今日は、特に予定がなかった。
新しい研究室にはまだ機材を運び込んでおらず、調整も実験もできない。
つまり、やることがない。
最近続けていた気になる生徒の調査も、ひとまず区切りがついている。
データ整理も済み、仮説も立て終えた。
次の工程に進むには、環境が整うのを待つしかない。
なので、今日は本当にやることがなかった。
――だから、ゲヘナに来ている。
理由を聞かれたら、たぶん多くの人は首をかしげるだろう。
研究者が、わざわざ治安の悪いゲヘナに足を運ぶ理由など、普通はない。
だが、これにはきちんとした理由がある。
「おい、そこのお前。ちょっと止まれ」
ほらきた。
振り返らなくても分かる。
間違いない、チンピラだ。
今回、私がゲヘナに来た目的。
それは――わざとチンピラに絡まれ、正当防衛の形で戦闘経験を積むこと。
具体的には、素手のみを使った多人数戦の練習だ。
なぜ、そんな遠回りなことをするのか。
理由は、一昨日のアビドス襲撃、そして昨日のC&Cとの戦闘演習で、はっきりと自覚した問題にある。
――私は、自分の銃に頼りすぎている。
キヴォトスの生徒が銃に頼るのは当たり前だ。
それ自体は何もおかしくないし、問題視されることでもない。
だが、私の場合は少し事情が違う。
私の戦闘スタイルは単純明快だ。
相手の懐に一気に踏み込み、単発火力で叩き潰す。
一対一であれば、非常に強力だ。
それはここ最近の実戦で、嫌というほど理解した。
しかし――相手が多人数の場合、この戦法は致命的な弱点を抱える。
私自身の身体能力が高いため、相手の懐に潜り込むこと自体は容易だ。
だが、多人数戦では、一人に接近できたところで意味がない。
むしろ、敵のど真ん中に飛び込む形になり、集中砲火を浴びる結果になる。
これでは、いくら再生能力があっても対処しきれない。
私は普段、耐久力や攻撃力をある程度下げ、その分を再生能力に回している。
つまり、多数から同時にダメージを受け続ける状況では、
再生能力を全力で使っても、回復が追いつかずすりつぶされてしまう。
攻撃しようにも、銃の威力が足りなければ押し返せない。
そこで、私は考えた。
――いっそのこと、再生能力に極振りした戦い方はどうだろうか。
これは以前から頭の片隅にはあった考えだ。
だが、必要性を感じず、意図的に避けてきた課題でもある。
再生能力に特化した戦闘には、明確な利点がある。
リソース管理が単純になり、再生が追いつかないという事態も回避できる。
それでも、今まで練習してこなかった理由はただ一つ。
――見た目が、あまりにもよろしくない。
再生能力に極振りするということは、
耐久力を捨てるどころか、自ら体を欠損させ、再生しながら戦うということだ。
血は飛び、肉は裂け、骨が露出する。
正直に言って、グロい。
グロいどころの話ではない。
だから、今まで避けてきた。
だが――昨日のC&Cとの戦闘で、思い知らされた。
こちらの戦法を理解され、対策されてしまえば、私はそこまで強くない。
今まで初見殺しで勝ってきただけで、
対策された後の選択肢が、奇襲かゴリ押ししかない。
それは、戦闘者として非常によろしくない。
だからこそ、この弱点を克服する必要がある。
再生能力に極振りした戦い方を、実戦で叩き込む必要がある。
――説明終わり。
さて、目の前のチンピラに答えてやらねば。
「私ですか? 何でしょう?」
私は振り返り、何も知らないふりをする。
「いやー、私たちな、ちょっとカネに困っててさ。支援してくれねえ?」
出た。
教科書に載せたいくらい、分かりやすいチンピラだ。
「お金の支援、ですか?」
私は丁寧に首を傾げる。
「申し訳ありませんが、お断りします。会って間もない方にお金の支援はできません」
声のトーンは低く、姿勢は控えめに。
できるだけ弱そうで、真面目そうに振る舞う。
こうすれば、大抵のチンピラは実力行使に出る。
「チッ……そういうことじゃねえんだよ!」
相手の声が荒くなる。
「アタシらが金欲しいって言ってんの!早く出せや!」
「どうすんだよ?出すの?出さねえの?」
胸ぐらを掴まれ、体が持ち上げられかける。
小柄な体が、簡単に宙に浮いた。
「出しません」
私はきっぱりと言い切る。
「あなたたちにあげるお金なんて、持っていません」
「……んじゃまあ」
チンピラの一人が、にやりと笑った。
「力ずくで頂くかな」
銃が向けられる。
昼間の路地で、まったく躊躇がない。
――よし。
私は心の中で息を整えた。
ここで撃たれれば、正当防衛が成立する。
反撃できる。
合法的に、戦闘ができる。
「これでもくらいな!」
銃声が響く。
体に衝撃が走り、皮膚が弾かれる。
弾丸がかすり、血が滲み、服を赤く染める。
だが、傷はすぐに塞がる。
血も、じきに止まった。
――これでいい。
これで、反撃する理由ができた。
さあ、ここからが――
ズダダダダダッ!!
突然、空気を引き裂くような激しい銃声が鳴り響いた。
次の瞬間、チンピラたちの体が宙を舞い、路地の壁に叩きつけられる。
私は反射的に目を見開いた。
横から、撃たれた。
そう認識した時には、すでに――
私の目の前には、一人の少女が立っていた。
白く、長く、豊かに広がる髪。
キヴォトスでも滅多に見ない、巨大な悪魔の羽。
黒と紫の縞模様を持つ、特徴的なヘイロー。
ゲヘナの風紀委員長。
――空崎ヒナが、静かに私の前に立っていた。
短編 ホシノ視点 5
次の日。
今日も今日とて、アビドス復興のための会議が行われていた。
古びた校舎の一室。机の並びは不揃いで、ところどころに修繕の跡が残っている。外から吹き込む乾いた風が、窓際のカーテンをわずかに揺らしていた。
そんな場所で、私たちは真剣な顔をして、未来の話をしている。
新入生の二人も、今日は特に積極的だった。
遠慮がちだった最初の頃とは違い、今では自分の意見をきちんと口にしてくれる。その姿が、正直とてもありがたい。
アヤネちゃんは相変わらず真面目だ。
私たちがつい冗談に流れたり、話が脱線したりすると、すぐに冷静なツッコミを入れてくれる。その声音には棘はなく、ただ「ちゃんとやりましょう」という意思だけがある。
一方で、セリカちゃんも基本的には真面目なのだが――少しだけ、騙されやすいところがある。
人を疑うことをあまりしない、その性格が長所である一方で、時々心配にもなる。
それでも二人は、確実にアビドスに馴染んできていた。
ノノミちゃんとは軽口を叩き合い、シロコちゃんとは必要最低限ながらも言葉を交わす。
その光景は、荒れ果てた校舎には少し不釣り合いなくらい、穏やかで明るいものだった。
――いい光景だな。
そう思いながらも、頭のどこかが静かにざわついている。
あの白い髪の少女のことが、ふとした瞬間に思考の端をかすめていく。
「誰にだって、踏み込まれたくない事情はある」
あのときの言葉が、いつまでも胸の奥に居座っている。
彼女はどんな事情を抱えているのか。
私は、何をしてあげられるのか。
考えは堂々巡りを繰り返し、答えには辿り着けない。
そんなときだった。
ぴ、と鋭い電子音が鳴る。
アヤネちゃんのレーダーが警報を発していた。
「……30人ほどの集団が、アビドスに向かってきています」
その報告に、私は小さく息をついた。
またか。
きっと、いつものカタカタヘルメット団だろう。
去年あたりから、彼らは時折こうしてアビドスを襲撃してくるようになった。
廃校同然のこの校舎を、自分たちの拠点にしようとしているらしい。
何度返り討ちにしても、少し時間を置けばまたやってくる。
本当に、迷惑極まりない。
しつこいにも程がある。
――めんどくさいな。
そんな本音が頭をよぎりつつ、迎え撃つ準備をしようと校門の方へ向かおうとした、そのとき。
「……集団の中から、一人が離脱しました。校門の方角へ向かっています。残りの集団は西へそれて、アビドスの側面から侵入を試みているようです」
その報告に、足が止まる。
意外だった。
いつものカタカタヘルメット団なら、考えなしに正面から突っ込んでくるはずだ。
――流石に、少しは学習したということか。
ふと、アヤネちゃんの方を見る。
彼女がこの前入学してくれたからこそ、こうして冷静に状況を把握できている。
もし以前のままだったら、側面からの攻撃に気づかず、痛い目を見ていたかもしれない。
「うへー、めんどくさいけど……校門の一人は、おじさんが引き受けるよー」
そう言って、視線を仲間たちに向ける。
「側面の集団は、シロコちゃんたちでお願いねー」
「ん、わかった」
短く答えたシロコちゃんは、ニヤリと笑った。
その表情は、戦いを恐れていないというより、むしろ楽しんでいるようにすら見える。
「ありったけの地雷で、吹き飛ばしてくる」
その言葉に、私は思わず苦笑した。
――この感じなら、大丈夫だろう。
仲間を信じ、私は一人、校門の方へと足を向けた。
乾いた風が制服を揺らし、遠くで砂が舞い上がる。
これもまた、アビドスの日常だ。