研究室内に置かれたソファにマイケルとジェシカは横並びになって腰を下ろしていた。二人の間には人一人分の空間が開いており、それはそのまま二人の心理的距離を表していた。
ソファの前のガラステーブルには食後のために淹れたコーヒーが今ではすっかり冷めきってしまっており、二人の沈黙の時間が及ぼした影響が形となって表れていた。
ジェシカはマイケルが言葉をかけてくれるのをただひたすら待ち続けていたが、いつまでもその気配は現れず、さすがにじれたジェシカが口を開いた。
「ねえ、マイク」
「ん?」
「私の事……好き?」
そう言うとジェシカは真剣な表情でマイケルを見つめた。ジェシカの視線をまともに受けたマイケルはどぎまぎして、彼女から目をそらし独り言のようにつぶやいた。
「え? ……うん、まあ」
それを聞いたジェシカは不満げな様子でマイケルに言葉を投げかけた。
「ずるいわっ! 私が好きならちゃんと言葉にして!」そう言ってジェシカは身体を近づけてマイケルに詰め寄った。
いきなり距離を詰められたマイケルはあたふたしてそれに答えた。
「いや、君にはもっと、君の容姿や若さにつりあった素敵な若い男性が君を待ってるはずだ。君が焦る必要は全然ないと思うけど……それに、僕は君より二十歳くらいも年上だし、僕は君が考えているような男じゃない、ただのおっさんだよ」
「おっさんなんかじゃないっ!」とジェシカは叫んだが、いや事実掛け値なしのおっさんなんだがな僕は、とマイケルは心の中でつぶやいた。マイケルが彼女の話の後に続く。
「それにセルダン博士が許さんだろうし……」
それを聞いたジェシカは、明らかにイライラした様子でマイケルに尋ねた。
「一体、どういうつもりなの? おじーちゃんのことが今の話題と関係ある? あなたさっきから、自分がずいぶん年上だからだとか、おじーちゃんが許さないとか、あなたは一体何を気にしてるの? 大事なのは『他人からどう見られるか』ということじゃなくて『自分がどう思うか』じゃないの? 私はあなたが好きよっ!」
そうはっきり断言したジェシカは、マイケルからはっきりした言葉を聞くまでは絶対に退くつもりはない様子だった。
「一時の気持ちで……決めるべきものじゃない」
マイケルは目をそらし、つぶやくようにそう言った。
「一時の気持ちって何? あなたは私の心の中をのぞけるの? どうしてあなたが私の気持ちを勝手に代弁するの? あなた自身は私のことをどう思っているの?」
ジェシカはそう一気にまくしたてたが、マイケルは黙ったままだった。
ほんのしばらくの間、二人は人形のように身動き一つしなかったが、やにわにジェシカは腰かけていたソファから立ち上がると、ハンガーに向かって歩いていき、掛けてあった自分のカーディガンを手に取った。
カーディガンを見つめながらジェシカは「ごめんね……迷惑だったみたいね」と言った。彼女の肩はかすかに震えていた。
「馬鹿みたい私……さよなら」そう言うとジェシカは嗚咽を漏らしながら部屋のドアへ足早に歩いて行った。その途端、ジェシカの背後に向かってマイケルは叫んだ。
「好きだっ! ……君の事が好きだっ、ジェシカ!!」
ジェシカがそれを聞いた途端、彼女の身体は一瞬動きが止まり、その後彼女の身体はスローモーションのように崩れて床にペタンと座り込んだ。
「ジェシカ?」
床に座り込んで動かなくなったジェシカを訝しく思い、マイケルは彼女の近くまで歩いて行った。マイケルがジェシカのそばまでやってきて立ち止ると、彼女は座り込んだままマイケルの方に向き直った。
「なんだかいろいろと疲れちゃった……ほっとしたら腰が抜けちゃったみたい……」
そう言ったジェシカの顔には安どの表情が浮かんでいた。マイケルはそんな彼女の様子を見て、こんなかわいい子に思いを寄せられて断る男がいるはずがないのに、そんな彼女でも相手の気持ちが気になるんだなと、どこかずれた感想を彼は抱いた。
彼女は両手を上げてマイケルを見上げると、「ねぇ……抱っこ」と言った。マイケルはかすかに驚いた表情をしたが、すぐにジェシカを抱きかかえて立たせた。今にも触れそうなくらいの距離に二人の顔が近づく。
マイケルがジェシカの瞼にかかった前髪を優しく払い「ジェス……目を閉じて」とささやくように言うと、ジェシカはすっと目を閉じた。
二人の唇が触れた瞬間、マイケルとジェシカの二人の心の中には言いようのない幸福感が沸き上がった。その唇の接触はほんの数秒にしか満たなかったが、それは行為を行った者達にしかわからない確かな感情だった。
ジェシカは目を開けると、涙で潤んだアースアイでマイケルの瞳を見つめ、「もっと……」とつぶやいた。マイケルは笑った。そして二人のシルエットは数分の間一つになった。
しばらくしてジェシカはマイケルの身体をゆっくりと押しのけ、はにかんだ様子で「もう帰るね……」と言った。
「泊まっていってもいいんだよ……」とマイケルは遠慮がちに言ったが、ジェシカは「おじーちゃんを心配させたくないから、今日は帰る」と答えた。
ジェシカは部屋の出入り口のところまで歩いていくとマイケルの方を振り返った。
「ねぇ……明日も来てもいい?」とジェシカは尋ねた。
「ああ、もちろん。部屋の電子キーのコピーを渡すよ。部屋には勝手に入ってもらって構わない」
そういって、マイケルはジェシカの電子機器にロック解除用のキーを送信した。電子機器の更新処理が終わると、マイケルは、送っていこうか? と尋ねたが、ジェシカは少し考え込んだあと口を開いた。
「大丈夫よ……でも、実はあなたとこんな事になって以前は感じたことのない怖さを今はちょっと感じてる。なんて言ったらいいのかな……他の男性に触れられたくないというか、自分の『ツイスト』スキルを信頼できなくなったというか……何言ってるんだか意味わかんないわよね?」と言ってジェシカは苦笑した。
「いや、わかるよ……たぶんね。でも本当に送っていかなくてもいいのかい?」
「ええ、大丈夫。なるべく明るい道を選んで帰るし、必要ならエアタクシーを使うから心配しないで。じゃあまた明日ね」そう言ってジェシカは部屋を去って行った。
部屋に一人残されたマイケルはカウンターテーブルの椅子に座ると、ジェシカの唇の柔らかさを思い出しながら軽く自分の唇に指で触れてみた。
あのジェシカとこんな関係になるなんて……最初はジェシカが自分のことをからかっているんだと僕は疑っていた。
うっかり自分も好きだと言って冗談もわからないの? とあざけられる事が怖かったのかもしれない。でも何と言っても35歳と16歳だ。今でも全く現実味が感じられない。そして突然彼は自分の唇をきつくひねりあげた。
……痛かった。
その夜ジェシカが帰宅した時間は21時を少し回ったころだった。セルダンは居間のソファに座ってうたたねをしていた。ジェシカはシャワーを浴びると祖父を起こさないように静かに居間を通りぬけ自分の寝室に向かおうとしたが、その背中に祖父の声がかかった。
「……遅かったな、ジェシカ」
「起こしちゃった?」
「少し飲みすぎてしまったようだ……」
「あの……遅くなってごめんね」
「ああ……」
セルダンは少しの間黙った後、ジェシカに尋ねた。
「ブランダバスのところにいたのか? ジェシカ」
それを聞いたジェシカはかすかに困った表情を浮かべ、慌てて口を開いた。
「おじーちゃん……私……」
ジェシカの話をさえぎるようにしてセルダンは口をはさんだ。
「別に非難しているわけじゃあない。何事も自分で判断して行動すればいいさ。お前はもう大人の女性になったんだろう?」
セルダンはジェシカの方を振り返らず背中を向けたまま静かにそう言った。
ジェシカは祖父の背中を見つめながら何を言うべきかわずかの間迷ったあと、口を開いた。
「心配しないでおじーちゃん。私、どこにもいかないから……私にこの能力を持たせたのが、『神』か『銀河霊』なのか何なのか知らないけど、私は私にしかできないことがあることだけは理解しているつもり」
「……」
「今はただ『恋のようなもの』の雰囲気をほんの少し味わってるだけ。一種の熱病みたいなものよ、それくらいいいでしょ? たった6か月間の一時的な『病気』なんだから……」
「……お前がそう考えているのならそれでいい」
しばらくの間二人の間を沈黙の空気が包んだが、それをジェシカが破った。
「私、もう寝るね……おやすみなさい」
「ああ……」とセルダンが返事をするとジェシカは自分の寝室に向かって歩いて行った。
一人残されたセルダンは今夜4盃目となるオンザロックを作った。そして琥珀色の液体を口に少し含み、ぼんやりと考え始めた。
古来から恋は多くの詩人や哲学者が好んで取り上げてきたもっともポピュラーなテーマの内の一つだ。
ジェシカが言ったように、それは男女、年齢層を問わず突然かかる熱病のようなもので、その原因を究明するために人々は多くの時間を費やしてきたが、それらは結局全て徒労に終わった。
恋の病にかかって命を落とした人がいる、財産をすべて失った者もいる。恋の誘因力は抗いがたいもので、人の理性を根底から吹き飛ばすほどの強力な力を秘めている。
セルダンは、ジェシカが恋の病に振り回されて、何もかもすべてを台無しにしてしまう可能性を恐れたものの、男女の問題は結局のところなるようにしかならないと、現在のところ推移を見守るしか手がないのを自覚せざるを得なかった。
最悪、ジェシカを失って『組織』が歴史の影に埋没していったとしても、それほど悲嘆するほどでもないと彼は考えていた。
『組織』の存在意義とは、あくまでもカオス的に振る舞う未来の姿を数学的に発散させないようにする一種のリミッターとして働くことだ。『組織』は必ずしも『計画』の遂行の必須条件ではない。
だが、『組織』がなくなればカオスが暴走した場合に対処するための
「それでも……各時代に生きる心理歴史学者が『計画』の方程式を適宜微修正しつつ、丁寧に対処していけば、まず問題なく……」
セルダンはそう小さくつぶやくと、グラスの中身を一気に飲み干し自分の寝室へと向かった。
翌朝いつもよりやや遅い時間に目を覚ましたセルダンがキッチンへいくと、ジェシカはかなりの量の料理を作っていた。ジェシカは祖父の姿を目にすると微笑んだ。
「おじーちゃん、私しばらくここから毎日マイクのところに通うことにするわ。おじーちゃんのお昼と夜の分も作ってあるから、悪いんだけど時間になったら自分で温めてもらっていい?」
「ワシの分は用意しなくてもいいよ。お前が料理を作り始めるまでは、ワシが食事を作ってパットやお前を育ててきたんだぞ。まだワシの腕前はそれほどは衰えてはいないはずだ。お前はブランダバスの身の回りの世話に専念しなさい」
ジェシカは少し考えた後、わかったと返事をした。
ジェシカはセルダンに行ってきます、と声をかけていつものようにランチボックスを持って出かけようとしたが、ドアのところまで行くと立ち止って祖父の方を振り返った。
彼女は何か言いたそうな顔をしたものの、何も口にしなかった。そうやってしばらくジェシカは立ち尽くしていたが、再び彼の元まで戻って来ると彼の頬にキスをした。セルダンはかすかに驚いた表情で彼女を見つめた。
「ありがとう、おじーちゃん……行ってくるね」そう言って足早にジェシカは出かけていった。
セルダンは頬に残ったジェシカの唇の感触を思い出しながら、柔らかな微笑を浮かべた。