そのあと、部室ではいくつかの細かい話をした。
明日は何時頃がいいか。
連れてくる本人――いや、“その人”の体調は問題ないか。
検査はどこまで許可できるか。
侵襲的なものは避けるべきか。
どれも慎重で、誠実で、そして真剣だった。
感情制御アルゴリズム部の四人は、出会って間もない私の話を、まるで長年の仲間の相談事であるかのように扱ってくれた。
好奇心だけではない。
研究者としての責任感と、人としての配慮が、はっきりと伝わってくる。
「感情の検査装置と、医師の診察用の機材も準備しておくよ」
レイはそう言って、指を折りながら確認してくれた。
「無理はさせない。あくまで観察が中心だ。
必要なら、こちらから止める」
ユリも頷く。
「数値化できる範囲だけで、無理に刺激は与えないっす」
ミコトとサラも、それぞれ静かに同意を示した。
――ありがたい。
心の底から、そう思った。
気がつけば、窓の外は夕焼けに染まり始めていた。
ミレニアムの高い建物の影が長く伸び、部室の床に斜めの線を描いている。
「今日はこの辺でお開きにしようか」
レイがそう言ったとき、私は名残惜しさを感じている自分に気づいた。
「明日、必ず連れてきます」
立ち上がり、頭を下げる。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ」
レイはにっと笑った。
「面白い研究になりそうだ」
私は部室を後にした。
廊下に出た瞬間、胸の奥がふわりと軽くなる。
――久しぶりだ。
こんなふうに、純粋な期待だけで胸が満たされるのは。
足取りは自然と軽くなり、気づけば小さく鼻歌まで出そうになっていた。
明日。
明日が来るのが、待ち遠しい。
その上機嫌が、判断ミスを生んだ。
帰り道。
何の疑いもなく、私は駅へ向かい、そのまま電車に乗ってしまった。
ミレニアムからアビドス方面へ向かう路線。
その途中に――アビドス高校の最寄駅があることを、完全に失念していた。
扉が閉まり、電車が走り出してから、ようやく違和感に気づく。
――あ。
だが、その時にはもう遅かった。
次の駅で、扉が開く。
乗ってきたのは、見覚えのある顔だった。
「……え?」
その少女は、こちらを見るなり目を見開いた。
「あ!」
声を上げる。
「……あんた!」
黒見セリカ。
アビドス高校一年生。
こちらも、反射的に息を呑んだ。
まずい。
頭の中で、警鐘が鳴る。
最近は意図的にアビドスと距離を取っていた。
電車を避け、バスを使っていたのも、そのためだ。
それを、浮かれて忘れていた。
――完全に私のミスだ。
車内の空気が、一瞬で張り詰める。
周囲の乗客は事情を知らない。
だが、当事者同士には十分すぎるほどの緊張が流れている。
最悪の場合――撃ち合い。
その可能性を、私は否定できなかった。
アビドス襲撃。
あれで、相当な恨みを買っているはずだ。
前回会った時は、セリカがバイト中だった。
だから事態は穏便に済んだ。
だが、今は違う。
私は視線を落とさず、さりげなく銃に手をかける。
発砲する気はない。
だが、警戒は怠れない。
ところが。
黒見セリカの様子が、おかしい。
確かに、こちらを見ている。
だが、その目にあるのは敵意ではなかった。
怒りでも、憎しみでもない。
――困惑。
どうしていいかわからない、そんな色だった。
彼女は一歩踏み出しかけて、止まる。
口を開きかけて、閉じる。
……なんだ?
何を、そんなに迷っている?
もしかして。
脳裏に、ある可能性が浮かぶ。
――小鳥遊ホシノ。
あの人から、何か聞かされているのか?
だが、それが何なのかは、まったく想像がつかない。
私自身、小鳥遊ホシノが私とカイザー理事の契約をどう受け止めているのか、正確にはわかっていない。
話した。
確かに話したはずだ。
だが、どう伝わったのかは、別問題だ。
セリカが混乱しているように、私もこの状況を把握しきれていなかった。
このままでは、埒が開かない。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「……何もしないんですか?」
できるだけ、棘を抜いた声音で。
挑発でも、牽制でもない。
純粋な問いかけだ。
私は別に、アビドスに恨みがあるわけじゃない。
カイザー理事の依頼で動いただけだ。
できるなら、穏便に済ませたい。
黒見セリカは、一瞬言葉に詰まった。
視線が揺れ、拳を握りしめる。
そして、少し間を置いてから、ぽつりと答えた。
「……えっと」
声は小さい。
「ホシノ先輩から、大体の話は聞いたの」
やはり。
「あなたが、なんでアビドスを襲撃したのかとか……いろいろ」
電車の走行音が、やけに大きく感じられる。
「それでね」
セリカは、一度言葉を切った。
覚悟を決めるように、深呼吸する。
「私としては……あなたを責めるのは、違うと思うの」
――?
予想外の言葉だった。
「……というと?」
思わず、問い返してしまう。
ますます、わからない。
小鳥遊ホシノは、一体どう伝えた?
私は確かに、自分が望んで契約したと言った。
その結果、従う立場になったとも。
襲撃そのものは私の意思じゃない。
だが、襲撃に関わる原因を作ったのは、私だ。
そう伝えたはずだ。
なのに――
セリカは、私を責めないと言った。
「私もよく騙されたり、詐欺に遭ったりするから言える」
黒見セリカは、そう前置きしてから言葉を続けた。
「あなたは悪くないよ。
騙されたほうが悪いなんて、騙す側の言い訳でしかないんだから」
車内のアナウンスが、遠くで流れる。
次の駅名を告げる声が、やけに現実感を伴って耳に届いた。
「絶対に、騙すほうが悪い。
……あなたは、私たちと同じで、被害者だと思う」
――なにを言っている。
その言葉が、反射的に頭に浮かんだ。
騙された側?
被害者?
どういうことだ。
一瞬、理解が追いつかない。
……ああ。
そういうことか。
脳裏に、小鳥遊ホシノの顔が浮かぶ。
あの、どこか眠たげで、それでいて人の本質を見抜くような目。
あの人は、私が“騙されて契約した”と思っているのか。
確かに私は、契約の話をした。
被害者のようにも聞こえる言い方を、意図的に選んだ部分もある。
だがそれは、同情を買うためじゃない。
介入されないためだ。
私が自分で選んだ結果であり、私の責任だと伝えたはずだった。
――少なくとも、私の中では。
だが、伝わり方は、いつだって相手次第だ。
どう解釈されたのかは、私には制御できない。
結果として、私は「騙された可哀想な人」になっているらしい。
「あー……」
言葉に詰まる。
正直に否定すべきか。
いや、それをしたところで、今さら何が変わる?
黒見セリカは、真剣な顔でこちらを見ている。
疑いも、計算もない。
ただ、自分なりに考えて出した結論を、誠実に差し出してきている。
……めんどくさい。
率直な感想が、それだった。
私の計画では、アビドスの面々には、
――私は命令されて襲撃した。
――だが、そこに至った原因は私にもある。
その程度の認識で止めておきたかった。
同情も、正義感も、介入も不要だ。
必要以上に情を向けられるのは、厄介でしかない。
だが、もう遅い。
この様子だと、黒見セリカだけじゃない。
アビドスの五人全員が、似たような認識を持っている可能性が高い。
廃校寸前でも学校に残り、復興を目指す生徒たち。
優しさと行動力の塊だ。
――特に、小鳥遊ホシノ。
あの人なら、「助ける」と決めたら、本当に助けに来る。
それが、どれだけ面倒なことか。
私としては、もうこれ以上アビドスと関わるつもりはない。
関わる理由も、必要もない。
……だが、どうすればいい?
考えがまとまらない。
その間も、黒見セリカは私を見ている。
じっと。
逃げ場を塞ぐようでも、責めるようでもなく、ただ待つ目だ。
多分、彼女は言いたいことを言い切ったのだ。
だから次に何を話せばいいかわからない。
それは、私も同じだった。
「……ありがとうございます」
とりあえず、そう言った。
感情を乗せず、丁寧に。
彼女の善意だけは、無下にしたくなかった。
「気にかけてくれて、嬉しいです」
嘘ではない。
だが、本心とも少し違う。
また、沈黙。
電車の揺れと、レールを走る音だけが、二人の間を埋める。
他の乗客はスマホを見たり、窓の外を眺めたりしている。
この車両の中で、私たちだけが、奇妙に切り取られた空間にいるようだった。
しばらくして、不意に黒見セリカが口を開いた。
「ねえ」
声が、少しだけ柔らかい。
「あなたは……学校、楽しい?」
予想外の質問だった。
緊張も、警戒も、正義感もない。
ただの、何でもない問い。
だからこそ、少し戸惑う。
「学校……ですか?」
一拍置いて、答える。
「今のところは、楽しんでますね。
やりたかったことも、順調に進んでますし」
研究のこと。
神秘のこと。
今日、感情制御アルゴリズム部で得た希望。
それらを思い浮かべながら、自然に言葉が出た。
「そうなんだ」
セリカは、ほっとしたように息を吐いた。
「……よかったね」
それ以上は、何も言わない。
また、沈黙が落ちる。
互いに、相手のことをよく知らない。
知ろうとするほどの距離でもない。
そして、私としては、これ以上会話を重ねて、情を向けられるのは避けたい。
だから、この沈黙は、むしろ都合がよかった。
やがて、電車が減速する。
アナウンスが、次の駅名を告げた。
黒見セリカの降りる駅だ。
彼女は、扉の前に立ち、少しだけ迷うようにこちらを振り返った。
そして、電車が止まり、扉が開く直前。
ほんの一瞬の間を置いて、言った。
「あなたが、私たちをどう思ってるかはわからない」
真っ直ぐな視線。
「でも、私たちは……あなたを助けたいと思ってるから」
一歩、外へ。
「何か困ったことがあったら、アビドスに来て」
最後に、はっきりと。
「力になる」
そう言って、黒見セリカはホームへ降りた。
扉が閉まる。
電車が再び走り出す。
彼女の姿は、すぐに見えなくなった。
私は、しばらくその場から動けなかった。
話した回数は、今回を入れて三回。
二回目に至っては、襲撃時だ。
そんな相手に、あそこまで断言できるのか。
――底抜けに優しい。
それに。
――底抜けに、騙されやすい。
そう思った。
だが、胸の奥に残った、わずかなざらつきは、
電車がどれだけ走っても、消えてくれなかった。
ホシノ視点 9
明らかな動揺だった。
ほんの一瞬。
呼吸が止まり、肩が跳ね、視線がわずかに揺れた。
だが、それだけで十分だった。
――確信。
私の中で、疑いは完全に形を失い、ひとつの答えへと収束していく。
私はこの子を、知っている。
どこで?
いつ?
なぜ、今まで気づかなかった?
思考が高速で回転する。
目の前の子から得られる情報を、必死に掻き集める。
小柄な体格。
そして――どこか、自分を切り捨てるような立ち振る舞い。
記憶を遡る。
いた。
一人だけ、はっきりと思い当たる子が。
最近、出会ったばかりの。
小さくて、白い髪で、赤い目をした――あの子。
「……私さ」
自然と、声が落ち着いた。
「君と、同じくらいの身長の子を一人、知ってるんだよね」
もはや、問いではなかった。
確認ですらない。
私は、すでに確信したまま、話し始めていた。
声も違う。
持っている銃も違う。
顔はヘルメットに隠れている。
口調も、戦場用に作られた別人のものだ。
――それでも。
一度「その子」だと認識してしまった瞬間、
今まで感じていた違和感が、すべて既視感だったことに気づいた。
初対面のはずなのに、懐かしさを覚える感覚。
妙に気になる視線。
放っておけないという直感。
全部、最初から答えはそこにあったのだ。
「その子との初対面はね」
私は、ゆっくりと言葉を選びながら続ける。
「アビドスのオフィス街だった。ビルの前で、虚な顔して降りてきたんだよ」
瓦礫の向こうにいるその子は、動かない。
だが、こちらを見ているのはわかる。
「目が合ってさ。……あれは、放っておけなかったな」
思い出す。
夕暮れの光。
沈黙したビル。
世界から切り離されたような、あの目。
「あの時、何かされたんじゃないかって心配して、声かけたんだ」
私は、少しだけ笑った。
「体も細くてさ。制服はミレニアムで……高校生だってわかって、余計に胸が痛くなった」
シロコちゃんの方を見ると、完全に困惑した表情をしている。
何が起きているのか、まったく理解できていない顔だ。
それでも、私は止まらない。
「次に会ったのは、アビドス行きの電車の中」
砂の匂いと、鉄の音を思い出す。
「ドアの近くで、俯いて、震えてた。……何かに怯えてたんだと思う」
そのときの光景が、鮮明によみがえる。
「聞いてもさ、何も話してくれなかった。言いたくないって」
それでも。
「でもね」
私は、一拍置いて続けた。
「セリカちゃん、覚えてる?」
その名前を出した瞬間、空気が微かに揺れた。
「セリカちゃんも、電車で会ったらしくてさ。落ち込んでたところを、励ましてもらったんだって」
私は、目の前の子をまっすぐに見据える。
いつの間にか、相手の銃口は下がっていた。
完全に、地面へ向いている。
私も、ショットガンを下ろした。
盾を横に置き、武装を解く。
戦闘の空気は、もうそこにはない。
ただ、重くて、冷たい沈黙だけが残っていた。
「いい子なんだよ」
声が、自然と柔らかくなる。
「自分も辛いことがあるだろうに、他人に頼ろうとしない。巻き込もうともしない」
胸の奥が、少しだけ痛む。
「全部、自分一人で抱え込んで」
あの時。
私には話してくれなかった。
「言いたくありません」
そう言って、首を横に振ったあの仕草。
「……でもさ」
私は続ける。
「他人が頑張ってるのを見たら、ちゃんと声をかけて、励ましてあげられるんだ」
セリカちゃんの、あの明るい声が思い出される。
「自分が弱ってるときでも、誰かの背中を押せる」
それは、簡単なことじゃない。
「優しくて」
一歩、距離を詰める。
「強い子なんだ」
私は、ヘルメット越しに、その子を見た。
表情は見えない。
けれど、空気が変わっているのがはっきりとわかる。
張り詰めていた緊張が、少しずつ溶けていく。
動揺は、やがて諦めにも似た、静かな落ち着きへと変わっていった。
「誰に命令されて、こんなことやってるのかはわからない」
私は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どんな事情があるのかも、わからない」
無理に踏み込むつもりはない。
「話してくれなくてもいい」
でも。
「けどね」
私は、はっきりと告げた。
「うちの後輩ちゃんは、きっとそれじゃ納得しないんだ」
彼女たちは、理由のない暴力を受け入れない。
私は、先ほどまで抱いていた怒りも、疑念も、警戒心も、すべて手放していた。
そこにあるのは、ただひとつ。
心配と、優しさ。
そして――
どうしても、放っておけないという感情だけだった。