初めて二人がキスをした時以来、ジェシカはマイケルの元に毎日通い詰め、食事、清掃、洗濯等の家事をそつなくこなしていった。
マイケルは部屋のことを考えずに済むようになったため、移住計画の遂行や数学の研究に全神経を注力することが可能となり、以前より精力的に活動していた。
ほどなくしてジェシカとマイケルは、健康な肉体を持つ男女の当然の成り行きとしてベッドを共にするようになった。
マイケルはジェシカに一喝されて以来、他人がどう思うかを気にするのではなく、自分の気持ちをストレートに彼女に伝えるようになり、彼はジェシカを貪欲に求めるようになったが、彼女はそんな彼の心の変化を複雑な思いで見つめるのだった。
マイケルが自分の感情に素直に従うようになったのはいい傾向だが、あまり周囲の事を考えなさすぎるのも問題だ。最近は少しでも人気の少ないないところに行くとすぐにキスを求められるようになり、ジェシカはマイケルのあまりの急激な態度の変化に困惑するのだった。
マイケルはしばしば、今日は泊まっていくようジェシカに勧めるものの彼女は必ずそれを断り、どんなに遅くなっても毎日必ず祖父の元へ戻った。
だが、毎日帰宅するといった約束を祖父と交わしているわけではなかった。毎日帰宅するといった行為は、ジェシカにとって自身が恋の病に盲目にならないように気を付けている意識の表れでもあったが、セルダンの孫娘として、また女として、最低限のルールは守るべきだと彼女は考えていたのだった。
ジェシカがマイケルの研究室を毎日片付けるおかげで、彼の研究室は常に真新しい部屋の状態を保っていた。彼女は本棚にたまった細かいほこりを拭き取りながら研究室内を隅から隅まで掃除していた。
マイケルはカウンターテーブルに肘をつき右の手の平に顔を乗せながらジェシカの動きを目で追いながら、彼女との出会いを思い出していた。
ジェシカとの最初の出会いは展望台への高速エレベーターの中だった。その時の僕は彼女の存在を特別に意識していなかった。
その内、彼女の連れがあの狭いエレベーター内で騒ぎ出して、関わり合いになるのが嫌だった僕は、エレベーターの天井に目を向けて早く頂上に着くよう必死に祈ったんだよな。
マイケルはその場面を思い出し含み笑いをした。
次の彼女との出会いは同じ日の夕方で、ホテルの僕の部屋の中でだった。彼女は自分を『ハリ・セルダン』だと名乗ったけど、まったく信じられなかった僕は彼女を部屋から追いだしたんだっけ。
でも、なぜか
「なあ、ジェス?」
「何? マイク」マイケルに顔を向けず、淡々と拭き掃除をしながら彼女は尋ねた。
「以前、僕が宿泊しているホテルに君が来たとき、君は僕に不思議な現象を見せたことがあっただろ?」
「……そうだった?」
「とぼけるなよ、ジェス。僕がいつか君を『ジェス』と呼べるような関係になったら、あの電子ロックのかかったドアを君が通り抜けることができた理由を教えてくれると、あの時確かに約束したよな?」
マイケルがそう問いかけると、不意にジェシカの動きが止まった。彼女はそのまましばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「マイク……あなた、おじーちゃんから『計画』についてどのくらいの事を聞かされているの?」と、ジェシカは手に持った掃除道具を見つめながら言った。
マイケルはあごに手を当ててしばらく考え込んだ後、話し出した。
「そうだな……最初セルダン博士から、この帝国が滅びると聞かされてその根拠となる方程式とその解を見せられた時、僕はあまりの衝撃にしばらく言葉を失ったよ。このトランターがわずか五世紀の内に完全な廃墟になるなんて……でも、今は完全に理解している。帝国は間違いなく滅びるだろう。だがそれは『今の帝国』が滅びるだけで、人類の滅亡を意味するわけじゃない。帝国崩壊の残滓の中から次の帝国が生まれるんだ。だが、それは自然の成り行きに任せた場合、三万年もあとのことになる。そして、人類はそんな長期間の暗黒時代を耐えられるような生物じゃない」
「そうね、一つの社会や一惑星程度の規模ならある程度の力学的な力が関与する場合であっても、ごく近い未来ならその将来の姿をかなりの確度で予測することが可能だわ。でも、銀河の規模にもなると方程式に与える変数が多すぎる。その解が示す人類の行く先は時間軸のどの場所においても決定論的カオスとしてふるまうことになる……」とジェシカ。
打てば響くという言葉があるが、どんな内容でもすぐに自分の意見が出てくるのがジェシカのいいところだ。しかもこれだけ若くて美人なら何も言うことはない。
なぜこんなかわいい女の子が自分に思いを寄せているのか、いまだに彼には不思議でならなかった。その上スタイルもいい……彼は下腹部に熱がこもるのを感じ、慌てて頭を振ると彼女の話の後に続いた。
「君の言う通り未来を予測するにおいて、『計画』の方程式上の様々な変数の存在を無視するわけにはいかない。そこで『セルダン計画』の出番だ。それらの変数を『強制的に削除』することで、確率論的誤差の範囲内に未来を導く。例えばテルミナスへの入植がそれだ。最初セルダン博士が、入植場所を何の金属資源もなく、トランターからも遠い銀河系外縁の辺境惑星テルミナスに定めたことが僕には不思議でならなかったが、それこそがカオスを一定の範囲内に閉じ込める重要な第一歩になるんだ。あんな不都合な『檻』に閉じ込められたら、そこにいる人々の未来に大きな揺らぎが生まれようもないからね」
「確かに初期状態を狭い範囲に強制的に押し込むことによって、未来の行先を縛ることができると私も思う。有効な方法、いえその方法しかないわね。でも、『赤ちゃん』はいつまでも揺りかごにはいられない。いずれ成長すれば出ていかざるを得ない。帝国のハイテクノロジーの遺産を所有している都市惑星テルミナスは、他の多数の都市惑星を圧倒して驚異的な速度で成長し続け、途中で膨張と収縮を繰り返しながら次第に版図を広げていくことになる。そこまでかかるのに三百年? あるいは五百年かしら? だけど、そうなるとその後不都合なことが生じるわよね?」
「なるほど、テルミナスの版図が広がれば広がるほど、その未来に関与する変数が増えていくわけか……そうなれば再びカオスが閾値を超えて発散する状況が引き起こされる確率が高まる。しかも、その時代に天才『ハリ・セルダン』はもういない……」
「まあ、その時代に『ハリ・セルダン』のような科学者が生まれないとも限らないけれど、いずれにせよ確度が低すぎてあてにはできない。あなただったらどうする? マイク」
マイケルは部屋の天井を見上げながら「うーん」とうなったが、すぐに彼女の方を向いて話しかけた。
「なあ、ジェス。やっぱり我々はテルミナスじゃなくて、ここトランターにいた方がよくないか?」
「それはできない。ここに残れば帝国の崩壊のあおりをまともに受けて、次の帝国の『種』をみすみす失ってしまう。それにいまさら移住計画を中止にするなんてできるわけないじゃない。十万人の移住よ? もう既にテルミナスは次の帝国の未来を形成する主要なピースの一つなのだわ。あなたはテルミナスへ行くの! これは変えられない決定事項よ」ジェシカはマイケルを指さし、おどけた様子でそう言った。
マイケルはジェシカの言ったことについて考え、しばらくの間黙っていたが、ふとあることに思い至ってジェシカに尋ねた。
「なあ、ジェス」
「なーに?」
「君はもちろん
それを聞いた瞬間ジェシカの動きは止まり、彼女はひどく驚いた様子でマイケルを見つめた。
「ジェス?」
「え?」とジェシカは小さく声を上げてマイケルを見たが、すぐに彼から視線を逸らした。
そんなジェシカの様子を見て、彼女がトランターに残される祖父の事を案じて決断できないでいる、と考えたマイケルは妙に自信にあふれた様子で彼女に力説した。
「ジェス、心配するな。僕が必ずセルダン博士を説得してみせる。彼にとって君が大切な孫娘だってことは承知しているけど、僕にとっても君は大切なたった一人の女性なんだ。僕は、たとえ相手が天才ハリ・セルダン博士だとしても絶対にあきらめたりなんかしないぞ! そして君は……僕と結婚するんだ」
ジェシカは下を向いたまま黙り込んだ。返事をしないジェシカを不審に思ったマイケルは、ジェシカの顔色を窺うように「だろ?」と言った。
返事をしなければ怪しまれる、でも何て言えば……ジェシカはわずかの間逡巡した後、無理に微笑んでそれに答えた。
「な、何言ってるのよ、いきなり……結婚なんて私……」
「……嫌なのかい?」と悲しそうな顔で尋ねたマイケルを見て、ジェシカは慌てて口を開いた。
「い、嫌とかじゃなくてっ! その……いずれにせよまだ先の事じゃないの」
「まあ、それはそうだよな。明日すぐにでも挙式、というわけにはいかないか……じゃあ、テルミナス行きの輸送船の中で式を挙げよう。なっ、そうしようジェス?」
それを聞いたジェシカは、もぅ、強引なんだから……と少しあきれたものの、彼のプロポーズに対しては返事をせず、話題を変えた。
「そ、そうだ、お茶入れてくれない? だれかが部屋をひっちゃかめっちゃかにするから、あちこち掃除して私のど乾いちゃった。たまには彼氏としての義務も果たしてよ」
それを聞いたマイケルはニヤっと笑うと、「もちろんですともお嬢様」と言って気取った様子で頭を下げ、椅子から立ち上がるとお湯を沸かすためにキッチンへ向かった。
キッチンでお湯が沸くのを待つマイケルの後姿を見つめながら、ジェシカは悲痛な表情を浮かべていた。言いたくても言うことのできない悲しみの叫びが彼女の心の中で響く。
私……あなたと一緒にテルミナスに行くことはできないの……ああ、私が何の能力も持たない普通の女の子だったら!
そんな彼女の心の中の悲痛な叫びに気づくはずもなく、マイケルは背中を向けたままジェシカに話しかけた。
「なあ、ジェス」
「な、何?」悲しみに浸っていたジェシカは驚いて尋ねた。
「数百年後のテルミナスの将来を見据えてどんな手を打つか、さっき君は僕に尋ねただろ?」
「ええ……」
「ジェス、君ならどうするんだ?」
それを聞いたジェシカはスカートのポケット中から一つの小さな電子機器を取り出すと、カウンターテーブルに置いて電源を入れた。
電子機器からは縦1.2m、横3.6mの全くの光沢のない真っ黒のスクリーンが空中に投影された。
しばらくするとそのスクリーンの上に水がわき出すかのように白い文字が浮き出てきて、それらの文字は画面いっぱいに広がる方程式を形作った。マイケルはそれを見てジェシカの座っているカウンターテーブルに近よった。
最初にジェシカが口を開いた。
「これがなんだかわかるわよね、マイク?」
「もちろん! これはセルダン博士が組んだ『セルダン計画』の方程式だ……だが、全部じゃないな」
「そう、その通りよ。マイク、ここを見て」そう言って、ジェシカはスクリーンのある部分に指で触れるとその部分は100倍に拡大され、方程式内でジェシカが触れた部分に関係する場所が黄色く輝いた。
マイケルはその部分を見ながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
「これは……銀河系全体に何らかの影響を及ぼす変数群をまとめたものだな? この変数は各星系における内部崩壊要素、例えばクーデターや住民反乱によるネガティブ因子だ。そしてこっちの変数は星系を構成する居住惑星全体における住民の幸福度と社会的活力を示すポジティブ因子かな?」
「まあだいたいそんなところね。じゃあ、この変数がなんだかわかる?」そう言ってジェシカは変数群の中の一つに人差し指で触れると、その変数は輝く赤文字となってさらに拡大された。
「これは!? ……こんな変数見たことないぞ。セルダン博士から何も聞いてない」
「そりゃそうよ、あなただって例えばコンピュータプログラム内のモジュールに記載されているプログラミングのコード部分をなめるように見たりする趣味はないでしょ? それと同じで私達は、数多の変数の内訳に気を取られることなく、方程式の解がどのような意味を持つのかということだけに注力すればいい」
「ジェス、この変数を拡大展開してくれないか?」
「ええ」そう言って、ジェシカが変数に指で触れると、変数の中身が展開されて一つの数式が浮かび上がった。
「4.0±0.3%だって? ここにある変数は全て銀河系全体に影響を及ぼす可能性のある変数群で間違いないんだよな? 超新星爆発やブラックホールの出現みたいに突発的で破壊的な外部因子かな? でも変数自体の元の値の大きさはともかく、±0.3%の標準偏差なんて心理歴史学の方程式上考えにくい。ジェシカ、この変数は一体……」
ジェシカはすぐには答えなかった。二人の間を沈黙の時間が流れていく。その時唐突にお湯が沸いたことを知らせるアラーム音が部屋の中に大きく響き渡り、マイケルは慌ててキッチンへと歩いて行った。