五月十五日。午前六時。
けたたましい機械音で、鹿野千夏は目を覚ました。
「……」
体を起こし、むにゃむにゃと目を擦って、アラームを止めた後、大きく伸びをする。
下半身がまだ寝ている。掛け布団をはがさないと覚醒できないから、千夏は元気よく布団を蹴っ飛ばして目を覚ました。
そして、そういえば今日は、と時計を確認した。
「……よし」
予定の起床時間だ。待ち合わせには十分すぎるほどに間に合う。今日は同居人──猪股大喜と水族館に行く約束をしていた。
ぱぱっとスキンケア等々をこなして、寝間着を変えて、階下へ。
「おはようございます」
「あら、おはよう。二人とも早いわねー」
大喜の母は既に起きている。口ぶりからして、大喜もすでに起床しているようだった。
(あれ、大喜くん……)
しかし大喜がいない。いつも彼の朝は千夏より早かったから、リビングにいつも姿があったのだ。
大喜の朝はものすごく速い。何でも起きてすぐに走りに行っているという。だというのに毎日朝練にも行くのだから、すごいバイタリティだなと千夏は尊敬していた。
「あの、大喜くんは……?」
「ああ、何か用事があるって十分くらい前に行ったわ」
「え」
いくら用事っていっても六時からの用事って何かしらね、と半笑いで母は言うが──千夏はおろおろして言葉が脳に響かない。
現在時刻は──六時半だ。約束した時刻より三時間半も早い。
(……何か別の用事? それともすっぽかし……いやでもラインで行きますって……)
わからない。
千夏は結局、猪股大喜を理解できていない。
これまで、同居が始まってから二人は関わる機会が増えた。日常生活でも挨拶を交わす。部活でも休憩所で会えば少し話す。体育祭では仲良くなれたと思った。
でもこういう行動はわからない。このわからないが、自分はやっぱり彼の邪魔をしているのかな、という不安を作る。
それ、でも──。
「……あの、私も用事あるので、もうすぐ出ます」
「えっ、早いわねずいぶん」
お弁当とか要ると聞かれ、だいじょうぶですと返して千夏は色々用意を開始した。
寝間着を着替える。服はワンピースだった。昨日の内に用意していた。友達と出かける時と変わらない。
鏡を見て寝ぐせを直す。後ろ髪の先が少しはねていた。
最後に日焼け止めを塗って、行ってきますと、すぐに駆け出す。
どこか冷たい空気だった。もう五月の半ばだが、早朝はやや冷える。時刻は七時前だ。
待ち合わせ場所まで二十分。でも、走れば──。
「はっ、はっ……」
ついた。七時ちょうどだ。人はまばら。
「はっ……はあ……」
息を切らして、きょろきょろと彼を探す。
「はあ……はあ……」
すぐに誰かわかる雰囲気の持ち主だから、注意深く見ずとも──。
「……はあ」
いた。
彼は、いつもと変わらない様子で、待ち合わせ場所にいた。
風が吹く。短い髪が揺れて逆立つ。きれいな顔立ちだと千夏は思った。ただ真っすぐを見つめて、一直線に進んでいく、強い顔だと思った。
そしてどこか、儚かった。
「……」
そこでふと、悪戯を思いついた。
人を避けながら、ややかがんで彼に近づく。ばれないように。
後ろからおどかしてやることにした。なんで彼がこんな早くに家を出たのかわからないが、ちょっとした仕返しみたいなつもりだった。
「おはよう」
肩に手をぽんとおいた。大喜はスマホに集中していて気づかなかった。
「おはよう──ございます……!?」
大喜は条件反射で挨拶を返し、振り返って──飛び上がりながら驚いた。
スマホが落ちそうになって千夏はキャッチする。
「ナイスカバーリング、でしょ」
スマホも。待ち合わせも。
だからどやりとして言った。
そしてすぐに焦った。うざいと思われてないといいなと彼の顔を見るが、それどころじゃないようだ。
ただ、なんでこんな時間に来たのか、と驚いていた。
(……私がいいたいんだけどな、それ)
しかし言えない。大喜は思考停止しているようだった。おでこを、ぴんっと指ではじいてみると復活した。
大喜はまだ何も言わない。千夏はしょうがないなあと、きょろきょろして、あそこでいいかと指差して言う。
「……予定よりずっと早いから、カフェでも行こうよ」
大喜は、黒々とした目を丸くして、頷いた。
*
一睡もしていない。昨日から。
絶対に遅れたくはなかったからだ。だから寝ないし、待ち合わせより何時間も早くに家を出た。
だがその意識が高すぎたせいで、千夏先輩に迷惑をかけてしまった。まさか先輩まで早くに来るとは思わなかった。先輩に気を遣わせてしまったのだ。反省する。
ちなみに、徹夜しているが、とくに問題はないのだ。
チートの『寝なくても体は大丈夫』がある。
成り代わった初期の頃に色々と試して、自分にできることは大体把握してある。
ただこれは諸刃の剣だ。睡眠には体力回復効果だけではなくて、精神回復の効果もある。俺はガガンボのようなメンタルをしているから、寝ないとすぐ死ぬ。寝ても死ぬが。
「大喜くん、見て見て」
──さて、現実逃避は終わりにしよう。
「指動かすと追って来るよ。かわいー」
俺は今、千夏先輩と、水族館に、来ている。
「かわいい、ですね」
「……なんか思ってなさそうだね」
少しむっとした千夏先輩が言った。
いや全然、そんな訳ないでしょう、ちゃんとかわいいと思って言いましたよ、と口は動くが……端から見ればどうだろう。
俺は大喜くんが持っていた感情表現能力の全部を失っている気がするから、もしかしたら本当に思ってもないことを口にしたと思われたかもしれない。
「……何か見たいのある? ていっても、基本順路通り進むだけだけど」
まあそれはそう……しかし、見たいものか。
水族館でこれを熱烈にみたい、というのは案外浮かばない。魚の知識は昨日図鑑を暗記したから持っているが、生で見たい興味のある魚はない。
なので。
「……じゃあ、クラゲを」
「わかった。たぶんもうすぐあるよ」
クラゲを見たいと思った。
そしてほどほどに進んだころ、どこか魚中心だった水槽の雰囲気が変わる。甲殻類や、砂の下に隠れる海の生き物たちが多々いるゾーンに入った。
もうすぐクラゲな気がすると、先輩と歩いていると、明らかに変わった場所に来た。
「わかりやすくて良いね」
「はい、そうですね」
光が特徴的だった。
青くぼんやりとした光。でも闇を祓うような強い光ではなくて、例えるならば、きっと夜の月。淡い光であるから、俺と千夏先輩の体もほとんど闇に染まっている。
もっと頑張って照らしてくれよと、俺はそれらを見た。
それら──クラゲが、壁の水槽を何十匹も泳いでいる。
会話が止まる。千夏先輩は光景に感動しているのか、話すことが浮かばないのか、わからない。
数十秒の沈黙が続いて、先輩ばかりに話させるのも悪いからなと思って、何か話すことにした。
「クラゲ、きれいですね」
「うん、ほんとに。これ見ただけで、来た価値あったかな」
それはありがたいなと思う。自分が見たいと思って、良いなと思ったものに共感してくれたら、嬉しいものだ。
「クラゲは、漢字で書くと何だかわかりますか」
唐突な質問に少し驚いた先輩だが、すぐに答える。
「えーと、海に、月?」
「そうです。海に、月と書いてクラゲ」
けっこう有名だ。海月。
由来を聞くと、昔の人は洒落てるなとつくづく思う。
「昔の人が、夜とかにぷかぷか浮いてるクラゲを見て、海に浮かぶ月のようだと思って、つけたらしいです」
想像したら面白い。海に月が何個も浮いている光景。クラゲはたぶん海面近くまで上がって来るから、余計に月が水面に映るように見えたのだろう。
想像すると幻想的な光景。
だが月は一個で十分な気もした。二つもいるだろうか。
「面白いね。ならクラゲに兎さんがついてたらいいのに」
「そうですね。まあ何種類もいるから、似た模様のクラゲもいるかも」
そんな冗談交じりの会話をしながら立ち止まっていた。
ところで、何でクラゲを見たいと思ったか。
理由は楽そうだからだ。
何も考えずに浮かんでいれば勝手に生きて、勝手に死ねるだろう。羨ましい。
「次、行こう」
「はい」
そして、ほどなくして次へ進む。そこからは特に面白いものはなかった。魚もハコに閉じ込められて大変だなと、ほんのりシンパシーを感じたくらい。
「次は……」
先輩が地図を見ながら言いかける。言わずともぼんやり次が見えていた。
「回遊魚が、見どころですね」
魚が、たくさんいる大水槽だ。
スイミーの如く群れを成す魚が多々いる。魚群というのを久しぶりに見た。この水槽が水族館で最も大きいんだったか。
「回遊というとさ、マグロは止まったら死んじゃうらしいね。なんでか知ってる?」
「確か、呼吸するため、だったかな……」
どういう原理か知らないが進み続けることでエラに酸素を取り込むらしい。
「そうそう。でももう一個あるみたい。沈まないため、だって」
それを聞いて、へえ、と思う。
なるほど確かに。推進力を保てば沈まない。ボール投げて、スピードを保つ内は真っすぐ飛び続けるが、徐々に落ちる。
どこか、自分と似たものを感じてそれが口から出た。
「なんか、マグロに共感しました」
「……ほんとに?」
なんだよマグロに共感ってと自分でも思うが、してしまったからしょうがない。
「俺は立ち止まってると、嫌なことばかり考えてしまう。でも動いていれば気がまぎれるから、眠る時以外は、進んでたいんです」
動いてないと、ずっと嫌なことばかり頭に浮かぶ。
本当は眠りたくもないけれど、眠らないと精神が分裂するから寝ている。眼を閉じると嫌な記憶がよみがえるあれは、なんだろう本当に。
千夏先輩は何も答えない。やっぱりさすがに引かれたかと思う。
おずおずと横顔を除いてみると、先輩は既にこちらを見ていて、どきりとした。
「……実はね、私も、少しだけ共感した」
「えっ」
私も沈みたくないから、と先輩は付け足す。
「偉い科学者さんがいってた。”人生は自転車のようなものだ”って」
アインシュタインだろう。聞いたことはある。
「進んでれば倒れない。だから倒れそうになったら進め……みたいな」
それは、理解できる。俺も似たようなものだ。動き続けることで気を紛らわせないと、つらさで倒れてしまう。だから朝とか、よく走る。
「ちょっと違うかもだけど、つらい時こそ、頑張ろうってなるの」
きっとマグロも同じなんだねと、この水槽にはいないが先輩は語り掛けた。
「だから」
千夏先輩は、こっちに顔を向けた。
「似た者同士、だね」
千夏先輩は目を細めて、水槽の色が移った顔で、言った。本来の顔の色は曖昧だった。
「そう、かもしれませんね」
思わずそう返す。
でも、そんな訳、ない。
さて次に行こ、そう言った千夏先輩の後ろ姿を見てから、俺は後をついていった。
隣は、歩けるはずもなかった。
*
最奥。ペンギンゾーンまで、やって来た。
先輩が原作通りむちむちしていると言っている。触りたいとも呟いた。
ペンギンはけっこう臭いらしいが、どうだろう。壁越しに見る内はいいが、近づいたら理想は崩れそうだ。
……さすがにこれを言ったら嫌われそうだ。口を閉じた。
しかし、と思う。
なぜ先輩は匡に頼まれた訳でもないのに、俺を水族館に誘ったのだろう。
「あの、なんで、今日はここに?」
先を歩く千夏先輩の背中めがけ、勇気を出して、聞いてみた。
千夏先輩は振り返った。表情から心情は読み取れない。
本当にわからない。匡が原因ではない。となると千夏先輩が自発的にということになる。
あり得な過ぎてどうでもいい話だが、千夏先輩が俺に好意があって誘ったということはない。これだけだけは絶対にありえない。人間が不老不死になるくらい、あり得ない。
「……えっと」
先輩は、むにゃむにゃと口を動かして、斜め下を見てから、おずおずと顔を上げて、いった。
「聞きたいこと、あったから」
また心臓がはねた。何だろうか。原作とかけ離れているから全く想像ができない。
「もしかしたら私、君の──」
こと。
「邪魔してるのかな、って」
「……はい?」
邪魔? 何の。本当に何のことかまるで理解できない。
「その、居候の身だし、急に他人が来たら、いやでしょ?」
あ、そういう……ことか。
そうか。原作では確かに大喜くんの人柄のおかげで先輩を安心させることができていた。
だが、この場合は俺だ。
先輩を安心させているはずない。原作より会話とかは少ないし。なるほどだからこんなことを言わせてしまったのか。
ああ、とりあえず否定しないと。
「そう、だったら……すぐに、お父さんに連絡して……」
「全然、そんなことないです」
遮った。これ以上を言わせると罪悪感で徹夜明けの精神がもっと破壊されそうだ。もう可壊部はないよ。
でもこの否定だけでは先輩は同居に不安を感じたままだろう。根拠がない。大喜くんならすんなり言葉が出るだろうが、どうしよう。
とにかく何か言おうと、口に任せてみる。
「むしろ、俺は、あなたの──」
「こら……マサキ! 後ろ!」
おかげ──待て子ども。先輩に触れるな。
言葉を止められた。元気な子ども前も見ず走っていて、千夏先輩にぶつかりそうになったから防ぐ必要があった。
肩を抑えて接触を防ぐ。痛くしないよう細心の注意を払う。泣かれると非常に面倒だし、犬吠えられるのと同じくらいの痛みがある。
そして母親が出て来て、ごめんなさいと平謝りして、場が収まった。モンペじゃなくて良かった。
「……なんか、わかんなくなったけど、とりあえず居候、続けてもいい?」
「あ、はい。それは、勿論」
少ししてから千夏先輩が聞いた。真剣な雰囲気がぶち壊されたおかげで、安穏な感じになった。
「ありがと。また今度、バスケしよう」
俺は頷いた。これは社交辞令だろうから気楽だ。
さて、そろそろ次の場所へ向かおうかと歩き出す──
「待って」
だが先輩が袖をつかんだ。
原作通りだと感動しながら振り返ると、先輩はまだ何か言いたげな様子だった。
「あ、あのね……その、これが本題なんだけど」
本題? ということは、水族館に誘った真の理由だろうか。さっきのではなかったのか。
「その……悩みとか、ない?」
「ないです」
即答した。
悩みは多いにあるが、言わない。言えるはずがない。
ほとんどが原作に関連した悩みだし、それを人に打ち明けても頭おかしい奴にしか見られない。
でもなんでだ。
「なんでそんなこと聞くんですか」
……いや、まさか。さっきのマグロの話か。確かにあの時は人生つらいよみたいな話を──いやだが、ここへ誘った理由のはず。ならさすがに違うはず。まあとにかく先輩の返答を待つ。
「……友達に、ちょっと似てたから」
──それって、まさか。
「雰囲気とか、見た目じゃなくてね……なんていうんだろ……」
頭が、真っ白になる。
先輩が言う、友達。
針生先輩ではない。友達よりはクラスメイトの色合いが強いだろう。
渚先輩。バスケ部の。この人でもきっと違う。友達ではあるだろう。でも少し違うはず。
だから、先輩がいう友達は、一人しかいない。
そしてその人物と、俺が、似ている。ならば先輩は、その予兆をどこかで把握したということ。
俺は先輩の嗅覚に驚愕せざるを得なかった。そういえば試合中つらそうと言われた。あれも関係しているか。
沈黙してると携帯端末ががヴヴヴと鳴った。何だと確認してみる。ラインだった。
ケープくんの、スタンプ。プレゼントだ。送られてきた。
「何か悩んだら、すぐに送ってね」
先輩がスマホを片手に言った。いつの間に用意していたのだろうか。
「なんで、また」
──大喜くんのようなことを、するんだ。
そう言いかけて、止まった。
「大喜くんが強情だから。これだったら、相談しやすいでしょ」
先輩は微笑んでそう言った。
俺は何も返せない。こくりと頷き、会話は終わった。
それから千夏先輩は、相変わらず、何を考えているかわからない表情で、小さな海を見ている。
俺も、小さな海を見ながら、それを見ずに考える。
俺と、友達が似ているか。
もしも、千夏先輩の指す友達が、
だとしたら、千夏先輩の目は、まさしく鹿のように、鋭いよ。
「あ、そうだ。朝いっしょに走ってもいい?」
「はい……」
……はい?