屋上へ戻った私たちは、しばらく誰も口を開かなかった。沈みかけた陽がコンクリートの床を赤く染め、風が吹き抜けるたびにフェンスが小さく震えて音を立てる。
私たちは視線を合わせるのを避けるように、それぞれ別の場所を見つめていた。
そんな気まずさを断ち切ってくれたのは、アカネがわずかに眉を動かし、ゆっくりとまぶたを上げた瞬間だった。
目覚めたことに気づくと、アスナは「よかった…」と息を吐いて胸を押さえ、カリンは肩から緊張が落ちるような仕草をした。美甘ネルも、怒気と焦りが混ざっていた表情をほんの少し緩めている。
アカネにざっくりと経緯を説明したあと、自然な流れで――いや、自然ではない、どう考えても取り調べだ――私は四人の正面に座らされることになった。背中に落ちる夕日の熱が、不思議と罪悪感を刺激してくる。
最初に質問を切り出したのは、美甘ネルだった。
彼女は手を膝に置いたまま、まっすぐこちらを見る。その眼差しには、怒りというより「説明してみろ」という圧が滲んでいて、私は思わず姿勢を正す。
「さっきも聞いたが、口径が大きかったとはいえ、ただのリボルバーでどうやって自分の足を吹っ飛ばした? 説明しろ」
「わかりました。できるだけわかりやすく説明しますが、わからないところがあれば遠慮なく言ってください」
そう前置きすると、四人は息を合わせたように頷いた。
その様子に少しだけ安心して、私は言葉を選びながら説明を始めた。
「まず、私が再生能力を持っていることは知っていると思います。美甘ネルから聞いているとは思いますが、この再生能力は――失った手足を元に戻せるほどのものです」
その瞬間、アスナの手がピッと勢いよく上がった。
「はい!」
「私それ聞いてない!」
わりと本気のテンションで叫んでくる。
まじで?
視線を横に向けると、美甘ネルが後頭部をかきながら顔を背けていた。
「…すまん、説明してなかった」
妙に申し訳なさそうに言うその姿に、アスナは頬を膨らませ、カリンは呆れ半分の眼差しでネルを見つめ、アカネは「まあまあ」とでも言いそうな苦笑を浮かべていた。
「先に再生能力について説明してよ」
アスナが身体を前に乗り出して言う。
「そうだな、一旦全員の知識を統一しておくべきだ」
カリンが腕を組み、静かに付け足した。
「私も説明してほしいですね」
アカネも同意するように頷く。
「えっと…じゃあ再生能力の説明を先にしますね。再生能力なんですが、元々はこんなにヤバくはなかったんですよ」
「私の再生能力は元々、切り傷や火傷、打撲なんかが10分くらいで治る程度のものでした。これはトリニティの剣先ツルギと同じくらいですね」
その言葉を聞いた瞬間、ネルがガタンと音を立てて立ち上がった。
「は? ちょっと待て。剣先ツルギもそんなんなのか⁉︎」
以外だ。知っているものと思っていたが。
「そうですね。素の身体能力も同じくらいなので、私は大体剣先ツルギと同じようなもんです」
ネルは眉をひそめながらも、少し考え込むように視線を下へ落とす。
「再生能力自体は珍しいもんではないのか?」
「今のところ、私と剣先ツルギ以外では知りませんが…探せばいるかもしれませんね」
そう言うと、ネルは深く息を吐き、座り直した。
「……わかった。私の質問は終わりだ」
彼女が腰を下ろす音は、ほんのわずかに安堵の色を帯びていた。
私は続ける。
「その再生能力なんですが、3年くらい前に“制御”ができることに気づいたんですよ。具体的には、再生の速度や、再生する部位を自分で調整できるようになったんです」
すると、アカネが小さく手を挙げた。
「ちょっといいですか?」
「はい、どうぞ」
「その再生能力の制御ですが、どういった経緯で発見したんですか?」
アカネは興味深そうに首をかしげながら、私の答えを待っている。
「経緯ですか?」
「はい」
私は少し空を見上げた。
夕陽の残りが空の端で揺れている。それを眺めていると、自然と三年前の朝焼けの記憶が浮かんでくる。
「そうですね…私は当時、私の研究テーマだった“神秘量の最低保証”について検証するため、朝のマラソンをしていました」
「その神秘量の最低保証ってのは何だ? なんでマラソンを?」
今度はカリンが前のめりになり、真剣な眼差しで問いかけてくる。
「神秘量の最低保証というのは、神秘の量が、その者の持っている総合スペック――身体能力や知力など――に比例しているのかどうかを検証するものです。身体能力が上がれば神秘の量も上がるのか、それを確かめたかったんですよ」
「だから運動を?」
「はい。上がりやすいステータスとしてまず身体能力を上げようと思い、マラソンを選びました」
説明し終えると、カリンは腕を組み直し、静かに頷いた。
「なるほど。分かった」
そう言って席に戻る。
夕風が彼女のコートの裾を揺らし、屋上にひんやりした空気が流れ込んだ。
まるでこれから語られる続きを静かに促すように、屋上は再び静かになった。
短編 ホシノ視点 2
その日の夜、アビドスの空には雲がかかり、月の光が薄い膜の向こうでぼんやりと滲んでいた。
私が部屋の明かりを落とし、ようやく一息つこうとしていたときだった。
――着信音が鳴った。
こんな時間に誰だろうと画面をのぞき込むと、表示された名前はセリカちゃんだった。
「もしもし? こんな時間にどうしたの?」
電話越しの向こうで、少しだけ弾んだ息が聞こえた。
『あ、すみません。寝てました?』
「ううん、ちょうど起きてたところ」
小さく安堵するような吐息のあと、セリカちゃんがぽつりと話し始めた。
『今日、帰りの電車で……ちょっといいことがあったんです』
その声には、昼間とは違う照れくささと温もりが混じっていた。
静かな夜の空気の中で、その感情がより鮮明に伝わってくる。
『元気なさそうに見えたらしくて……声かけてもらったんです。
“大丈夫ですか”って。最初は、つい……当たっちゃったんですけど』
「当たったって……怒鳴ったとかじゃないよね?」
『怒鳴ってはないですけど……ちょっと嫌な態度をしてしまって……。
でも、あとからすごく反省したんです。せっかく心配してくれたのにって』
窓の外の夜風が、木の葉を揺らす音がする。
その静けさの中で、セリカちゃんの声が真っ直ぐに耳に届く。
『だから、思い切って……借金のこととか、色々話したんです。
そしたらその子、“助け合いですから”って言ってくれて。
あんなふうに言われたの、初めてで……なんか、嬉しくて』
電話の向こうで、彼女が胸の奥でそっと笑っている気配がした。
その笑みは、ここ数日では想像もできなかったほど優しいものだった。
「……その子、どんな子だったの?」
自然と声が柔らかくなった。
『ええと……すごく小柄な子でした。背が低くて、年下に見えるんですけど……
ミレニアムの制服を着てました。たぶん高校生だと思います』
心臓がひとつ鼓動を強める。
『髪は白いボブで、目は赤かったです。
なんだか……儚い雰囲気の子でしたね』
その瞬間、私は息を呑んだ。
朝の光の中で立ち尽くしていたあの少女。
虚ろな目。
折れそうなほど細い腕。
弱々しく揺れた声。
――特徴が、完全に一致していた。
「……そう、なんだね」
声の震えを悟られないように、そっと喉に力を入れる。
電話の向こうで、セリカちゃんは続けた。
『もしまた会うことがあったら、お礼したいなって思ったんです。
話を聞いてくれただけですけど……ああいう優しさ、ほんと、久しぶりで。
なんかずっと、心が軽くて』
私は携帯を握る手に力が入りすぎていることに気づき、そっと指を緩めた。
――あの子が、セリカちゃんを励ました?
あんな虚ろな目をしていた子が。
誰よりも傷ついていた子が。
帰りの電車で、誰かの弱さに寄り添っていたというのか。
その事実は、胸の奥で複雑な色を広げた。
温かさと、痛みと、心配と、答えのないざわつきが積み重なっていく。
「……うん。話してくれてありがとう。いいことがあって、本当によかったよ」
『はい……聞いてもらえてよかったです』
声はふわりと嬉しそうで、それがまた私の胸を締めつけた。
通話を切ったあと、私はベッドの端に座りこんだ。
暗い部屋の中に、自分の鼓動だけがやけに大きく響いている。
――やっぱり、あの子だ。
そう確信した途端、胸に冷たいものが流れ込んだ。
彼女は何を抱えてあんな目をしていたのか。
誰に、どんな扱いを受けていたのか。
どうして人を励ます余裕があるのか。
その小さな心のどこに、そんな力が残っていたのか。
夜が深まるほどに、不安は静かに濃くなっていく。
私は窓の外を見上げた。
薄い雲の向こう、ぼんやりと滲む月が、どこまでも遠く感じられた。
――どうか、あの子が無事でありますように。
その願いを落ち着ける術もないまま、私は長い夜を迎えることになった。
ホシノ「先生、どうしてこの本の私はいつも何かに苦しんでるの?」
先生「そうだったらいいなあって」
ホシノ「……え?」
耳に刺さった言葉が、しばらく意味を持たずに宙を漂っていた。ホシノはゆっくりまばたきをして、ぼんやりした視線のまま先生の顔を見つめた。
「ずっと……何かに、苦しんでいてほしい……?」
言葉にしてみても現実味がなかった。いたずらでも冗談でもない温度を感じた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。痛みとも、冷えとも違う、説明できない感覚が胸骨の裏側を擦った。
なんだろう、この感じ。
友達にふざけて小突かれたときの軽さとは真逆だ。笑えない。笑おうとすると、喉が勝手に強ばってしまう。
ホシノはいつも通り、柔らかく、ゆるく、どこかまどろむように世界を受け止めてきた。面倒なことはかわしながら、肩の力を抜いて生きてきたつもりだった。
だけど――“苦しんでほしい”なんて言葉は、そのゆるい日常を簡単に踏みつけてしまう。
胸の奥で、何かが沈むように落ちていく。
それは動揺とも、怖さとも違った。もっと質が悪い。心のどこかに、先生の声が深く刺さって抜けない感覚。まるで、見えない棘が心臓の表面に引っかかったまま、微妙に動くたびに痛むような。
「そんなこと言われちゃうの、ちょっとショックかもだよ……先生……」
口ではそう言いながら、声がいつもより少しだけ掠れているのが自分でもわかった。
軽い調子を崩さないようにしているのに、目の奥だけが笑えていない。先生には気づかれないのか、それとも気づかれていても関係ないのか。
本当にそう思ってるの?
それとも、なにかの冗談?
ホシノの頭の中でその問いが繰り返されるたび、胸の奥の棘がわずかに角度を変えて、別の場所を刺した。
自分は、先生にそう願われるような存在だったのだろうか。
いつも、ゆるくて、どこか頼りなくて、面倒ごとを避けて、眠そうに笑って……。
そんな自分が、もしかしたら誰かを苛立たせたり、不安にさせたりしていたのかもしれない。
そう思った瞬間、胸がひどく重くなる。
――ああ、やだな。
こんな風に胸が痛いの、久しぶりだ。
ホシノはゆっくりと息を吸い、胸の底に沈もうとする感情を必死に押しとどめる。
「……苦しんでほしいなんて、そんなの……ひどいよ、先生」
言葉は静かで、どこか寂しかった。
笑顔が作れないのに、無理に口角だけを上げるその仕草は、普段の彼女の柔らかさとはどこか違っていた。
ホシノ「先生、この本の私は、なんで先生に酷いこと言われてるの?」
先生「書いた人の心が汚れてるからだよ」
ホシノ「ふーん。この人は私を怒らせるのが上手い」
Twitterで見かけたネタのパロディです。