二、三分ほど経った頃だろうか。
救急車は急激に速度を落とし、わずかな振動とともに停車した。
外から聞こえてくる音で、それがゲヘナの救急医学部の建物前であることが分かる。
ブレーキの軋む音。遠ざかるサイレン。
次いで、後部ドアが開く金属音が響いた。
「到着! 担架準備して!」
掛け声とともに、白衣姿の生徒たちが一斉に動き出す。
私は担架に固定されたまま、天井を見上げていた。
視界の端を流れていく照明の列。
無機質な白い天井。
その一つひとつが、やけに鮮明に目に映る。
担架が引き出され、私は空気に晒された。
昼間のゲヘナの空気は乾いていて、少しだけ埃っぽい。
それが、消毒液の匂いに一気に塗り替えられる。
「意識レベル良好、反応あり」
「出血量多め、衣服に血液付着」
「急患、処置室を使います」
淡々とした報告が飛び交う。
感情のこもらない声が、逆にこの場の緊張感を強調していた。
処置室の扉が開き、私はその中へ押し込まれる。
部屋は思ったよりも広く、天井が高い。
大型の医療機器が壁沿いに並び、中央には処置用のベッドが置かれている。
私はその上に移され、固定された。
「マスク当てますね」
「楽に呼吸してください」
口元に酸素注入機が当てられ、冷たい空気が肺に流れ込む。
少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
腕に、ちくりとした痛み。
輸血用の管が通されたのだろう。
「血圧安定」
「ただし失血痕が多い、念のため輸血継続」
私は心の中で、軽くため息をついた。
……完全に重傷者扱いだ。
ここで「大丈夫です」などと言っても、信じてもらえるはずがない。
むしろ、余計に検査が増える未来しか見えない。
私は静かに意識を集中させ、自分の体内を流れる神秘に干渉する。
再生能力を、完全に停止。
普段なら、傷はすでに存在しないはずだ。
だが今は、血が流れ、皮膚が裂けたままの状態を維持する必要がある。
処置が始まる。
ガーゼが当てられ、血を吸い取り、取り替えられる。
止血剤のひんやりとした感触。
包帯が巻かれるたび、体が少しずつ拘束されていく感覚。
痛みは、ほとんどない。
だが、見た目は完全に「大怪我を負った人間」だ。
「この出血量で意識がはっきりしてるの、すごいですね」
「ショック症状も出てないし……」
医学部生徒の小さな会話が耳に入る。
私は何も言わず、ただ天井を見つめていた。
やがて、処置を担当していた生徒が小さく息を吐いた。
「……よし、応急処置完了」
「これ以上の出血は抑えられてます」
私は全身にガーゼと包帯を巻かれ、ベッドに寝かされた。
重さはないはずなのに、妙に体が重く感じる。
その直後、私は思い出したように尋ねた。
「……空崎ヒナさんは?」
少し間を置いて、看護役の生徒が答える。
「風紀委員長ですか? さっきまで、ずっと外にいましたよ」
「処置が終わったって伝えたら、仕事があるからって」
私は一瞬、言葉を失った。
「……ずっと?」
「ええ。途中で一度も離れませんでした」
あの空崎ヒナが、私の処置が終わるまで待っていた。
正直、信じられない。
彼女はもっと割り切れる人間だと思っていた。
仕事として処理し、必要以上に関わらないタイプだと。
……少し、認識を改める必要があるかもしれない。
処置後、私はしばらくベッドで安静にしていた。
だが、時間が経つにつれて、ここにいる意味がどんどん薄れていく。
私は意を決して、近くにいた生徒に声をかけた。
「あの、もう痛みもありませんし……帰ってもいいでしょうか?」
返答は、予想通りだった。
「ダメです」
「今日は絶対安静」
「何かあったら責任取れません」
三連続の即答。
少しも迷いがない。
「……ですよね」
私は素直に引き下がった。
ここで粘っても、状況は悪化するだけだ。
仕方がない。
脱走できそうなタイミングを待つしかない。
ベッドに横たわりながら、私は周囲の音に意識を向けた。
点滴の落ちる規則的な音。
遠くの廊下を行き交う足音。
医療機器の電子音。
時間は、ゆっくりと流れていく。
だが、それは意外にも、突然終わった。
昼休憩。
気配が、すっと消えた。
足音が途絶え、話し声も聞こえなくなる。
私はゆっくりと上体を起こし、周囲を確認した。
……誰もいない。
点滴を外し、包帯がずれないよう注意しながらベッドを降りる。
床に足をつけると、少し冷たい。
窓に近づき、外を覗く。
一階。人影なし。
「……ごめんなさい」
小さく呟いてから、私は窓を開け、そのまま外へと身を滑らせた。
完全な脱走だ。
せめてもの罪滅ぼしに、私はベッドに戻り、簡単な手紙を書いた。
『お世話になりました。
勝手に出ていってしまってすみません。
本当に、ありがとうございました』
それを枕元に置き、静かに病室を後にする。
病院服のまま外に出ると、視線が集まった。
「……病衣?」
「え、脱走?」
「大丈夫なの、あの人」
ひそひそ声が背中に刺さる。
分かってはいたが、やはり少し恥ずかしい。
私は何事もなかったかのように歩き、そのまま家へ戻った。
玄関で靴を脱ぎ、ようやく深く息を吐く。
服を着替えながら、私はため息をついた。
「……最近、本当に、服をダメにする頻度が高いな」
血、破損、裂傷、再生。
原因は明白だ。
「どうにかしないと……」
呟きながら、新しい服に袖を通す。
それが、次にいつまで無事でいられるのか。
その答えは、きっとそう遠くない未来に訪れる。
短編 ホシノ視点 7
私は盾を前に構え、足元の砂を踏みしめた。
左腕に伝わる盾の重みが、思考を現実へと引き戻す。右手にはショットガン。短く太い銃身が、朝の光を鈍く反射していた。
深く息を吸い、吐く。
姿勢を低く落とし、身体の大半を盾の影へと押し込む。視線だけを敵に向けた。
次の瞬間、引き金を引いた。
――ドンッ!
爆発音とともに散弾が飛ぶ。
だが、相手はそれを読んでいたかのように、半歩横へ跳ねた。砂が跳ね、弾は空を切る。
「――やっぱりね」
私は眉一つ動かさない。
一発目がかわされることは、最初から織り込み済みだった。
相手が着地した、その“次”を狙う。
再び引き金。
――ドンッ!
今度は、鈍い衝撃音が確かに響いた。
装甲か、あるいは何かの防護具に当たったのだろう。相手の身体が大きくよろめき、片足が砂に沈む。
「……っ!」
完全な致命傷ではない。だが、確実に効いている。
しかし、相手もすぐに体勢を立て直した。
ほとんど間を置かず、銃口がこちらを向く。
――バン、バン、バン!
乾いた発砲音。
私は前へ踏み込みながら、弾道を読む。盾で受け、身体をひねり、紙一重でかわす。弾丸が頬をかすめ、空気が切り裂かれる感触だけが残った。
足は止めない。
一歩、また一歩。距離を詰める。
砂煙の中で、相手が笑ったように見えた。
「すごいな。正直言って予想以上だ」
息を整えながら、相手が言葉を続ける。
「ゲヘナの風紀委員長の他に、こんな奴がいるとは思わなかった」
その名前が出た瞬間、少しだけ苦笑が漏れた。
「うへー。おじさんも感心したよー」
盾を構え直しながら、軽い調子で返す。
「まさかカタカタヘルメット団に、こんなに強いのがいるなんて思ってなかったなー」
一瞬、視線を泳がせる。
「というかさ。君、本当にヘルメット団なのかな? 前までの人たちからしたら、今回の襲撃、いろいろありえないことだらけなんだよねー」
動きが止まった。
相手は少し考えるように、銃口を下げる。
「……新人だよ」
短く、それだけ。
「新人かー」
私は相手の体格を改めて見る。
やはり小さい。動きは洗練されているが、身体つきはまだ成長途中だ。
「君、一年生だよね? 高校に上がってすぐチンピラになるなんて、なかなか変わってるねー」
これは推測だった。
二年生なら、これほどの腕前があればすでに噂になっているはずだ。
相手は、ふっと鼻で笑った。
「自分からなろうと思ってなるやつもいれば、仕方なくやってるやつもいる。色々だろ」
その言葉には、どこか棘があった。
「君の場合はどうなのかなー?」
私は間合いを保ちながら、問いを投げる。
「問題行動で退学? それとも、自分から?」
「……どうでもいいだろ、そんなこと」
ぴしゃりと切り捨てられる。
「うへー」
私は肩をすくめた。
「それもそうだねー」
正直なところ、戦力は拮抗している。
このまま正面からやり合えば、勝てる保証はない。万が一にも、私がここで倒れるわけにはいかなかった。
――時間を稼ごう。
会話を続け、注意を逸らし、シロコちゃんたちの決着を待つ。
そう決めた、その時だった。
――ボンッ!
校庭の奥から、破裂音が響いた。
直後、赤い煙が空へと立ち上る。
砂色の空に、あまりにもはっきりとした赤。
「……あれは」
狼煙だ。
そして、このタイミングで上がるということは――。
私は、思わず笑ってしまった。
「あー……」
口元が、自然と緩む。
「やってくれたみたいだねー」
シロコちゃんたちが、側面の集団を制圧した。
それを示す、確かな合図。
勝ちを確信した瞬間、身体の奥に溜まっていた緊張が、ふっとほどけた。
さて――。
あとは、目の前のこの子だけだ。
今回は情景描写に力を入れて読みやすくしてみました。