ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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今回はストーリーには直接関係ないので、読んでも読まなくてもどちらでも構いません。
完全な食レポ回です。


第二十三話 一杯の醤油が世界を変える

カイザーコーポレーションを出た瞬間、私は思わず足を止めた。

コンクリートの谷間に、橙色に沈む夕日が差し込み、無機質な灰色のビル群を血のような赤に染め上げていた。

道路に伸びた影は長く、揺れ、まるで都会が巨大な輻射炉に変貌したかのようだ。

 

スマートフォンをポケットから取り出す。

画面には「18:07」の文字。

思った以上に時間が過ぎていた。コピー作りに没頭しすぎたらしい。

 

「……帰っても八時か」

 

計算してみるまでもなく腹はもう限界を主張していた。

正直、歩くだけでも胃のあたりが空洞のように感じられる。

今日は朝から色々あった。自爆して、全裸で砂漠疾走して、腕の切断三十回……

そのうえ昼食に一口すらありついていない。

 

普段から人並み以上に食べる自覚はある。それが一日フル稼働した上、空腹で放り出されているとなれば、耐えられるはずがない。

胃袋が静かに、しかし確実に死の抗議を上げている。

 

「店……どこか……」

 

思考はすでに食べ物で支配されていた。

濃くて、重くて、脂ぎっていて、なによりうまいやつ。

極端な空腹には、極端な濃さこそ正義。どこかそんな店はないものか…

 

ある。全国どこにだってあり、誰をも満たしてくれる至高の受け皿が。

ラーメンという文明の奇跡が。

 

私はアプリを開き、最寄りのラーメン屋を検索する。

普段ならレビューも雰囲気も考慮するが、今はそんな余裕などかけらもない。

このあたりは砂漠化の影響で店自体が少ないのだ。贅沢を言う資格はない。

 

数分歩く。

その先にぽつんと、まるで取り残されたオアシスのように、小さな店が現れた。

 

「柴関ラーメン……」

 

瓦屋根に青い暖簾──ここらでは珍しい和の趣。

木造の外壁は年季が入っているが、不思議と温かみがあった。

夕日の赤と瓦の青が混ざり、建物全体に落ち着いた陰影を与えている。

庶民派、しかし確かに地元で愛されている店。そんな印象だった。

 

暖簾をくぐると、油とスープの匂いが鼻孔を満たした。

客は多くない。

だが、話し声は絶えず、店内には静かな活気があった。

 

「いらっしゃいませー。一名さま……で……え?」

 

注文取りの店員がこちらを見て、目を見開いた。

驚きの色が露骨に浮かぶ。

こちらは普通にしているつもりだが、何かおかしいのだろうか。

 

視線が交錯した瞬間、相手の表情が「あっ」と変わった。

 

「なるほどね……」

 

私もようやく理解した。

黒見セリカ──昼間、色々あった。

そのバイト先がここだとは。

 

「一応言っておくが、私はたまたまここに来ただけだ。店に危害を加えるつもりはない」

 

どんな説明を受けているのかは知らない。

だが、誤解を解いておくに越したことはない。

 

店員は戸惑いながらも、頷いて席に案内してくれた。

その仕草に、妙に素直な良さが滲んでいた。

 

「ご注文、どうぞ」

 

緊張を押し殺しながら、真面目に接客しているのが見て取れる。

偉い子だ、と自然に思った。

 

「醤油ラーメンと餃子、チャーハンのセット。それから単品で唐揚げを」

 

「かしこまりました。水はセルフでお願いします」

 

厨房に消える直前、振り返った顔には引き攣った笑みが乗っていた。

 

驚いた。まさか彼女がここで働いているとは。

だが、退けるはずもないし、退く気もない。

今逃せば、胃袋が本当に死ぬ。

 

セルフの水を汲み、席に戻ってスマホを眺めながら待つ。

ざらついた空気の中、油の匂いに支配された空間に、私の感覚は少しずつ溶け込んでいった。

 

しばらくすると、お目当てのラーメンが運ばれてきた。運ばれてくるラーメンは、空腹が頂点に達した私にとって、聖火のように輝いて見えた。

 

湯気は、視覚より先に嗅覚を支配した。

鶏と醤油の、丸みのある香り。脂が放つ甘み。胃袋がきゅっと縮む。

もう理性だとか品位だとか、そういう人間的な枷はすべて吹き飛ばされそうだ。

 

「お待たせしました。醤油ラーメンと……こちらがセットの餃子とチャーハンです」

 

店員の声を聞きながら、私は頷きつつも視線はラーメンから離せなかった。

麺はつややかで、表面にスープが薄くまとわり、黄金色に光っている。

表層の油が蛍のように微かに揺れ、丼の中を照らしている。

 

まず箸をとり、麺を少し持ち上げた。

湯気がふわりと喉奥にまで入り込み、唾液腺が爆発的に活動を始める。

 

「……いただきます」

 

口に入れた瞬間、世界が一秒止まったように感じた。

熱い。だが、その熱が舌を麻痺させる前に、醤油と鶏の旨味が一気に流れ込んでくる。

コシのある麺が歯に抵抗しながら弾け、スープを絡ませて喉に滑り込んだ。

 

胃袋が歓喜をあげる。

身体が、全身が、生存を確認してくる。

 

「はぁ……」

 

息が漏れた。

うますぎて、呼吸の仕方を忘れていた。

 

二口、三口……既に言葉は存在しない。

ただ本能が、麺をすすれ、スープを飲め、油を身体に入れろ、と命じている。

極端な空腹は、極端な幸福を引き寄せる。

 

チャーシューに箸を伸ばす。

表面は薄く焦げ目があり、しかし脂はとろけるように柔い。

噛んだ瞬間、繊維がほぐれて肉汁が溢れる。

あまりの旨味に、目尻が自然と緩んだ。

 

餃子も熱々のまま口に放り込む。

外はカリッ、中は肉汁とニラの香り。

あぁ、これは救済だ。宗教だ。文明の勝利そのものだ。

 

ここで水を一口。

喉を洗うように流し込み、次の口を準備する。

 

チャーハン。

茶色の米粒が油を吸って膨らんでいる。

スープの旨味を引き継ぎながら、塩気と僅かな焦げが混ざった味が広がる。

 

「……最高か」

 

思ったより声に出ていた。

店員が厨房の奥でこちらをちらりと見たが、気にしてなどいられない。

 

唐揚げに箸を伸ばす。

衣はざくっと割れ、湯気とともに油が舌に飛び込んでくる。

咀嚼した瞬間、疲れ切っていた体の隅々まで血が巡るようだった。

 

あぁ、これだ。

この瞬間のために私はいま生きている。

昼間の苦痛も災難も砂漠疾走も腕切断も、すべてこの幸福に辿り着くための前菜だったのではないかと思えてくる。

 

丼の底が見え始める頃には、胃袋の悲鳴は完全に歓喜へと変わっていた。

最後の一滴までスープをすくい、飲み干し、箸をそっと置く。

 

「……ごちそうさまでした」

 

満腹の重みが腹に沈む。

だが、それは不快ではない。むしろ、自分の中心に温かな核が宿ったかのような感覚だった。

 

私は背もたれに軽く体を預け、深く息を吐き出した。

死にかけた人間が、ようやく人間に戻った瞬間だった。

 

ーーー

 

その後、しばらく放心状態だった私は、ドカ食いによる血糖値スパイクによる強烈な眠気と闘いながら、なんとか会計を済ませて店を出た。

 

黒見セリカのことなんかもはや頭にはなく、強烈な多幸感に支配されながら帰路についた。

 

すっかり暗くなった空を見上げると、なぜかいつもよりも空が近い気がする。今なら空だって飛べるかもしれない。

 

そんなバカみたいなことを考えながら、ゆっくりと駅へと歩いていった。




完全に孤独のグルメ意識しました。
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