

「まさか。負担どころか、先輩がいてくれるおかげで、家が明るくなったって皆いってますよ」

 

 猪股家は一人っ子で、家族構成は父母子、祖父。みんな人柄が良いし、もとより暗かった訳ではないが、千夏先輩が来てから家柄が明るくなった。

 

 そんな功労者を邪魔者扱いする人などいるはずもない。

 

「……大喜くんは?」

 

「邪魔なわけないでしょ」

 

 当然俺も含めてだ。軽く笑みを浮かべながら言った。

 

 まあ、気をつかうから、家での過ごしやすさは結構変わったりしてるが。

 風呂とか先輩が入った後絶対つかれないし、目障りにならないよう早く飯を食べるのも継続している。

 

 それでも、先輩が幸せになるためならば、全く以って苦ではない。だから邪魔だと思ったことは一度もないのだ。

 

「じゃ、外で準備運動してます」

 

 準備急がなくていいんで、と念押しは忘れずして、俺は居間を外れ、先に家を出た。

 

 がらがらと玄関を閉め、先輩を一人にして。

 

 

 

 

「じゃあ何で湯船つからないの」

 

 鹿野千夏は、一人残された居間で、呟いた。

 

 

 

 

 早朝の住宅街というのは、なんだか妙な雰囲気がして、背中に悪寒が走った。

 

 いつもと違うせい──ではあるだろう。朝の住宅街は驚くほど静かだ。

 でも体育館の場合は、俺は朝の方が好きだ。

 

 住宅街の場合はそうじゃない。そんなに好きにはなれない。ただいつも走る時の、朝の住宅街に対しては、特に何も感じたことはなかった。

 

(今日がきっと特別だからだ)

 

 大会あるし。だから嫌な予感というのを、吐きたくなるような緊張感を、抱いているのだ。

 

 それでもいつもと同じようにランニングをする。日課は変えないから日課である。

 

 ただコースはいつもと少し変えている。近いと遠いの中間くらいの距離の公園まで行って、そこから折り返して帰る。交差点は少なく、ほとんど真っすぐ走るだけのルートだ。

 

 変えたのはそれと時間だけ。他はいつも通りだ。

 

 走るのは左側。自動車と同じ向き。

 

 十字路を横切る時は車来てないかスピードを落とす。

 

 そして一人で走るのではなく、隣に──千夏先輩。

 

「今日会場までどうやって行くの?」

「徒歩で行きます。途中走ればアップ代わりにもなるんで」

 

 健康優良児だ、と千夏先輩は笑う。笑ってくれたのでちょっと嬉しくなった。

 

 かなり軽めのランニングだ。ジョギングというのが適切かもしれない。軽く会話をする余裕がある。

 

「先輩も明日試合ですよね。決勝でしたっけ」

 

「うん。勝てば、インターハイ」

 

 頑張ってください、と踵で地面を踏みながら言った。

 やはり右足で着地すると痛い。

 

「ありがと。大喜くんも頑張ってね。一年生なのにインターハイ行けたら、快挙ってやつだよ」

 

 たったっと駆けながら言った。少し走った程度では息切れしない。さすがに運動部だ。

 

「そういえばこの前、来てた子も一年生なのに県大会優勝じゃなかった?」

 

「ああ……蝶野、雛です」

 

 原作通りにばれてしまった。原作のイベントはこなしてないが。

 まあ雛が自分の気持ちに気づくイベントがないから、たぶん大喜くんへの恋心を自覚していないだろう。そういう意味でもやはり原作からは外れている。少しの安心要素だ。

 

「変な勘違いとか、してなかったかな?」

「……まあ、散々いいましたよ。いかがわしい関係じゃないって」

 

 なら良かった、と先輩は言った。

 

 多分先輩のことだから、俺と雛の関係を変な風に見たのだろう。それを気にしてくれてたのだ。

 

「ところで、なんで、走ろうってなったんですか?」

 

 そういえばと、思い立って聞いてみる。

 もう一月は経つのに、思い返してみるとまだ聞いていなかった。

 

「……体育祭ですごい速かったから。フォームとか近くで見て見たくて」

 

 そういうことか。でもチートのせいだし、どのくらい先輩にとって役立つだろうか。

 

「……参考になればいいですけど」

 

 しかし体育祭というと……あれか。

 あれは、正直自分にとっては黒い歴史だ。足痛いし、あの後いろいろ噂とか大変だった。ドーピングとか肉体改造とか色々。

 

「やっぱり走るのって好き?」

 

 鬱々になり始めると、先輩がそれを払うように尋ねてきてくれた。

 

「好きですよ。悩みがある時とか、走っていると、悩みが置き去りにされる感じがして」

 

 言って、そういえば大喜くんも似たことを口走っていたなと気づいた。先輩のお父さんとランニングしたシーンだ。考え事がある時、走って脳に風を通す、だったか。

 

 走って悩みを置いてけぼりにする、とちょっと似ている気がする。

 

「そんなこと水族館でいってたね。やっぱりそんなに悩みあるの?」

 

 あ、失言だった。

 

「……冗談です。ないですよ、悩みなんて」

 

「あはは、嘘つきだ」

 

 先輩は小さく欠伸をしてから、笑って言った。早起きのせいか眠いのだろう。

 

「まあ今は悩みないですし、これは軽い運動なんで。その証拠に俺はだらだら走ります」

 

「そういうことにしといてあげよう」

 

 ふふんと笑い、先輩は加速した。背中が少し遠ざかる。距離が空いた。このくらいが丁度いい。隣を走るというのは、俺では力不足だ。

 

 しかし時々この人子どもっぽくなるなあと思いながら、苦笑してその背を追いかける。

 

 住宅街の交差点に入る。十字路ともいえるだろう。

 信号はない。視界がかなり悪いから、車と歩行者が互いを視認するために、ミラーが取りつけられている場所だった。

 

「大喜くん、まだ真っすぐ進むだけで大丈夫?」

 

 先輩が走りながら、道筋の確認をしようと振り返る。ちょうど交差点だった。

 

 まさかと思い、車が来てないだろうなとミラーを確認する。

 

 住宅街の交差点なのに、高速で飛び出して来る車が時々いるのだ。

 よもや接触するんじゃないかという瞬間が時々あり、走る時気をつけている場所だった。

 

(──!)

 

 その、まさかだった。

 

 ミラーに映るのは──トラック。

 住宅の塀に阻まれていても、俺の視界にその背が映る。

 

 一瞬心臓が跳ね上がる感覚を覚えた。

 でも、大丈夫だ。先輩も気づいた。すぐに加速すれば問題ないし、車がアクセル踏んだままにしなければ、大丈夫。

 

(さすがにトラックが止まるはず)

 

 これなら、トラック側がさすがに気づくはずだ。運転手だって先輩をひきたい訳ない。ブレーキを踏んで止まる時間は十分にある。

 

 だが、今日はびっくりするほど運が悪いらしい。

 

「え──」

 

「──先輩っ!」

 

 ミラーに映る車は──止まる気配がない。塀の陰になって隠れていた車の顔がうっすら見え始める。

 

 先輩が息を漏らしたと同時に叫んで、駆け出した。車と先輩の体との距離は一メートルもない。

 

 舌打ちをつく暇もなかった。

 

 なんで止まらない。でもいやブレーキ踏んでるのか? でも万が一ああ考えている暇などない、本気の全力で、でも、人間を超えた出力で大地を蹴ったら──そんなのどうでもいい。

 

(やれ)

 

 みしりと、右足に大きな負荷がかかったのを感じた。

 人間じゃない速度で加速する。この速度感は禁忌を犯しているようで気持ちが悪くなる。

 

 でも──確かに先輩は抱えた。恐怖のせいか俺が抱えた衝撃のせいか目を閉じていた。

 

 三箇条は今だけ無視だ。トラックが徐行してないせいだ。住宅街なのに。ああでも、さすがにこれはあれだろう、すごく疲れているのだな。ブラックと聞くし。疲れてるせいで、止まれなかったのだろう。

 

(後は駆け抜けるだけ──)

 

 そう、駆け抜けるだけ。最後に車道に残っている右足を、前へ持ってくるだけ──。

 

 ぼきりと、音が鳴った。

 

 ずざっと左足から着地する。先輩を肩で担ぐ感じになっていた。失礼なので手早く下ろす。

 

「先輩……大丈夫ですか」

 

 先輩は座り込んで、肩で息をしている。そりゃそうだ。割とちゃんと危険だった。目も斜め下を向いていて、呆然としていた。

 

 俺が声をかけると平常に戻って来たのか、はっとした。そしてこちらを恐る恐る見た。

 

「ご、ごめんね……怪我、ない?」

「はい、全く」

 

 肩甲骨を回した。元気アピールだ。

 

「良かった……」

「……」

 

 しかしこの人、他人の心配ばっかりだ。

 

『まさか車が突っ込んでくるなんて思ってなくて』とか『振り向いたせいで気づかなかった』とか、言い訳すればいいのに。

 

(びっくりするほど、純粋な人なんだ)

 

 だから悪口をいうのは、俺がやっておこう。 

 

「しかしひどいトラックですね。住宅地なのにスピード出しすぎだし」

 

 それに、走り去った。もう音が遠くに聞こえる。なんて奴だ。俺以上に──俺と同じくらい酷い奴だ。

 

 ちょっと悪態をつくことでトラックにヘイトを向けて、”先輩のせいじゃない”を強調してみるが、先輩は同調しなかった。

 

「……ごめんね。まだ気持ちが、落ち着かないや」

 

 まだ衝撃から立ち直れていないのだ。仕方ないだろう。

 

「……」

 

 俺はすっくと立ちあがって先輩へ向けて手を伸ばした。水族館で聞いた自転車理論だ。倒れそうな時はペダルをこいだ方がいい──ならば。

 

 座り込みたいときは、立ち上がった方がいい……かもしれない。

 

 先輩は条件反射的に俺の手を掴んで立ち上がり、そこで目覚めたようだった。功を奏したようだ。

 

「私、君に助けられてばっかだね」

 

 そしてそんな訳ないことを言った。

 

「……そうですか?」

「そうだよ。今のとか、体育祭とか」

 

 ──あの時の、会話とか。

 

「……?」

 

 あの、時? どの時だろう。

 

 しかし聞けなかった。万が一”あの時”のことを説明されて思い出せなかったら非常に気まずいからだ。

 

 何にせよ、ランニングは終了。トラックのせいで。

 上がりかけていた息や体温は冷え込んだ。走る気分でもなくなった。

 

 自然と、帰宅する流れになる。

 帰り道を歩く途中、人や車の往来が盛んになった。朝早くからご苦労様ですと思った。

 

 それと同時に早く帰りたいとも思う。万が一栄明の人に見られたら大変だ。今日は運が悪いようだし、万が一が起こり得る日なのだ。

 

 が、さすがにそこまで運は悪くない。何とか無事に家までたどり着いた。

 

「……? どうしました?」

 

 ただ、先輩は玄関を開く手前で、止まった。

 

「もしも、インターハイ、大喜くんが行けたら」

 

 振り返りながら言った。

 

「渡したいものが、あります」

 

 真面目な、顔だった。頬の赤みはなかった。

 

「……はは、頑張ります」

 

 俺は、そんなくだらない言葉しか返せなかった。

 

 そして自室に戻り、ベッドに倒れ込む。

 大喜くん母が朝ごはんを用意してくれている。だが一眠りしたい気分だった。色々あり過ぎた。

 

 先輩は何を渡そうとしているのだろう。何を考えているのだろう。雛もそうだが、マンガじゃないから、彼女たちの考えることが全然わからない。

 

 心情描写ってありがたいなあなんて思って、ため息をついた。

 

「……ふう」

 

 そして一番の”色々”──右足、を壁にぶつけてみる。

 

 じーんと、広がる衝撃。

 

「……はは」

 

 ──最悪、だな。

 

 俺は何時に家を出ようかなと、バスの運行ダイヤを確認し始めた。

 

 

 その日、ダブルスの県大会の日。

 

「大喜……?」

 

 針生健吾と、猪股大喜のダブルスペアは。

 

「……」

 

 佐知川高校の、兵藤ペアに──

 

「……すいません」

 

 敗北、した。

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