ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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第三十三話 2度目の脱走 短編あり

 二、三分ほど経った頃だろうか。

 救急車は急激に速度を落とし、わずかな振動とともに停車した。

 

 外から聞こえてくる音で、それがゲヘナの救急医学部の建物前であることが分かる。

 ブレーキの軋む音。遠ざかるサイレン。

 次いで、後部ドアが開く金属音が響いた。

 

「到着! 担架準備して!」

 

 掛け声とともに、白衣姿の生徒たちが一斉に動き出す。

 私は担架に固定されたまま、天井を見上げていた。

 

 視界の端を流れていく照明の列。

 無機質な白い天井。

 その一つひとつが、やけに鮮明に目に映る。

 

 担架が引き出され、私は空気に晒された。

 昼間のゲヘナの空気は乾いていて、少しだけ埃っぽい。

 それが、消毒液の匂いに一気に塗り替えられる。

 

「意識レベル良好、反応あり」

 

「出血量多め、衣服に血液付着」

 

「急患、処置室を使います」

 

 淡々とした報告が飛び交う。

 感情のこもらない声が、逆にこの場の緊張感を強調していた。

 

 処置室の扉が開き、私はその中へ押し込まれる。

 部屋は思ったよりも広く、天井が高い。

 大型の医療機器が壁沿いに並び、中央には処置用のベッドが置かれている。

 

 私はその上に移され、固定された。

 

「マスク当てますね」

 

「楽に呼吸してください」

 

 口元に酸素注入機が当てられ、冷たい空気が肺に流れ込む。

 少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。

 

 腕に、ちくりとした痛み。

 輸血用の管が通されたのだろう。

 

「血圧安定」

 

「ただし失血痕が多い、念のため輸血継続」

 

 私は心の中で、軽くため息をついた。

 

 ……完全に重傷者扱いだ。

 

 ここで「大丈夫です」などと言っても、信じてもらえるはずがない。

 むしろ、余計に検査が増える未来しか見えない。

 

 私は静かに意識を集中させ、自分の体内を流れる神秘に干渉する。

 再生能力を、完全に停止。

 

 普段なら、傷はすでに存在しないはずだ。

 だが今は、血が流れ、皮膚が裂けたままの状態を維持する必要がある。

 

 処置が始まる。

 

 ガーゼが当てられ、血を吸い取り、取り替えられる。

 止血剤のひんやりとした感触。

 包帯が巻かれるたび、体が少しずつ拘束されていく感覚。

 

 痛みは、ほとんどない。

 だが、見た目は完全に「大怪我を負った人間」だ。

 

「この出血量で意識がはっきりしてるの、すごいですね」

 

「ショック症状も出てないし……」

 

 医学部生徒の小さな会話が耳に入る。

 私は何も言わず、ただ天井を見つめていた。

 

 やがて、処置を担当していた生徒が小さく息を吐いた。

 

「……よし、応急処置完了」

 

「これ以上の出血は抑えられてます」

 

 私は全身にガーゼと包帯を巻かれ、ベッドに寝かされた。

 重さはないはずなのに、妙に体が重く感じる。

 

 その直後、私は思い出したように尋ねた。

 

「……空崎ヒナさんは?」

 

 少し間を置いて、看護役の生徒が答える。

 

「風紀委員長ですか? さっきまで、ずっと外にいましたよ」

 

「処置が終わったって伝えたら、仕事があるからって」

 

 私は一瞬、言葉を失った。

 

「……ずっと?」

 

「ええ。途中で一度も離れませんでした」

 

 あの空崎ヒナが、私の処置が終わるまで待っていた。

 

 正直、信じられない。

 

 彼女はもっと割り切れる人間だと思っていた。

 仕事として処理し、必要以上に関わらないタイプだと。

 

 ……少し、認識を改める必要があるかもしれない。

 

 処置後、私はしばらくベッドで安静にしていた。

 だが、時間が経つにつれて、ここにいる意味がどんどん薄れていく。

 

 私は意を決して、近くにいた生徒に声をかけた。

 

「あの、もう痛みもありませんし……帰ってもいいでしょうか?」

 

 返答は、予想通りだった。

 

「ダメです」

 

「今日は絶対安静」

 

「何かあったら責任取れません」

 

 三連続の即答。

 少しも迷いがない。

 

「……ですよね」

 

 私は素直に引き下がった。

 ここで粘っても、状況は悪化するだけだ。

 

 仕方がない。

 脱走できそうなタイミングを待つしかない。

 

 ベッドに横たわりながら、私は周囲の音に意識を向けた。

 点滴の落ちる規則的な音。

 遠くの廊下を行き交う足音。

 医療機器の電子音。

 

 時間は、ゆっくりと流れていく。

 

 だが、それは意外にも、突然終わった。

 

 昼休憩。

 

 気配が、すっと消えた。

 足音が途絶え、話し声も聞こえなくなる。

 

 私はゆっくりと上体を起こし、周囲を確認した。

 ……誰もいない。

 

 点滴を外し、包帯がずれないよう注意しながらベッドを降りる。

 床に足をつけると、少し冷たい。

 

 窓に近づき、外を覗く。

 一階。人影なし。

 

「……ごめんなさい」

 

 小さく呟いてから、私は窓を開け、そのまま外へと身を滑らせた。

 

 完全な脱走だ。

 

 せめてもの罪滅ぼしに、私はベッドに戻り、簡単な手紙を書いた。

 

『お世話になりました。

 勝手に出ていってしまってすみません。

 本当に、ありがとうございました』

 

 それを枕元に置き、静かに病室を後にする。

 

 病院服のまま外に出ると、視線が集まった。

 

「……病衣?」

 

「え、脱走?」

 

「大丈夫なの、あの人」

 

 ひそひそ声が背中に刺さる。

 分かってはいたが、やはり少し恥ずかしい。

 

 私は何事もなかったかのように歩き、そのまま家へ戻った。

 

 玄関で靴を脱ぎ、ようやく深く息を吐く。

 

 服を着替えながら、私はため息をついた。

 

「……最近、本当に、服をダメにする頻度が高いな」

 

 血、破損、裂傷、再生。

 原因は明白だ。

 

「どうにかしないと……」

 

 呟きながら、新しい服に袖を通す。

 それが、次にいつまで無事でいられるのか。

 

 その答えは、きっとそう遠くない未来に訪れる。

 


短編 ホシノ視点 7

 

 私は盾を前に構え、足元の砂を踏みしめた。

 左腕に伝わる盾の重みが、思考を現実へと引き戻す。右手にはショットガン。短く太い銃身が、朝の光を鈍く反射していた。

 

 深く息を吸い、吐く。

 姿勢を低く落とし、身体の大半を盾の影へと押し込む。視線だけを敵に向けた。

 

 次の瞬間、引き金を引いた。

 

 ――ドンッ!

 

 爆発音とともに散弾が飛ぶ。

 だが、相手はそれを読んでいたかのように、半歩横へ跳ねた。砂が跳ね、弾は空を切る。

 

「――やっぱりね」

 

 私は眉一つ動かさない。

 一発目がかわされることは、最初から織り込み済みだった。

 

 相手が着地した、その“次”を狙う。

 

 再び引き金。

 

 ――ドンッ!

 

 今度は、鈍い衝撃音が確かに響いた。

 装甲か、あるいは何かの防護具に当たったのだろう。相手の身体が大きくよろめき、片足が砂に沈む。

 

「……っ!」

 

 完全な致命傷ではない。だが、確実に効いている。

 

 しかし、相手もすぐに体勢を立て直した。

 ほとんど間を置かず、銃口がこちらを向く。

 

 ――バン、バン、バン!

 

 乾いた発砲音。

 私は前へ踏み込みながら、弾道を読む。盾で受け、身体をひねり、紙一重でかわす。弾丸が頬をかすめ、空気が切り裂かれる感触だけが残った。

 

 足は止めない。

 一歩、また一歩。距離を詰める。

 

 砂煙の中で、相手が笑ったように見えた。

 

「すごいな。正直言って予想以上だ」

 

 息を整えながら、相手が言葉を続ける。

 

「ゲヘナの風紀委員長の他に、こんな奴がいるとは思わなかった」

 

 その名前が出た瞬間、少しだけ苦笑が漏れた。

 

「うへー。おじさんも感心したよー」

 

 盾を構え直しながら、軽い調子で返す。

 

「まさかカタカタヘルメット団に、こんなに強いのがいるなんて思ってなかったなー」

 

 一瞬、視線を泳がせる。

 

「というかさ。君、本当にヘルメット団なのかな? 前までの人たちからしたら、今回の襲撃、いろいろありえないことだらけなんだよねー」

 

 動きが止まった。

 相手は少し考えるように、銃口を下げる。

 

「……新人だよ」

 

 短く、それだけ。

 

「新人かー」

 

 私は相手の体格を改めて見る。

 やはり小さい。動きは洗練されているが、身体つきはまだ成長途中だ。

 

「君、一年生だよね? 高校に上がってすぐチンピラになるなんて、なかなか変わってるねー」

 

 これは推測だった。

 二年生なら、これほどの腕前があればすでに噂になっているはずだ。

 

 相手は、ふっと鼻で笑った。

 

「自分からなろうと思ってなるやつもいれば、仕方なくやってるやつもいる。色々だろ」

 

 その言葉には、どこか棘があった。

 

「君の場合はどうなのかなー?」

 

 私は間合いを保ちながら、問いを投げる。

 

「問題行動で退学? それとも、自分から?」

 

「……どうでもいいだろ、そんなこと」

 

 ぴしゃりと切り捨てられる。

 

「うへー」

 

 私は肩をすくめた。

 

「それもそうだねー」

 

 正直なところ、戦力は拮抗している。

 このまま正面からやり合えば、勝てる保証はない。万が一にも、私がここで倒れるわけにはいかなかった。

 

 ――時間を稼ごう。

 

 会話を続け、注意を逸らし、シロコちゃんたちの決着を待つ。

 

 そう決めた、その時だった。

 

 ――ボンッ!

 

 校庭の奥から、破裂音が響いた。

 直後、赤い煙が空へと立ち上る。

 

 砂色の空に、あまりにもはっきりとした赤。

 

「……あれは」

 

 狼煙だ。

 そして、このタイミングで上がるということは――。

 

 私は、思わず笑ってしまった。

 

「あー……」

 

 口元が、自然と緩む。

 

「やってくれたみたいだねー」

 

 シロコちゃんたちが、側面の集団を制圧した。

 それを示す、確かな合図。

 

 勝ちを確信した瞬間、身体の奥に溜まっていた緊張が、ふっとほどけた。

 

 さて――。

 

 あとは、目の前のこの子だけだ。




今回は情景描写に力を入れて読みやすくしてみました。
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