ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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コハクってこの時点ではまだ耳と尻尾があるんだよな…可愛い。

まあ不慮の事故で亡くなるけど


第四十三話 コハク過去編 4

昼前の街中は、独特のざわめきに満ちていた。

 

授業の合間を縫って解き放たれた学生たちが、連れ立って歩道を埋め尽くしている。

制服のままの者、上着を脱いでシャツ姿の者。

スマホを片手に、笑いながら店を探す声が、あちこちから聞こえてくる。

 

飲食店の前にはすでに小さな列ができ始め、看板を出す店員の声と、厨房から漏れてくる油の匂いが混じり合って、昼という時間帯を強く主張していた。

 

そんな賑わいの中を、私は一人、歩いていた。

 

――匂い。

 

歩きながら、ふと気づく。

耳や尻尾の毛に、まだ微かに残っている血の匂い。

 

ちゃんと洗ったはずだった。

消臭スプレーも使った。

それでも、完全には落ち切っていなかったらしい。

 

鼻をすっと鳴らして確認する。

鉄のような、生臭さにも似た匂いが、確かに自分の周囲に漂っている気がした。

 

「……うわ……」

 

思わず、顔をしかめる。

 

もちろん、他人が気づくほど強い匂いではないだろう。

街中には、もっと強烈な匂いが溢れている。

焼肉、ラーメン、揚げ物、香水、排気ガス。

 

多少鉄っぽい匂いが混じったところで、誰も気にしない。

理屈ではわかっている。

 

それでも――。

 

今の私は、必要以上に神経質になっていた。

 

「はー……もうちょっと、いい消臭剤買わないとかな……」

 

独り言のように呟きながら、尻尾の付け根を無意識に気にしてしまう。

周囲を行き交う人の視線が、すべて自分に向いているような錯覚。

 

落ち着け。

誰も見ていない。

誰も、私のことなんて気にしていない。

 

そう言い聞かせながら、昼飯を食べる店を探して歩く。

 

特別に凝ったものが食べたいわけではない。

高級店に入るほどの気分でもない。

 

ただ、ほんの少しだけ、いいものが食べたい。

 

理由は単純だ。

研究が――私の研究が、大きく進むかもしれないから。

 

あの倉庫で起きたこと。

コピー体の存在。

再生能力の新たな可能性。

 

頭の中で、それらがぐるぐると回り続けている。

興奮と不安と、わずかな達成感が混ざり合って、気持ちが落ち着かない。

 

「……どこか適当に……」

 

歩きながら、店先のメニューをちらりちらりと眺める。

 

「……すき焼きでも、食べようか……」

 

ぽつりと呟いて、スマホを取り出した。

近くの店を検索しようと、画面を開いた、その瞬間。

 

「すいません」

 

低く、はっきりとした声。

 

「真田利コハクさん、ですか?」

 

唐突に名前を呼ばれて、私は反射的に足を止めた。

 

心臓が、どくりと跳ねる。

 

「……え?」

 

顔を上げると、目の前に男が立っていた。

 

長身。

私よりも頭ひとつ分、いや、それ以上高い。

黒いスーツに身を包み、ネクタイまできっちり締めている。

 

皺一つないスーツ。

靴も、磨き上げられたように光っていた。

 

全体の雰囲気は、やり手のビジネスマン。

街中でも浮かない、むしろ洗練された印象。

 

――ただし、顔を除けば。

 

その顔を見た瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。

 

黒い皮膚。

艶のない、ゴムのような質感。

 

人間の顔の輪郭はしているが、どこか不自然だ。

目鼻口の配置は合っているのに、決定的に「人間らしさ」が欠けている。

 

特に目。

 

異様に大きく、丸く、光を反射している。

瞳孔があるのかどうかも分からない、ただ光る二つの眼。

 

ロボットでもない。

かといって、生き物とも言い切れない。

 

マネキンに、意思を持たせたような――そんな異形。

 

「……」

 

率直に言って、気味が悪かった。

 

ぞわり、と肌が粟立つ感覚。

耳が、ぴくりと動いてしまう。

 

逃げたい。

一歩、後ずさりたい。

 

そう思ったが、声をかけられて黙り込むのも失礼だ。

それに、相手は名前を知っている。

 

私は、慎重に口を開いた。

 

「はい……私が、真田利コハクですが……」

 

自分でもわかるほど、声が硬い。

 

「……なんでしょうか?」

 

警戒を隠さずに問いかけると、男は両手を軽く上げた。

 

「そんなに警戒しないでください」

 

穏やかな口調。

人をなだめるような、軽い笑みを浮かべている――ように見えるが、顔が顔なので、正直よく分からない。

 

「特段、怪しいものではありませんよ」

 

「……」

 

私は、じっと男を見つめた。

 

「怪しい奴は、みんなそう言いますけど……」

 

小さくため息をついてから、続ける。

 

「まあいいです。で、何の用でしょうか?」

 

とりあえず、話だけは聞こう。

ここは人通りの多い街中だ。

何かあっても、すぐに騒ぎになる。

 

そう判断しての言葉だった。

 

男は、一瞬だけ間を置いてから、はっきりと言った。

 

「単刀直入に言いましょう」

 

その声音が、少しだけ低くなる。

 

「あなたの研究の、パートナーにならせてはいただけないかと」

 

「……パートナー?」

 

思わず、聞き返す。

 

男は、すっと一歩前に出て、手を差し伸べてきた。

 

「はい」

 

その手もまた、人間のそれとは微妙に違って見えた。

関節の動きが、どこか滑らかすぎる。

 

「……なんでいきなり?」

 

私は、その手を取らず、疑問を投げかける。

 

「私とあなた、初対面のはずですが」

 

「ええ、そうですね」

 

男は、引っ込めた手を軽く振りながら答えた。

 

「ですが、あなたの研究には以前から興味がありまして」

 

「……」

 

心臓が、また一つ強く打つ。

 

どこまで、知られている?

何を、見られている?

 

警戒心が、一気に強まる。

 

そんな私の反応を見て取ったのか、男は少し首を傾げた。

 

「ここで立ち話も、なんですし」

 

そして、街路の向こうを指差す。

 

「近くのカフェにでも入りませんか? 私の奢りですよ」

 

視線の先にあったのは、見慣れた看板。

 

『コメダ珈琲店』

 

……よりによって、コメダ。

 

私は、一瞬だけ考えた。

 

昼飯はまだ。

ここなら食事もできる。

奢りと言われたのも、正直ありがたい。

 

それに、コメダは人も多い。

密室になるわけでもない。

 

「……まあ」

 

小さく息を吐いてから、答えた。

 

「いいですよ。ちょうどお昼を食べようと思ってたんです」

 

男は、満足そうにうなずいた。

 

「それはよかった」

 

そうして、私たちは並んで店に向かって歩き出す。

 

昼前の喧騒の中、

異形の男と、血の匂いを残した私が、

何事もないかのように、珈琲店の扉をくぐった。

 

店内は、外の喧騒とはまた違った賑わいに包まれていた。

 

昼時ということもあり、ほぼ満席。

スーツ姿の会社員、学生のグループ、買い物途中らしい年配の夫婦。

それぞれが思い思いに席を占め、湯気の立つ料理や大きなグラスを前に談笑している。

 

コーヒーの香りに、揚げ物の油の匂い、甘いシロップの香りが混じり合い、独特の“コメダの空気”を作り出していた。

 

「いらっしゃいませ、二名様ですね」

 

店員に案内され、店内を見渡す。

 

幸いにも、二人掛けの席が一つだけ空いていた。

少し奥まった場所で、人通りも少ない。

 

「こちらへどうぞ」

 

すんなりと席に案内され、私は内心ほっと息をついた。

人目が多すぎるのも落ち着かないが、少なすぎるのも怖い。

このくらいが、ちょうどいい。

 

席に着くと、男は背筋を伸ばし、まるで高級レストランにでも来たかのような所作でメニュー表を手に取った。

 

その動き一つ一つが、無駄なく、洗練されている。

異形の顔でなければ、間違いなく「できる大人」という印象を持っただろう。

 

「そうですね……」

 

男はメニューをぱらりとめくりながら、穏やかな声で言った。

 

「ここに来るのは初めてなので……」

 

指先が、メニューの一角を指し示す。

 

「素直に、シロノワールとコメダブランドのセットにしましょうか。おすすめメニューらしいですし」

 

「……」

 

私は、内心で少し笑ってしまった。

 

ああ、やっぱり。

この人、コメダをよく知らない。

 

「私はですね」

 

私もメニュー表を開き、ページをめくりながら答える。

 

「お昼も済ませたいですし、ポテチキとグラコロと、アイスティーレモンにしようかなって思ってます」

 

そう言った瞬間だった。

 

「……え?」

 

男が、ぴたりと動きを止めた。

 

顔――正確には、黒い皮膚の奥で光る目が、わずかに見開かれる。

 

「……ここ、珈琲店ですよね?」

 

「そうですけど?」

 

「……なぜ、そんな……」

 

言葉を探すように、一拍置いてから。

 

「そんな、ジャンクフードの塊のようなメニューが……?」

 

本気で困惑している様子だった。

 

「まあ……」

 

私は苦笑しながら、メニューを閉じた。

 

「コメダって、そういう店なんですよ。軽食って言葉の定義がちょっとおかしいっていうか」

 

「……なるほど……」

 

男は、まだ納得しきれていない様子でメニューを見つめている。

 

その反応が、少しだけ可笑しかった。

 

私は、テーブルの端にある呼び出しボタンを押した。

小さな「ピンポーン」という音が鳴る。

 

すぐに店員がやってきた。

 

「ご注文、お決まりでしょうか?」

 

「はい」

 

私は、はっきりと告げる。

 

「ポテチキと、グラコロと、アイスティーレモンをお願いします」

 

店員は慣れた様子でメモを取り、頷く。

 

「かしこまりました」

 

続いて、男が静かに口を開いた。

 

「私は、シロノワールと、コメダブランドのセットをお願いします」

 

「はい、少々お待ちくださいませ」

 

店員はそう言って一礼し、厨房の方へと去っていった。

 

注文が終わり、テーブルの上に一瞬の静寂が落ちる。

 

外の喧騒は、ガラス越しに少し遠く感じられ、代わりに店内のざわめきと食器の音が、ゆったりと耳に届く。

 

男は、椅子に深く腰掛け直し、指を軽く組んだ。

 

「では……」

 

その声は、先ほどまでよりも少しだけ改まっていた。

 

「注文が来るまでに、自己紹介でもいたしましょうか」

 

「……どうぞ」

 

私も、アイスティー用のグラスに視線を落としながら答える。

 

「私は、キヴォトスで神秘を扱い、研究している者です」

 

男は、胸に手を当てるような仕草をした。

 

「今回、真田利コハクさんの研究に強い興味を持ちまして。ぜひ、共同研究をさせていただきたいと思い、声をかけさせていただきました」

 

言葉遣いは丁寧で、どこか格式ばっている。

 

仕草も、姿勢も、声の調子も、隙がない。

まるで、事前に練習してきたかのようだ。

 

「……えっと」

 

私は、少し首を傾げる。

 

「お名前は……?」

 

男は、一瞬だけ間を置いた。

 

そして、まるで当然のことのように言う。

 

「特に、ございません」

 

「……は?」

 

思わず、間抜けな声が出た。

 

「名前が、ない?」

 

「ええ」

 

男は、あっさりと頷く。

 

「ですので、好きにお呼びください」

 

「……」

 

私は、言葉に詰まった。

 

珍しい、というより、奇妙だ。

名前を持たない存在など、聞いたことがないわけではないが、現実で出会うと話は別だ。

 

(……深掘りすると、面倒なやつだな……)

 

そう判断して、その件は一旦脇に置くことにした。

 

「……じゃあ、こちらも一応」

 

私は、姿勢を正し、形式的に言った。

 

「キヴォトスで神秘の研究をしている、真田利コハクです」

 

少しだけ間を置いて。

 

「……まあ、もう知っているとは思いますが」

 

男は、満足そうに頷いた。

 

「ええ、もちろん」

 

そして、さらりと続ける。

 

「ミレニアム自治区の中学校に入学したばかりの一年生。年齢は十二歳。身長は百三十五センチ。体重は――」

 

「おっと、そこまでです」

 

私は、慌てて手を上げた。

 

「なんでそこまで調べてるかは知りませんけど、公衆の面前で乙女の体重を言うものじゃありません」

 

少し強めの口調になってしまったが、これは正当防衛だ。

 

危ないところだった。

一歩間違えれば、店内で体重を暴露されるところだった。

 

「ああ、これは失礼」

 

男は、悪びれた様子もなく、軽く頭を下げる。

 

「しかし、私があなたのことを、きちんと調べた上での申し立てであることは、ご理解いただけたかと思います」

 

「……まあ、それは」

 

私は、腕を組む。

 

「わかりましたけど……もうちょっと配慮をお願いしますよ」

 

「善処しましょう」

 

その返答も、どこか事務的だった。

 

私は、この時点では、思っていたほど危険な人物ではないかもしれない、と感じ始めていた。

 

少なくとも、今すぐ暴力を振るったり、拉致したりするような気配はない。

 

しかし――。

 

だからといって、共同研究の申し出を、その場で承諾する気には、まったくなれなかった。

 

この男は、何かを知っている。

私が知られていると思っていないことまで。

 

それが、ひどく引っかかっていた。

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