しばらくして、テーブルに影が落ちた。
「お待たせいたしました」
店員の声とともに、次々と皿が運ばれてくる。
金属がテーブルに触れる、軽い音。
白い皿の上で、黄金色のポテトが湯気を立てていた。
瞬間、香ばしい匂いが鼻腔を突き抜ける。
「あ……」
思わず、声が漏れた。
揚げたての油の匂い。
衣の奥に閉じ込められた肉の気配。
それだけで、胃がきゅっと縮むのがわかる。
先ほどまで、倉庫で――自分の身体を切り、再生させ、切り、再生させ――そんなことを繰り返していた。
神経も、体力も、思考も、限界まで酷使していたのだ。
だからだろう。
今の私にとって、この皿はただの昼食ではない。
生きるための燃料だ。
「……」
私は、無意識のうちに喉を鳴らしていた。
涎が出そうになるのを、慌てて飲み込む。
(やば……テンション上がりすぎ……)
自分で自分を戒めながら、フォークを手に取る。
その時だった。
ふと視線を上げると、向かいの男が、妙な顔をしているのが目に入った。
黒い顔の奥で、光る眼が、じっと自分の前の皿を見つめている。
動きが止まり、完全に固まっている。
「……?」
私は、フォークを持ったまま首を傾げた。
「どうしたんです?」
少しだけ声を潜めて聞く。
「注文に間違いはないと思いますけど……」
一瞬、嫌な予感がよぎる。
「……髪の毛でも、入ってましたか?」
そう言うと、男はゆっくりと顔を上げた。
「……いえ」
声は落ち着いているが、どこか困惑が滲んでいる。
「この……シロノワール……」
視線が、再び皿に落ちる。
「写真の……三倍くらいの大きさが、ありませんか?」
「……」
私は、一瞬きょとんとしてから、内心で納得した。
ああ。
なるほど。
「なんだ、そんなことですか」
肩の力が抜けて、少し笑ってしまう。
「この店は、大体こんな感じですよ」
私は、自分の皿を指差した。
「ほら、私のも見てください。写真から想像できるサイズより、明らかに大きいでしょう?」
確かに、メニュー写真で見たポテチキやグラコロより、実物は一回り、いや二回りは大きい。
ポテトは山盛りだし、グラコロも厚みがある。
「そういうコンセプトの店なんです。写真詐欺……っていうか、写真が控えめすぎるというか」
「……はあ……」
男は、まだ納得しきれない様子で、皿とメニューを交互に見ている。
「あなたは……」
ぽつりと、言った。
「知った上で、頼まれていたんですね……」
「ええ」
私は、何でもないことのように頷く。
「この店、私の研究室からも近いんですよ。時々、来ますから」
そう言うと、男はわずかに口元――らしき部分を歪めた。
「……注文の前に、教えてほしかったですね」
「シロノワール一個なら、問題ないかなって思いまして」
「……」
一瞬の沈黙。
「まあ……」
男は、観念したようにため息をついた。
「頑張って、食べますかね……」
そう言って、フォークを手に取る。
その動きは、どこかぎこちない。
甘味に慣れていないのか、それとも量に気圧されているのか。
私は、それを横目に見ながら、ようやく自分の食事に取りかかった。
ポテトを一つ、口に運ぶ。
――美味しい。
塩気と油が、舌に染み渡る。
噛むたびに、体が「これを待っていた」と主張してくる。
「……生き返る……」
思わず、独り言が漏れた。
二口、三口と食べ進めながら、少しずつ頭も落ち着いてくる。
そのタイミングを見計らったかのように、男が口を開いた。
「さて」
声の調子が変わる。
先ほどまでの戸惑いは消え、仕事の話をする時のそれだ。
「注文も届いたことですし……本題に入りましょうか」
私は、フォークを置き、男を見る。
「あなたの行っている研究に、協力したいという申し出ですが」
男は、コメダブランドのカップを持ち上げ、一口飲んだ。
「率直なところ……どう思っていますか?」
「……」
私は、一瞬だけ考えた。
言葉を選ぶ必要は、あまりなさそうだ。
「正直に言いますね」
そう前置きしてから、はっきりと言う。
「怪しさ満載だと思っています」
男は、何も言わずに続きを促す。
「私の個人情報を、あそこまで調べていることもそうですし……」
私は、グラコロを割りながら続けた。
「それ以上に、このタイミングで声をかけてきたっていうのが、怪しいんですよ」
「と言いますと?」
男は、再びコメダブランドを口にしながら、視線だけをこちらに向ける。
「……私の研究に、大きな進展が、あったんです。本当に、あなたに声をかけられる、三時間くらい前に」
私は、男の反応をじっと観察しながら続ける。
「タイミングを見計らって、声をかけてきたように感じるんですよね」
テーブルの上で、指先を軽く組む。
「もしかしたら……監視まがいなことを、されてるんじゃないかって、思ってしまいます」
「……」
一瞬の沈黙。
男は、カップをソーサーに戻した。
その音が、やけに大きく響いた気がした。
「……そうですね」
そして、あっさりと言った。
「似たようなことは、していますよ」
「……」
私は、思わず瞬きをした。
「あなたは、前々から少し気にかけていましたのでね」
まるで、「天気がいいですね」と言うかのような調子。
「……隠さないんですか?」
「たまたまですよ、とか……そういうふうに取り繕わなくても、よかったんですか?」
男は、肩をすくめるような仕草をした。
「私は、信頼されるために情報を開示しただけです」
そして、少しだけ声を低くする。
「というか……」
光る眼が、こちらを見据えた。
「取り繕っても、信じなかったでしょう? あなた」
「……まあ」
私は、小さく息を吐く。
「そうかもしれませんけど……」
そして、フォークを置き、姿勢を正す。
「じゃあ、質問を変えます。前々から私を気にかけてたって……」
言葉を選びながら、尋ねる。
「それって、いつからですか?」
男は、少し考えるような素振りを見せてから答えた。
「ちょうど……あなたが、中学校に上がってすぐでしょうか」
「……」
「そのあたりからですね」
胸の奥が、ひやりとした。
(中学校に上がってすぐ……)
脳裏に、嫌な記憶がよぎる。ヘイローが、チカチカと点滅した、あの日。
「……私の……」
声が、わずかに震える。
「神秘が、覚醒した時からですか?」
「ええ」
男は、迷いなく答えた。
「その時からです」
「……まじか……」
思わず、声に出てしまった。
「ちょっと、待ってください」
私は、前のめりになる。
「どうやって、私の神秘の覚醒を観測したんですか?」
声が、少し強くなる。
「私、別に公言してませんよ? なんなら、隠してますし……」
男は、しばらく私を見つめてから、静かに言った。
「そこら辺は……」
わずかに、間を置く。
「企業秘密、ということでお願いします」
「……」
「もちろん」
男は、付け加える。
「あなたが、協力を受諾してくださるのであれば……お教えしますが」
私は、その言葉を聞きながら、冷めかけたポテトを見つめていた。
胸の奥で、不安と好奇心が、同時に膨らんでいくのを感じながら。
「……はあ、そうですか」
私は、そう返しながら、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。
視線は男から外さないが、意識の一部はすでに別のところへ向いている。
(この人……思ってたより、ずっと厄介だ)
軽薄そうに見えて、実際は一切の無駄を削ぎ落とした刃物みたいな存在。
敵意はない。けれど、遠慮もない。
自分がどこまで見ていて、何を知っているのかを、わざと隠さずに提示してくる。
それは一種の誠実さでもあるが、同時に圧でもあった。
私は、フォークをテーブルに置き、両手を軽く組んだ。
「なら、ひとつ聞きたいんですが」
声はできるだけ平静を装う。
「あなたは、そこまでの技術や観測手段を持っているのに……私に協力するメリットって、あるんですか?」
自分で言っておいてなんだが、かなり率直な質問だ。
少し前の私なら、こんな言い方はしなかったかもしれない。
でも今は違う。
倉庫の中で、自分の身体を切り刻み、再生させ、コピー体と向き合ったあとだ。
遠慮している余裕なんて、もうない。
「正直、私が協力しても、できることなんて高が知れていると思うんですけど」
私はそう付け加えた。
男は、すぐには答えなかった。
シロノワールにフォークを入れ、ゆっくりと一口運ぶ。
白いアイスが溶け、生地に染み込んでいく様子を、じっと見つめてから、ようやく口を開いた。
「それについてですが」
声は低く、落ち着いている。
「あなたが、私の“契約”を飲んでくださるかどうかで、大きく変わります」
「……契約、ですか」
私は眉をひそめた。
嫌な予感がする。
この単語を、軽々しく使う人間は大体ろくでもない。
「聞きましょう」
とはいえ、話を聞かない選択肢はない。
私は小さく頷いた。
男は、背筋を伸ばし、改めてこちらを見た。
「私はですね」
そう前置きしてから、淡々と語り始める。
「神秘そのものよりも……生徒個人が持つ神秘の“性質”や“可能性”を、重点的に探究しています」
私は黙って聞いていた。
「神秘は、同じように見えても、一人ひとり微妙に違う。発現の仕方、成長の仕方、限界点……そのすべてが異なる」
男は、指先でテーブルを軽く叩く。
「その中で……真田利コハクさん」
名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びた。
「あなたほど特異な神秘を持つ生徒には、なかなかお目にかかれません」
「……」
「ですから、こちらの要望は単純です」
男は、はっきりと言った。
「あなた自身を、研究させてほしい」
「……私自身、ですか」
思わず、聞き返していた。
「あなたも、薄々はわかっているでしょう」
男は続ける。
「あなたの神秘は、他の生徒とは少々……いえ、かなり性質が異なる」
私は、無意識のうちに自分の腕を掴んでいた。
さっきまで、血を流していた場所だ。
「傷の治りが早い。そこまでなら、キヴォトスには少なからず存在します」
男は、淡々と比較を並べる。
「しかし、あなたの場合はそれだけではない」
声が、少しだけ強くなる。
「致命傷からの、ほぼ完全な再生。
そして――自己の複製」
「……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
(こいつ……)
「もはや、それは我々の知る神秘の範疇を逸脱しています」
男は言う。
「不死身じみた再生能力に加え、自己を“再現”する存在を生み出す。
それは神秘というより……概念に近い」
私は、内心で舌打ちした。
(やっぱり……)
倉庫の中を、見られている。
コピー体の存在を、把握されている。
直接言及はしていないが、ここまで具体的に語られれば、否定のしようがない。
「……なるほど」
私は、あえて平静を装って頷いた。
「つまり、私って相当“珍しい”わけですね」
「ええ。非常に」
男は即答した。
「研究者として、これほど魅力的な対象はありません」
その言い方が、妙に正直で、逆に背筋が寒くなった。
「まあ、大体の意図はわかりましたけど……」
私は、少し間を置いてから尋ねる。
「具体的には、何をするつもりなんですか?」
男は、一瞬だけ視線を落とした。
「そうですね……」
言葉を選んでいる様子だ。
「詳細については、今後の要相談になりますが……」
そう前置きしてから、さらりと言った。
「現時点では、二十四時間の行動監視」
「……は?」
一瞬、思考が止まった。
「それと」
男は続ける。
「あなた自身を“実験台”に、いくつかの検証をさせてもらえないかと」
「……え?」
頭の中で、言葉が渋滞する。
「ちょ、ちょっと待ってください」
私は、思わず身を乗り出していた。
「私で……実験?」
「ええ」
「しかも、二十四時間監視?」
「そうですね」
「……なんで、そんな極端な話になるんですか」
声が、我ながら情けないくらいに上ずっていた。
あまりの内容に、思考が追いつかない。
雰囲気的に、相応の要求をしてくるだろうとは思っていた。
けれど、ここまで直球で来るとは。
「正直……」
私は、額に手を当てた。
「引いてます」
「そうでしょうね」
男は、あっさりと肯定した。
悪びれた様子は、まるでない。
「でも、効率を考えれば当然です」
「当然って……」
私は、思わず乾いた笑いを漏らした。
「まさか、こんな場所で人体実験を申し込まれるとは思いませんでしたよ」
フォークを持ったまま、天井を仰ぐ。
「完全に、悪の組織の勧誘じゃないですか……」
言い終わってから、自分でも苦笑した。
冗談のつもりだった。
半分は。
けれど、男は否定しなかった。
ただ静かに、私を見つめている。
私は、口を開けたまま、しばらく言葉を失っていた。
「まあまあ……」
私は、軽く手を振りながら男の言葉を遮った。
声の調子は努めて落ち着かせているつもりだったが、内心では別のものが渦巻いている。
「仮にですよ。仮に、その条件を全部呑むとして……」
指先を組み、男を見据える。
「私に、どんなメリットがあるんですか?
そんな条件を受け入れられるくらいの“大きな見返り”が、ちゃんと用意されているんですか?」
理性的な質問だ。
少なくとも、表面上は。
男は、私の視線を正面から受け止め、わずかに口角を上げた。
「ええ。あなたが納得できる条件は、提示できると思っていますよ」
その言い方が、妙に自信に満ちていて――
同時に、どこか“試す”ようでもあって。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
「……聞きましょう」
私は、自然と身を乗り出していた。
男は、一拍置いてから告げた。
「私があなたの神秘を観測した際に使用している装置。
それを含めた、各種観測機器、解析機器の提供です」
――その瞬間だった。
「やります」
言葉が、考えるより先に口から飛び出していた。
「……はい?」
男が、明らかに間の抜けた声を出す。
「協力要請、呑みます」
私は、即答した。
一切の迷いも、逡巡もない。
さっきまでの警戒心や警戒姿勢は、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
「はあ……?」
男は、完全に予想外だったらしい。
大きな光る目が、わずかに見開かれている。
「なぜ急に?
まだ、メリットの説明は終わっていませんが……」
「いえいえいえ」
私は、ぶんぶんと首を振った。
「十分です。もう十分すぎます」
声が、自然と弾む。
抑えようとしても、どうしても抑えきれない。
「神秘を観測できる装置が使えるんですよ?
それも、あなたが実際に“私の覚醒を捉えた”レベルのもの」
想像しただけで、背筋がぞくりとした。
「そんなもの……」
私は、思わず両手で自分の頬を押さえた。
「そんなものがあれば……今まで仮説止まりだったことが、全部、全部、検証できるじゃないですか……!」
男の反応など、もう半分どうでもよかった。
思考が、一気に研究の方へ雪崩れ込んでいく。
(神秘の発生タイミング……
再生時の出力変動……
自己複製時の神秘分配量……)
(ああ、そうだ、コピー体側に神秘は残っているのか?
あるとしたら、私とのリンクは?
遮断できる?
逆に共有は?)
「はあ……素晴らしい……」
私は、恍惚とした溜め息を漏らしていた。
「その装置があれば……
今まで安全性の問題で断念していた実験も、全部できる……
いや、危険性を正確に測れるから、むしろ“安全に”できる……!」
目の前に、無限に広がる研究の地平が見える。
「この身をよくわからない実験の実験台にしたっていい。
二十四時間監視されたって構わない」
私は、胸に手を当てて、はっきりと言い切った。
「その装置が手に入るなら……安いものです」
むしろ、破格だ。
釣り合っていないとすら思う。
男は、私の様子を見て、ほんの一瞬、言葉を失っていた。
「……まあ」
少ししてから、咳払いをひとつ。
「一応、補足しておきますと」
「はいはい?」
私の声は、完全に浮き足立っている。
「二十四時間監視といっても、何もあなたを施設に閉じ込めるわけではありません。
小型のカメラやセンサーを装着して、日常行動を観測する、という形式です」
「ええ!ええ‼︎」
私は、食い気味に頷いた。
「そのくらい、全然問題ありません!
むしろ、神秘の自然発現データが取れるなら、そっちの方がありがたいです!」
「……」
男は、シロノワールに視線を落としたまま、黙っていた。
「カメラの位置とか、データ取得間隔とか、あとで相談できますか?
あと、神秘出力と同期できるなら、私の方で簡易的なログも取りますけど!」
「……」
「あと、コピー体にも装着できます?
あ、無理ならいいですけど、比較対象としてはかなり重要で……!」
私は、矢継ぎ早に言葉を重ねる。
息をするのも忘れているくらいだった。
「……コハクさん」
男が、ようやく口を開いた。
その声には、わずかな――
ほんのわずかな、引きつったニュアンスが混じっている。
「……あなた、相当ですね」
「はい!」
私は、満面の笑みで即答した。
「今、人生で一番楽しいです!」
男は、深く、深く、溜め息をついた。
「まあ……あなたの熱意は、十分すぎるほど伝わりました」
男は、先ほどまでの私の異様なハイテンションにわずかに乱れた空気を、丁寧に整えるように背筋を伸ばした。
黒いスーツの襟元を指で正し、その動作だけで、場の雰囲気が一段引き締まる。
「条件もすべて呑んでくださるとのこと。
私としても、これ以上なく喜ばしい結果です」
その声は淡々としているが、どこか確信めいた響きを帯びていた。
まるで、この展開自体が最初から想定されていたかのように。
私はまだ興奮の余韻を引きずりつつも、椅子に深く腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。
心臓が早鐘を打っている。
だが、不安よりも期待が勝っていた。
「では」
男は、静かに一歩こちらへ身を乗り出す。
「私との契約を、より確実なものとするために――
ひとつ、“儀”をお願いしたい」
「儀……?」
その言葉に、私は一瞬だけ瞬きをした。
契約、研究、装置――そういった単語は予想していたが、「儀」と言われると、途端に空気が変わる。
男は答える代わりに、ゆっくりと右手を差し出してきた。
指は長く、節くれだった様子もない。
人間の形をしてはいるが、どこか“作られたもの”のような均整があった。
「分かりました……」
私は小さく頷き、椅子から腰を浮かせる。
一瞬だけ、ためらいがよぎった。
(……まあ、今さらか)
そう思って、私はその手を取った。
――瞬間。
私と男の触れ合った手のひらを中心に、淡い緑色の光が弾けるように広がった。
「……っ!」
声にならない息が、喉から漏れる。
光は眩しいというより、内側から滲み出るような、不思議な輝きだった。
それは周囲を照らすのではなく、私自身の輪郭をなぞるように広がっていく。
次の瞬間、私は奇妙な感覚に包まれた。
まるで、全身を薄い透明の膜で覆われたかのような感触。
外界の空気と自分との間に、はっきりとした“境界”が生まれたのが分かる。
(……なに、これ……)
皮膚の上ではなく、もっと内側。
神経と神経の隙間に、何かが滑り込んでくる感覚。
不快ではない。
むしろ、妙に落ち着く。
「これは……?」
私は、思わず男の顔を見上げた。
緑の光が、彼の黒い皮膚を照らしている。
その光の中で、彼の大きな眼だけが、よりいっそう異質に輝いて見えた。
「ご安心ください」
男は、静かに、しかしはっきりと答えた。
「今ので、私とあなたの契約は“形式的なもの”ではなくなりました」
彼は、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。
「互いに交わした条件は、絶対的なものとなり。
一方的に破ることも、無効にすることもできません」
私は、手を握られたまま、その言葉を聞いていた。
「契約の破棄には、双方の明確な了承が必要となり。
また、意図的な条件違反は――」
男は、そこで一拍置いた。
「“不可能”になります」
その言葉は、脅しではなく、事実の説明として淡々と告げられた。
男は満足そうに微笑むと、私の手をそっと離した。
光は、手が離れると同時に、嘘のように消え去る。
残ったのは、確かな余韻だけだった。
体の内側に、何かが“固定された”感覚。
戻ろうとしても戻れない場所に、一本の杭を打ち込まれたような、そんな感じ。
「おめでとうございます」
男は、軽く会釈をする。
「今この瞬間から、あなたは私たち――ゲマトリアの一員です」
その言葉が、静かに胸に落ちてくる。
「今後とも、よろしくお願いしますね」
彼は、最後に私の名前を呼んだ。
「――真田利コハクさん」
私は、数秒だけ黙り込んだ。
胸の奥で、何かがじんわりと熱を帯びていく。
緊張と、興奮と、そして説明しがたい高揚感。
(……すごいことになったな)
そう思いながらも、私は自然と口角が上がっていた。
「……まあ、いいでしょう!」
私は、勢いよく返事をする。
「こちらこそ、よろしくお願いします!
正直、ちょっと怖いですけど……それ以上に、楽しみなので!」
男は、一瞬だけ目を細めたように見えた。
それが笑みだったのかどうかは、分からない。
こうして。
中学一年生の初夏。
私は、昼下がりの珈琲店で、黒服の男との出会いを経て――
ゲマトリアの一員となった。
これにてコハク過去編、一旦終わりになります。
コハクが神秘に興味を持ってから、黒服と契約をするまでを描きました。
もしも、今後機会がありましたら、続きを書くかもしれません。
次回からは、今まで通りの本編です。