3.72%の少女   作:六位漱石斎正重

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 冷え込む研究室の外でマイケルの帰りを待っていたジェシカの身体は想像以上に冷たくなっていた。マイケルは彼女を熱い湯で満たされたバスタブに浸からせ、彼女の体を温める。だが、身体は温まってもジェシカの心は凍り付いたままだった。
 そんな彼女にマイケルは閉じられたバスルームの扉越しに優しく語り掛ける。マイケルがジェシカに語り掛けた話の内容とは……



第二十八話 愛の本質

 マイケルはジェシカを急いで湯船につからせたあと、自分はバスルームの扉の外に座り扉に背中をもたれかけさせた。一方、ジェシカは湯船につかりながら、揺れる湯の表面をうつろな目で見つめていた。

 温かい湯で冷たくこわばった手足が柔らかさを取り戻していく。だが、彼女の心は凍りついたままだった。

 

 マイケルが静かに口を開く。

 

「なあジェシカ、よく聞いてくれ。この際だから本音を言うよ?」

「……」

「君の言う『力』が本物だとわかって、僕はひどく驚いたし……正直、君の事が怖くなった」

 

 ジェシカは一言も発しなかった。バスルームの扉の向こうで彼女が自分の話をちゃんと聞いているかどうかも定かではなかったが、彼は話を続けた。

 

「でも、怖くなるのも無理はないだろ? 実際に相手の思考や感情に作用する力なんて体験したら……」

 

「だけどね、それでも僕が君を好きになったのが錯覚だとはやっぱり思えないし、君が僕の感情を操作したせいで僕が君に好意を持ったとは、どうしても考えられない」

 

「そもそも君が『力』を考えなしに無節操に使う人間なら、君は即座に僕の感情を変化させているわけで……つまり、僕らは今、()()()()()になっていないはずだ。これはまさに君が、自身の『力』の行使について理性を働かせている誠実な人の証以外の何物でもないよ」

 

 そこまで話すと、彼はバスルーム内の気配を探った。やはりバスルーム内からは何のリアクションも帰ってこなかった。マイケルは話題を変えた。

 

「実はね、ここ数日こっちで知り合いになった学者の元にやっかいになってたんだ。こんな不安な気持ちを抱えたまま、まともに君と付き合うのは難しいと思ったからだよ。それで、そいつに詳細は伏せて概略だけを話したんだ」

 

「そしたら一喝されたよ。仮に彼女の頭に角が生えてきたとしたらお前の彼女への愛は消えちまうのか? お前の愛ってやつはその程度の安っぽいものなのか、とね……ちぇっ、僕と同じで大した恋愛経験もなさそうなくせに。えらそうなんだよ、あいつはっ!」

 

 そうマイケルは憤慨した様子で言うと、急にバスルーム内の雰囲気が変わった。ジェシカが笑っている? 声も聞こえない。姿も見えないはずなのになぜかわかる。そう彼には感じられた。

 

 彼はもともと勘のいい方ではなかったし、察しが悪いことを自他ともに認めていた。まさか、ジェシカが行使した力の影響とも思えないが、どういうわけかバスルーム内の気配がかすかではあるが感じられる。再びマイケルは口を開いた。

 

「ああそうさ、あいつの言う通りだよっ! 僕はごちゃごちゃ考えすぎる。僕は君の頭に角が生えてこようが、背中に羽が生えようが、僕の君への気持ちは変わらない……だからはっきり言うよ?」

 

「……驚異的な能力を持ち、ちょっとヤキモチやきで、何事も白黒はっきりつけないと気が済まない、君のそういうところも全部ひっくるめて……僕は君のことが好きだ。愛している、ジェシカ」

 

 再びバスルーム内の雰囲気が変わった。驚きと喜び。どういうわけかわかる。彼は不思議な思いを抱きながら、最終宣告を行った。

 

「今日から僕と君は、再び『マイク』と『ジェス』になる。もし今、仮に君が僕の心の中の君の記憶を消したとしても、あるいは君が僕の感情に作用して君のことが嫌いになるようにしむけたとしても……僕は必ず君のことを思い出すし、再び君のことを好きになってみせる……たとえどんなに時間がかかったとしてもね」

 

 それを聞いたジェシカは湯船の中で声を押し殺して泣いた。それは悲しみの号泣ではなく喜びのそれだった。そのことを感じたマイケルは立ち上がり、静かにバスルームの扉から離れた。

 

 しばらくしてジェシカはバスルームの中から姿を現し、カウンターテーブルの椅子に座ったマイケルの前に黙って立った。身に着けているのは純白のバスタオル一枚のみ。

 彼女のトレードマークでもあるポニーテールはほどかれていて、暗めのサンシャインイエローのロングボブの髪がかすかに水で濡れている。

 

 ジェシカはそのまましばらく黙って立ち続けた後、無言でバスタオルをほどいた。支えを失った白いバスタオルが、空気抵抗と重力の作用に従って複雑な軌道を描き音もなく落下する。彼女はマイケルの目をじっと見つめたあと、小さな声で「抱いて……」と言った。

 

 マイケルは一糸まとわず立ちつくしたままのジェシカの白い裸体をまぶしそうに見つめ、「宇宙で最も素晴らしい光景だ」と言った。だが、不思議と情欲は感じなかった。

 

 彼は椅子から立ち上がって彼女の唇にキスをすると優しくジェシカに話しかけた。

 

「君は何日もまともに寝てないな?」

 

 マイケルはそう言うと、疲労のために彼女の目の下に現れたクマを優しく指でなぞった。

 

「君の提案は確かに魅力的だけど、疲れ切った君を抱いても面白くない。また今度にしよう。時間はいくらでもある」

 

 ジェシカはマイケルのその言葉を聞いた瞬間、悲痛な表情で口を開いた。

 

()()()()()()、マイク……」そう言ってジェシカは今にも泣きだしそうな顔でつぶやいた。

 

 彼女の言葉に何か不穏なものを感じた彼は、彼女の肩をつかんで軽く揺すった。 

 

「何っ? 時間がないとはどういう意味だ、ジェス! 君は僕とテルミナスへ行くんだろ?」

 

 ジェシカはそれには答えず、目を伏せた。マイケルはジェシカが疲れきっていて自分で何を言っているのか認識できていないと考えた。

 彼はジェシカの身体を抱きかかえベッドへ歩いていくと、彼女をシーツの上に寝かせ、彼女の身体の上から毛布と厚手のかけ布団をかぶせてやった。

 

「とにかくしばらく眠ることだ。過度な睡眠不足のせいで、君の頭はうまく働いていないように僕には思える。なーに、ぐっすりと眠ってしっかり栄養をつければすぐに元気になるさ」

 

 マイケルはそう言って、ジェシカの額に軽くキスをした。

 

「ジェス、僕は移住計画の調整の仕事が残っているからまた出かけるよ。昼には戻れないかもしれないから、君はデリバリーでも何でも頼んでちゃんと食事をするんだぞ? いいな」そう言うとマイケルは部屋を出ていった。

 

 一人部屋に残されたジェシカは目をつむり、ぼんやりした意識の中で小さくつぶやいた。

 

「本当に時間は……もうないの……よ……」ジェシカはそう言うと、何かに吸い込まれていくかのように彼女の意識はそこで途絶えた。

 

 次の日の夜半過ぎにマイケルは再び研究室に戻り、ジェシカの様子を見に行ったが、彼が戻って来る前に彼女が起き上った形跡はなく、ジェシカは昏々と眠り続けた。

 

 マイケルは彼女の額に触れ、想像以上に熱が出ていることに気づくと慌てて個人用医療キットから熱吸収シートを探し出し、彼女の額に張り付けた。

 数時間おきに熱吸収シートを交換し、その間にセルダンへジェシカの現在の状況を説明し、それと同時に移住計画の主要メンバーにも明日は自分が出席できないことを伝えた。

 

 厄介なことに次の日になってもジェシカの熱は下がらなかった。マイケルは眠気を抑えながら、移住者の中の医療従事者にジェシカを診てもらうことを一瞬考えたものの、医療従事者達は約十万人の健康を維持する責務を担っており、その数は潤沢とは程遠い状態だった。

 

 移住計画の実行幹部である自分が他の移住者を差し置いて、優先的にジェシカの診察を頼むのは職権乱用とも受け取られかねず、その考えをしぶしぶ断念した。明日になっても熱が引かないようなら外部の医療従事者を頼ろう、彼はそう思った。

 

 3日目の早朝、ジェシカはようやく目を覚ました。ふと、掛布団の左側に視線をやると、マイケルが布団の上に上半身を預け、いびきをかいているのが目に入った。

 ジェシカは、彼のその寝顔を見て可愛いと思った。中年男性の寝顔を可愛いと感じたことを彼女は奇妙に思ったが、再び彼の寝顔を見つめて彼女は微笑んだ。

 

 ジェシカは眠っている間にかいた汗をシャワーで洗い流し、手早く衣服を身に着けると朝食の用意をした。しばらくして、ベッドの中にジェシカがいないことに気づいたマイケルは居間にやってきて彼女に声をかけた。

 

「やあ、ジェス、やっと目が覚めたんだね」

「私の看病をしてくれたのね……ありがとう」彼女ははにかみながらそう言った。

「なーに、これも彼氏の大切な仕事だ。気にするな、ジェス」とマイケルは胸をわずかにそらして言った。

 

 ジェシカは、「朝食の用意ができてるから、顔を洗ってきたらどう?」と勧め、マイケルは素直にそれに従った。

 

 こうして砕け散る寸前だった二人の愛は元の形に復元された……かのように見えた。マイケルのジェシカを見る目は以前のように愛情に満ち溢れ、かつて現れた彼女に対する恐怖心や嫌悪の感情は跡形もなく消え失せていた。

 だが、彼の身体にジェシカが触れた時、いつもではなくたまに彼の身体は反射的にビクっと震え、驚きの反応を示した。

 

「何なんだろうな? もう別に君が怖いわけじゃないんだけどな……」マイケルはそう言って笑い、彼女を気遣った。

 

 ジェシカは内心の不安を隠して無理に微笑むと「いいのよ……」と言った。ジェシカは二人の愛に、目に見えないヒビが入ったままになっていることを感じ取り、悲しくなった。

 それでも彼女は、彼が彼女の全てをひっくるめて彼女を愛すると宣言したように、彼女もヒビが入ったままの愛を慈しんでいこう、少なくとも彼がテルミナスへ旅立つまでは。そうジェシカは強く決心した。

 

 それからジェシカは朝早くに出かけ、日付が変わる直前の深夜に自宅へ戻る生活を続けた。セルダンは毎日だいたい二十二時半にはベッドに入るが、たまに深夜まで起きていてジェシカの帰宅時に出くわすこともあった。

 

「なあ、ジェス、もういっそのこと、しばらくブランバスのところで生活したらどうだ?」

 

 そう言ってセルダンは笑ったが、ジェシカはそれをキッパリと拒否した。

 

「いいえ、それはできない。やっぱりけじめはつけないと……」

「お前もお前のママに似て頑固だね。だが、今でもお前は家に寝に帰ってきてるようなもんじゃないか、それだったら大して変わらんだろう?」

「確かにおじーちゃんの言う通りだけど……もしいったん一緒に住むようになってしまえば、私は自分の使命を自覚し続ける自信がなくなる……」

「そうか……」

 

「私の代わりは誰にもできない。私が今『組織』から抜ければ、『組織』は崩壊してしまう……」

「……」

「心配しないで、おじーちゃん。私、今とっても幸せよ? 信じられないほどにね……マイクとの付き合いを許してくれてありがとう」そう言ってジェシカは微笑んだ。

 

 セルダンは、「すまん……」と一言つぶやくと、自分の寝室に入って行った。

 

 ある晩、セルダンはトイレから戻る間に洗面所に人の気配を感じた。彼が洗面所をそっと覗き込むと、ジェシカは洗面器の中に胃の中のものをすべて吐き出していた。何もなくなった胃の中からまだ何かを吐き出すかのように彼女が激しくえずく。

 エストロゲン、プロゲステロンなどの女性ホルモンが嘔吐中枢を刺激する、ある種の女性ならではの典型的な症状をジェシカの身体は示していた。

 

 セルダンは彼女の背後から静かにジェシカに声をかけた。

 

「ジェシカ……お前……」

「……」

「赤ん坊だな? ブランダバスとの間に赤ん坊ができたんだな?」そう勢い込んで尋ねると、ジェシカは祖父の方を振り向き、真剣な目で彼を見つめた。

 

「マイクには絶対に言わないで! 彼は移住計画にかかりっきりで、今手が離せないの。彼を些細な事で煩わせたくない……」

「些細な事ってお前は、それで……」

 

 祖父の言葉を遮るようにジェシカは口をはさんだ。

 

「大丈夫、何事も心配無用よっ!」そう言って右手の親指を立てて無理に微笑んだジェシカは、再び表情をゆがませると洗面器に向かって胃液を吐き出し始めた。

 

 セルダンは孫娘の背中をやさしくさすりながら、ついに来るべきものが来たかと覚悟したが、それと同時に生まれてくる子供にジェシカの能力が受け継がれるかどうかに、彼は強い関心を抱いた。

 

 マイケルを含む移住予定者がトランターを出発するまで残り二週間を切っていた。

 

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