寿司。いくら、を最後に食った。
「ごちそうさまでした」
母の、大喜もう食べなくていいの、なんて言葉に千夏先輩の引っ越し祝いだから、と返して、きゅっきゅと自分の食器を洗い、部屋に戻った。
我ながら、賞賛したくなるスピードだ。
早く部屋に戻ったのは、自室でないと考え事がはかどらないからだ。
さて。
「なぜ千夏先輩が家にいる」
理由がこれっぽちもつかめない。なんで先輩が原作通り、猪股家に来て居候しているのか?
先輩が海外に行かなかった理由は、大喜君のあの日、体育館での会話が原因だろう? 俺も会話はしたけれど、内容は全然違うはず。
先輩の負けず嫌い精神を刺激する言葉を、俺は言ったか?
「……まあ、いいや」
まあ、考えても仕方ないか。そういうことにした。納得させた。とにかくなんか上手いこと行きましたわっしょい。現実を見よう。
じゃあ、とりあえず……。
大丈夫だ。千夏先輩が家にいても、特に問題ない。
人の家に入ったときの違和感が、ずっと鼻の奥にあるくらいだ。たぶん千夏先輩がいることも、その内普通になる。
憑依してからすぐなんかは、見知らぬ家族という状況に頭がおかしくなりそうで、夜中全然眠れなかったが、一月も経てば気にしなくなった。
千夏先輩も同じ。いつか慣れる。俺にとっては、千夏先輩も家族も、あまり変わらないのだ。原作とは異なり、中身が俺なのだから、どちらも究極的には他人であるし。
さて、少し今後を考えるか。
「とりあえず何故かわからないが、原作通りだ。当面は迷惑かけないように動くだけだな」
千夏先輩が家にいることで、第一関門にして最大の難所は超えたのだ。後はもう迷惑をかけないよう動くだけでいい。一つだけ大きく動かざるを得ない部分があるが、まあ、まだ先のことだ。
後は、自分に定めた掟を確認する。
「見ない。触れない。関わりにいかない」
この三箇条だ。これを徹底すれば、千夏先輩に迷惑をかけることなく、先輩は二年時にきっとインターハイへ出られるだろう。
見ない。そのままだ。じろじろ見られるのは気持ちが悪いだろうから。
触れない。当たり前すぎるが、原作では意外と体と体が触れている。ただ、これは間接的な触れるというのも含んでいる。
関わりにいかない。関わられたら、最低限の話はする。基本的に自分から主体的に先輩へ関わりにいかない、という意味だ。
「……ただ」
この三箇条を守ることで、つまり俺が千夏先輩との関係を進展させないことで、どのように物語が変わるか。正直予想できない。
原作大喜くんの動きが千夏先輩のインターハイ出場可否にどのくらい関わるか不明なのは、ずっと抱いている懸念点の一つだった。
「だがまあ、大丈夫だろう」
が、最近はけっこう安心している。
千夏先輩は相当ストイックであるからだ。多分放っておいても強くなる感じの人なのだ。
そもそもインターハイに出るために、家族と離れてほとんど見知らぬ家庭に居候できる強い覚悟があるのだ。原作と違い
そしたらきっと、千夏先輩は幸せの一つを掴んでくれる。
「そうなったら、俺は──」
言いかけて止まる。ノックがあってドアが開いた。
「大喜くん、お風呂あい……」
「はい、いま行きます」
うっすら上気した千夏先輩が、ノックして部屋の扉を開けた。
俺はすぐに返事をした。すると先輩は部屋には入って来ない。原作では大喜くんがジャンプを読んでいて、そこから会話になったが、俺のリスク回避は万全だ。
千夏先輩は素早い返事に固まったが、じゃあよろしくねと言って、部屋に入ることなく扉を閉めた。
「……ふう」
用意周到だ。先輩がジャンプを発見して部屋に入ることもなかった。俺の部屋にジャンプはないのだ。俺は定期購入派であるから。初めて自分を褒めてやりたくなった。
さて、さっさと入りたいところだが、ここで疑問に思う。
──お前、今入っていいの? 三箇条の一つ“触れない”は、間接的なものまで含んでいるんだろう、と。
つまり、千夏先輩の残り香。これに触れていいのか?
「……問題はない」
しかし俺は疑問を一蹴する。問題ないのだ。
何故か。無駄なチートの一つ『息を三十分くらい止めれる』があるからだ。ちなみに三十分というのは計測をそこで止めたからで、限界はわからない。こういう意味わからない能力が多々ある。
「湯にはつからなければいい。椅子も座らなければいい。タオルも替えがある」
よし大丈夫だ。
「……これなら、いいよな」
──いい訳ないだろ。
……そりゃそうだ。
“千夏先輩に迷惑かけない”。これを徹底すれば、少しでも罪滅ぼしの一つになるかもと思ったけど、その程度でいい訳ないに決まっている。
大喜くんに、申し訳ない。
そう思って、顔を歪めた。
申し訳ないっていう言葉がどうにも軽い気がして、あまり使いたくないが、これ以外に俺の感情を表現できる言葉が見つからない。
申し訳が、ない。
何も言い訳の一つも、出て来ないほどに。
だって冷静に考えたら、今の俺の状況というのは、本当にくそ野郎過ぎるのだ。考えてみろ。
大喜くん目線から、今の俺はどう映っているか、考えるのだ。たぶん万人にやらせてみたら、万人が俺の気持ちに共感してくれるだろう。
大喜くん目線では、俺はこうだ。
『何の前触れもなく体を奪い、猪股大喜として生活を送っている誰か。そいつが家族とも普通に話していて、千夏先輩との同居も体験し、バドミントンも上手くなっている。友人も何とか普通に接してくれている』
胸糞が悪すぎる。
「俺なら──殺したくなるな」
だから大喜くん、いつでも俺に隕石を落としてくれていいのだ。無駄にチート野郎だから、車突っ込ませるだと死なない可能性があるし。
そんなことを最後に思って思考を切り、風呂場に向かった。
*
高校に、入学した。
入学式は一瞬で終わる。クラス分けも終了している。クラスラインも完成している。既に何となくグループ的な奴が、出来損ないの雲みたいに薄っすらできている。
そんなものである。入学初日なんて大層な感じもするが、一瞬だ。俺みたく周りに流されて適当にやっていると、何事もなかったなと思える一日になる。
いや、一つだけ何事があった。
とても嬉しいことだ。有難いことだ。最高なことだ。
「匡」
「どうした、大喜」
匡がいる。笠原匡と原作通り同じクラスなのだ。
正直──安堵した。この人物がいないと、俺は本当に終わるからだ。
俺には、チート能力はある。それこそ宴会芸ですか、というくだらないものから、金稼ぎとかに使える実用的なものまで様々だ。
しかし。
その体を扱うのが、俺だ。
大喜くんのようなコミュ力、精神力、勇気、忍耐──全くない。よくある例えだが、ハードが良くてもソフトウェアが駄目という奴だ。だから無駄なチート能力。コミュ力が皆無なので、この力の半分も引き出せていない。
「相談があるから、こっち来てくれ」
そういった俺のダメダメな部分を、部活中でもそうだし中学時代もそうだが、匡が補ってくれているのだ。本当に匡には感謝してもしきれない。体育とかペア組んでくれるし、今みたいに相談にも乗ってくれる。
こっちだ、とクラスから匡を連れ出したのは、屋上に続く階段を上がった先の、踊り場。大喜くんが千夏先輩の着替えが終わるのを待っていた場所だ。
「で、どうした、大喜」
人に聞かれたくない話であることを組んでくれて、小声だ。
「……冗談じゃないから、真面目に聞いてくれ」
俺も、非常に真面目に話す。少し悩んだが、原作通りこの情報を伝えることにしたのだ。
「千夏先輩が、海外へ行く云々を、覚えているか」
「ああ、あったな。けっきょく噂でも聞かなかったが……」
悩んだのは、原作と違う点があるから。
「あれは父親の転勤が原因だ。千夏先輩の家族は海外に行っている」
俺は、千夏先輩に、恋をしていない。
「じゃあその間、千夏先輩はどこに住んでいるか」
それでも相談する理由は、一つ。
「千夏先輩は、いま猪股家に居候している」
「……!」
告げられた衝撃的事実に、匡が細い目を見開いた。驚くとあからさまに人間は目を開くものだ。
ここからが、本題だ。
「俺は千夏先輩の邪魔を、絶っ対にしたくない。だから、関係に悩んだ時に相談を聞いて欲しい」
匡に、相談に乗ってもらう。
「それはいいんだが……まあ、とりあえず今どんな風に接してるんだ?」
いいらしい。意外とすんなり行った。成り代わる前の大喜くん貯金が残っているのだろう。
「……そうだな。まず──」
昨日の三箇条とか、細かいところをチート能力の部分は省いて話した。
「……まあ、なんとなくわかった。で、お前は千夏先輩のことどう思ってんの?」
「幸せになって欲しい」
即答した。
抽象的だ。まあ求める理想はあるが、それを口に出すのはさすがに違うので、匡には言えない。
「……ならまあ、そのままでいいだろ。関わり過ぎないようにするで。先輩から話しかけて来たらちゃんと話すんだろ?」
「それはさすがにする。自分からは行かないだけだ」
「そうだな。先輩がインターハイを目指すため日本に残ったなら、邪魔したくないだろうし」
そりゃそうだと頷く。邪魔なんてしてインターハイに出られなかったら俺は光の粒子となって消散する。
「でも、関わり過ぎないのも良くないと思うぞ」
……? まあ、そうか。ある程度自分から話しかけるとか、日常会話は大事か。
「好きなんだろ、千夏先輩のこと」
いや──それは、違うけど、違わない。
恋愛的な好きではなくて、ああ、なんと言えばいいのだろう。いや一つある。例えるならばアイドルに対する感情だ。アイドルと付き合いたいとは思わない。いやでもちょっと違う。
どう言えばいいのだと迷って、とりあえず名前を呼んでみる。
「……匡」
「まあ、大喜なら意外と高嶺の花じゃないかもな」
がんばれよ、と匡は話を終わらせようとしている。こうなると駄目だ。相談の空気じゃなくなった。
匡は部活の話をし始める。部内戦すぐ始まるよな、という話だった。
会話を少し続けて、先に部活に行っておいてくれと言って、匡と別れトイレに駆け込んだ。
「……」
──この、ヘタレ。
個室に籠り、呟いた。
俺は、本当に言いたいことを伝える能力がない。
頭では色々思うし、伝えたいことは山ほどあるのだ。
だがそれを伝える能力がない。口が全く回らない。頭で文章は出来ているのに読み上げられない。焦ると全然何もできなくなる。やはり俺は大喜くんのようになれない。
余りにも、口下手だ。
ああ、そうだ。一つわかった。
チート能力と銘打ったが、大喜くんが持っていたチートを、俺は一つ無くしているのだ。これがないから、やはり、無駄なチート能力と蔑ますにはいられない。
大喜くんは、コミュ強というチートを持っていた。
*
(しかし、びっくりしたな)
喧騒の止まないクラスに戻り、席に着いた。ここからは帰るか、遊ぶか、部活に向かうかの三択だろうが、入学初日だからか、皆意外と残って話をしている。
(大喜が、千夏先輩を、か)
驚いた後、腑に落ちる感覚があった。この前も先輩が海外へ行ってしまうと元気を無くしていたし、部活中先輩をときどき見ているし、多分間違いないだろう。
そして、もう一つ驚くことがあった。
相談をされた──頼られた。
(俺は、どこか安堵してる)
大喜は、一気にすごい奴になったから。少し怖いと思うくらいに、変わったから。
不安だった。俺とお前は、まだ友達なのか? でもそれを聞くことはできない。友達じゃないって言われたら、それで終わりだ。
だから、驚いて、安堵。
頼られるということは、まだ俺たちはただの部活仲間じゃなくて、友達。ただの部活仲間に千夏先輩との同居を打ち明けるのも変だし、信頼されている、とは思う。
(……そういえば、あの時何か言いかけていたか?)
名前を呼ばれた。俺も余裕が無くて余り気に出来なかったが、まだ何か言おうとしていたかもしれない。
まあ、重要だったらまた相談があるだろう。
「ちょっといい?」
考え事をしていると、俺の席に近づいて来る影があった。
「ん、ああ、蝶野さん。どうかした?」
蝶野、雛。新体操部に所属して、全中上位の成績を残した。中学生からの知り合いで、大喜と仲が良かった。ただ大喜が変わってからは、話す回数が減ったように見える。
「大喜さ、いい加減、おかしいと思わない? 冬くらいから、ずっとおかしいじゃん」
「……まあ、それは、な」
俺も覚えている。中三の冬だ。何の前触れもなく、大喜は、びっくりするほど変わった。口数が少なくなったし、笑う回数が減った。そして、強くなった。
「まあ、心配はしてるけど……俺は見守るよ」
変わったとしても、大喜は大喜だし。まあ昔の大喜の方がつき合いやすいとは思うけど、今の大喜も友達だ。下手に色々聞いたりして、コンプレックスな部分に触れたりするのは嫌だった。
「蝶野さんはどうすんの?」
「どうするって……」
俺がどうするか言った。じゃあ蝶野さんはどうすると問う。だが何となく、俺に話しかけてきたのだから、予想はつく。
「……私は、今の大喜、やっぱり変に見えるから」
──今更だけど、色々聞いてみる。
俺は「まあ、それも一つの正解じゃないか」と否定はしなかった。
そこからは適当な会話をして終わり。互いに部活へ向かう。
「……」
蝶野さんを否定することは、しない。
大喜を心配してるっていうのは同じだ。ただ心配のやり方が、見守るか、話に行くかで、違うだけ。
俺は大喜から言い出すまで待つことにして、蝶野さんは自分から聞き出しに行く。
結局、どちらが正解かはわからない。行動して後悔することもあるし、行動しなくて後悔することもある。案外、どっちでも後悔はするのかも。
まあ俺は、たぶん後者ばかりだけど。昔からそうだ。
(早く、体育館に行こう)
自然と早歩きになる。羽でも打って、芽生えたもやもやをかき消したくなった。
*
鹿野千夏は、部活を終えて猪股家に帰宅した。
「ただいま帰りました……って、今日は皆さんいない日か」
ただ同居人の靴はあった。痛んで泥だらけの、子どもっぽいスニーカーだ。もう部活から帰って自分の部屋に行っているのだなと彼女は思った。
猪股、大喜。バド部で、強い。朝練仲間で、性格や雰囲気は全く違うが、どこか
「……」
部活の疲れから床に仰向けで転がる。伸びをしたくなった。猪股家の人がいるとさすがに気を遣ってしまうからできないことだ。
そして、ぽつぽつと呟く。
「いのまた、たいき、く──ひゃっ」
がららと開き戸があいた。
「……? どうしたんですか、先輩」
猪股大喜が帰宅した。飛び上がって変な声を出した彼女を心配そうな様子で見ている。
「なんでもう部屋にいるんじゃ……ほら、靴」
千夏はわたふたしながら徐々に冷静さを取り戻し、汚れた靴を指差した。大喜はそういうことかと小さく頷いて納得した。
「ああ、最近、変えたので……ごめんなさい。捨てときます」
「あ、べつに、謝らなくても……」
大喜は、ああ、ごめんなさい、とまた謝って、洗面所へと歩いて行った。
「……」
一人残された玄関で、千夏はぽつりと呟く。
「やっぱり、私邪魔してるかなあ」
──なんか、壁がある、気がする。
「お母さん、早く食べるようになったっていってたし……」
あれ多分わたしのせいだよねと千夏は思った。
二人は朝練仲間ではあったが、よく話す関係ではない。仲が良いとは言い難い関係だ。
「……でもごめん。私も気を遣うから、居候させてください」
千夏は、洗面所にいる猪股大喜に向かって言った。面と向かってこんなこと言われたら彼も気まずい思いをするだろうと思ったから、直接は言えない。
「……何か、ヘンな子みたいだな、私」
大喜くんに聞こえてなかったよね、と安心どころか不安になって、彼女も洗面所に向かった。