ジェシカはその変数の意味を必ずしも彼に教える必要はなかったはずだったが、自分の『力』を彼に見せたらどうなるかという好奇心に負けて、ついに彼に『干渉』してしまう。
『アースアイ』から放たれたジェシカの『力』はマイケルの短期記憶と長期記憶の一部を奪った。マイケルはひどく混乱し、ジェシカの持つ『力』に恐怖するのだが……
ジェシカはスカートの左ポケットから彼の万年筆を取り出して彼に見せると、「大丈夫、心配しないで。あなたの万年筆はここにあるわ。実は私が預かっていたのよ」と優しく話しかけた。
「いや……でも僕は……あの万年筆は……」マイケルはたいそう混乱した様子でつぶやいた。
「マイク、私が直前にあなたに言った事を覚えている?」
ジェシカはマイケルの様子を慎重に観察しながらそう尋ねた。
「ああ……君は……自分が『人の思考や感情に作用する力』を持っている……と」焦点の定まらない視線でマイケルは独り言のようにそうつぶやいた。
「あなたの万年筆についてはどう?」そうジェシカが尋ねると、彼は「うん……それがなんだかとっても不思議な気分なんだ……どういうわけか万年筆に関してだけ、まるでパズルのピースが2つ3つばかり見当たらないかのような……でも、もしかするとそのピースは最初からなかったかもしれないな……僕は今ひどく……混乱している……みたいだ」
「とにかく、リラックスして深呼吸して」
マイケルはジェシカの指示に素直に従った。マイケルは少し落ち着きを取りもどした後、複雑そうな表情を浮かべてジェシカに尋ねた。
「ジェス、一つだけ聞きたいことがあるんだ……」
「何? マイク」
「僕の万年筆を何故君が持っているんだ? それに僕は今日、あの万年筆を手に取っていない。つまり、万年筆は僕のジャケットの
「この万年筆がどこにあったか、私は知らなかった。あなたがさっき私に教えてくれるまではね」
「えっ? 僕が?」マイケルは大層驚いた様子でそう言った。
「そして、私はあなたの万年筆を取りに行った……
それを聞いたマイケルはまたしてもひどく驚いてジェシカを見つめた。
「君が僕の万年筆を取りに行った、だって? 何を言ってるんだ、ジェス……君はさっきからこのカウンターテーブルの
「でも、事実あなたの万年筆は私が持っている。これはどういうことなの? 魔法?」そう言ってジェシカは万年筆をマイケルの手に握らせた。
「いや、でも……そんなはずは……」万年筆の重さを掌に感じながらマイケルは再び混乱し、独り言のようにつぶやいた。
ジェシカは、椅子から立ち上がりマイケルの肩をやさしく抱きしめると、静かにささやいた。
「ごめんね、びっくりしたわよね? 私、あなたの短期記憶と長期記憶の一部を消去したの。だから、あなたがここ2分くらいの間に言った事や目にした事を覚えていないのは当然なのよ」
「僕の記憶を? 君が? ……そうだったのか」
ジェシカはマイケルの身体から離れて再び椅子に腰かけると、心配そうに尋ねた。
「本当に理解できてる?」
「ああ……たぶん。でも……なんだか違和感が残ったままだけど……」そう言うと、マイケルは自分の手の平をじっと見つめた。
その様子を見て彼が少し元気を取り戻したようにジェシカは感じたが、彼女はこの後、決定的かつ破滅的なミスを犯した。ジェシカはこの時にマイケルに告げた言葉を生涯忘れることはなかった。
ジェシカは再びマイケルに話しかけた。
「でも、これで
「人の思考や感情に作用する……力……か」そうつぶやくと、マイケルは再び考え込んだ
マイケルの横顔を見つめながら、やっと彼が納得してくれたとジェシカは一安心した。このような能力を持った人間がある程度の人数集まれば、取るに足らない小さな力であっても銀河の趨勢に多少の関与ができる。そのことに彼が気付けば、あの変数の意味が理解できるはず。彼女はそう考えた。
しばらくするとマイケルは再び口を開いてゆっくりとつぶやいた。
「人の思考や感情に……いや、まてよ? ……感情だって?」
そう言うとマイケルは突然体を起こし、ジェシカの顔を凝視した。
「ジェシカ、君はまさか! ……僕の感情をコントロールして……」
そう言った彼の目には、驚きと恐怖の表情が宿っていた。
ジェシカは、マイケルが自分を呼ぶ呼称を愛称のジェスからジェシカに変えたのに気づいたが、いつも大げさな表現や人を担ぐような発言をして、彼女をからかう彼を普段から目にしていたので、ジェシカは彼の
「何言ってるのよ、馬鹿ねぇ。私があなたの感情を無理やり変えるはずがないじゃないの……」
あきれた様子でそう言ったジェシカは、何気なくマイケルの手を握ろうとしたが、彼はその寸前に素早く自分の手をひっこめてジェシカを見つめた。
マイケルに拒否されたことを知ってジェシカは驚愕し、慌てて弁明を始めた。
「マイク! 私は断じて一度だってあなたの感情を変えたりしたことはない! そんなこと考えたこともないわ。そんなことをすれば私は女として終わってしまう! それがわからないのっ?」
そう言って、ジェシカはマイケルの方に体を寄せたが、彼は後ずさりしておびえた様子で彼女を凝視した。
「ねえ、嘘……よね? こんなことで私達、終わりなんて……言わないわよね?」
「……」
ジェシカは今にも泣き出しそうな表情で懸命に涙を堪えながら、マイケルに語り掛けた。
「マイク……私、愛しているの、あなたを……あなたも私を愛しているでしょ? ……そうよね?」
マイケルは返事をしなかった。ジェシカは表情をゆがませて絞り出すように言葉を吐き出した。
「お願い、返事をしてよっ、マイク!」
今までマイケルがジェシカに向けていたまなざしは愛情や好奇心、あるいは慈しみに満ちていた。そんな彼の目が彼女は好きだった。それが今では、恐怖そして嫌悪の表情が彼の目を塗り替えている。
それがわかった瞬間、ジェシカは自分とマイケルとの間に取り返しのつかない致命的なヒビが入ったことを悟った。
二人の間になんとなく気まずい雰囲気が漂い、マイケルは居間で読書をし、ジェシカは既にきれいになっている室内を再び清掃し始めた。何か身体を動かしていないと、涙がとめどもなくあふれてしまうように彼女には思えたからだった。
それは以前と変わらない光景に見えたが、何かが確実に変化していた。マイケルの近くをジェシカが通り過ぎるたびに、彼はおびえたように肩をびくっとさせた。彼女はそれがとても悲しかった。
安易な考えで自分の『力』をマイケルに見せるべきではなかった。私は彼の心を壊してしまった。ジェシカの目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれた。
清掃道具を手にしながらジェシカは心ここにあらずといった様子で、以前祖父が自分に言い聞かせようとしていたことを思い出していた。
『……残念ながら、我々の住んでいる世界はお前のような特殊な能力を持つ者の存在を決して許容しない。特に他人の感情に『干渉』して変化を起こさせるなどと言った驚異的な能力といったものはな……ジェシカ、お前は人の知性や感情を甘く見すぎている!』
祖父の言ったとおりだった。愛があればどんな障害をも乗り越えることができる、ジェシカはそう固く信じていた。
だが、翼を持つ鳥の気持ちが人間にはわからないように、どうあっても分かり合えない関係が存在することをジェシカは身をもって思い知らされた。それもよりによって自分がもっとも大切に思っている人との間で……
ほどなくして清掃を終えたジェシカは、マイケルの方を振り返り「私、帰るね……マイケル」と言った。いつもなら今日は泊まって行けよ、とお決まりのセリフが返ってくるはずだったが、彼は返事もせずジェシカに背を向けたままだった。
マイクと呼びかけるところをマイケルと、あえて呼称を変えてみせたのも一縷の望みをかけて彼の反応を呼ぶためのものだったが、それは何の効果も及ぼさなかった。
ジェシカは扉を閉めて部屋の外に出ると、崩れるようにその場に座り込んだ。彼女は掌で顔を覆うと肩を激しく震わせ、声を押し殺して泣いた。
珍しく日が落ちる前に帰宅したジェシカは、何も言わずに自分の部屋へこもった。彼女の様子にセルダンは異変を感じたが、彼はジェシカに声をかけなかった。彼女は食事もとらず、そのまま部屋に閉じこもったままその日は姿を現さなかった。
次の日セルダンが彼女の姿を見かけたのは昼過ぎだった。ジェシカは食欲がないらしく、自分で用意したスープにも形だけ口をつけただけだった。
そうやってジェシカはじっとテーブルに置かれたスープを見つめていたが、しばらくすると立ち上がり食器を片付け始めた。
セルダンは、まず間違いなくブランダバスと何かあったと考えていたが、その疑問をなかなか口に出せずにいた。出かける準備を済ませたジェシカは祖父に声をかけた。
「出かけてくるね……」
「ジェシカ?」
「……何?」ジェシカはそう尋ねると、焦点の定まらない目で祖父を見つめた。
「……いや何でもない。気を付けていきなさい」
「はい……」
力の抜けた様子で、出かけていくジェシカの背中を見て、たぶんたわいもないことでケンカでもしたのだろう、どうせすぐに機嫌が直るさ、とセルダンは思った。
ところが、彼の予想に反して2日たっても3日たっても、彼女の様子は改善しなかった。早朝、精気の抜けた様子で出かけていっては、夜の21時過ぎには悲しげな表情で戻って来ることを日々繰り返した。
こういうときは何と言って声をかければいいか彼はいつも迷ったが、仲たがいの特効薬を持っているわけではない。話したくなればジェシカが自分から話すだろう。彼は時間の流れに任せることにした。
ジェシカは毎朝<大学>へ行き、マイケルの研究室へと足を運んだが、研究室内には人の気配が感じられなかった。もしかするとマイケルはどこかに出かけたままなのかもしれない。
彼女は彼の研究室内に入るロック解除キーを持っていたが、ロックを解除せず研究室の扉の前で彼を待ち続けた。
マイケルはその日も次の日も研究室に戻ってはこず、ジェシカは朝から夜遅くまでただひたすらに彼を待ち続けた。
研究室の外の廊下は暖房の効きが悪く、建物の外よりはましとはいえ、気温は10℃を下回る状態だった。ジェシカは膝を抱え込んでマイケルの研究室の扉の前に座り込み、吐く息で手を温めながら彼の帰宅を待った。
ジェシカがマイケルを研究室の前で待つようになって4日目の夜に、マイケルは唐突に自身の研究室に戻ってきた。
彼は自分の研究室の扉の前で誰かが座り込んでいるのに気付き訝しく思ったものの、それがジェシカだと知ると慌てて彼女の元へ駆け寄った。
「ジェシカっ! こんなところで何やってる!」
膝を抱え込んだままうつむいていたジェシカは人の気配に気づき、ゆっくり顔を上げると気の抜けた様子で「マイ……ケル?」とつぶやいて、視点の定まらない目で彼を見た。
ジェシカの様子がおかしいことに気づいたマイケルは彼女を抱きかかえた。ジェシカの手は氷のように冷たくなっていた。
「ジェシカ、なんで部屋の中に入らないんだっ、風邪をひきたいのかっ!」とマイケルは怒鳴った。
ジェシカは目に涙を浮かべて「だって……」とつぶやいた。
「だって、じゃない! 馬鹿たれっ!」マイケルはそう怒鳴ると、ジェシカを室内に入れ急いで風呂を沸かす準備をした。
ジェシカの元に戻ったマイケルはありったけの毛布を取り出し、ジェシカをぐるぐる巻きにした。毛布からはみ出た彼女の指先に、彼は懸命に温かい息を吹きかけた。
そうやってジェシカの指先を自分の吐く息で温めながら、彼は尋ねた。もう彼は怒ってはいなかった。
「なあジェシカ、どうして研究室の中に入らなかったんだ? キーは渡してあるだろ?」
「……」
「ジェシカ?」
「あなたに……拒絶されたから……私の事……嫌いになったんでしょ?」そう言うと、ジェシカは悲しげに目を伏せた。
それを聞いたマイケルは大きなため息を一つついた後、静かに口を開いた。
「君は稀にみるほど優秀な数学者だが……それと同時に正真正銘掛け値なしの本物の馬鹿だな。だが、君を泣かせてしまったことについては……
そして、彼はここ数日間何をしていたのかをジェシカに語り始めた。