私は一度、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
肺の奥まで空気を送り込み、心拍数を落ち着かせる。
混乱したままでは、何一つ正確に判断できない。
――まずは現状把握。
そう自分に言い聞かせて、目の前の光景を改めて整理する。
倉庫の中央。
簡易的に設えた作業台の上に、女の子が座っている。
裸で。
そして――私と、まったく同じ姿で。
照明に照らされた肌は、私が毎朝鏡で見るそれと寸分違わない。
肩のラインも、鎖骨の浮き方も、太ももの筋肉の付き方も、全部だ。
だが、決定的に違うところがあった。
目。
その瞳には、光がない。
焦点は合っているはずなのに、そこには意思が感じられない。
まるで、何も映していないガラス玉みたいだ。
――ああ。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
「……目、抜いたときの私みたいだ」
思わず、独り言のように呟く。
感情が希薄になり、世界との距離が極端に遠くなっていた、あの頃の目。
彼女は、確かに動いている。
先ほど、自分の力で上体を起こし、私の方を向いた。
筋肉も、関節も、正常に機能している。
それなのに、人間らしさが、決定的に欠けている。
私は、足元の血痕を踏まないように一歩だけ近づき、慎重に声をかけた。
「あ……えっと……初めまして……」
喉が、少し乾いていた。
返事は、ない。
少女はただ、私を見つめている。
瞬きの回数すら、妙に一定だった。
「……えっと……そうだな……」
頭の中で、言葉を探す。
研究者としての私と、人間としての私が、互いに邪魔をしていた。
「……なんで、起き上がったの……?」
気づいたら、そんな質問を投げていた。
論理も順序も、完全に無視した、反射的な問いだった。
一拍。
二拍。
少女の唇が、わずかに動いた。
「起きろと言われたからです」
その声は、平坦だった。
抑揚も、感情の揺れも、ほとんどない。
それなのに、はっきりと耳に届く、人間の声。
「うわあっ!?」
完全に油断していた私は、思わず大きな声を上げた。
反射的に二、三歩後ずさり、距離を取る。
心臓が、ばくばくと音を立てる。
「い、いきなり喋らないでよ……!」
自分でも何を言っているのかわからなかったが、とにかく驚いた。
少女は、私の反応に対して、何の変化も見せない。
ただ、そこに立っている。
私は、落ち着け、落ち着け、と心の中で繰り返しながら、再び問いかけた。
「……言われたから起きたって……それって……」
言葉を選ぶ。
「……なんで、従ったの……?」
もしも、そこに意思があるなら。
判断があるなら。
この問いに、何かしらの感情が混じった答えが返ってくるはずだ。
だが。
「……」
沈黙。
少女は、私を見つめたまま、何も言わない。
まるで、返答を検索している途中で止まった機械みたいだ。
「……えっと……」
私は、少し困って、別のアプローチを試みる。
「……じゃあさ……作業台から、降りてみて」
命令ともお願いともつかない、曖昧な言い方。
一瞬の間。
次の瞬間、少女は動いた。
滑らかだった。
人形のように、無駄のない動作で、作業台から降りる。
足音はほとんどしない。
そして、私の正面に立ち、背筋を伸ばした。
直立不動。
その拍子に、肩にかかっていた白衣が、するりと落ちた。
床に落ちる布の音が、妙に大きく響く。
「あ……」
私は、思わず視線を逸らした。
「……白衣、落ちちゃった……」
気まずさを誤魔化すように、倉庫の隅に置いてあった予備の白衣を手に取る。
「えっと……何か、着る……?」
裸のままでいるのは、嫌だろう。
そう思ったのは、私自身が人間だからだ。
少女は、私を見下ろしも見上げもしない、水平な視線のまま答えた。
「そうさせたいなら、そう命令してください」
機械的な声。
だが、どこか奇妙なことに、発音は完璧で、滑舌も良い。
「……命令……」
私は、その言葉を反芻した。
「……命令に、従うんだ……」
自分で言って、背筋が少し寒くなる。
「……えっと……」
ここまで来たら、逃げても仕方がない。
私は、危険性は低いと判断し、もう一歩踏み込むことにした。
「……君は……誰なのかな……?」
声は、できるだけ穏やかに。
少女は、一拍置いて、淡々と答える。
「私は、コハク様のコピーです。それ以上でも、以下でもありません」
あまりにも、即答だった。
どこかで聞いたような、漫画やアニメのキャラクターが言いそうなセリフ。
現実感が、また一つ削がれる。
「……私のコピー……」
私は、腕を組み、少し考える。
「……それは……まあ、そうなんだろうけど……」
言葉を選びながら、正直な感想を口にする。
「……なんていうか……人間らしくないっていうか……」
少女は、黙って聞いている。
「……私のコピーっていうより……感情のないロボットみたいで……」
言ってから、少し後悔した。
相手がどう受け取るか、わからない。
だが、少女の表情は、まったく変わらない。
私は、考え込むように顎に手を当て、別の質問を投げた。
「……君は……生物なのかな……?」
少女は、迷いなく答える。
「はい。人族人科ホモ・サピエンスです」
あまりにも教科書的な返答に、思わず苦笑が漏れた。
「……えーっと……」
私は、頭を掻く。
「……じゃあ……君は……私に対して……」
言葉を探す。
「……何か……思うところとかは……ある……?」
期待していたわけではない。
ただ、確認したかった。
少女は、少しだけ間を置いて、答えた。
「私には、自我や自己がありません。故に、思いもありません」
きっぱりと。
断言だった。
「あ……そう……」
その一言しか、出てこなかった。
倉庫の中に、沈黙が落ちる。
機械音も、外の風の音も、何もない。
私は、目の前に立つ“私のコピー”を見つめながら、言葉を失っていた。
とりあえず――本当に、とりあえず、という言葉が一番しっくりきた――私は白衣を着せた。
床に落ちていたそれを拾い上げ、ぱたぱたと埃を払ってから、コピー体の肩にそっと掛ける。
彼女は抵抗も戸惑いも見せず、言われるがままに腕を通した。布が肌に触れる音だけが、やけに大きく倉庫に響いた。
「……じっとしててね」
言葉に反応はない。
けれど、命令として認識されたのか、彼女は微動だにせず立っている。
私はそのまま、慎重に距離を詰めた。
照明の下で改めて見ると、白衣を纏ったその姿は、鏡の中の自分とほとんど変わらなかった。
違いがあるとすれば、立ち方だ。
私なら無意識に体重を片足に預けるところを、彼女は左右均等に、寸分の狂いもなく立っている。
「……じゃあ、ちょっと触るよ」
言い訳めいた一言を呟いてから、私は彼女の手を取った。
冷たくはない。
体温は、私と同じくらいだ。
指を一本一本開いて、指紋を確かめる。
親指、人差し指、中指――渦の形、分岐の位置、細かな隆線の流れ。
すべてが、私のものと一致していた。
「……本当に、同じ……」
呟きながら、次は顔に手を伸ばす。
目の形、まつ毛の生え方、二重の幅。
耳の裏にある小さな傷跡まで、完全に再現されている。
耳を引っ張っても、眉を指で持ち上げても、彼女はただ指示を待つ物体のように、黙っている。
私は、次第に言葉を失っていった。
細胞レベルで同一。
その表現が誇張でないことを、これでもかというほど突きつけられる。
血液検査の結果も、DNA解析も、すでに何度も確認した。
それでもなお、目の前に立つ“私”を前にすると、頭が追いつかない。
「……あなた、本当に……」
言葉が続かない。
その後も私は、できる限りの観察と検査を行った。
反射、筋力、関節の可動域、呼吸のリズム、心拍数。
どれも正常で、どれも私と同じ。
違いは、たった一つだった。
この子は、自分からは何もしない。
命令されなければ、立ち上がらない。
視線を動かさない。
呼吸と瞬き以外の、いかなる行動も起こさない。
「……じゃあ、右手を上げて」
そう言えば、正確な角度で右手を上げる。
「次は、三歩下がって」
命令通り、一定の歩幅で下がる。
「……止まって」
即座に止まる。
迷いがない。
疑問がない。
そこには、意志というものが介在していなかった。
「……どんな命令でも……?」
半ば独り言のように呟くと、彼女は淡々と答える。
「命令であれば、実行します」
その一言が、胸に重くのしかかった。
私は、椅子に腰を下ろし、額に手を当てた。
いくら調べても、実感が湧かない。
理解しているはずなのに、現実感が追いつかない。
それと同時に――
この発見が、どれほど重大なものかも、ようやく輪郭を持ち始めていた。
人間の完全なコピー。
しかも、意識を持たない、命令に従うだけの存在。
条約。倫理。法律。
頭の中に、そういった言葉が次々と浮かんでは消える。
「……誰にも、言えないな……」
ぽつりと呟いた言葉は、倉庫の壁に吸い込まれていった。
これを外に出せば、確実に問題になる。
研究成果として発表することもできない。
称賛も、評価も、ありえない。
だからだろうか。
胸の奥にあるはずの達成感は、驚くほど薄かった。
代わりに、重たい問いだけが残る。
――この子を、どうする?
その考えが、私の思考の大半を占領し始めていた。
コピー体は、私が話しかけていない間、倉庫の隅で静かに立っていた。
どこを見るでもなく、焦点の合わない視線を前方に向けて。
それはまるで、人形のようで。
それでいて、どこか、猫がぼんやりと空を眺めている時にも似ていて。
「……」
気づけば、私はその姿をじっと見つめていた。
可愛らしい、と思ってしまった自分に、少し驚く。
感情も自我もないのに。
それでも、同じ形をした存在が、無防備にそこにいるというだけで、妙な親近感が湧いてくる。
「……外には、出さない方がいいよね……」
誰に向けたわけでもない言葉。
私は、決めた。
少なくとも今は、この倉庫から出さない。
他人の目に触れさせない。
そうと決まれば、行動は早かった。
家に戻り、布団と着替えを抱えて再び倉庫に戻る。
倉庫の一角を片付け、簡易的な生活スペースを作った。
床に敷いた布団。
小さな棚。
着替えを置く箱。
「……よし」
満足とは言えないが、最低限は整った。
「さあ、ここにきて」
声をかけると、コピー体は素直に歩み寄り、布団の上に座る。
私は、自分の服を手渡し、着せた。
袖に腕を通させ、前を閉じる。
「……やっぱり」
思わず、笑みが漏れる。
「服を着ると、一気に私っぽくなるねえ」
返事はない。
けれど、それでも、そこに“誰か”がいるという感覚は、確かにあった。
ペットを迎えた時のような、奇妙な感情。
責任と、不安と、ほんの少しの愛着。
「私は今日はもう帰るから」
そう言いながら、私は昼ごはんを取り出し、布団の横に置いた。
「明日、私が来るまで、この倉庫から出ないでね。お腹が空いたら、これ食べて」
命令として成立しているのか、確認するように、彼女の顔を見る。
表情は変わらない。
「了解しました」
短い返答。
それでいい。
私は、倉庫の扉に手をかけ、振り返った。
白衣を着た“私”が、布団の上に座っている。
その光景を、目に焼き付ける。
「……なんか……すごいことになったな……」
小さく呟いてから、倉庫を出る。
外に出て、深呼吸を一つ。
自分の耳と尻尾についた血を、ハンカチで丁寧に拭い、匂い消しのスプレーを吹きかける。
血の匂いが、少しずつ薄れていく。
私は、何事もなかったかのような顔を作って、倉庫を後にした。
この頃のコハクはまだ12歳…
12歳がこれやってるとお思うと絵面がすごいな