3.72%の少女   作:六位漱石斎正重

30 / 32
 テルミナス行きの輸送船に乗り込む日がやってきた。マイケルとジェシカ普段と変わらない朝を迎えるが、マイケルはジェシカの悲しい決意を知るはずもなく、二人は輸送船発着ターミナルへと足を運ぶ。
 いざ輸送船に乗り込む段階になると、ジェシカは揺れる心を無理に押さえつけて衝撃的な告白をする。私はあなたとテルミナスへいくことはできない。それを聞いたマイケルの反応は……



第三十話 さよなら……

 次の朝、宇宙港に向かうため出入り口の扉の前で大型のキャリーケースの中身を確認していたマイケルは、あることに気づいてジェシカに尋ねた。

 

「ジェス、君の荷物はそれだけか? ずいぶん少ないようだが……」

 

 そう指摘されたジェシカの所持品は、小さな手さげカバンが一つだけだった。彼女はかすかに微笑んで、「私の荷物はもう宇宙港に送ってあるのよ」と言った。

「そうか、僕もそうすればよかったな……まあいいか。じゃあ行こう、ジェス」彼はそう言って研究室の扉を開けて外へ出た。

 ジェシカは「ええ……」と言って、彼の後に続いた。

 

 彼女の前を歩いていくマイケルの頭が左右に揺れる。その動きを目で追いながら彼の後ろを歩くジェシカの表情は硬くこわばっていた。

 

 笑わなければ……笑わないと彼が変に思う。彼女は無理に微笑んだ。

 

 宇宙港に到着した二人は港内をしばらく歩き、輸送船の入り口に至る最終ゲートに到着した。マイケルは誰も並んでいない緊急用ゲートと表示された窓口の係官の前に歩いていった。

 

「マイケル・ブランダバス。テルミナス行き834号乗船客だ」そう彼は申告した。

 

 係官は乗船名簿に目をやった。

 

「マイケル……ブランダバス……ああ、ありました。移住計画の実行幹部の方ですね? ようこそ834号へ」係官はそう言うとゲートの中に入るよう促したが、マイケルはゲートの中には入らずジェシカの方を振り向いて微笑むと、再び係官に向きなおって話しかけた。

 

「そして、こちらの女性がジェシカ・セルダン、あ、いや違った、ジェシカ・ブランダバスだ」

「ジェシカ……セルダン……名簿には載ってないようですね。ジェシカ・ブランダバスという名前もありません」

 

 それを聞いたマイケルは係官の肩を抱いて他の人に見えないように係官の方へ頭を寄せると、声を潜めた。

 

「なあ……わかるだろ? 彼女は僕の妻なんだ」そう言ってマイケルは意味ありげに係官を見つめた。

 

 係官の手にはかなりの額の紙幣が丸められた状態で握らされていた。係官は素早く左右を一瞥した後、紙幣の山が他の者に見えないように急いで手の中に握りこみ、一つ小さな咳をすると「奥様も中に入ってください、急いで!」と言ってソワソワしながらあたりを見回した。

 

 ゲートの中に通された二人は輸送船のタラップへ向かって歩き出した。マイケルの後ろをついていくジェシカは彼の後姿を見ながら、苦笑した。

 

「あなたもいよいよ悪どくなったわね、マイク」

「でも、平和的な解決だろ? 僕は君を連れていけるし、君も僕といっしょに船に乗れる。そして彼はいくらかのお金を手にする。三方丸く収まるじゃないか」とマイケルはすました顔で答えた。

 

 輸送船のタラップのステップを一段一段上がっていくたびに、ジェシカの顔はいよいよ本格的にこわばってきた。笑わなければ……笑わなければ……そう彼女は心の中で言い続けた。

 

 二人はタラップの最上段をあがると、感慨深げに外の宇宙港の様子を輸送船の出入り口から眺めた。

 

「いろんなことがあったな……」マイケルがそう言うと、ジェシカは彼に身体を寄せながら「そうね……」と答えた。

 

 しばらく二人が輸送船の出入り口から宇宙港の様子を眺めていると、輸送船の中から突然一人の男性が近よってきて、マイケルに声をかけた。

 

「よぉ、マイケル。遅いじゃないか」

「あれ? お前もこの船か?」

「そうだよ」とマイケルに話しかけた男はそう答えたが、ジェシカの存在に気が付いて「こちらの美しい女性は?」と尋ねた。

「ああ、こちらはジェシカ・セルダンだ」とマイケルはジェシカを紹介した。

 

 ジェシカは男に向かって軽く会釈をした。

 

「ジェシカ・セルダン……セルダン?」彼は何かを考え込むように首を傾げた。

「ハリ・セルダン博士のお孫さんだよ。ほら、この前僕がお前のところに厄介になった時に話しただろ?」

「ああ! 初めましてミス・セルダン」男は気取ったしぐさであいさつして彼女の手の甲にキスをした。

 

「言い忘れていたが、彼女は昨日『ジェシカ・ブランダバス』になった」とマイケルは自慢顔で言った。

 それを聞いた男は「ヒュー! それはめでたいじゃないか。宇宙空間に出たらパーティーだな」と叫んだ。

 

 マイケルは、「ああ」と言ってジェシカの方を振り返ったが、あることに気がついてジェシカに尋ねた。

 

「ジェス、君の荷物はどうしたんだ? 宇宙港に先に送ったんだろ? この船に載せなくていいのか?」

 

 それを聞いたジェシカは、ついに『その時』が来たと覚悟を決め、彼の手を握り真剣な表情でマイケルの目を見つめた。

 

「マイク……私、この船には乗れないの」

「えっ? 他の船でテルミナスへ行くのか?」とマイケルは不思議そうな顔でジェシカを見つめた。

「そうじゃないの……()()()()()()()()()()()()()……どうしても行くことができないの」

 

 そう言うとジェシカは、マイケルに話しかけた男の方を見つめた。男は何となく気まずくなってその場を離れた。男の姿が見えなくなると彼女は再びマイケルの方へ顔を向けた。

 

 今までに見たこともないほど悲痛な表情を浮かべて彼を見つめるジェシカの様子に、マイケルもこれはただ事ではないと、急に不安を感じた彼はジェシカの右腕を強い力でつかんで叫んだ。

 

「何を言ってる、ジェス? 君は僕と一緒にテルミナスへ行くんだ!」

 

「短い間だったけど、私あなたに一生分の幸せをもらったわ。それにこの指輪……とってもうれしかった……」

 

 そう言って、ジェシカは自分の左手の薬指にはめた美しく深緑色に輝くペリドットの指輪に、いとおしげに頬をよせた。彼女の目には涙が浮かんでいた。

 

 それを聞いたマイケルの不安は一気に増大した。

 

「どういう意味だ、ジェス? 短い間だったけどって、まるでお別れでもするみたいに! ……いったい何の冗談だっ!」

 

 マリッジブルーでいきなり心変わりをする女性は少なくない、という記事を彼はどこかで読んだことをふと思い出し、取り乱して叫んだ。

 

 ジェシカは周りに誰もいないことをすばやく確認すると、マイケルの顔に自身の白い左手を添えて彼の目を見つめ、優しくささやいた。

 

「マイク、愛してるわ……私、あなたを愛してる……本当よ?」

 

 マイケルはジェシカの美しい『アースアイ』が一瞬淡く光るのを目にした。

 

「いったいどうしたって言うんだ? ジェスっ! 今日の君は何か変だ……ぞ……」

 

 そうマイケルは叫んだが、その後に続くはずの言葉が彼の口から出てくることはなかった。

 

「ごめんなさいマイク……()()の存在を知っている者をテルミナスへ行かせるわけにはいかない。これしか方法がなかったの……私を許して……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 目に涙を浮かべながらジェシカはそう言うと、彼女はぼんやりと中空を見つめるマイケルの顔を見上げた。マイケルは感情のこもらないガラス玉のような目で虚空を見つめ、茫然と立ち尽くしていた。

 

 ジェシカはしばらくマイケルの顔を見つめた後、小さな声で彼にささやいた。

 

「好きよ、マイク……大好き……」

 

 ジェシカの目から涙があふれ出て、左の目から一筋の涙が頬を伝い床にこぼれ落ちた。ジェシカは背伸びをして彼の唇に軽くキスをすると、悲しげに目を伏せた。

 

 ジェシカは『力』を作用させてマイケルの脳に変性を加えた後、彼の脳に接触した痕跡を過去の分も含めて一つ残らず全て削除した。そして、ジェシカは後ろ髪を引かれる想いで『掴んでいた』マイケルの心を離した。

 

 『干渉』は1.2秒で完了した。ジェシカはマイケルの顔から手を離し、再び彼の顔を見つめた。

 

 しばらくすると、宙をぼんやりと見ていたマイケルはハッと我に返り、そこではじめてジェシカの存在に気づいたかのように彼女に話しかけた。

 

「あれ? ……やあ、()()()()、誰かの見送りかい?」とマイケルは無邪気な様子でジェシカに尋ねた。

 

 ジェシカを見るマイケルの目は、ほんの直前まで優しさと愛情に満ち溢れ、恋人を見る目そのものだったが、今では彼の目は彼女に対して何の特別な感情もなく、街中にいる単なる普通の少女を見る目に変ってしまっていた。

 

 マイケルのその目を見た瞬間、ジェシカは自分が作用させた『干渉』が想定通りの効果を及ぼしたことを知った。

 

 『干渉』を行えばマイケルがどうなるか、ジェシカは今までの経験から知りすぎるほどよくわかっていた。それでも『干渉』を行わざるを得ない自分の運命に彼女は深い悲しみを覚えた。

 

 間もなくジェシカの目からは止めどもなく涙があふれ出した。それを見たマイケルは怪訝な表情をしてジェシカに尋ねた。

 

「どうした? なぜ泣いている、ジェシカ?」

「いいえ、なんでもないの……」ジェシカはそう言って涙を拭った。

 

 マイケルはジェシカの心の中の深い悲しみに気付く様子もなく、陽気な調子で話し続けた。

 

「ジェシカ、言う必要もないことだとは思うが、セルダン博士はなにぶんご高齢だ、彼を支えてやってほしい……それから、えっと、これは余計なお世話かもしれないけど、一人の平凡なただの中年のおっさんからの老婆心として聞いてほしい」

 

「それに……君は美人だ、さっさと君につり合いそうな男を見つけて……もっともそんな男はそう簡単には見つかりそうもないが……まあ、とにかくいい女になれよ!」マイケルはそう言ってウィンクをしたが、ジェシカはそれに対して一言も発しなかった。

 

 しばらくしてマイケルは「それじゃ、元気でな」とジェシカに言った後、彼女に背を向けて「よーし、がんばるぞ! この後もなんやかやで忙しくなるからな……」とつぶやきながら、輸送船の奥に向かって歩いて行った。

 

 ジェシカは、去っていくマイケルの後姿を見つめながら、彼が以前自分にはっきりと宣言したことを思い出していた。

 

【もし今、仮に君が僕の心の中の君の記憶を消したとしても、あるいは君が僕の感情に作用して君のことが嫌いになるようにしむけたとしても……僕は必ず君のことを思い出すし、再び君のことを好きになってみせる……たとえどんなに時間がかかったとしてもね】

 

 彼女はしばらく一人でその場に佇んだ後、船内に背を向け肩を小さく震わせながら「さよなら……」と小さい声でつぶやいた。

 

 ジェシカの目は再び涙であふれ、大粒の涙がとめどもなく彼女の頬を濡らした。

 

 タラップを降り、再びゲートを通って宇宙港の送迎ターミナルへ歩いて行こうとするジェシカを係官が見つけた。彼女の様子が少しおかしいと思った彼は、ジェシカを呼び止めた。

 

「ミセス・ブランダバス? あと2時間で輸送船は出航しますよ? 一体どこに行くんです?」

 

 ジェシカはゆっくりと係官の方を振り返り、黙ったまま軽く一礼すると歩き去って行った。マイケルから少なくない金を受け取っていた彼は、彼らに多少の義理を感じていたものの、赤の他人が詮索して余計な世話を焼き、ますます問題をこじらせることもある。どうせちょっとした痴話喧嘩だろうと考え、何も言わず彼女の後姿を見送った。

 

 輸送船の出入り口でマイケルと出くわした男は、船室に戻ってきたマイケルと廊下で出会った。一人で戻ってきたマイケルを不審に思い、彼はその理由を尋ねた。

 

「あれ? マイケル。ジェシカはどうした?」

「どうしたって?」マイケルは不思議そうな顔で彼を見つめた。

「いや、だから結婚したんだろ? ジェシカと。彼女はどこに行ったんだ?」

 

「何言ってるんだ? ジェシカは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()じゃないか、乗船客じゃないぜ? それに、何故僕が彼女と結婚する? あんな美少女が僕みたいな中年男に興味を持つわけがないだろ?」とマイケルは言った。

 

 男は、先ほどとは雰囲気がまるで違っているマイケルをしばらく怪訝な表情で見つめていたが、ふと彼の左目に光るものがあるのに気が付いて、「おい……お前の左目」と言った。

 

「僕の左目がどうかしたのか?」と言って、マイケルは指で自分の左目に触れると、指先が涙でぬれたのに彼は気付いた。

「あれ? 何で涙が……それに、なんだかとても大事なことを……忘れているような気が……」そう言ってマイケルは左目にあふれた涙をぬぐった。

 

「マイケル……お前どこかに頭でもぶつけたんじゃないのか」と彼は本気で心配した。

 

「そんなんじゃないよ! それよりまだやることがいっぱいあるぞ。テルミナスへ到着する前に入植地の査定や入植計画を立てなきゃならん。うかうかしてると、計画が立てられる前にテルミナスへ到着して裸で夜を過ごすことになるかもしれないぞ」そう言って、マイケルはスタスタと歩いていった。

 

 去っていくマイケルの背中を男は訝しげな表情で見送った。

 

 足を悪くし、数日前から車いすに座るようになったセルダンは、はるか遠くに見える多くの輸送船とその周りにいる大勢の人々を漠然と眺めていた。

 もしかするとジェシカはここには戻っては来ず、ブランダバスと一緒にテルミナスへ行ってしまうかもしれない、と彼は思った。

 

 でも、わかっていたことじゃないか、男と女は測りがたいものだ……仕方がない、ジェシカの事はあきらめよう、そう決心してその場を去ろうとした時、前方の人混みの中から唐突にジェシカが姿を現した。彼女も祖父の姿を認めた。

 

「おじーちゃん……」

「まさか! ……戻ったのか、ジェシカ?」そう言って、セルダンは驚きで目を見開いた。

「私……彼と『お別れ』してきたの……」そう言って彼女は力なく笑った。

 

「それで……よかったのか?」と彼が言葉を絞り出すように尋ねると、ジェシカはフッと軽く息を吐き出し祖父に答えた。

「いいも悪いも、私がいないと困るんでしょ? おじーちゃん」と言って笑った。無理やり笑ったぎこちない笑いだった。

 

「それはそうだが、しかし……」

「いいのよ、心配無用よ。私には彼からもらったこの指輪があるし、おなかの中には彼の子供が宿っている。それに私は妊娠してるからどのみち輸送船には乗れないし……」

「そうか、超高速推進が妊娠している女性の身体に悪影響を与える、ということだったな。だが、子供を産んだ後、改めてテルミナスへ行く、という事も……」

 

 セルダンはそうされると困る提案をあえてジェシカに行った。彼女に対して、ただ黙ってトランターに残れとはとても言えなかった。

 

「いいえ……もう()()()なの」そう言うと、ジェシカは軽く首を左右に振って、ひきつった笑いを浮かべた。

「手遅れ?」

「『干渉』で私の『手』が彼の脳に触れた部分は、内側側頭葉と前脳基底部の一部……今の彼には『少女ジェシカ』の記憶はあっても『恋人ジェス』の記憶はないの。()との思い出はすべて失われてしまった……永久にね」

 

 それを聞いたセルダンは黙り込んだが、しばらくするとセルダンは再び口を開いた。

 

「ブランダバスがお前を思い出すことは……もうないのかい?」と彼が遠慮がちに尋ねると、ジェシカはそれをきっぱりと否定した。

 

「私が『干渉』した彼の脳の部分は可塑性が全く無い部位で、人間の記憶に関して不可逆的かつ決定的な変化を及ぼす場所なの。彼が私の事を思い出すことはないわ……彼が思い出すことは……もう……二度と……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ジェシカはそう震える声で言うと、崩れるようにその場に座り込み彼女は大声を上げて泣いた。

 

 セルダンはジェシカの頭を優しくなでてやることしかできなかった。車いすに座ったセルダンの膝の上で人目をはばからず泣いているジェシカの姿は、まるで小さな子供のようだった。

 

 二人の周りを多くの人々が通り過ぎていったが、そんな二人の様子を気にかける者は誰一人いなかった。移住者の乗船手続きは予定通りに進行し、指定の時間に輸送船は離陸を始めた。

 

 セルダンとジェシカは宇宙港に残ったまま、次々に離陸していく輸送船の集団をいつまでも見つめていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。