小高い丘の上でハリ・セルダンは風に吹かれて遠くの光景を見つめていた。やや強い風が彼の体の周りを吹き抜けていたが、無論、これは人工的に生成された風だった。
帝都トランターは半ば人工天体のようなもので、その地表は宮殿付近を除き大気には露出していない。すべての人々は、測定する気が失せるほどの膨大な質量の金属外壁の内側で暮らしているのだ。
金属外壁は偏光性のあるガラス質状の特殊金属でできており、必要に応じて『昼』の間は外壁に透明度が増すように調整されている。
セルダンがそうしてしばらく遠くを眺めていると、彼の背後から遠慮がちに女の声がかかった。
「いつ来ても、いいところよね……目に入るもののすべてが人工的なのが残念だけれど」
「ああ、人はやはり自然とともに生きるのが理想の形なのかもしれんな」
そう言うと、セルダンは背後を振り返った。禿げ上がった頭の上にわずかに残った髪の毛が風で宙に舞う。彼は微笑を浮かべ女に話しかけた。
「よく来てくれた、クレア」
セルダンが話しかけた女は、美しいアイスブルーの瞳を持つ初老に近い女性で、すその長いチャコールグレイの布地に白い小さな花柄の入ったワンピース、グレージュのショートヘアがパールホワイトのクロッシェ(主に女性用ハットの一種)の中に納まっている。
風がやや強いため左手で日傘を胸元に寄せるようにし、風に飛ばされないようにクロッシェを右手でおさえつつ彼女はセルダンを見つめていた。
「それで、ご用件は何?」クレアが問いかける。
「うん……その、本当に君に……テルミナスに行ってもらうということでかまわないのかい?」
クレアは少し驚いた表情をしたが、すぐにそれは怪訝そうな表情に変った。彼女が口を開く。
「このことはあなたが<大学>にいた時、私たちで散々話し合った事でしょ、今更どういうつもり?」
「やっぱり私のエゴを押し付けているだけなんじゃないか、と……」
セルダンがそう言いかけると、クレアはすぐにその後を引き継いだ。
「そうよ。そのあなたのエゴのために私はテルミナスへ行くの。でも、これはあなたが望んだことでしょ?」
そう言って彼女はまっすぐにセルダンの目を見つめたが、彼は何か眩しいものでも見るかのように視線を逸らし、すまないと一言つぶやくと黙り込んだ。
クレアはセルダンのその様子を見ても何の表情も表さず、再び口を開いた。
「私は『子供を産めない』し、『受信』の能力があるだけで『干渉』能力があるわけじゃない。私がここに残っても『組織』の役には立たないわ」
それを聞いたセルダンの表情は悲痛に満ちていた。そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「……いや、ワシは君がここで役に立てないから向こうへ行ってもらおうと思っているわけじゃない」
「そんなことはわかってるわよ……あなたが創設した『心理歴史学』に精通した人員が向こうで必要になるんでしょ? しかも隠密で行動できる科学者が。そのためには強力な能力は持たないけれど『相手の心が読める』人間のほうが都合がいい。そうよね?」
「ああ……でも君の発言は一つだけ間違っているところがあるな」
「?」
「心理歴史学は『ワシが創設した』んじゃあない。ワシと君とで作り上げたんだ」
クレアはそれを聞いても特に感銘を受けた様子もなく、フンと軽く鼻を鳴らし、それは大変光栄ねと皮肉交じりに答えた。
二人はしばらくの間黙り込んだが、クレアが再び口を開いた。
「私は自身の青春を全て心理歴史学に捧げた事について、間違っていたとは今でも思わない。あなたが私に振り向いてくれなくても私は幸せだった。あなたと二人で研究を続けることができたから……でも……心理歴史学の骨子が完成したころには、私はすっかり年を取ってしまっていた……」
そう言ってクレアは目を伏せた。そんな彼女にセルダンはおずおずと声をかけた。
「当時の君は輝くばかりの美しさだったが、それは今でも色あせていない、とワシは思うが……」
「だったらどうして! ……どうして私をあなたの伴侶に選んでくれなかったの?」そうクレアは叫んだ。悲痛な表情だった。
急に大声を発したクレアの剣幕に戸惑いながらセルダンは絞り出すように言葉を紡いだ。
「当時は『パット(パトリシアの愛称)』の子育てもあったし、忙しすぎた。いやそれだけではないが、ワシは自分で組みあげた方程式の解が帝国の滅亡を示していると知った時、帝国滅亡後の残滓の中で塗炭の苦しみを味わう人々の姿をワシはその中に『見た』んだ。その瞬間からワシ個人のプライベートの時間は存在しなくなったんだよ」
それを聞いたクレアは、心底軽蔑したような視線をセルダンに向け、皮肉交じりにそれに答えた。
「あら、ご立派なエヴァンジェリスト(伝道者)だこと。神様にでも選ばれたつもり? あなたは確かに稀にみる天才だけど、自惚れが過ぎると自分で思ったことはない?」とクレアは蔑むような表情で言った。
「自惚れているわけではないさ。無論、ワシは天才ではないし神など信じない。ワシは神にではなく、『数学』に選ばれたんだ。それも単なる『偶然』によってな」
いつのまにか風は微風になり、二人の身体のまわりを心地よいそよ風が吹き抜けていく。それを肌で感じながらクレアは再び口を開いた。
「別に私はあなたに選んでもらえなかったことに対して不平を述べるつもりじゃないの。そんな小娘のような感覚はとうの昔に消え失せてしまった。でもね……私が……私がどうしても許せないのは、なぜあなたが『パトリシア』の気持ちに応えてあげなかったのか、ということよ!」
「何を言ってる? 『パトリシア』はワシの娘だぞ?」
「でも、血はつながっていない……彼女は養女でしょ、そうよね?」
それを聞いたセルダンはかすかに驚いたような表情を見せたがすぐに目を伏せ、いつから知っていたんだ? と一言つぶやいた。
「いつからも何も最初からわかっていたわよ、そんなことは。ある時あなたは突然8歳くらいの汚い身なりの女の子を自分の家に連れてきて僕の娘だって言って家に住まわせたけど、それにしては顔があなたと全然似ていないし、そもそもあなたみたいに女心に鈍感な奥手の男性が、いきなり自分の娘だ、隠し子だ、って言ったって納得できるわけがないじゃない」
「あなたは『計画』の遂行に関する決定打を欠くと常日頃悩んでいた。心理歴史学の適用対象は、その作用を自覚していない集団であることを前提としている。そのまま放置すれば集団はカオス的に振る舞い、予測が極めて困難になる。そこでそれを修正し予測の範囲内で挙動するように矯正するための学問が心理歴史学というわけね」
「ただ、集団の『揺らぎ』が小さい間は心理歴史学で充分カバーできるけれど、『揺らぎ』が手に負えなくなるほど大きくなった場合、打つ手がなくなってしまう。それこそ、銀河系全体に影響を与える因子が存在しない限りね。そこで私はピンときたの。あなたが単なる気まぐれで何の関係もない少女を『善意』で引き取るはずがない。つまり、この子は……
クレアの話に耳を傾けていたセルダンはその間一言も発しなかったが、しばらくして重い口を開いて彼女に自分の想いを伝えた。
「パトリシアを一人前の女性にし、あの子の能力を全て引き出せたのは君のおかげだ。君には本当に感謝している」
「そうね。狼少女のような女の子に女性としてのマナーを身に着けさせるのにずいぶん苦労したし、彼女の能力開発の相手をするために自分自身にも様々な薬品を投与して多くの苦痛を味わったわ。でも苦労したおかげで私には『受信』能力が発現した。残念ながら『干渉』能力は開花しなかったけれどね。結局三十歳過ぎてからの訓練では遅かったのよ、たぶんね」
クレアはそう言うと皮肉めいた表情を浮かべながらセルダンを見つめた。
「でも私の身体を使って得られた実験データは『組織』の訓練メニューの設定に一定の方向性を示した。投薬やきつい訓練のせいで、三十代半ばには生理もなくなってしまったけれど、私は自分で決めた行動について一切後悔はしていないわ」
「だが、どうしてそこまで……ワシのためか?」
セルダンがそう控えめに尋ねると、クレアはやわらかい笑みを浮かべ一瞬の間を取ったが、その口から出てきた言葉は辛辣なものだった。
「自惚れないで! あなたのためなんかじゃないわ。パトリシアのためよ。いつもあの子の心の中にはあなたがいた。それが私にはわかった。だから私は黙って身を引いたの。私はあの子が心に秘めている想いを遂げさせたいと思って、自分にできることは何でもやったわ。あの子も少しでもあなたに認められたいと必死だった。既に最初から強力な能力を持った異能者だったにもかかわらず、あの子は効果の不明な薬品を私と同じように自分自身に投与した。極限まで高めた精神集中を何時間も継続して数日間気を失ったままだったことさえ何度もあったわ」
そこまで話すと、クレアはその時のパトリシアの姿を思い出したのか、つらそうな表情を浮かべ押し黙った。
セルダンは重々しい沈黙の時間が流れる中、何も言葉にできずうつむくことしかできなかった。しばらくするとクレアは再び口を開いた。
「あの子は日に日にやつれていって、見るのもつらい姿になっていった。それでも一日でも早く『組織』を立ち上げるために、どう考えても無茶な実験をあの子は続けていた……自分の死が訪れる直前までね……知らなかったでしょ、あなたはそんなことすら」
「……」
「パトリシアがなぜ無茶な実験を行って自分を追い込んでいるのか、その時の私は不思議に思ったのだけれど、あの子の様子をずっと見ている内にその理由が私にはわかった。パトリシアは小さいころから強力な『干渉』能力を持っていた。あの子自身の能力を持ってすれば、あなたの感情を捻じ曲げて自分に好意を持たせることは容易にできたはず……でもあの子はそうしなかった。その理由があなたにわかる?」
セルダンは答えに窮し黙ったままだった。クレアは彼から返答が出てくることは最初から期待していなかったかのように話を続けた。
「全てあなたのためよ! あなたを愛していたからよ。あの子が欲しかったのは人工的に捻じ曲げられた歪んだ愛情なんかじゃない。自然に生み出される真の愛だったのよ!」
「ワシだってパットを愛していたさ……」
「……『計画』に関わる重要な人材としてね」そうクレアは冷淡につぶやいた。
「違う! ワシは……パトリシアの事を本当に自分の娘として……」
セルダンは真剣な表情で言葉を吐き出したが、クレアは頭を振って憐れむような目で彼を見つめると話を続けた。
「そんなものをあの子が求めていたと思う? あなたを見つめるパトリシアの目は、女の目以外の何物でもなかった。長年あの子と一緒に暮らしてきたんだから思い当たることがあるはずよ? 知らないとは言わせないわ!」
「……」
二人はそのまま黙り込んだ。気が付くといつのまにか気温が下がっており、波長の長い光で赤銅色に染まった太陽が地平の果てに沈みかけていた。
太陽が地平に完全に溶け込んだ頃、再びクレアが口を開いた。
「まあ、老い先短い老人をいじめてもしょうがないから、今日のことろはこれくらいで解放してあげる」
「ひどい憎まれ口だな……」とセルダンが力なく笑うと、クレアは突然鋭い視線を彼に向けた。
「ハリ……あなた肺を病んでいるわね?」とクレアはつぶやくように問いかけると、セルダンはなぜそのことを? と驚いたが、君には隠し事はできんなと言って歪んだ笑みを浮かべた。
「それで、いつまでもつの?」
「主治医の話だと、1年……もって2年だそうだ」
「そう……まあ、とにかく私は予定通りテルミナスへ行くわ。パトリシアが命をなげうって守ろうとしたあなたの『計画』を遂行するために……」そう言うと、クレアは背を向けて歩き出した。
セルダンは彼女の背中に、すまんと声を投げかけたが、彼女は振り返らず返事もしなかった。クレアは10mほど離れた金属内壁への入り口にたどり着くと、唐突にセルダンの方を振り返った。
「ねえ、ジェシカの事だけど……」
「ああ……」
「あの子……誰かに恋しているみたいね」
「わかるのかね?」
「ええ……『能力』を持たないあなたにはわからないかもしれないけれど、言葉というのは言わば感情をスクレイピングする刃物のようなものなの。でも言葉を介さない私たちの『コンタクト』では感情がほぼオリジナルそのままの形で伝わるのよ。だから私にはわかった。それにあの子は私と
「そうか……」とセルダンはささやくように答えた。
クレアはしばらく黙っていたが、その内、吹っ切れたように話を続けた。
「心配しなくても大丈夫よ。あの子はさすがにパトリシアの娘だけあって強力な能力を受け継いでいるけれど、彼女はパトリシアほど
「そうだといいんだが……」
「じゃあ、これでお別れね。もうお互いに会わないようにしましょう」
「わかった……」
こうしてセルダンとクレアの会見は終わった。その夜、セルダンは苦い思いを抱えながらかなりの深酒をした。