まあ不慮の事故で亡くなるけど
昼前の街中は、独特のざわめきに満ちていた。
授業の合間を縫って解き放たれた学生たちが、連れ立って歩道を埋め尽くしている。
制服のままの者、上着を脱いでシャツ姿の者。
スマホを片手に、笑いながら店を探す声が、あちこちから聞こえてくる。
飲食店の前にはすでに小さな列ができ始め、看板を出す店員の声と、厨房から漏れてくる油の匂いが混じり合って、昼という時間帯を強く主張していた。
そんな賑わいの中を、私は一人、歩いていた。
――匂い。
歩きながら、ふと気づく。
耳や尻尾の毛に、まだ微かに残っている血の匂い。
ちゃんと洗ったはずだった。
消臭スプレーも使った。
それでも、完全には落ち切っていなかったらしい。
鼻をすっと鳴らして確認する。
鉄のような、生臭さにも似た匂いが、確かに自分の周囲に漂っている気がした。
「……うわ……」
思わず、顔をしかめる。
もちろん、他人が気づくほど強い匂いではないだろう。
街中には、もっと強烈な匂いが溢れている。
焼肉、ラーメン、揚げ物、香水、排気ガス。
多少鉄っぽい匂いが混じったところで、誰も気にしない。
理屈ではわかっている。
それでも――。
今の私は、必要以上に神経質になっていた。
「はー……もうちょっと、いい消臭剤買わないとかな……」
独り言のように呟きながら、尻尾の付け根を無意識に気にしてしまう。
周囲を行き交う人の視線が、すべて自分に向いているような錯覚。
落ち着け。
誰も見ていない。
誰も、私のことなんて気にしていない。
そう言い聞かせながら、昼飯を食べる店を探して歩く。
特別に凝ったものが食べたいわけではない。
高級店に入るほどの気分でもない。
ただ、ほんの少しだけ、いいものが食べたい。
理由は単純だ。
研究が――私の研究が、大きく進むかもしれないから。
あの倉庫で起きたこと。
コピー体の存在。
再生能力の新たな可能性。
頭の中で、それらがぐるぐると回り続けている。
興奮と不安と、わずかな達成感が混ざり合って、気持ちが落ち着かない。
「……どこか適当に……」
歩きながら、店先のメニューをちらりちらりと眺める。
「……すき焼きでも、食べようか……」
ぽつりと呟いて、スマホを取り出した。
近くの店を検索しようと、画面を開いた、その瞬間。
「すいません」
低く、はっきりとした声。
「真田利コハクさん、ですか?」
唐突に名前を呼ばれて、私は反射的に足を止めた。
心臓が、どくりと跳ねる。
「……え?」
顔を上げると、目の前に男が立っていた。
長身。
私よりも頭ひとつ分、いや、それ以上高い。
黒いスーツに身を包み、ネクタイまできっちり締めている。
皺一つないスーツ。
靴も、磨き上げられたように光っていた。
全体の雰囲気は、やり手のビジネスマン。
街中でも浮かない、むしろ洗練された印象。
――ただし、顔を除けば。
その顔を見た瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。
黒い皮膚。
艶のない、ゴムのような質感。
人間の顔の輪郭はしているが、どこか不自然だ。
目鼻口の配置は合っているのに、決定的に「人間らしさ」が欠けている。
特に目。
異様に大きく、丸く、光を反射している。
瞳孔があるのかどうかも分からない、ただ光る二つの眼。
ロボットでもない。
かといって、生き物とも言い切れない。
マネキンに、意思を持たせたような――そんな異形。
「……」
率直に言って、気味が悪かった。
ぞわり、と肌が粟立つ感覚。
耳が、ぴくりと動いてしまう。
逃げたい。
一歩、後ずさりたい。
そう思ったが、声をかけられて黙り込むのも失礼だ。
それに、相手は名前を知っている。
私は、慎重に口を開いた。
「はい……私が、真田利コハクですが……」
自分でもわかるほど、声が硬い。
「……なんでしょうか?」
警戒を隠さずに問いかけると、男は両手を軽く上げた。
「そんなに警戒しないでください」
穏やかな口調。
人をなだめるような、軽い笑みを浮かべている――ように見えるが、顔が顔なので、正直よく分からない。
「特段、怪しいものではありませんよ」
「……」
私は、じっと男を見つめた。
「怪しい奴は、みんなそう言いますけど……」
小さくため息をついてから、続ける。
「まあいいです。で、何の用でしょうか?」
とりあえず、話だけは聞こう。
ここは人通りの多い街中だ。
何かあっても、すぐに騒ぎになる。
そう判断しての言葉だった。
男は、一瞬だけ間を置いてから、はっきりと言った。
「単刀直入に言いましょう」
その声音が、少しだけ低くなる。
「あなたの研究の、パートナーにならせてはいただけないかと」
「……パートナー?」
思わず、聞き返す。
男は、すっと一歩前に出て、手を差し伸べてきた。
「はい」
その手もまた、人間のそれとは微妙に違って見えた。
関節の動きが、どこか滑らかすぎる。
「……なんでいきなり?」
私は、その手を取らず、疑問を投げかける。
「私とあなた、初対面のはずですが」
「ええ、そうですね」
男は、引っ込めた手を軽く振りながら答えた。
「ですが、あなたの研究には以前から興味がありまして」
「……」
心臓が、また一つ強く打つ。
どこまで、知られている?
何を、見られている?
警戒心が、一気に強まる。
そんな私の反応を見て取ったのか、男は少し首を傾げた。
「ここで立ち話も、なんですし」
そして、街路の向こうを指差す。
「近くのカフェにでも入りませんか? 私の奢りですよ」
視線の先にあったのは、見慣れた看板。
『コメダ珈琲店』
……よりによって、コメダ。
私は、一瞬だけ考えた。
昼飯はまだ。
ここなら食事もできる。
奢りと言われたのも、正直ありがたい。
それに、コメダは人も多い。
密室になるわけでもない。
「……まあ」
小さく息を吐いてから、答えた。
「いいですよ。ちょうどお昼を食べようと思ってたんです」
男は、満足そうにうなずいた。
「それはよかった」
そうして、私たちは並んで店に向かって歩き出す。
昼前の喧騒の中、
異形の男と、血の匂いを残した私が、
何事もないかのように、珈琲店の扉をくぐった。
店内は、外の喧騒とはまた違った賑わいに包まれていた。
昼時ということもあり、ほぼ満席。
スーツ姿の会社員、学生のグループ、買い物途中らしい年配の夫婦。
それぞれが思い思いに席を占め、湯気の立つ料理や大きなグラスを前に談笑している。
コーヒーの香りに、揚げ物の油の匂い、甘いシロップの香りが混じり合い、独特の“コメダの空気”を作り出していた。
「いらっしゃいませ、二名様ですね」
店員に案内され、店内を見渡す。
幸いにも、二人掛けの席が一つだけ空いていた。
少し奥まった場所で、人通りも少ない。
「こちらへどうぞ」
すんなりと席に案内され、私は内心ほっと息をついた。
人目が多すぎるのも落ち着かないが、少なすぎるのも怖い。
このくらいが、ちょうどいい。
席に着くと、男は背筋を伸ばし、まるで高級レストランにでも来たかのような所作でメニュー表を手に取った。
その動き一つ一つが、無駄なく、洗練されている。
異形の顔でなければ、間違いなく「できる大人」という印象を持っただろう。
「そうですね……」
男はメニューをぱらりとめくりながら、穏やかな声で言った。
「ここに来るのは初めてなので……」
指先が、メニューの一角を指し示す。
「素直に、シロノワールとコメダブランドのセットにしましょうか。おすすめメニューらしいですし」
「……」
私は、内心で少し笑ってしまった。
ああ、やっぱり。
この人、コメダをよく知らない。
「私はですね」
私もメニュー表を開き、ページをめくりながら答える。
「お昼も済ませたいですし、ポテチキとグラコロと、アイスティーレモンにしようかなって思ってます」
そう言った瞬間だった。
「……え?」
男が、ぴたりと動きを止めた。
顔――正確には、黒い皮膚の奥で光る目が、わずかに見開かれる。
「……ここ、珈琲店ですよね?」
「そうですけど?」
「……なぜ、そんな……」
言葉を探すように、一拍置いてから。
「そんな、ジャンクフードの塊のようなメニューが……?」
本気で困惑している様子だった。
「まあ……」
私は苦笑しながら、メニューを閉じた。
「コメダって、そういう店なんですよ。軽食って言葉の定義がちょっとおかしいっていうか」
「……なるほど……」
男は、まだ納得しきれていない様子でメニューを見つめている。
その反応が、少しだけ可笑しかった。
私は、テーブルの端にある呼び出しボタンを押した。
小さな「ピンポーン」という音が鳴る。
すぐに店員がやってきた。
「ご注文、お決まりでしょうか?」
「はい」
私は、はっきりと告げる。
「ポテチキと、グラコロと、アイスティーレモンをお願いします」
店員は慣れた様子でメモを取り、頷く。
「かしこまりました」
続いて、男が静かに口を開いた。
「私は、シロノワールと、コメダブランドのセットをお願いします」
「はい、少々お待ちくださいませ」
店員はそう言って一礼し、厨房の方へと去っていった。
注文が終わり、テーブルの上に一瞬の静寂が落ちる。
外の喧騒は、ガラス越しに少し遠く感じられ、代わりに店内のざわめきと食器の音が、ゆったりと耳に届く。
男は、椅子に深く腰掛け直し、指を軽く組んだ。
「では……」
その声は、先ほどまでよりも少しだけ改まっていた。
「注文が来るまでに、自己紹介でもいたしましょうか」
「……どうぞ」
私も、アイスティー用のグラスに視線を落としながら答える。
「私は、キヴォトスで神秘を扱い、研究している者です」
男は、胸に手を当てるような仕草をした。
「今回、真田利コハクさんの研究に強い興味を持ちまして。ぜひ、共同研究をさせていただきたいと思い、声をかけさせていただきました」
言葉遣いは丁寧で、どこか格式ばっている。
仕草も、姿勢も、声の調子も、隙がない。
まるで、事前に練習してきたかのようだ。
「……えっと」
私は、少し首を傾げる。
「お名前は……?」
男は、一瞬だけ間を置いた。
そして、まるで当然のことのように言う。
「特に、ございません」
「……は?」
思わず、間抜けな声が出た。
「名前が、ない?」
「ええ」
男は、あっさりと頷く。
「ですので、好きにお呼びください」
「……」
私は、言葉に詰まった。
珍しい、というより、奇妙だ。
名前を持たない存在など、聞いたことがないわけではないが、現実で出会うと話は別だ。
(……深掘りすると、面倒なやつだな……)
そう判断して、その件は一旦脇に置くことにした。
「……じゃあ、こちらも一応」
私は、姿勢を正し、形式的に言った。
「キヴォトスで神秘の研究をしている、真田利コハクです」
少しだけ間を置いて。
「……まあ、もう知っているとは思いますが」
男は、満足そうに頷いた。
「ええ、もちろん」
そして、さらりと続ける。
「ミレニアム自治区の中学校に入学したばかりの一年生。年齢は十二歳。身長は百三十五センチ。体重は――」
「おっと、そこまでです」
私は、慌てて手を上げた。
「なんでそこまで調べてるかは知りませんけど、公衆の面前で乙女の体重を言うものじゃありません」
少し強めの口調になってしまったが、これは正当防衛だ。
危ないところだった。
一歩間違えれば、店内で体重を暴露されるところだった。
「ああ、これは失礼」
男は、悪びれた様子もなく、軽く頭を下げる。
「しかし、私があなたのことを、きちんと調べた上での申し立てであることは、ご理解いただけたかと思います」
「……まあ、それは」
私は、腕を組む。
「わかりましたけど……もうちょっと配慮をお願いしますよ」
「善処しましょう」
その返答も、どこか事務的だった。
私は、この時点では、思っていたほど危険な人物ではないかもしれない、と感じ始めていた。
少なくとも、今すぐ暴力を振るったり、拉致したりするような気配はない。
しかし――。
だからといって、共同研究の申し出を、その場で承諾する気には、まったくなれなかった。
この男は、何かを知っている。
私が知られていると思っていないことまで。
それが、ひどく引っかかっていた。