3.72%の少女   作:六位漱石斎正重

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 数日おきにマイケルと<大学>で会って話をする生活を送るジェシカ。だが、奥手なマイケルはなかなか彼女との関係を深める姿勢を示さず、業を煮やしたジェシカは思い切ってマイケルの研究室に行ってもいいか、と尋ねるのだが……


第二十三話 ハニーデイズ

 <大学>構内のカフェでコーヒーをすすりながらジェシカはマイケルを待っていた。このカフェは<大学>で二人が偶然出会った場所だった。

 あれから二人は数日おきにここで食事を共にし、ジェシカが作ったランチボックスを受け取っては部屋で夜食とする、というのがマイケルの定型スケジュールの一つとなりつつあった。

 

 二人はセルダンらの世代と違ってコミュニケーションツールの更新に柔軟に適応できている世代で、お互いの連絡先を把握し電子機器によるオンラインの通信手段を確立させていたものの、画面越しの対面はどこか現実味が薄れているような印象を二人は感じており、基本的には直接会って話をするのが常だった。

 

 ほどなくしてマイケルがジェシカの前に現れ、席に着いたあと、口を開いた。

 

「すまん、ジェス。だいぶ待たせたかな?」

「いいのよ、マイク。私も今来たばっかりだから……」とジェシカは微笑んだが、実際には1時間近く席についたまま一人でマイケルを待っていたのだった。

 

 彼らは少し前から、ジェシカは『マイク』、マイケルは『ジェス』とお互いを呼ぶようになっていた。

 

 二人は注文を済ませるとすぐに会話を始めた。トピックは、取るに足らない話題から数学の専門的な話まで多岐にわたった。

 

 ジェシカの方はともかく、マイケルのジェシカに対する印象はここ数日で大きく変化した。彼女はマイケルの専門的な数学の話題についていくどころか、しばしば彼の専門外の分野の数学の知識を披露し、その説明が彼には十分に納得いくものであったことに彼は内心舌を巻いていた。

 

 彼はずぼらな部分があるもののルックスが悪いというわけでもなく、過去様々な女性との付き合いがあったがそのすべては短命に終わった。

 よい雰囲気で始まったデートは、最後には必ず自然消滅することになった。デートのさなかにもかかわらず、彼の話題はいつのまにか数学に関するものに変化していき、その素晴らしさを相手の女性に力説するように至っては、関係の自然消滅もやむを得ないというものだった。

 

 そして帰宅した彼は別れ際に相手の女性が見せた、あきれたというか白けた表情を思い出し、自分は何か彼女の気に食わないことを言ったのだろうか、といった全く的外れな疑問を頭の中に浮かべるのだった。

 

 ところがここにきてようやく彼の目の前に、彼の話題に追従できる、というか数学という学問について意見を交わすことができる女性が現れたのだった。彼は彼女に強い興味を抱いたが、彼女を一人の女性として見るという視点については、彼は慎重だった。

 

 ジェシカは確かに若く美しい少女だったが、それでも彼の欲望を大きく刺激することはなかった。無論彼は、こんなかわいい彼女がいたら自分の人生はさぞかし楽しいものにだろうなと、ぼんやりと思うことはあったものの、二人の年齢差は二十歳ほども離れていたし、自分の彼女にしたいという願望は彼には半ば非現実的なもののように思えたからだった。

 

 二人が会話に夢中になっている内に、いつも通りマイケルが所持している電子機器からランチの終了を告げるアラームが鳴りだした。彼は席を立ち、じゃあまた、と言って立ち去ろうとしたが、ジェシカは彼を呼び止めた。

 

「マイク……あ、あの……」

「?」

「あの……あなたの研究室に行ってもいいかな? ……べっ、別に勘違いしないでほしいんだけど、変な意味じゃなくて、その……研究室で『計画』の遂行や、実際にどんな研究をしているのかなぁって思って……いいのよ? 邪魔だったらそう言ってもらっても……」

 

 そう言ってジェシカは下を向いた。

 

「いや、もちろん邪魔なはずないさ。でも、女の子を呼ぶことを想定していなかったから()()()()部屋が散らかってるけど、それでも良ければ……」

「じゃあ、決まりねっ!」と言ってジェシカは明るい表情を浮かべ勢いよく席を立った。上機嫌だった。

 

 ジェシカはマイケルの横に並んで一緒に話をしながら歩きたかったが、歩幅に大きな差があるためにどうしてもマイケルの後ろを追いかけるようについていかざるを得なかった。

 マイケルはまるで一人で歩いているかのように背後のジェシカの方を振り返ることもなく、すたすたと勝手に歩いていった。

 

 以前のジェシカなら、ちょっと待ってよ! と大声を出していたところだったが、ジェシカはマイケルの後を追いかけながら、この人はこういうことに関して気が回らない人なんだ、と彼との付き合いを通して相手をそのままの形で受け止める心の広さを持つようになった。

 

 <大学>構内の広場を横切って歩いていくマイケルとジェシカの姿は歳の離れた兄と妹のようにも見えたし、年齢差を考慮すれば父と娘のようでもあった。彼らを知っている人々は、歩いている二人の姿を見て彼らをからかった。

 

 マイケルの知り合いは軽口をたたくように彼に声をかけた。

 

「よう、マイキー。そんな可愛い女の子をどこで口説いたんだ? 奥手のお前にそんな器量があるとは思わなかったぜ」

「口説いてない口説いてない! そんなんじゃないよっ、彼女はセルダン博士の孫娘だぞ!」

「へぇー、お前にセルダン博士に取り入ろうとする政治力があったとはな……人は見かけによらないもんだな」

「そんなんじゃないって言ってるだろっ! 政治力でも何でもない!」とマイケルは腹を立てた。

 

 一方、<大学>に通うジェシカを小さい頃から知っている男は彼女を冷やかした。

 

「ハイ、ジェシー! 君もずいぶんなファザコン趣味だな。もうそいつと『ちゅー』はしたのか?」

 

 ジェシカは一々相手にするのもアホらしいといった様子で、男に向かってべーっと舌をだし、そのまま歩き去った。

 

 こうして彼らは知り合いの冷やかしを適当にあしらってようやくマイケルの研究室にたどり着いた。

 

 マイケルの後に続いて研究室内に足を踏み入れたジェシカは、室内のそのあまりの光景にあっけにとられた。

 本がデスクの上に乱雑におかれているのはありがちなことながら、まるで天井からわざと書籍をばらまいたかのように、半ば読みかけの本が床にも散乱している。

 

 それはマイケルが言うところの『ちょっと散らかっている』などと控えめに表現するのはおこがましいにも程がある惨憺たる光景だった。

 

 その上あきれたことに、バスルーム内にも本が持ち込まれていた。落ち着くから、という理由でトイレやバスルーム内に書籍を持ち込む人がいることをジェシカは知っていたが、何の防水加工も施していない紙の本をバスルーム内に置くというのは一体どういう神経なんだろう、とジェシカは訝しく思った。

 

 ジェシカの肩越しに、背後から面目なさそうな表情でバスルーム内を見ていたマイケルは「湯船につかって本を読むと、内容が良く理解できるんだ」と言った。

 

「あなたがどこで何を読もうと勝手だけど、これらの本はあなたの私物なの?」

「いや、<大学>所蔵の本で、借り物だよ」とマイケルは事もなげに言った。ジェシカは、マイケルの方を振り返り心底あきれた様子で黙って彼を見つめた。ジェシカの視線に気まずい思いを抱いたマイケルは恐る恐る、「まずかった……かな?」と彼女の顔を窺うように尋ねた。

 

「本が湿気でしわしわになっちゃわない?」

 

 ジェシカがそう尋ねると、マイケルは嬉しそうな表情でそれに答えた。

 

「いや、それが全然そんなことはないんだ。防水加工なんてされていないはずの古い本なのにね……不思議だね」

 

 マイケルのそのセリフを聞いて、ジェシカはこのことに関してはもう彼と話しても無駄だと判断したらしく、マイケルをバスルームから追い出し、自分もその後に続いた。

 

 二人は居間に戻りジェシカは室内を一通り見まわした後、「ひどい有様ね。掃除BOTはどうしたの?」とつぶやいて大きなため息を一つついた。

 

「BOTは壊れてる……でも、それほどひどいかな?」とマイケルは往生際の悪いセリフを吐いた。

 

 ジェシカはそれには答えず、黙ってブラウスの袖をまくると「もうしょうがないわねっ、ちょっとお掃除してあげる」と言ったが、マイケルはそれを聞いて慌てた。

 

「あ、いやいや、セルダン博士のお孫さんにそんなことさせられないよ。君が次に来る時までにはちゃんと片付けておくから……」

 

 そうマイケルは弁明したが、それを聞いたジェシカはマイケルの目の前まで歩いてきて、彼の鼻先に右手の人差し指をつきつけると、彼女はきっぱりと言った。

 

「嘘ばっかりっ! あなたがこの部屋に住んでから半月か一月か知らないけど、どうみても過去に掃除した形跡がない。そういう気が回る人だったらこんなにひどい状態になっていないはず。実現の可能性のない無責任な宣言はやめて!」と、ジェシカは強い様子でマイケルに詰め寄った。

 

 ほんの少し指を伸ばせば今にも触れられそうなほど近い距離まで近づいたジェシカが、怒ったようにマイケルを見つめている。

 二十ほども年下の少女に詰められてマイケルはどぎまぎしたものの、頭の中では全く別の事を考えていた。

 

 やっぱりかわいいな。それに惑星がそのまま目になったかのような神秘的な美しい瞳。あと何だろう……すごくいい匂いがする。

 

 さすがに彼は、動物のようにあからさまにジェシカの匂いをかぐほどデリカシーがない男ではなかったので、彼女から離れるでもなく近づくでもなく、なんとなくそうやって彼はぼんやりとジェシカを見つめていた。

 

「ちょっと! 聞いてるの?」とジェシカに声をかけられると、マイケルは我に返った。

「えっ?」

「えっ? じゃなくて……もういいから、椅子に座ってコーヒでも飲んでて。ちゃちゃっとお掃除するから。ほら邪魔よっ!」とマイケルをカウンターテーブルまで追い立てると、ジェシカは手早く掃除を始めた。

 

 マイケルは右手で頬杖をつき、カウンターテーブルでコーヒーを飲んでいた。そして小さく歌を口ずさみながら手際よく後片付けをしていくジェシカの姿をぼんやりと眺めていた。

 自分の部屋を女の子が掃除している。そんな光景がどこか非現実的なもののように彼には感じられた。彼は何度か自分の身体を強くつねってみたが、どうやら夢ではないようだった。

 

 そうやってマイケルは、掃除のために部屋の中を動き回るジェシカの姿をぼんやり見たり、本を読んだりして時間を過ごした。

 

 ジェシカが部屋の中の清掃を完全に終えたころにはすっかり日は沈んでいた。一休みするためにマイケルが淹れたコーヒーをジェシカは飲み終えると、ソファから立ち上がり「もう帰るね」とマイケルに告げた。

 

 それを見たマイケルは遠慮がちに、「もう夕食の時間だし、君の作った食事を一緒に食べないか?」と言った。

「ええ、わたしはかまわないけど……じゃあ、お弁当温めなおすわね。あなたは食器を出して」

「わかった」とマイケルは返事をすると椅子から立ち上がった。

 

 ジェシカと夕食をともにしながら、マイケルはジェシカに彼女が作った食事の感想を語った。

 

「僕はあまり食事とかには特別な関心がなかったんだけれど、君の料理を口にして『食』というものの素晴らしさを再認識したよ」

「そんなお世辞を言ったって何も出ないわよ」とジェシカは答えたが、まんざらでもない表情だった。

「いや、お世辞なんかじゃないさ。<大学>構内で店でも開いたら間違いなく繁盛すると思うよ」

「そう?」

「こういう飯が毎日食えたら幸せだろうな」とマイケルが何気なく言うと、ジェシカの頬は瞬時に赤く染まった。

 

 ジェシカはしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。

 

「ねぇ……」

「ん?」

「私のこと……どう思ってる?」ジェシカはそう言うと真剣な表情でマイケルを見つめた。

 

 マイケルはしばらく右上の天井を見つめて考え込んだあと、口を開いた。

 

「いい子……だと思うよ、うん」

 

 それを聞いたジェシカはあからさまにがっかりした表情を浮かべ、「……それだけ?」と尋ねた。

 

 マイケルはジェシカの様子がいきなり変化したことに気付き、慌てて言葉を添えた。

 

「え? あ、いや、かわいい子……だとも思う」

「そう……よかった。私マイクに一応女として見られてるってことでいいんだよね?」そう言うとジェシカは上目遣いにマイケルの顔を見つめた。

 

 マイケルも何となくぎこちなさを感じ、しばらく黙りこんだ。こういう時は男の方が会話をリードするものだが、女性の気持ちを察することの苦手なマイケルは何を言っていいか迷ったままで、二人を取り巻く空間はただ無言の時間を刻んでいった。

 

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