じめじめとした雨が、グラウンドを濡らしていた。
今年が半分終わる月──六月に入ったんだなと、
今、授業中。
数学の授業。すごくめんどくさい。高一のこの時期の数学なんて簡単な方らしいが、そんなの絶望的だ。
あと先生が嫌だ。性格がアレな人なのだ。当てられて黒板に答えを書きに行って、背伸びを目いっぱいして書いたせいで字が汚くなったのを鼻で笑われた。あと普通に間違えたのを馬鹿にされた。
そんなこんなで、この授業は非常に憂鬱。
雨の湿気もキノコのようにぽこぽこ憂鬱を増やしていた。
(あ……大喜。まずいよ)
先生の話をほどほどに聞き流しながら、ふと、先生の視線が一人の人間に向いていることを察した。
あの先生がじろじろ見るということは──
「猪股! これ解いてみろ!」
当てられるということだ。
(うっわ、何あれ。考えたくない)
さっきから何書いてんだこいつ、と思いながら板書を眺めていたが、問題だったようだ。
黒板にはよくわからない文字列と、明らかにテスト範囲ではないであろう図形が書き散らされた問題が出来ていた。
「はい」
返事した大喜が黒板へ向かう。
たぶん先生は大喜に嫌がらせを仕掛けにいったのだと思う。
「……」
だが、大喜はそれをすらすらと解いていく。使っている公式は絶対テスト範囲ではない。因数分解とか集合とか全く関係なさそうなものだ。
大喜が問題を解き終わり、チョークを置いた。先生が悔しそうに答案をチェックする。あらさがしをしようとしているのだ。
そう、大喜は。
「ぐぬぬ……正解だ!」
頭よくなってしまったのだ。
大喜が自分の席に戻る。目と目が合いそうになると気まずいから、そうなる前に離す。見ていることがばれるのは、恥ずかしい。
しかし、勉強できない仲間だと思っていたのに。裏切られた気分だった。
それに加えて、千夏先輩ともいい感じらしいし。
『大喜は千夏先輩のこと好きだから』
匡くんの言葉が思い起こされる。
(この間の水族館でつき合ったりしたのかな……)
って、いやいや、何を残念に思っているのだろう、私は。
別に大喜のこと好きじゃないし。友達……友達? だ。でも最近遊ぶとかしてない。ぽつぽつ話はするけど……まあとにかく、恋はしてない。
だから素直に恋が実ったなら喜んであげよう、と自分に言い聞かせていると、やっとチャイムが鳴った。
ほっとため息をつく。
四限の数学ほどやる気がでない授業は果たして存在するのだろうかと思うほどに、つらい時間だった。
さて、ちょっと”やつ”に話しかけに行ってみよう。前々から考えていたお願いもあることだし。
「やあやあ大喜くんや」
「なんだい雛さんや」
え、と思い動きが止まった。
「えっ……」
「? 何だよ」
大喜も私も驚いているけれど、だってこれは仕方ない。
「いや、こういう軽いノリに付き合ってくれると思わなかったから」
「……ああ、そうだな」
根暗大喜は私の冗談をあんまり相手してくれないのだ。この前も部活中目が合って、観覧料二千円を取ろうとしたら苦笑いされた。
「まあ、雛だからな。ちょっと気が緩んだよ」
「何それ」
喧嘩売ってる? と思ったが、そこまで悪い気はしない。気を休められる人と思われているということだからだろう。
「で、今度勉強教えてよ。空いてる日ある?」
本題に入った。
せっかくあんな問題さえすらすらと解ける脳があるのだから、自分のためだけに使うのは勿体ない。
「なんで俺に」
「だって、中間テスト一位じゃん」
そう、学年一位。具体的な点数は知らないが、満点がいくつかあったらしい。
「……空いてる日は、直近ではな──」
「今日部活オフだぞ」
匡くんだ。ナイス横やり援護射撃。
「ありがと匡くん。じゃあ今日で……図書館でいっか」
「おい」
矢継ぎ早に色々と決めて行く。後は……他に参加者を募ってもいいかもしれない。
そう思ったとき、あの、と声をかけられる。
「俺たちも参加していい? 赤点はさすがに回避したいんだ」
「私もわかんない所が……」
「じゃあついでに俺も」
聞き耳を立てていたであろう人々や匡くんが名乗りを上げ始めた。ぽつぽつと参加者が増えていく。
それが七人にもなった。
「よし、じゃあみんなで勉強会しよう!」
「あの……」
なんか大喜が言いたげだが無視。
こういう時の大喜は押せば何とかなるのだ。
実際、恨みがましい目線をひしひしと感じるが、そこまで強いものではない。まあ仕方ないかくらいに思っていると思う。
そんなこんなで、図書館で勉強会をする運びとなった。
*
「ねえねえ、ここってどう解くの?」
なんでまた、こんなことになったのだろうと、質問に返答しながら、思う。
市民図書館。広い所だと勉強用のスペースが空いているから、そこに集まっている。ここなら会話してもいい。
真面目に読書したい人、真面目に勉強したい人、駄弁りながら勉強したい人。この棲み分けがしっかりしているのはありがたい。
ここで我ら栄明一年B組の一部生徒は、勉強会を開いていた。原作でも似たイベントはあった。あれは夏休みの宿題をやるという名目だったが、今回は定期テスト対策だ。
「ねえねえ、どうやったら一位取れるの?」
ああ、また質問が来た。向かいにいる人からだ。
どうやったら一位を取れるかと聞かれたが、何と答えればいいかわからない。とりあえず手探りで適当に答えてみる。
「暗記すればいいよ」
「出た! 頭が良い人の理屈!」
「じゃあ暗記の良いやり方教えてくれよ」
「そうそう。楽で効率の良い方法、なんかないの?」
そーだそーだと周りが同調する。そうは言っても……俺のはチートだから何とも言えない。
なので、適当に思いついたことで茶を濁すことにした。
「……結局、地道に頑張るしかないよ」
「それでもさあ、何かないのかよ。暗記の近道的なやつ」
クラスメイトの一人が言った。
暗記に近道は、たぶん存在しないと思う。
「暗記だと、近道はないな。だから探すべきじゃないよ。近道を模索する時間って、遠回りだし」
そういうと皆ぽかんとする。もう少し言葉を続ける。
教科書をぱらぱらめくり、丁度いいたとえができる問題を見せる。ランナーとゴールの距離がなんだかんだと書いてある問題。
この、距離。ケープくんのボールペンですっとなぞった。
「スタートとゴールがここにある。ここでの近道は、直線を突っ走るだけ。近道なんてない」
わざわざ近道を使おうとしても、直線が一番速いから、回り道になるに決まっている。
「勉強も同じだ。覚えたい所を全部覚えるというゴールまで、走るだけ。障害物もない。ただ直線距離を走るだけだ」
近道が有効なのは、道の途中に邪魔者がいる時だけだろう。障害物が何もないまっさらな場所を進むときは、直線が一番速いに決まっている。
「それなのに考えて立ち止まるなんて、無駄じゃないか?」
勉強の場合。ゴールらしきものは自分で定めて、邪魔者はないトラックの上を延々と走ることになる。
だから近道はない。直線を突っ走るのが一番早い。
「……じゃあ、そこを速く走るためにはどうすればいいの?」
「暗記を効率的にやるにはどうすればいいという話、だよな」
隣に座っていた雛が尋ねた。聞くとうんと頷いた。
それは正直、残酷な答えだが……。
「たぶん、才能だ。才能がないなら、気持ちと熱意とやる気で頑張るしかない」
「……つらっ」
ずーんと面々が落ち込む。
でも、勉強、特に暗記すれば良いだけのものはまだましだ。地道やればある程度の段階までは誰でも進める。
なので励まそうと言ってみる。
「それでも、勉強は楽な方だよ」
正解もあるし、ゴールもあるからだ。社会に出たらどっちもない問題ばかりだ。明確な指針が存在する問題と直面する学生時代が、いかに楽だったか思い知れる。
そんなことを思って言った、勉強は楽な方、だったが──。
「ぎゃあああ! 天才だ!」
「それ猪股くんが才能あるだけじゃん」
「暴力! DVだよ!」
「できる奴はいいよなあ、羨ましいなあ……」
ああ、失敗したなと、感じた。
「……ごめん」
勉強は楽な方と言ったが、普通の人間にとってはそんな訳もない。
そもそも俺は”できる”ことに、慣れてしまった。
俺はチート能力で暗記はべらぼうに出来てしまうからだ。それもすごく簡単に。教科書をだらだらと眺めているだけで、頭にほとんど入ってしまうのだ。
だから高校の範囲は終わっている。暗記するという作業が何一つつらいものではないから。
つまり俺は、いつの間にか勉強することのつらさを忘れていた。
そんな俺が、勉強をつらいと感じる人たちに、楽だと告げる。
(……やはり、終わってるな、ほんとに)
いつものようにそう思った。
そこからは、せめてみんなが詰まった所で助けようと頑張ることにした。さっきよりは幾分か熱心だ。
「ねえねえ、ここなんだっけ」
立ち上がって助けに行って、落ち着いた所で席に戻る。そこで、隣に座っている雛が聞いて来た。
どれどれと問題を見ようとすると、俺よりも先に雛を助けた人物がいた!
「そこはXを代入すればいいんだよ」
「あー……今日やったとこじゃん。ありがと」
雛を狙っている感じの男子だ。
名前は……伊藤。来てたのか。
そういえば原作でも同じような展開があったなと、感慨深く感じる。時々原作を感じると、一ファンとしては楽しいものだ。
そう言えば、伊藤は夏祭りで花火一緒に見ないと誘った後、どうなったのだろう。一切音沙汰はなかったと思うが。
まあ彼には、頑張って欲しいなと思って、俺はまた誰かに呼ばれて立ち上がった。
*
「ああ疲れた、ねえ、雛」
「ほんとにね」
勉強会が終わり、図書館を出た。
雨が降っている。
私たちは傘をさして、勉強のつらさを共有していた。要するに愚痴だ。
ちなみに、大喜は雨が降って来たから、洗濯物をしまいに先に家へ帰ったので集団にいない。
みんな勉強に対する愚痴を語っているが、大喜のおかげでわからない所が無くなったと言っている。ちょっと誇らしく思う。
(大喜もいれば良かったのに)
そしたらきっと、もっと皆と仲良くなれたはず。せっかくの勉強会だ。大喜は匡くんとよく話す姿を見かけるが、他の人と話すところを見かけないから、親睦を深める良い機会だったのに。
皆でこの時間を乗り切ったという連帯感があるから、きっといつもより話しやすいし、仲良くなれると思うのに。
あ、でも途中の才能云々の話はひどい。ややこしいから皆たぶん適当に聞き流したと思うけど、ちゃんと聞いてた私は非常に傷ついた。
「ほんと、なんで勉強しなきゃいけないのやら」
「……ほんとそうだよね」
にいなちゃんが話しかけてきて、思考を止める。
私も、数学とか絶対大人になってから私使わないのになあ、とにいなちゃんと話しながら愚痴った。
すると、にいなちゃんが、そういえばと何かを見せて来た。
「ねえねえ、これって雛の?」
机に残ってたよ、それを差し出される。
「……ボールペン?」
「あ、ケープくんじゃん。ペンギンが有名なとこ」
近くにいた伊藤くんが言った。ケープくんの柄が入ったボールペン。ケープくんは、ペンギン。
(それって、水族館? まさか……大喜のじゃ……)
全く、先輩との大事な思い出の品を忘れていくなんて、けしからん奴だなと思う。
仕方ない、勉強会に無理に誘ったお詫びをしよう。
「多分大喜のだよ。家知ってるから届けて来る」
そんなことを言って、ボールペンを受け取った。
そして、ありがとーとまた明日を預かり、すぐにお返しをして、集団から外れて住宅地へ。
猪股家には中学の頃に何度かお邪魔した覚えがある。記憶を頼りに歩いていけば、懐かしさが頭を刺激した。
(たぶんここら辺な気が……)
あ、あれだ。
普通の一軒家。ますます懐かしさが増した。とりあえずピンポンを押そう。大喜はさすがに家にいるはずだし。
そう思って近づいてみると、話声がする。なんだろう。
「梅雨はじめじめしてイヤだね」
「そうですね。俺は一番嫌いかもしれない」
この、声。大喜と、もう一人。女の、人?
塀の向こうを覗く。
「……え」
(千夏、先輩……?)
縁側だ。二人の人がいる。確かに千夏先輩だ。そして大喜。二人が、なんで同じ家で。
(なんで大喜の家──そこまで進んでるの!?)
だって仲いい二人が、家の庭で話すって同棲つまりはえっ──少し、落ち着こう。カームダウン。
(さすがに、ない。大丈夫。そんなことしない、あの二人は)
大喜とか絶対堅物だし手を出すとか結婚するまでできなさそうだし大丈夫、と自分を落ち着かせる。心臓がすごくうるさい。
(とにかく、今は退散──ってできるか!)
私は、唐突にジャンプしながら、口を開いた。
「やいっ、いっのっまったっ、たいきっ」
ぴょんぴょん跳ねながら言う。塀の向こうの庭にいたのは、やはり大喜と千夏先輩だった。二人は当然、私に驚いている。
「えっ」
「……雛?」
「これはどういうことでいっ」
飛ぶのをやめた。
「最近ちょくちょく話したりして、水族館とか行ったりしちゃって、しまいには同じ家に」
そして門まで歩いて、体を出す。
「二人のことを、説明してもらおーか」
*
「ふーん……千夏先輩の家族が海外へ転勤になって、でもバスケを続けるために残った……ねえ」
「……はい」
猪股家──大喜の部屋。
大喜を正座させ、私は回る椅子に座って、冷たい声色でぽつぽつ言葉を落としていく。大喜は縮こまっている。
「……皆には、黙っておいてくれよ」
「は? いわれなくても黙りますけど」
無性に苛立ち、さらに冷たく返す。
この大喜という男、運動も勉強も出来て彼女もいるみたいなのに、他人に対する気遣いまでできるのだ。
コミュ力を失わなかったら完璧だ。恐ろしい。
「で、仲良くなってつき合ってるんだ」
核心を突いた。
しかし大喜の返事は意外なものだった。
「いや、そういう訳じゃ……」
「……? 両想いでしょ。向こうが水族館に誘ってくるくらいだし。なんで付き合ってないの?」
割と意味がわからない。大喜は先輩のことが好きで、同居もしてて、先輩もたぶん大喜のことが好きなら、つき合わない理由などないと思うが。
「あれはただの、交友を深めるためというか……先輩が気を遣ってくれたというか……」
どういうことかまるでわからない。千夏先輩は大喜のことが好きじゃなかった?
「……? でも、他にもどっか行ったりしてるでしょ」
つき合ってる感じではないけど、二人の距離は他人のものじゃなかった。でも大喜は距離置いてる風に見えたかも……?
「いや……ああでも、最近、朝、一緒に走ってるくらい、です……」
「それは、なんで?」
「千夏先輩が走ろうって……」
ということは、やっぱり……。
(千夏先輩が、大喜のことを好き……)
そういえば体育祭でも借り物競争とかあった。リレーの大喜もかっこ──いかないけど、頑張ってた。
普段部活中も真面目だし、惹かれる要素は、けっこう、ある。
その上、同居。距離が縮まらない訳がない。
事実水族館に誘っているのだ。ほとんど間違いない。
でも、つき合わないのはなんで? どう考えても両想いだろうし。同居中は駄目みたいな取り決めがあるとか?
匡くんは確かに大喜の好きな人が千夏先輩だと──いや、まさか。
「大喜は」
そのまさかを、口に出して見る。
「でも大喜は、好きなんでしょ? 千夏先輩のこと」
「いや、それも、匡の早とちりというか……」
──っ。
「俺が、その、口下手なせいで、勘違い、されてると、思う」
「……なんで好きになってないの?」
大喜は、顔を下に傾けて言った。
「つりあわないし、申し訳ないから」
思わず、口角が上がった。
「……どうした、にやにやして」
「べつに、かんけーないでしょ」
私の問題だから、と言って、ぐるぐる回る椅子を使って背を向ける。
そしてにやにやが収まった頃に戻って、こほんと咳払いした。
「……よし。えー、主文、判決をいいわたす」
いつから裁判になった、と大喜が言う。
「被告は反省の様子がそこそこ見られる。先輩との距離も話を聞けば適切に取っているように思える。よって情状酌量! なので無罪!」
ありがたき幸せ、と大喜は言った。自分でやっていてどういうノリなんだろう、これは。
そして、そこからは適当に駄弁り、大喜と先輩からお見送りを受けて、猪股家を出た。
まだ雨が降っている。
私は傘をばさっと開いて、歩き出して、角を曲がって、ふと、思った。
「……チャンス、あるかな」
……って、何考えてるんだ、私。
いやいや、大喜だよ。
まあ、昔はいいなって思ったり思ってなかったりだけど、今は根暗だし。
でも、優しい。真っすぐ、前ばっかり見てる。
それに、千夏先輩のことを、好きだと思ってない。
(もしも、もしも、つき合えたり、したら……)
相合傘とか、いいかもしれない。
少し小さめの傘がいいな。大喜は優しいから私を濡らさないようにする。でも、私も大喜を濡らしたくないから、それなら二人とも少し濡れようなんて、本末転倒なことをして。
その隣で、笑いながら、私も前を向けたら──って。
「うわぁ!」
感情が爆発してぼわんと弾けた。
なに私いってるんだろう忘れたい。すごい恥ずかしい。
よし、忘れよう。私は一人で大丈夫……独りでやっていけるよ、蝶野雛様だから……よし大丈夫だ。
でも、と気づきたくないのに、私は気づく。
雨で憂鬱なはずの足取りが、不思議と軽くなっていた。
その軽くなった理由を、私は絶対に考えないようにしようと決意して、傘を回しながら歩いた。
*
猪股家、二階。
俺は窓から、雛の傘が見えなくなるまで見送ってから、カーテンを閉じた。
そして、ため息をつく。
原作通り雛に、同居がばれてしまった。まさかボールペンを届けに来るとは。いつか原作通りにばれるのではと冷や冷やしていたが、まさか今日、別の方向から来るとは。
しかし、本当に。
「……どうすれば、いいんだろう」
雛を見ると毎度のように思う。思ってしまうのだ。
──雛に、幸せになってもらわなくていいのか。
千夏先輩だけを、特別に扱うのか。
「……」
先輩へのそれは、大喜くんに報いるためにやっている。罪滅ぼしで、好きな人をせめて幸せにしようと動いている。
じゃあ、他の人は?
猪股家の人々。匡。針生先輩ら部活の人々。その他これから関わる人間。
彼らが大喜くんにとって大事でないはずがない。この人たちを先輩と同じように扱わなくていいのか?
正直、これは不可能だと諦めている。余りにも膨大な数になる。
だから千夏先輩だけに注力しているのだ。
それにそもそも皆たぶん、勝手に幸せになるだろう。
ただ先輩だけは、俺が動かないと駄目だという場面が”二度”ある。一度目は終わっているから、あと一回。
そういう訳で部活もまだ辞められない……話を戻す。
では、雛はどうなのか。
蝶野雛という人間の幸せは、どうだ。
他の人々の”幸せ”はある程度普通のものだ。頑張ればきっと実現できるはずだ。俺が何かする必要はきっとないのだ。
でも、雛は違うと俺は思う。
雛の幸せを考えた時に、必ず浮かび上がるものがある。
『大喜と、恋人になること』
きっとこれだ。新体操で世界一になることとか、りんご飴を食べるとかも、幸せの一つかもしれないが、最大の幸せといったら、きっとこれなのだ。
「でも、それは絶対に叶うことはない」
だって、大喜くんはもういないから。
俺に、なってしまったから。
だから、頼むよ。早く気づいて否定するんだ。
怒るんだ。悲しむんじゃなく、怒りを示すんだ。
「お前は、大喜じゃない、って」
そして、雛が大喜くんのことを完全に諦めることができたら、たぶん、雛は自分の幸せを見つけられるはずだ。
大喜くんに恋をするから、雛はつらくなるのだ。それさえしなければ、雛は誰よりも幸せになれるはずなのだ。
妙にずきずきと痛む足を気にしながら、俺は祈った。
「頼むから、傷つかないでくれ」