暗闇の中でアラームがけたたましく鳴り響いて、赤や青のイルミネーションが瞬いている。男は気だるそうに上半身を起こし、アラームを止めた。アラームはあと3時間ほどで目的地に到着することを知らせていた。
まだ、スローピル(代謝を極端に低下させ、時間間隔を鈍感にさせる極めて安全な薬物の一つ)の効果が抜けきれていないため、ぼんやりする頭で男は前方の壁をなんとはなく眺めていた。
しばらくするうちに自分が何をしに来たのかを彼は思い出した。
「そうか、約4週間の船旅がもう終わるんだ……」と、彼は暗い部屋の中で独り言のようにつぶやいた。
ここは排水量12000トン、乗客数240人の長距離宇宙客船の一等客室で、狭く質素ではあるものの最低限の家具や生活設備が備えられた個室だった。
今いる部屋の下層の二等寝台には、冷凍睡眠(コールドスリープ)モジュールがあり、そのモジュールで乗客は旅の間、冷凍仮死状態にされ眠ったまま過ごす。
運賃はかなりリーズナブルな値段で、生活に少々厳しい市民であってもやや余裕の持てる船旅ができる程度の値段だった。
彼はこの船旅のために少なくない借金をしたが、下層の二等寝台に入るのだけは絶対に嫌だった。下層の人々と一緒とみなされることを恐れるからではない。この世界ではコールドスリープは確立された技術ではあったが、完璧ではなかった。
厄介なことに蘇生に失敗する可能性が僅かにあるのだ。それは、日常生活を送る分には全く無視していい確率ではあったが、失敗すればこの世から永久に退場するはめになる。
蘇生に失敗して乗客が死亡したところで、遺族は船会社を訴えたりしない。リスクを承知で乗船する書類にサインしているし、保険制度も充実しているからだ。
それに、蘇生に失敗する件数は年間100万件あたり50件程度で、蘇生に失敗する確率は極めて低かった。だが、彼の今回の船旅は特別だった。目的を達する前にこの世からおさらばするわけには行かない。
彼は目的地から1200パーセクも離れた地方の星域(セクター)の出身で、その地では少しばかり名の知られた数学者だった。
専門は「サロゲートカオス理論」。データの特徴を統計的に調べ、数学的なカオス処理を行うことによってデータの傾向を探る学問である。
彼は片田舎の地方の一数学者に過ぎなかったが、今回たまたま彼の論文を目にしたある著名な学者からお声がかかったのだ。
これは彼にとって一生に一度あるかないかの望外のチャンスだった。地方にいても学問はできるが、もし、帝都で研究ができるとしたら……
なんといっても情報リソースが辺境とは段違いだ。テクノロジーが成熟しきっていて恒星間航行がごく普通のこの時代にあっても、オールドストレージ(紙なども含む)で保存された情報が山積みされているのは銀河広しとはいえ、この帝都『トランター』以外にありえない。
それに彼に声をかけたのは、心理歴史学を創立したあの社会科学者『ハリ・セルダン博士』とあってはなおさらだ。だから、彼は少々無理をしてもここが『投資』の機会だと判断して、借金をしてこの宇宙客船に乗ったのだった。
彼は霧の晴れない頭を振ってベッドから離れ、熱いシャワーを浴びて身支度を整えた。船室を出て展望台に来ると満天の星空が彼を出迎えた。周りを見ると何人かの人たちが彼と同じように船外を眺めていた。
彼は、そのまましばらく星空を眺めていたが、そのうち船内放送が流れ始めメッセージを伝えた。
「当船は約2時間ほどで帝都トランターに到着いたします。安全確保のため、到着1時間前からは船室から出ることはできません。ご協力をお願いいたします」
放送が終わるやいなや、展望台の強化ガラスの表面が次第に灰色に変化して星空が見えなくなった。いきなり船外が見えなくなったことに、人々は不平を言いながら自室へと戻っていった
マイケルは、突然船外が見えなくなったことに戸惑い、近くを歩いていた客室乗務員に「なあ、君、どうして船外が見えなくなったんだ」と声をかけた。
声をかけられた初老の客室乗務員は微笑みながら、「当船は帝都トランターの昼の面に着陸するからです」と答えた。
マイケルは訝しげに「昼の面?」とつぶやいた。
客室乗務員は、トランターに向かう客船なのになぜトランターのことを知らないのか怪訝そうな表情をしたが、すぐに職業意識が表情を仕事の表情に塗り替えた。
「トランターは金属コーティングされた惑星なんです。地面が見えるのは宮殿付近だけですよ。金属表面が太陽の輻射熱と光を反射させるので、惑星を直接見ると目に障害が出るんです」と客室乗務員は丁寧に説明した。
彼はその説明を聞いて、なるほど……と言ったきり、何か考え込むかのように黙り込んだ。客室乗務員は乗客の沈思を邪魔する意図はなかったので、一礼してその場を立ち去ろうとしたが、すぐに彼に呼び止められた。
「ありがとう、君。これを……」といって、男は5クレジット紙幣を客室乗務員に差し出した。
客室乗務員は戸惑った表情で「いえ、これも業務の内です。お気遣いは無用です」とその差出しを断ったが、 「いいから、取っておきなさい」と半ばねじ込むように男は客室乗務員のポケットに紙幣をつっこんだ。
客室乗務員は自分より二回り以上も年下であろう男にそのような真似をされて、少々不快に思ったものの、「ありがとうございます」と一礼してその場を後にした。
彼の名は『マイケル・ブランダバス』。癖のあるバートンアンバーの髪、オイスターホワイトの肌にやや暗めのゼニスブルーの瞳。ハンサムと言えなくもないといった風貌で、寝癖をそのままにするようなずぼらな部分を改めれば、もう少し異性から関心を持たれていただろう。
当年で35歳、もう若者とは言えなかったが、気力体力ともに充実しており、すこぶる健康体だった。
ただ、彼もよくある学者の例にもれず、自身のほとんどのエネルギーを関心のあるものに注ぎ込むくせに、周りにはほとんど関心を払わない悪癖を備えていた。
そのせいで、彼は自分の意図に反して周りの人間を不快にすることが少なくなかった。始末に負えないのが、彼にその自覚がなかったことである。
5クレジットを強引に客室乗務員のポケットにねじ込んだ彼の『善意』は、初老の客室乗務員のプライドを少しばかり傷つけた。
彼が自分の数学の専門性に自負があるように、客室乗務員には客室乗務員のプロ意識があるのだ。彼にはその想像力が欠けていた。一言でいえば、少々空気の読めない男というわけだ。
彼は直前に会話していた客室乗務員など最初からいなかったかのように、帝都トランターにおける自分の活動についてあれこれと考えを巡らし始めた。
それは、客船がトランター到着まで一時間を切ったため、自室に戻るようにうながす船内放送が流れ始めるまで続いた。