愉悦部員だったのかもしれない。
「もう、あらかた聞きたいことは聞けたかな」
美甘ネルはそう言いながら、椅子を引く音を立てて立ち上がった。
その動作はいつものように豪快だが、どこか切れ味が鈍い。
わずかな違和感が、空気の端に引っかかる。
いつの間にか、すっかり暗くなっていた。
夕暮れの名残は消え、廃墟の外に並ぶ電柱にはぽつりぽつりと灯が入り、黄色い光がひび割れたアスファルトを照らしている。
その明かりは心細いほど弱く、しかし確かに「夜が来た」ことを告げていた。
「はあ……やっと終わりましたか……長かったですね、質問タイム」
私も腰を上げる。
椅子から立ち上がるだけで、身体のあちこちが鈍く痛む。
張り詰めていた神経が、ようやく緩んだせいだろう。
「どうします? もう結構暗くなっちゃいましたけど」
私は美甘ネルの方を見て、確認するように問いかけた。
「あー……そうだな」
ネルは顎に手をやり、少し考え込む。
「他の三人の戦闘演習はもう済んだし、あたしは戦わなくてもいいかな」
――意外だった。
美甘ネルなら、こういう場面で遠慮などせず、むしろ真っ先に殴り合いを提案してくると思っていた。
「……なんか、リーダー元気ない?」
アスナが不安そうに、ひょいっとネルの顔を覗き込む。
その距離の近さに、ネルは一瞬だけ目を泳がせた。
カリンとアカネも、言葉にはしないが、視線をネルに向けて様子を伺っている。
どうやら、違和感を覚えたのは私だけではなかったらしい。
「どうかしましたか?」
私は少し慎重に言葉を選びながら続ける。
「アスナさんの言う通り、元気がないように見えますが」
「……そう見えるか?」
ネルは肩をすくめる。
だが、その声にはいつもの軽さがない。
「ええ、とても」
即答すると、ネルはしばらく黙り込み――
「はぁ〜……」
と、深いため息をついた。
それは疲労というより、感情の整理が追いつかないときの吐息に近かった。
「さっきの話だよ」
ネルは視線を床に落としたまま、低く言う。
「自分で耳を切り落としただの、チンピラに襲われて死にかけただの……そんな話を聞いた上で、戦おうって気分になれねえんだよ」
ああ、なるほど。
ようやく合点がいった。
「同情してくれてるんですか?」
わざと少しだけ距離を詰め、顔を覗き込むようにして聞いてみる。
「同情なんか……」
一度言いかけて、ネルは言葉を切った。
「……いや、多少はしてるな。同情もしてるが、それよりも――」
彼女はちらりとこちらを見る。
「そんな話を、平気な顔で、なんなら得意げに話すお前を見てると……なんか、気分が沈む」
それは、完全に予想外の言葉だった。
美甘ネルが、こんな感情を向けてくるとは思っていなかった。
彼女は落ち込んでいるわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、いつもの覇気が少しだけ薄れている。
それが、妙に胸に残った。
……この表情、どこかで見たことがある気がする。
つい最近、どこかで。
「お前さ」
不意に、ネルが顔を上げた。
「中学の頃、何してた?」
「……なんで突然そんなことを?」
話題の転換が急すぎて、思わず聞き返してしまう。
「……気になっただけだ」
引っかかりはするが、別に隠すようなことでもない。
私は少し考えてから、正直に答えた。
「特に変わったことはしてませんね。一年生の時は、自分一人でできる神秘の研究。二年生の時は、共同研究者と出会って研究が進展したので、拠点を変えてアビドスに引っ越しました。三年生は……研究機材を揃えるためのバイトですかね」
少し間を置いて付け足す。
「部活は三年間ずっと機動研究部*1。家では格ゲーしてました」
ちなみに、カイザー理事と契約したのは二年生の頃だ。
「……なんか、普通だな」
ネルが拍子抜けしたように言う。
「何を期待してたんですか……」
思わず苦笑する。
「なんかもっとこう、研究に没頭して引きこもってるもんかと」
「いやいや、そんなことしませんよ」
私は肩をすくめる。
「そんな生活してたら、すぐお金が尽きますって。
私の研究、成果が目に見えにくいですし、発表できないことも多いので、研究費が出ないんですよ」
それは、紛れもない現実だった。
資料も少なく、先人もほとんどいない。
基本は手探りで、効率も悪い。
正直、かなり大変だ。
「そうか、そうか」
ネルは、はは、と軽く笑った。
その笑顔は、さっきまでとは違う――
いつもの、豪快で気持ちのいい美甘ネルのものだった。
「さて」
彼女はパンッ、と両手を叩いて場を切り替える。
「じゃあ、今日のところはお開きってことでいいか?」
「私は賛成ですね」
私は即座に答えた。
「今日はもう疲れました……ここ数日、ゆっくりできた日がなかったので余計に」
本音だ。
今すぐ布団に潜り込みたい。
「私もさーんせー」
アスナが元気よく手を上げる。
「私もだな」
カリンが短く答え、
「私もですね」
アカネも同意する。
全員一致だった。
「じゃあ、私たちC&Cは一旦ミレニアムに戻るか」
ネルはそう言ってから、私を見る。
「お前はどうする?」
「私は直接帰りますね。一刻も早く布団にダイブしたいです」
「ハハッ、そうか」
ネルは楽しそうに笑った。
「まあ、気をつけて帰れよ」
「ありがとうございます。ではまた。皆さんも気をつけて」
そう言って、私は廃墟を後にした。
長いこと明かりのない建物にいたせいだろう。
駅にたどり着いた瞬間、ホームの照明がやけに眩しく感じた。
思わず目を細めながら、私は夜の中へと足を進めた。
短編 ホシノ視点 4
そこに、異物はなかった。
期待していた金属片も、装置らしきものも、髪に絡まった何かもない。
ただ――皮膚が、わずかに盛り上がっていた。
触れると、硬い。
柔らかいはずの頭皮が、不自然な感触を返してくる。
指先がなぞるその境目は、滑らかではなく、どこか歪で、時間が経って固まったもののようだった。
それは、まるで。
皮膚から、何かを切り取ったあとの痕のように見えた。
ぞくり、と背中を冷たいものが走る。
その位置に、見覚えがあった。
頭の横、少し前寄りの、あの場所。
シロコちゃんのような――動物の耳を持つ生徒たちが、耳を生やしている場所だ。
なぜ。
どうして。
この子の頭に、耳を切り落としたあとのような痕があるのか。
一瞬、思考が完全に止まった。
次の瞬間、堰を切ったように、想像が頭の中を駆け巡る。
なぜこんなことになったのか。
誰に、何をされたのか。
どれほどの痛みだったのか。
どんな思いで――。
胸の奥が、ぐちゃりと音を立てて掻き回される。
けれど、目の前の少女は。
怒りもしなければ、泣きもしない。
ただ、ほんの少し気まずそうに、こちらの表情を伺っているだけだった。
責められるのを待つ子どものように。
それとも、もう何も期待していない人の目のように。
「……耳の痕……だよね……?」
喉がひくりと鳴る。
「切り落とした痕……こんなことって……!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
抑えきれなかった。
理性よりも先に、感情が噴き出してしまった。
だが、叫ばずにはいられなかった。
少女は、その声に肩をすくめ、視線を落とした。
睫毛が影を落とし、白い頬が少しだけこわばる。
「……私は、大丈夫ですから」
静かな声だった。
説得するでもなく、言い聞かせるでもなく。
ただ、そう“決まっていること”を告げるような口調だった。
そんな――
そんなわけがあるはずがない。
「そんなわけないでしょ!?」
また、声が荒れる。
止められない。
大丈夫?
そんなわけがない。
耳だ。
髪を切られたとか、服を破られたとか、そんな話とは訳が違う。
身体の一部だ。
生まれついてあったものだ。
それを失って――どうして。
「これは……自分で切り落としたものですから……」
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
その声は震えていない。
泣きそうでもない。
ただ、淡々と事実を並べるようだった。
「これは本当に、私のせいなんです。他の人に何かされたとかじゃなく……私が、やったんです」
自分で?
耳を?
切り落とした?
言葉の意味が、頭に入ってくるまで少し時間がかかった。
理解した瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
怒りでも、恐怖でもない。
どうしようもない、重たい感情。
「……なんで、そんなことをしたのかな……?」
責めるつもりはなかった。
叱る気もなかった。
ただ、純粋な疑問だった。
けれど少女は、静かに首を横に振った。
「……言いたくありません」
「なんで?」
その問いに、彼女は少しだけ間を置いてから答えた。
「なんでもです。誰にだって、秘密の一つや二つあるもんですよ」
その言葉に、胸が詰まる。
……そうだ。
私だって、抱えている事情がある。
誰にも話していないことがある。
それを棚に上げて、「話してごらん」なんて言えるはずがなかった。
自分の軽率さが、急に恥ずかしくなる。
「……そう、だね」
私は小さく息をついて、
「ごめんね」
そう謝った。
それ以上、言葉は続かなかった。
車内には、規則的な走行音と、遠くの話し声だけが流れていく。
沈黙が、重くもあり、奇妙に穏やかでもあった。
やがて、アナウンスが響く。
『アビドス、アビドスです。お出口は、左側です。お忘れ物のないよう、ご注意ください』
どうやら、到着したらしい。
「……私、この駅だから」
そう言って、私は席を離れた。
ドアが開き、ホームの空気が流れ込む。
そのまま電車を降り、背後で扉が閉まる音を聞いた。
ホームに立ちながら、胸の奥に残った違和感を抱えたまま、私は思う。
――私は、余計なお世話なのだろうか。
ネル先輩は可哀想な話聞くとシナシナしてほしい。でもすぐにカラッカラになって背中叩いて励ましてほしい。