元々は5、6話でアビドス襲撃編が終わる予定だったんですが、なんかだんだん細かく描きたくなってきて、本編の何倍もゆっくりと進めてしまいました。
まあホシノが他人を心配してる様子とか曇ってる様子とかって描いてて楽しいんで仕方ないですね。
家に辿り着いた瞬間、私は限界だった。
玄関の扉を閉めたかどうかすら、正直あまり覚えていない。
靴を脱いだ記憶も曖昧で、カバンを肩から外した感覚すらない。
ただ一つ確かなのは、次の瞬間には私は自分の部屋にいて、
そのまま――
ソファにダイブしていたということだけだ。
ばふ、と鈍い音。
シーツが大きく波打ち、身体を受け止める。
顔を枕に埋め、四肢を投げ出したまま、私は一切動かなかった。
呼吸だけが、ゆっくりと上下する。
いつもの私なら、こんなことはしない。
帰宅すれば、まず荷物を整理し、上着を脱ぎ、最低限の身支度を整える。
それが習慣であり、癖だった。
だからこそ――
「……相当、疲れているのですか?」
その声に、私は顔を上げなかった。
視線だけを横にやると、椅子に座る黒服さんと目が合った。
いつも通りのスーツ姿。
片手には、いつも通りのコーヒーカップ。
ほんのわずかだが、彼は目を見開いている。
それが、彼なりの「驚き」なのだろう。
「あなたらしくもない」
淡々と、しかし確かにそう言った。
……自覚はある。
「ちょっと、アビドス関連で面倒なことになりましてね」
ソファに顔を埋めたまま、くぐもった声で答える。
「アビドスですか」
黒服さんは、一拍置いてからそう言った。
「それは、気になりますね」
口調は平坦で、感情の起伏はほとんど感じられない。
本当に気になっているのかどうかは、正直怪しい。
だが――
黒服さんは、アビドスに関して小鳥遊ホシノへ取引を持ちかけている。
無関心でいられるはずがない。
私はそのことを思い出し、ゆっくりと顔を上げた。
ソファの上で半身を起こし、黒服さんの方へ身体を向ける。
彼は相変わらず、スーツに身を包み、コーヒーを片手に座っている。
不思議なほど、この部屋に馴染んでいる。
「この前、アビドスを襲撃した時、あったじゃないですか」
話を切り出す。
「ええ」
黒服さんは、すぐに頷いた。
「確か、襲撃は失敗。
あなたは逃げて帰ってきましたね」
思い出したのか、クックック、と喉を鳴らして笑う。
……笑い事じゃないんだが。
「その時にですね」
私は、ダイブで乱れた髪を、手櫛で整えながら続ける。
「契約について、少し話したんですよ」
「ああ」
黒服さんは、コーヒーを一口飲んでから言った。
「言っていましたね。
確信に触れない範囲で、多少話したと」
「はい」
私は頷く。
「そのことで……まあ、誤解が生まれまして」
「というと?」
黒服さんは、初めてはっきりとこちらに体を向けた。
わずかだが、興味の色が見える。
「私は、ほとんど嘘を混ぜずに話しました」
言葉を選びながら、続ける。
「私から契約を持ちかけたこと。
それによって、私が依頼に応える義務を持つ関係にあること」
隠さなかった。
正直に話した。
「……それは」
黒服さんが、静かに言葉を挟む。
「私との契約ではなく、カイザー理事との契約では?」
「ええ、そうです」
私は頷いた。
「ですが、小鳥遊ホシノは、私が黒服さんだけと契約していると思っているみたいで」
そこで一度言葉を切り、カバンを床に下ろす。
どさり、と小さな音がした。
「つまり」
私は、整理するように言った。
「襲撃依頼を出したのがカイザー理事だと悟られないように、
『自分が契約しているのは黒服さんだけ』だと錯覚させる話し方をした結果――」
「誤解が生まれた、と」
黒服さんが続きを引き取る。
「そうですね」
私は苦笑した。
「アビドスは、私が黒服さんに嵌められて契約して、
その結果、アビドスを襲撃したと思っているわけです」
「それはそれは……」
黒服さんは、心底楽しそうに笑った。
「クックック……私としては、たまったものではないですね」
「私だって、そうですよ」
思わず、項垂れる。
「黒服さんも知ってるでしょう?
小鳥遊ホシノの性格」
「ええ、よく知っています」
黒服さんは、即答した。
「あなたが私の被害者だと思っているのなら……
まあ、放っては置かないでしょう」
「そうなんですよ……」
私は、深いため息をついた。
「どうすればいいでしょうか」
正直なところ、私の手を離れつつある問題だ。
下手をすれば、介入される。
それだけは、避けたい。
黒服さんは、しばらく考える素振りを見せたあと、あっさりと言った。
「そうですね……」
そして。
「放っておけばいいんじゃないですか?」
「……え?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。
「アビドスは、積極的には動けないはずです」
黒服さんは、事もなげに続ける。
「借金の利子がありますしね。
余計な行動を取る余裕はないでしょう」
理屈としては、正しい。
「ですから、特に気にする必要はないのでは?」
「……そう、なんでしょうか?」
半信半疑で聞き返す。
「というか」
黒服さんは、肩をすくめた。
「アビドスに、何ができるという話ですよ。
私たちの契約を破棄することはできませんし、
私たちも、破棄するつもりはありません」
一拍。
「せいぜい、ここに来て、私に直談判するくらいでしょうか」
……それはそれで、十分厄介だが。
「……まあ」
私は、考え込む。
「今のところ、アビドスに近づかなければ、特に支障はなさそうですし」
結論を出す。
「それでもいいかもしれませんね。
先のことは、向こうが何かアクションを起こしそうになった時に考えるとしましょう」
そう言って、私は一旦この件を棚上げにすることにした。
コンタクトを机の上に置き、立ち上がる。
「シャワー、浴びてきます」
そう告げて、浴室へ向かった。
服を脱ぎ、シャワーをひねる。
温かい水が、頭から一気に降り注ぐ。
ゲヘナで貼られていたガーゼや包帯を、一つずつ剥がしていく。
粘着が肌から離れる感触。
水に流されていく、血の跡。
傷はもう、ない。
だが、今日一日の出来事は、確かに残っている。
期待。
不安。
厄介な誤解。
それらを洗い流すように、私はしばらく、シャワーの下で立ち尽くしていた。
ーー
シャワーを終え、身体を拭き終えた私は、脱衣所に立ったまま一度だけ深呼吸をした。
湯気がまだ残る空間は、湿った空気と石鹸の匂いが混じり合っている。
鏡に映る自分の顔は、いつも通りだ。少し疲れた目をしているが、それ以外は変わらない。
私は壁に立てかけてあった刀を手に取った。
この前、エンジニア部で購入したものだ。
刀身はよく手入れされており、浴室の照明を反射して淡く光る。
冷たい重みが、掌に確かな存在感を伝えてきた。
別に、刀を洗おうとしているわけではない。
私は再び風呂場へ向かった。
足音がタイルに反響する。
目的は一つ。
――明日、感情制御アルゴリズム部に連れていくためのコピー体を作る。
浴槽の中に入り、腰を下ろす。
湯は張っていない。
白い浴槽の底が、やけに無機質に見えた。
右手に刀を持ち、左腕を前に伸ばす。
私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、左手に意識を集中させる。
神秘が、静かに集まってくる感覚。
血液とは違う、もっと曖昧で、それでいて確かな流れ。
ヘイローの存在感が薄れ、視界の端がわずかに歪む。
身体の重心が揺れ、足元が不安定になる。
――大丈夫。
この感覚も、もう慣れた。
神秘のほとんどを左腕に集めたことで、身体全体のバランスが崩れる。
耐久力は著しく下がっている。
私は、その「頃合い」を逃さず――
刀を振るった。
思いの外、抵抗はなかった。
神秘を集めすぎた左腕は、信じられないほどあっさりと切り離された。
重力に従い、浴槽の中へと落ちる。
一瞬遅れて、血が広がった。
白い浴槽に赤が滲む。
だが、それは長くは続かない。
私は、何事もなかったかのように刀を浴槽の縁に置き、静かに息を整えた。
切断面からの出血は、すぐに収まる。
同時に、再生が始まる。
失われた部分に、確かな「圧」が生まれる。
骨格が形を取り戻し、筋肉が絡み合い、皮膚がそれを覆っていく。
切り落とされた腕の方でも、同じ現象が起きていた。
そこから、新たな身体が形作られていく。
骨、筋、臓、皮膚。
秩序だった混沌。
この光景を、私はもう何度も見てきた。
最初の頃は、さすがに目を逸らしたくなったものだが――今では、冷静に観察できる。
やがて、再生は終わった。
浴槽の中に立っているのは、私と、もう一人の私。
寸分違わぬ顔。
同じ体格。
同じ呼吸。
違うのは、ただ一つ。
――目だ。
コピー体の目には、光がない。
焦点は合っているが、そこに意思は感じられない。
「……立て」
私がそう命じると、コピー体は素直に身体を起こした。
動作は滑らかで、命令に対する理解も正確だ。
言葉は通じる。
だが、そこに「選択」はない。
私はシャワーをひねり、浴槽に飛び散った血を洗い流した。
排水口へと吸い込まれていく赤を、特に感慨もなく眺める。
すべてが流れ落ち、元の白さを取り戻す。
身体を拭き、服を着る。
コピー体にも、同じ服を着せた。
サイズはぴったりだ。
当然だが、それでも少しだけ奇妙な感覚がある。
最近は、カイザー理事の管理下でしかコピーを作っていなかった。
こうして自分で、誰の監視もなく、じっくりと観察するのは久しぶりだ。
私はコピー体を自分の部屋へと連れていき、ベッドに座らせた。
姿勢は正しく、無駄な動きはない。
まるで、人形のようだ。
棚を開け、ケースからカラーコンタクトを取り出す。
私の目とは違う、鮮やかな青。
光を反射すると、少しだけ人工的に見える色だ。
「動かないで」
コピー体は、瞬き一つせずにこちらを見る。
私は慎重にコンタクトを装着した。
左右、両方。
これで、どうにか「双子」に見えるだろう。
明日、感情制御アルゴリズム部へ連れて行くには、その程度の偽装で十分だ。
私は一歩下がり、全体を確認する。
――問題ない。
コンタクトのズレがないことを確かめ、満足して頷く。
「ここで待っていて」
命じると、コピー体は何も言わず、じっと座り続けた。
私は部屋を出る。
ドアを閉める前、ほんの一瞬だけ振り返る。
ベッドに座る「もう一人の私」
明日、この存在が、何かを変えるかもしれない。
あるいは、何も変わらないかもしれない。
それでも――
私は、わずかに胸の奥が高鳴っているのを感じていた。
期待か、不安か。
あるいは、その両方か。
ドアを閉め、静かな廊下に戻る。
明日は、長い一日になるだろう。
⸻
ホシノ視点 10
その子は、とうとう観念したようだった。
張りつめていた肩の力が、すとん、と目に見えて抜ける。
戦闘中に一度も見せなかった、完全な脱力だった。
そして、何も言わずに――銃を地面へと置いた。
乾いた音が、砂混じりの地面に小さく響く。
それは敗北を認める音でもあり、同時に、これ以上抗わないという意思表示でもあった。
続いて、深く、長いため息。
肺の奥に溜め込んでいたものを、ようやく吐き出したかのような息だった。
その子は、ゆっくりと両手を上げ、自分のヘルメットに触れる。
一瞬だけ、迷うような間があったが、やがて覚悟を決めたように、留め具を外した。
カチャリ、と金属音。
ヘルメットが持ち上げられた瞬間――
予想通り、白い髪がふわりと現れた。
日の光を受けて、柔らかく揺れるその髪は、戦場にはあまりにも不釣り合いだった。
ヘルメットは無造作に地面へ投げ捨てられ、鈍い音を立てて転がる。
続いて、目元を覆っていたゴーグルにも手をかける。
それも外し、同じように地面へ。
その子は、頭を小さく、ふるふると数回振った。
押しつぶされていた髪が元に戻るように、白い房がふわりと広がる。
そして――ゆっくりと、目を開いた。
赤い瞳。
間違いようのない、あの色だった。
ノノミちゃんが、言葉を失ったように目を丸くする。
そのまま、完全に固まってしまっている。
シロコちゃんもまた、息を呑んだ様子で、銃口を下げた。
警戒は解いていないが、それでも先ほどまでの敵意は消えている。
二人とも、理解したのだ。
目の前にいるのが――セリカちゃんを電車の中で励ました、あの子だということを。
白い髪の少女は、ゆっくりとこちらを向いた。
先ほどまで漂っていた、張り詰めた戦闘の空気は、もうどこにもない。
代わりにあるのは、ひどく弱々しい雰囲気。
戦うために作られた仮面を外した、人ひとり分の素の姿だった。
「……どうして、わかったんですか」
静かな声だった。
わずかに震えが混じっている。
口調も、いつの間にか敬語に戻っていた。
それが余計に、この子が“無理をしていた”ことを際立たせる。
「最初はね」
私は、ゆっくりと答えた。
「本当に小さな違和感だったんだよ」
戦場に立ったまま、銃も持たず、ただ言葉を交わす。
不思議な状況だが、不思議と不安はなかった。
「戦ってる相手がさ、なんだか……会ったことあるような気がして」
私は苦笑する。
「でも、そんなわけないでしょ? だから最初は、気のせいだと思って放っておいたんだ」
あの時は、本当にそう思っていた。
まさか、襲撃者の正体が“あの子”だなんて、考えもしなかった。
「でもね」
一拍置く。
「色々考えてるうちに、違和感がどんどん強くなっていった」
私は指折り数えるように続ける。
「いつものカタカタヘルメット団にはいなかった、異様に小柄な子」
視線を向けると、その子は少しだけ俯いた。
「それに、こっちのことを調べ尽くしてる感じだった。私の過去まで知ってる風だったしね」
そこまで来て、私は小さく肩をすくめた。
「正直、この時点で“あれ?”って思い始めたんだよね。
本当にカタカタヘルメット団の人間なのかな、って」
事実、その疑念は拭えなかった。
組織の動きも、役割分担も、あまりにも整いすぎていた。
「でもやっぱり」
私は、その子をまっすぐ見た。
「決定的だったのは、“初対面じゃないよね?”って聞いた時の反応かな」
あの瞬間の、わずかな動揺。
それが、何より雄弁だった。
「あれで、確信が持てたよ」
私は、少しだけ柔らかく笑う。
「だってさ。おじさんが知ってる生徒の中で、ここまで身長が低い子って、君しかいなかったからね」
キヴォトスは広い。
だが、それでも“例外”はそう多くない。
その子は、唸るように息を吐いた。
「……身長の偽装は、さすがに断念したんですが」
自嘲気味に言う。
「やっぱり、無理にでもやっておくべきでしたか」
また、小さなため息。
「ううん」
私は首を横に振った。
「無理にやってたら、もっと早く気づいてたと思うよ」
一瞬、その子の肩が、ほんのわずかに揺れた。
笑ったのか、それとも苦笑か。
「何かしら事情があるのは、わかってる」
私は、声の調子を変えずに続ける。
「誰に依頼を受けたのかも……まあ、大体は検討がつくんだけどさ」
一瞬、間を置く。
「答え合わせ、してもいい?」
その子は、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、そして静かに首を横に振った。
「……残念ながら、答えられませんね」
はっきりとした拒否。
だが、そこには敵意はなかった。
「うへー」
私は大げさに肩を落とす。
「だよねー」
ため息混じりにそう言って、空を見上げる。
戦いは終わった。
けれど、この子の事情は、まだ何一つ終わっていない。
それだけが、はっきりと胸に残っていた。