仮面ライダージオウ 外伝 FUTURE大戦   作:ボルメテウスさん

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2077 太古と現代

闇の空き地は、静かに“増えて”いた。

声のない列。揃いすぎた瞬き。等間隔の足音。どれも人間の形をしているのに、人間らしさだけが抜け落ちている。

 

「……来るぞ」

 

ウォズの低い声が落ちた瞬間、湿った“カチ、カチ”が鳴った。

触手が走る。直線じゃない。地面を這い、壁を撫で、影を踏み台にして――列の隙間から、針のように突き上がる。

 

カセキは迷いなく踏み込んだ。

足裏が地面を沈ませ、砂利がひしゃげる。重さが“壁”になる。

 

「刺させるな……!」

 

拳は人間に向けない。

向けた瞬間、終わるのは敵じゃなく人間だと分かっているから。

 

カセキは触手の軌道へ身体ごと割り込む。

胸の装甲に触手が当たって弾け、粘液が飛ぶ。飛沫が列へ届く前に、カセキは肩を捻って受け流し、地面へ叩き落とした。

 

ズル、と触手が地面を滑る。

その“滑り”が、次の刺突の予備動作だと分かる。嫌なほど分かる。

 

「お前の相手は、俺だ……!」

 

カセキは触手を踏み抜く。

沈み込む地面の圧で動きを鈍らせ、爪で“根元”へ狙いを絞る。切るんじゃない。断ち切れば飛沫が飛ぶ。だから、潰す。押し潰して、粘液を地面に吸わせる。

 

粘液が靴底に絡む。冷たい。生きてるみたいに伸びる。

それでも踏み続ける。ここで怯めば、次の一刺しが人間に入る。

 

列が、また一歩進む。

逃げ道を塞ぐ配置。速さじゃない。正確さだ。人間がこんな正確に動けるはずがない。

 

触手が二本、同時に来た。

一本はカセキへ。もう一本は列の中、涙だけ流している女へ――

 

「させるかッ!」

 

カセキは腕を伸ばし、触手を掴んだ。

掴んだ瞬間、掌にぞわりとした“生体”の感触。筋肉ともゴムとも違う、嫌な弾性。体内から脈打つような圧が伝わってくる。

 

引き千切るのは簡単だ。

でも千切れば、飛沫が飛ぶ。

飛べば、増える。

 

「……っ、くそ……!」

 

龍之介は歯を食いしばり、触手を“引く”のではなく“引き寄せた”。

狙いを自分に集める。刺すなら俺を刺せ、と言わんばかりに。

 

触手がカセキへ集中する。

その一瞬、列へ伸びるはずだった刺突が遅れる。

 

「今だ、動くな……!」

 

言っても届かない。届かないから、動かす。

カセキは列の外側へ体を寄せ、押し出すように肩を入れた。殴らない。叩かない。潰さない。

ただ、進路から外す。自分が“壁”になって人間を守る。

 

しかし闇の中心の影が揺れ、触手がさらに増える。

刺突の角度が変わる。回り込みが早くなる。計算が一段階進む。

 

「……学者の俺が、こんなもん相手に……!」

 

龍之介の声が震える。恐怖じゃない。怒りだ。

人を盾にする仕組みそのものへの、怒り。

 

「——増やさせない。ここで止める!」

 

カセキは地面を強く踏み抜いた。

沈み込みが波のように広がり、触手が刺し込む“地面の角度”を崩す。針のような先端が狙いを外し、空を切る。

その隙に、カセキは触手の先を装甲で叩き落とし、踏んで、潰す。踏んで、潰す。

一匹の獣じゃない。増殖する病だ。だから、手数で潰す。

 

粘液が広がる。匂いが濃くなる。喉が焼ける。

それでもカセキは一歩も退かない。退けば列に刺さる。刺されば増える。

 

「ウォズ……早くしろ……!」

 

頼む、とは言わない。

頼んだ瞬間、自分の覚悟が折れそうだから。

 

ウォズは一瞬だけ視線を寄こし、頷いた。

その頷きが、龍之介の背骨を一本太くする。

 

列がまた一歩進む。

触手がまた伸びる。

カセキはその間に立ち続ける。

 

殴れない壁の前で、殴らずに戦う。

増殖の針を、ただ自分に集めて、叩き落として、踏み潰す。

“これ以上増やさない”ためだけの、耐える戦いが続く。

触手が“列”へ伸びるたび、カセキはその前に沈み込んだ。踏み、潰し、受け流し――殴れない人間の壁を、殴らずに守るための手数だけが増えていく。

 

「……くそっ、次が来る!」

 

龍之介の声が擦れる。粘液の匂いが肺を汚し、足元の湿り気が判断を鈍らせる。列は、相変わらず同じ角度で首を傾け、同じ拍で一歩ずつ迫ってくる。目だけが、空っぽのまま。

 

その背後で、ウォズが一歩前へ出た。

 

問いが弱気に寄りかけた瞬間、触手が三本、同時に跳ねた。一本は龍之介へ、二本は列の隙間へ――刺されれば、また“揃う”。

 

「ウォズ!」

 

「目を逸らすな、古代龍之介!」

 

叱咤が飛ぶ。龍之介が踏み込みで触手を引き受けた、その“一拍”を、ビヨンドライバーに、キカイミライドウォッチを装填する動きが速い。

ウォズが指を鳴らすように腕を振り、空間に緑の投影リングが走る。

 

『投影!フューチャータイム!デカイ!ハカイ!ゴーカイ!フューチャーリングキカイ!キカイ!』

 

音声の最後に合わせて、ウォズの身体へ“機械”が噛み合っていく。燃料圧力式シリンダーの増強機構が、骨格ごと力を上書きするように、鈍い駆動音を鳴らしながら、フューチャリングキカイとなる。

 

「——行くぞ」

 

フューチャーリングキカイとなったウォズは、視線を列へ向ける。龍之介が触手を踏み抜いた拍子に、粘液が跳ねた。飛沫が列へ届く寸前――ウォズの肩がわずかに開く。

 

カシャ、と乾いた展開音。

キカイショルダーの内部から、微細な光の粒が噴き出したのは緑の微光だ。

 

「……あれは?」

 

龍之介が呟く。ウォズは肯定もしないで、ただ指先を払う。

 

「命令の糸を、断つ」

 

光の粒が列へ降り注ぐ。

触れた瞬間、列の“揃い”が崩れた。瞬きの拍がズレ、まるで、一本の太い回線が切断されて、端末がそれぞれ孤独に戻されたみたいに。

 

「——ぁ……っ」

 

声が、戻る。

誰かが咳き込み、誰かが膝を折り、誰かが泣き声の途中で息を詰まらせた。瞳が“人間の焦点”を取り戻し、皮膚の下で蠢いていた異物の脈動が、遅れて止まる。

触手が、反射的に引き戻された。

支配できない。同期できない。増やせない。

その焦りのように、闇の中心でアナザーアマゾンネオが動いた気配がする。

 

「ウォズ……救えたのか」

 

龍之介の問いに、ウォズは一拍だけ黙った。

そして、硬い声で答える。

 

龍之介の問いに、ウォズは一拍だけ黙り、低く、言い切った。

 

「ここから先、彼らを本当に助けられるのは、あいつを倒せるかどうかだよ」

 

その言葉が落ちた瞬間、場の温度が変わった。

 

さっきまでの“救出”は、崩れかけた列を支えるための応急処置に過ぎない。

命令の糸は切れた。瞬きも歩幅も、個々の恐怖へ戻った。

だが――恐怖が戻ったということは、また“狙われる”ということだ。

 

空き地の中心。闇の揺れが、いっそう大きくなる。

触手が地面を叩く“カチ、カチ”が、今度は苛立ちのリズムに聞こえた。

刺して揃えられない。増やせない。盾を作れない。

だから、やり方を変える。そう告げるように、粘液の糸が太くなり、壁へ這い上がる。

 

救出された人々が、ようやく状況を理解する。

「なに……?」

「やだ……動けない……」

声になりきらない声が混ざり、膝をつく者が増える。立ち上がろうとして転び、手をついた場所が粘液で滑って、さらに恐怖が増す。

ここは安全になっていない。安全になった“ふり”をしただけだ。

 

龍之介の胸の奥が、冷たく締まる。

助かったはずの命が、まだ“終わっていない”と理解する痛み。

 

「……つまり、今のは……時間稼ぎか」

 

言いながら、自分の言葉に腹が立つ。

時間稼ぎで済ませていい話じゃない。だが、現実は時間稼ぎだった。

 

ウォズは頷かない。否定もしない。

ただ、闇の中心へ一歩踏み込む。黒いスーツの裾が揺れ、機械の肩が低く唸る。キカイショルダーから放たれた微光が、まだ空気中に残っている――その残滓すら、これから来る“本気”の前では細い糸に見えた。

 

「……古代龍之介」

 

呼び名が、命令のように響く。だが命令ではない。

責任の共有だ。

 

龍之介は拳を握り直した。

さっきまで“殴れない”ことに縛られていた拳が、今は別の形で縛られる。

殴れる相手がいる。殴らなきゃいけない相手がいる。

それが、救えた人々の恐怖の真正面にいる。

触手が、今度は迷わずカセキへ向く。盾が崩れた以上、最初に折るべきは壁ではない。壁になれる者――カセキだと分かっている動き。

 

龍之介は、息を吸う。肺が痛む。

それでも、踏み込む。

 

「……分かった。なら——俺が行く」

 

救うのはウォズの仕事。

終わらせるのは、自分の仕事。

 

救出された人々の背後で、風が止まった。

泣き声が途切れる。咳が止まる。

皆が同じものを見ているのが分かる。闇の中心――“本体”が、ついに姿を現そうとしている。

 

ウォズの声が、最後に一つだけ空気を切る。

 

「倒せ。倒せるなら、ここは“救い”に変わる」

粘液の匂いが、喉の奥に貼りつく。

救出された人々の呼吸が戻った分だけ、空き地の中心は“腹の底”みたいに深く沈んで見えた。

 

カセキは一歩、踏み込む。足裏が地面を沈ませ、砂利が砕ける。

その振動に反応するように、闇がうねった。触手が伸びる。“カチ、カチ”という節の音が、心拍と同じテンポで刻まれる。

 

「……来い」

 

声は小さい。だが、揺れない。

胸の奥で、別の鼓動が目を覚ましていた。太古の獣の、狩りの鼓動。噛み砕くためのリズム。逃がさないための集中。

 

影が形を持ち始める。

ぬめる触手の束、その根元に歪んだ肉の裂け目。そこから滴る粘液は、現代の病みたいに冷たい。

“増やすための本能”と“喰らうための本能”が、同じ器で混ざり合っている。

 

「……生き物を、道具にするな」

 

カセキの視線が、救出された人々の方へ一瞬だけ走る。倒れたままの肩。震える指。恐怖で固まった瞳。

守れたのは、まだ“今だけ”だ。

 

触手が、一直線に迫る。狙いは胸。貫いて倒して、その隙でまた“増やす”。

カセキは避けない。半身を入れ替え、装甲で受け流す。触手の先端が滑り、粘液が飛び――飛沫が人々へ届く前に、カセキの足が落ちる。

 

踏む。潰す。地面へ吸わせる。

原始の力は乱暴だ。だから、乱暴に使わない。理性で“散らさない”ように押し潰す。

 

「……足場を奪う気か!」

 

次の瞬間、地面がぬめった。粘液が膜になり、靴底の感覚を奪う。

アナザーアマゾンネオは、獣ではなく“仕組み”だ。倒し方を知っている。獲物の動きを制御し、失速させ、刺す。

 

カセキの中で太古が吠える。

滑るなら、重さで止まれ。狩りは距離を詰めて終わらせろ。噛みつけ。引き裂け。

 

だが同時に、現代の理性が釘を打つ。

千切れば飛沫が飛ぶ。飛べば、また人が変わる。ここは研究室じゃない。地図の上でもない。生きている街だ。

 

カセキは踏み込みの角度を変える。粘液の膜を“横断”しない。沈む地面へ斜めに体重を落とし、滑りを“沈み”へ変換する。

足場を奪われたなら、奪われたまま前へ出る。太古の体当たりを、現代の制御で矯正する。

 

「——逃がさない」

 

触手が横薙ぎに走る。カセキは身を低くし、腹の装甲で受ける。衝撃が骨格に響く。

それでも止まらない。止まれば、背後が危ない。

 

カセキは“巣”へ近づく。

闇の中心ほど、匂いが濃い。粘液の熱が上がる。触手の節の音が速くなる。アナザーアマゾンネオの“苛立ち”が伝わってくる。盾にできない。増やせない。だから今は、噛み殺す方向へ寄せてきている。

 

「……今度は、喰うだけか」

 

カセキの声が低くなる。恐怖ではない。見極めだ。

現代の本能は、増殖と支配で生き延びる。

太古の本能は、狩って終わらせる。

 

カセキはわざと、退路を一つ残す位置へ回り込む。追い込みすぎると、触手が四方へ散り、飛沫が飛ぶ。

逃げ道を“細く”作り、そこへ追い立てる。獣を罠へ誘導するように。

 

アナザーアマゾンネオが後退した。粘液を引きながら、壁際へ。

逃げるのではない。次の刺突の角度を作るためだ。

 

「……読める」

 

太古の直感が告げる。“次は喉”。

現代の観察が補強する。“狙いは最短で致命、飛沫は最小”。

 

カセキは首を守るように腕を上げ、同時に一歩、さらに踏み込む。

距離が詰まる。恐怖の中心が、視界いっぱいに膨らむ。

触手が伸びた——喉へ。

 

カセキはその瞬間だけ、太古に任せる。

躊躇を捨てた踏み込み。捕食者の速度。

だが着地は理性で制御する。触手の根元へ体重を落とし、飛沫を“地面へ押しつける”角度で圧殺する。

 

「——終わらせる」

 

アナザーアマゾンネオの影が跳ねた。触手が乱れ、苛立ちの節音が歪む。

追い詰められている。確実に。

本能と理性が、同じ方向を指している。

 

太古の獣が叫ぶ。喰え。

現代の意志が応える。守れ。

カセキは、もう一歩だけ踏み込んだ。

粘液で濡れた地面が滑ろうとする。滑るなら、滑らせる。――太古の獣は“獲物の足場を奪う沼”すら狩り場に変える。

 

アナザーアマゾンネオの触手が、最後の怒りみたいに乱れた。

刺す、絡める、裂く。

だが、どれも遅い。焦りが速度を鈍らせ、狙いを荒くする。

 

(終わらせる)

 

龍之介の理性が言い、太古の本能が頷く。

ここで止める。ここで決める。

これ以上、誰も“増やさせない”。

 

カセキは低く沈んだ。膝が地面すれすれまで落ちる。

両足を揃えるように、蹴りの体勢へ。両足蹴り――捕食者が獲物に飛びかかる直前の、あの無音の収縮。

 

「——はぁぁっ……!」

 

次の瞬間、カセキは地面を高速で滑った。

走るのではない。跳ぶのでもない。

骨の装甲を纏った身体が、粘液の膜を“刃”みたいに割って、一直線に滑走する。砂利が爆ぜ、粘液が後方へ引き裂かれる。足音は遅れてくる。速度が先に到着していた。

 

アナザーアマゾンネオが触手を前へ突き出す。

間に合わない。刺すための角度を作る前に、カセキの影が眼前へ迫る。

 

「——今だ!」

 

目前。

カセキはスライディングの勢いを殺さず、反動で跳ね上がった。

地面から“飛び出す”ような跳躍。重力が一瞬遅れる。粘液の匂いが風になる。

 

両足が開く。

次いで、挟み込むように閉じる。

 

ドンッ!!

 

両足で、アナザーアマゾンネオの胴を挟み撃ちにした。

蹴りというより、圧殺。太古の捕食が“骨の理屈”で現代の怪物を噛み砕く。

 

同時に、カセキの肩から上へ、巨大なエフェクトが描き出される。

ティラノサウルスの骨の頭部。白い頭蓋が虚空に組み上がり、牙列がぎちりと噛み合う音が鳴る。

その大きさはカセキの肩辺りまで包み込むほど。まるで恐竜の顎が、カセキ自身を“鎧”として咥え込み、獲物を噛み砕くための刃に変えたみたいだった。

 

骨の顎が、アナザーアマゾンネオを喰らう。

 

「——ッガァァァ……ッ!!」

 

声にならない叫び。触手が跳ね、粘液が散り、肉が裂ける。

だが散る前に、骨の顎が圧を閉じる。飛沫を許さない圧力。

“増殖”のための液体が、地面へ逃げる暇もなく押し潰される。

 

爆ぜた。

音が遅れて、空き地全体を叩いた。粘液の膜が破れて蒸気が立ち、触手が一斉に力を失って垂れ落ちる。

 

カセキが着地する。膝が沈む。地面が耐えきれずにひび割れた。

その中心で、アナザーアマゾンネオの輪郭が崩れ、肉の裂け目から“核”が弾き出された。

 

——アナザーライドウォッチ。

 

濡れた光を帯びたそれが、コトン、と不気味に軽い音を立てて地面へ転がる。

まだ脈打っている。まだ終わっていない、と言わんばかりに。

 

「……来るぞ、ウォズ!」

 

龍之介の声が掠れる。

倒しても、ウォッチが残る限り――“増える地獄”は息を吹き返す。

 

ウォズは答えない。答える暇がない。

フューチャーリングキカイの金色のバイザーが一瞬だけ鈍く光り、身体が風のように滑った。

 

次の瞬間、ウォズの手にジカンデスピアが現れる。

黒い槍身が空気を裂き、時間そのものを突き刺すみたいに一直線。

 

「——」

 

言葉はない。処置だ。終わらせるための一撃。

 

ガキィンッ!!

 

ジカンデスピアの先端がアナザーライドウォッチを貫いた。

刹那、金属の軋みとガラスの割れる音が重なり、内部から黒い光が噴き出す。

命令の残骸みたいなノイズが空中でほどけ、粘液の匂いが一段薄くなる。

 

ウォッチは、砕けた。

砕けた破片が転がるころには、触手はただの肉片になっていた。

 

救出された人々の方から、ようやく“泣き声”が上がる。

恐怖の泣き声だ。だがそれは――命令ではない。

“自分の声”だ。

 

カセキは息を吐いた。

太古の鼓動がゆっくりと鎮まり、現代の理性が戻ってくる。

そして、戻った理性が最初に突きつけたのは、守れた命の重さだった。

砕けたウォッチの破片が、転がって止まった。

その瞬間、空気から“揃い”が抜け落ちる。耳の奥に張りついていた不快なリズムが消え、代わりに――人間の音が戻ってきた。

 

最初に聞こえたのは、呼吸だった。

荒く、浅く、時々ひきつるような息。肺が「生きている」と証明するための、痛い音。

 

「……う、ぅ……」

 

震えながら泣く声が一つ。

それが合図みたいに、あちこちで喉が鳴り始める。堰を切った涙は止まらない。恐怖で濡れた頬を、誰も拭う余裕がない。

 

次に、吐く者が出た。

胃の中身ではなく、溜め込んだ恐怖そのものを吐き出すみたいに、路面へ崩れ落ちる。粘液の残滓と混ざったそれは、不衛生で、痛々しくて、妙に現実的だった。

 

無言で立てない者もいる。

膝をついたまま動けず、目だけが虚空を泳ぐ。自分の手を見て、指を動かして、ようやく“自分が自分に戻った”ことを確認している。

言葉にするには、遅すぎた。

 

カセキ――龍之介は、少し離れた位置でそれを見守っていた。

装甲の中で汗が冷え、太古の鼓動が完全に鎮まっていく。代わりに、現代の理性が戻る。戻ってきた理性は、まっすぐに痛い場所を指した。

 

(助かった人がいる)

(……助からなかった人もいる)

 

視線の先、瓦礫の影。

そこに“動かない形”があるのが分かる。

感染の進行が深かった者、触手の回線が切れても肉体が戻らなかった者。救うという言葉が届く前に、すでに奪われていた者。

 

龍之介は拳を握り、しかしそれを下ろした。

怒りの行き先がない。

自分の力が足りなかったという事実だけが、骨のように残る。

 

「……俺が、もっと早ければ……」

 

言いかけて、飲み込んだ。

早ければ救えた、と断言できるほど世界は優しくない。

だが、救えなかった事実は変わらない。断言できない分だけ、苦い。

 

それでも。

胸の奥のどこかが、冷たく確かに言う。

 

(増殖は止めた)

(止めなければ、もっと死んでいた)

 

その確かさが、救いというより“責任”として重く落ちる。

勝利の手触りはない。あるのは、被害をこれ以上増やさなかったという、後味の悪い実感だけだ。

 

その横で、ウォズは淡々と動いていた。

フューチャーリングキカイの装甲が軋むこともなく、足取りは静かで、目は必要なものだけを拾っていく。

砕けたウォッチの破片を確認し、粘液の範囲を見切り、まだ異物反応が残る者にだけ近づく。

 

「動ける者は、こちらへ。……立てない者には無理をさせない」

 

声は落ち着いている。

だが、その落ち着きが妙に硬い。柔らかさがない。

それは“慣れ”ではなく、“重さを押し潰すための硬さ”に見えた。

 

龍之介が一歩寄る。

 

「……ウォズ。さっきの、あれは……」

 

“人を変えて救った”。

その言葉を口にするだけで、喉が痛む。

 

ウォズは一瞬、視線を外した。

金のバイザーが街灯を反射し、表情の代わりに冷たい光が走る。

 

「……命令回線は断った。異物は抜いた。だが――」

 

言い切らない。

言い切れない種類の“だが”だ。倫理の話ではなく、責任の話として重い。

 

「本当に元に戻ったかどうかは、彼ら自身がこれから生きることでしか証明できない」

 

淡々としているのに、どこか苦い。

ウォズの硬さは、成功の誇りではない。成功してしまったことへの重みだった。

 

龍之介は息を吐く。

助けたはずなのに、手放しで喜べない。

その感情が、ここでの“救済”の正体だった。

 

遠くで、サイレンが鳴り始めた。遅れて、人の声も増える。

だが街はまだ、静かに震えている。

 

その時――

 

ドンッ。

 

遠い爆発音。

空が一瞬だけ白く染まり、次いで遅れて、低い衝撃が腹の底に届く。

 

龍之介とウォズが同時に顔を上げる。

視線の先は、別の区画。別の戦場。別の“同じ時間”。

 

「……まだ終わっていない、か」

 

龍之介の呟きは、祈りでも愚痴でもなく、確認だった。

 

ウォズは短く頷く。硬いままの声で言う。

 

「同じ時刻に、別の物語が進んでいる。――我々も遅れるわけにはいかない」

 

助かった人々の泣き声の中で、二人は次の戦いへ向けて足を踏み出す。

救済の余韻は残る。後味も残る。

それでも歩かなければ、また“増える地獄”が始まるから。

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