3.72%の少女   作:六位漱石斎正重

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 ジェシカがマイケルの帰りを待つためにホテルと自宅を往復するようになってから3日が経過していた。
 祖父とマイケルの帰りを待つためにホテルと自宅を往復するジェシカ。そんな中、ジェシカはホテルのドアマンと知己を得る。彼は雄弁とは程遠い人物だったが、ジェシカはドアマンとの距離感に居心地の良さを感じるのだった。
 ある日、ジェシカはいつものように何も情報が得られずに帰路に就くが、彼女はひそかに自分の後をつける者たちの存在に気が付く。ジェシカの取った行動とは……



第十六話 待ち人来たらず

 鮮やかなクリムゾンレッドの制服を着用したホテルのドアマンは長い年月を経た硬い花崗岩のような風貌を持つ初老の老人で、ホテルのフロントマネージャーとは異なりわずかにであっても表情を和らげるようなこともせず、だがぶっきらぼうというわけでもない。ただ一徹に生真面目な表情を顔に張り付け、ジェシカには顔を向けず正面を向いたまま彼女に話しかけた。

 

「本日もブランダバス様はお戻りになっておりません。今日もここでお待ちになられるのですか?」

 

 それを聞いたジェシカはわずかに悲しそうな顔をして、「ええ、どうせほかにやることもないし……」と答えた。

 

 ジェシカはドアマンに対しては自身の名前は告げず、自分はハリ・セルダンの孫娘で、ここで立っているのはブランダバス博士の帰りを待っており、祖父の『計画』について話すことがあること、それだけを伝えていた。

 

 ドアマンはマネージャーとは違って少女を無造作に追い払うようなことはせず、彼女がドアを挟んで自分の向こう側に立っていても彼女のことを詮索せず、必要最低限の時しか口を開かなかった。

 自分の仕事に影響がないと分かっていれば彼には十分だったし、職業意識もあるのだがそれは彼の彼女に対する一種の気遣いで、その距離感にジェシカはかすかな心地よさを感じていた。それにこの人は私を一人前の『レディ』として扱ってくれる。それが彼女にはうれしかった。

 

 自分はどういうわけか老人にモテる、そのようなぼんやりとした自覚が彼女にはあった。だが、それは人としての器であるというような傲慢な考えは彼女にはなかった。

 この年頃の少女達にはよくあるように、自分の容姿にひきつけられている相手の気持ちを利用して優位に物事を進めよう、いやむしろ私のような若い女がアンタのような私のレーダーに影すら映らない男と『付き合ってあげてやる』、といった意識を持つ少女たちは少なくない。

 

 ジェシカの場合、目上の人たちが彼女のために何かと骨を折る機会が何度か見られたのは、少なくとも表面上は、彼女の言動にそのようなあざとさや邪心が見られなかったせいなのかもしれない。

 

 あからさまに優遇を求める態度を示されると人は不快を感じるものだが、ジェシカのようにそれを全く示さない相手だと、不思議なことに逆に何とか助力したくなる。

 

 すでに二人の子供が成長して手を離れ、妻には先立たれた初老のドアマンは、自分の業務以外に手間がかかることは一切抱えておらず、金銭的にも極度の贅沢にふけるようなことがない限り、まずは余裕のある暮らしができた。

 つまり悠々自適な生活を送っていたわけだ。だが、彼は無論そんな様子はかけらも見せず、その表情は固めたコンクリートのようにかすかな揺らぎすらなかった。

 

 ドアマンは途中宿泊客をホテルに出入りさせるためにドアを開閉し、客に話しかけるとき以外は一切口を開かず、ジェシカも無言のまま立ち尽くしてホテルの正面の道路に顔を向けたままだった。

 

 二人はそうやって3時間ほどを過ごしていたが、その内唐突にジェシカは両手を頭の上に向けて大きな伸びをし、微笑みながらドアマンに顔を向けて話しかけた。

 

「自己紹介がまだだったわよね? 私、社会科学者のハリ・セルダンの孫娘、ジェシカ・セルダン。よろしくね」

 

 そういって少女はドアマンに手を差し出した。彼は直立不動で正面を向いたまま、横目で自分に差し出された少女の白い手をしばらく見つめていたが、正直な話彼は急な出来事に戸惑っていた。

 

 ずいぶん長いことこの仕事をしているが、彼の記憶に残っている限りドアマンに自己紹介をする人間などただの一人もいなかった。

 宿泊客の名前は知っていてもドアマンたる自分は無名であること、これが彼のプロ意識でもあったのだが、目の前で自分の手を差し出す人間は、彼のこれまで出会った人物履歴の中には存在しなかった。

 

 彼は数秒間心の中で逡巡したあと、ジェシカの方へ体を向けると彼女の手を握って表情一つ変えずに自分の名前を告げた。

 

「ダニエル・グラディウスです」

 

 ただ一言自分の名前を告げ、彼はすぐに体を正面に向け再び直立不動の姿勢に戻った。ジェシカは彼のそんな様子を見て「あ、今ちょっと表情が変わった!」と彼をからかった。

 そして「私、今日はこれで帰るね」と彼に告げてドアから離れた。彼はそれには答えず、正面の道路に顔を向けたままだったが、ジェシカは数歩歩いたところで立ち止まり彼の方に向きなおると、ドアマンに再び声をかけた。

 

「ねぇ、グラディウスさん。ちょっと笑った方がいいよ? 私、さっきあなたが見せた表情にちょっとキュンと来ちゃった」

 

 ドアマンはそれに応えるべきかどうか迷ったが、結局彼は無言で正面の道路に目を向けたままだった。

 

 ジェシカは返事がないことをほんの少し残念に思ったものの、彼から返事が返ってくるのをあきらめて自宅へと歩き出したが、ジェシカが3、4歩ほど歩いたとき背後から唐突に声がかかった。

 

「ジェシカ様! 帰り道に気を付けて」

 

 それを聞いたジェシカは一瞬きょとんとした表情を浮かべたもののすぐに彼の方を振り返った。ジェシカはあふれんばかりの笑顔で「グラディウスさん、またねー」と叫んで大きく手を振ったあと、家に向かって走って行った。

 

 ドアマンは正面を向いたまま横目で少女の後姿を見送った。そして少女の姿が見えなくなると、まっすぐ正面を見つめたまま、固く結ばれた唇を普段使うことのない表情筋を使ってほんの少し横に引っ張ってみた。

 

 慣れない表情筋の使い方で右のほほの筋肉がピクピクと痙攣する。彼はそうやってしばらくの間、慣れないことに取り組んでいたが、どうあっても自分には向かない作業だと思い、あきらめてすべての表情筋から一切の力を抜いた。

 

 その瞬間、彼の顔には今まで浮かべたことのない柔和な表情が宿った。それは亡くなった彼の妻を始め、彼の子供たちも一度たりとも見たことのない表情だった。

 だが、それはほんのわずかな時間に現れた『奇跡』で、彼の表情はすぐに元の花崗岩質の硬い表情に変わった。彼はその日、普段の日より少しだけ気分を明るくして過ごすことができた。

 

 セルダン宅に戻る途中で、ジェシカは自分の後をつける者たちの存在に気づいた。頻繁に背後を振り返っていたわけではない。

 命を狙われている場合ならともかく、そんなことをすれば却って周囲の注意をひきかねない。一時的に追跡者の存在を排除できても、それをはるかに上回る数の人々が不自然な行為を繰り返す彼女に興味を示し、しばらくは彼らが彼女を()()することになるだろう。

 

 駐車中の車両のバックミラーやショーウィンドゥに映るもの、自分と逆方向に歩いていく人々の様子、自分と会話している相手の瞳に映る自分の背後の光景。あからさまに後ろを振り返らなくても、背後の様子は様々なことで知ることができるのだ。

 これらはジェシカに叩き込まれた都市型サバイバル技術の成果で、彼女にとってはほぼ習慣化された行為だった。

 

 通りの右側の歩道を歩いていたジェシカは通りのブロックの角を右へ曲がって歩き続けた。そしてすぐ先のブロックの角をさらに右に曲がって歩く。それを再び2回繰り返した後、角を曲がったすぐのところで壁に背を預けて立ち止り、キャップを目深にかぶると横目でビルの左角を見つめた。しばらくすると、通りの角の左側から二人組の男たちが姿を現した。

 

 彼らはジェシカの姿を見てかすかに驚愕の表情を浮かべたが、すぐに顔をそらして、彼女の前を通り過ぎてそのまままっすぐ歩いて行った。

 ジェシカには二人の男たちの表情が確認できなかったが、二人とも彼女の姿を見た途端、ほんのわずかに左肩が上がった。左わきに銃器を仕込んでいる者の典型的な反射行動だ。どんなに隠そうとしても長年の訓練による体の動きを消すことはできない。

 

 ジェシカはクスッとかすかに笑ってそのままブロックの角に立ち尽くした。本来ティーンの少女が通りの角に立ち尽くすのは非常にリスキーな行為だ。

 

 共に一夜を過ごす相手を見つけて通りをうろつく男、合法とも非合法とも言えない法律ギリギリの怪しげなドラッグを売る売人、帝都の秩序を守るのは自分達だと妙に張り切る治安維持警察官、こういった連中がジェシカに話しかけては立ち去っていく。ジェシカは30分ほどそういった連中を適度にあしらった後、再び歩道を歩きだした。

 

 TO(訓練担当官)は力を使って解決するのは下策の中の下策、そういう短絡的な輩は力によって滅びると教え、賢者は力の行使を最終手段として使うと何度もしつこく教育した。TOは簡単な会話で現状を改善できるならそれが最も経済的で最適な解決手段であると伝えたかったのだ。

 

 ジェシカは帰路を毎日変えている。どうせ帰る場所は決まっているのに無意味な行動だと彼女には分っていたが、無意識でも行われる行為でなければ訓練をする意味がない。

 訓練した成果を発揮できなくても良いのだ。肝心なのは『いつか起こるかもしれない』事象に対応できる準備をしておくことなのである。

 

 こうしてジェシカはしばらくの間、帝国コンフォートホテルに出向いてはドアマンと取り留めもない会話を二言三言交わして、得るものもなく帰宅する生活を送った。

 

 夜はダイニングキッチンで椅子に座って夜遅くまで祖父の帰りを待っていたが、いつまでたっても祖父は帰ってこなかった。

 

 祖父とマイケルがジェシカの前から姿を消してから5日ほどたったころ、彼女は帝国コンフォートホテルのドアマン、ダニエル・グラディウスから驚くべきことを伝えられた。

 

 『ブランダバス博士がホテルの部屋を引き払った』というのである。しかも本人は姿を見せず、彼の代理人と称する者たちが彼の私物を持ち去ったという。

 ジェシカは詳細を聞きたがったが、グラディウスはこれ以上の情報を持ち合わせていなかった。仮に知っていたとしても、守秘義務があるため話すことはできなかった。

 

 意気消沈して肩を落として去っていく少女の後姿を見て、グラディウスはかすかに心を痛めたがどうすることもできず、彼女の後姿を見送ったのだった。次の日からジェシカはホテルに姿を見せなくなった。

 

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