ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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第四十四話 コハク過去編 5

しばらくして、テーブルに影が落ちた。

 

「お待たせいたしました」

 

店員の声とともに、次々と皿が運ばれてくる。

金属がテーブルに触れる、軽い音。

白い皿の上で、黄金色のポテトが湯気を立てていた。

 

瞬間、香ばしい匂いが鼻腔を突き抜ける。

 

「あ……」

 

思わず、声が漏れた。

 

揚げたての油の匂い。

衣の奥に閉じ込められた肉の気配。

それだけで、胃がきゅっと縮むのがわかる。

 

先ほどまで、倉庫で――自分の身体を切り、再生させ、切り、再生させ――そんなことを繰り返していた。

神経も、体力も、思考も、限界まで酷使していたのだ。

 

だからだろう。

今の私にとって、この皿はただの昼食ではない。

 

生きるための燃料だ。

 

「……」

 

私は、無意識のうちに喉を鳴らしていた。

涎が出そうになるのを、慌てて飲み込む。

 

(やば……テンション上がりすぎ……)

 

自分で自分を戒めながら、フォークを手に取る。

 

その時だった。

 

ふと視線を上げると、向かいの男が、妙な顔をしているのが目に入った。

 

黒い顔の奥で、光る眼が、じっと自分の前の皿を見つめている。

動きが止まり、完全に固まっている。

 

「……?」

 

私は、フォークを持ったまま首を傾げた。

 

「どうしたんです?」

 

少しだけ声を潜めて聞く。

 

「注文に間違いはないと思いますけど……」

 

一瞬、嫌な予感がよぎる。

 

「……髪の毛でも、入ってましたか?」

 

そう言うと、男はゆっくりと顔を上げた。

 

「……いえ」

 

声は落ち着いているが、どこか困惑が滲んでいる。

 

「この……シロノワール……」

 

視線が、再び皿に落ちる。

 

「写真の……三倍くらいの大きさが、ありませんか?」

 

「……」

 

私は、一瞬きょとんとしてから、内心で納得した。

 

ああ。

なるほど。

 

「なんだ、そんなことですか」

 

肩の力が抜けて、少し笑ってしまう。

 

「この店は、大体こんな感じですよ」

 

私は、自分の皿を指差した。

 

「ほら、私のも見てください。写真から想像できるサイズより、明らかに大きいでしょう?」

 

確かに、メニュー写真で見たポテチキやグラコロより、実物は一回り、いや二回りは大きい。

ポテトは山盛りだし、グラコロも厚みがある。

 

「そういうコンセプトの店なんです。写真詐欺……っていうか、写真が控えめすぎるというか」

 

「……はあ……」

 

男は、まだ納得しきれない様子で、皿とメニューを交互に見ている。

 

「あなたは……」

 

ぽつりと、言った。

 

「知った上で、頼まれていたんですね……」

 

「ええ」

 

私は、何でもないことのように頷く。

 

「この店、私の研究室からも近いんですよ。時々、来ますから」

 

そう言うと、男はわずかに口元――らしき部分を歪めた。

 

「……注文の前に、教えてほしかったですね」

 

「シロノワール一個なら、問題ないかなって思いまして」

 

「……」

 

一瞬の沈黙。

 

「まあ……」

 

男は、観念したようにため息をついた。

 

「頑張って、食べますかね……」

 

そう言って、フォークを手に取る。

 

その動きは、どこかぎこちない。

甘味に慣れていないのか、それとも量に気圧されているのか。

 

私は、それを横目に見ながら、ようやく自分の食事に取りかかった。

 

ポテトを一つ、口に運ぶ。

 

――美味しい。

 

塩気と油が、舌に染み渡る。

噛むたびに、体が「これを待っていた」と主張してくる。

 

「……生き返る……」

 

思わず、独り言が漏れた。

 

二口、三口と食べ進めながら、少しずつ頭も落ち着いてくる。

 

そのタイミングを見計らったかのように、男が口を開いた。

 

「さて」

 

声の調子が変わる。

先ほどまでの戸惑いは消え、仕事の話をする時のそれだ。

 

「注文も届いたことですし……本題に入りましょうか」

 

私は、フォークを置き、男を見る。

 

「あなたの行っている研究に、協力したいという申し出ですが」

 

男は、コメダブランドのカップを持ち上げ、一口飲んだ。

 

「率直なところ……どう思っていますか?」

 

「……」

 

私は、一瞬だけ考えた。

 

言葉を選ぶ必要は、あまりなさそうだ。

 

「正直に言いますね」

 

そう前置きしてから、はっきりと言う。

 

「怪しさ満載だと思っています」

 

男は、何も言わずに続きを促す。

 

「私の個人情報を、あそこまで調べていることもそうですし……」

 

私は、グラコロを割りながら続けた。

 

「それ以上に、このタイミングで声をかけてきたっていうのが、怪しいんですよ」

 

「と言いますと?」

 

男は、再びコメダブランドを口にしながら、視線だけをこちらに向ける。

 

「……私の研究に、大きな進展が、あったんです。本当に、あなたに声をかけられる、三時間くらい前に」

 

私は、男の反応をじっと観察しながら続ける。

 

「タイミングを見計らって、声をかけてきたように感じるんですよね」

 

テーブルの上で、指先を軽く組む。

 

「もしかしたら……監視まがいなことを、されてるんじゃないかって、思ってしまいます」

 

「……」

 

一瞬の沈黙。

 

男は、カップをソーサーに戻した。

 

その音が、やけに大きく響いた気がした。

 

「……そうですね」

 

そして、あっさりと言った。

 

「似たようなことは、していますよ」

 

「……」

 

私は、思わず瞬きをした。

 

「あなたは、前々から少し気にかけていましたのでね」

 

まるで、「天気がいいですね」と言うかのような調子。

 

「……隠さないんですか?」

 

「たまたまですよ、とか……そういうふうに取り繕わなくても、よかったんですか?」

 

男は、肩をすくめるような仕草をした。

 

「私は、信頼されるために情報を開示しただけです」

 

そして、少しだけ声を低くする。

 

「というか……」

 

光る眼が、こちらを見据えた。

 

「取り繕っても、信じなかったでしょう? あなた」

 

「……まあ」

 

私は、小さく息を吐く。

 

「そうかもしれませんけど……」

 

そして、フォークを置き、姿勢を正す。

 

「じゃあ、質問を変えます。前々から私を気にかけてたって……」

 

言葉を選びながら、尋ねる。

 

「それって、いつからですか?」

 

男は、少し考えるような素振りを見せてから答えた。

 

「ちょうど……あなたが、中学校に上がってすぐでしょうか」

 

「……」

 

「そのあたりからですね」

 

胸の奥が、ひやりとした。

 

(中学校に上がってすぐ……)

 

脳裏に、嫌な記憶がよぎる。ヘイローが、チカチカと点滅した、あの日。

 

「……私の……」

 

声が、わずかに震える。

 

「神秘が、覚醒した時からですか?」

 

「ええ」

 

男は、迷いなく答えた。

 

「その時からです」

 

「……まじか……」

 

思わず、声に出てしまった。

 

「ちょっと、待ってください」

 

私は、前のめりになる。

 

「どうやって、私の神秘の覚醒を観測したんですか?」

 

声が、少し強くなる。

 

「私、別に公言してませんよ? なんなら、隠してますし……」

 

男は、しばらく私を見つめてから、静かに言った。

 

「そこら辺は……」

 

わずかに、間を置く。

 

「企業秘密、ということでお願いします」

 

「……」

 

「もちろん」

 

男は、付け加える。

 

「あなたが、協力を受諾してくださるのであれば……お教えしますが」

 

私は、その言葉を聞きながら、冷めかけたポテトを見つめていた。

 

胸の奥で、不安と好奇心が、同時に膨らんでいくのを感じながら。

 

「……はあ、そうですか」

 

私は、そう返しながら、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。

視線は男から外さないが、意識の一部はすでに別のところへ向いている。

 

(この人……思ってたより、ずっと厄介だ)

 

軽薄そうに見えて、実際は一切の無駄を削ぎ落とした刃物みたいな存在。

敵意はない。けれど、遠慮もない。

自分がどこまで見ていて、何を知っているのかを、わざと隠さずに提示してくる。

 

それは一種の誠実さでもあるが、同時に圧でもあった。

 

私は、フォークをテーブルに置き、両手を軽く組んだ。

 

「なら、ひとつ聞きたいんですが」

 

声はできるだけ平静を装う。

 

「あなたは、そこまでの技術や観測手段を持っているのに……私に協力するメリットって、あるんですか?」

 

自分で言っておいてなんだが、かなり率直な質問だ。

少し前の私なら、こんな言い方はしなかったかもしれない。

 

でも今は違う。

倉庫の中で、自分の身体を切り刻み、再生させ、コピー体と向き合ったあとだ。

遠慮している余裕なんて、もうない。

 

「正直、私が協力しても、できることなんて高が知れていると思うんですけど」

 

私はそう付け加えた。

 

男は、すぐには答えなかった。

シロノワールにフォークを入れ、ゆっくりと一口運ぶ。

白いアイスが溶け、生地に染み込んでいく様子を、じっと見つめてから、ようやく口を開いた。

 

「それについてですが」

 

声は低く、落ち着いている。

 

「あなたが、私の“契約”を飲んでくださるかどうかで、大きく変わります」

 

「……契約、ですか」

 

私は眉をひそめた。

 

嫌な予感がする。

この単語を、軽々しく使う人間は大体ろくでもない。

 

「聞きましょう」

 

とはいえ、話を聞かない選択肢はない。

私は小さく頷いた。

 

男は、背筋を伸ばし、改めてこちらを見た。

 

「私はですね」

 

そう前置きしてから、淡々と語り始める。

 

「神秘そのものよりも……生徒個人が持つ神秘の“性質”や“可能性”を、重点的に探究しています」

 

私は黙って聞いていた。

 

「神秘は、同じように見えても、一人ひとり微妙に違う。発現の仕方、成長の仕方、限界点……そのすべてが異なる」

 

男は、指先でテーブルを軽く叩く。

 

「その中で……真田利コハクさん」

 

名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びた。

 

「あなたほど特異な神秘を持つ生徒には、なかなかお目にかかれません」

 

「……」

 

「ですから、こちらの要望は単純です」

 

男は、はっきりと言った。

 

「あなた自身を、研究させてほしい」

 

「……私自身、ですか」

 

思わず、聞き返していた。

 

「あなたも、薄々はわかっているでしょう」

 

男は続ける。

 

「あなたの神秘は、他の生徒とは少々……いえ、かなり性質が異なる」

 

私は、無意識のうちに自分の腕を掴んでいた。

さっきまで、血を流していた場所だ。

 

「傷の治りが早い。そこまでなら、キヴォトスには少なからず存在します」

 

男は、淡々と比較を並べる。

 

「しかし、あなたの場合はそれだけではない」

 

声が、少しだけ強くなる。

 

「致命傷からの、ほぼ完全な再生。

 そして――自己の複製」

 

「……」

 

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

 

(こいつ……)

 

「もはや、それは我々の知る神秘の範疇を逸脱しています」

 

男は言う。

 

「不死身じみた再生能力に加え、自己を“再現”する存在を生み出す。

 それは神秘というより……概念に近い」

 

私は、内心で舌打ちした。

 

(やっぱり……)

 

倉庫の中を、見られている。

コピー体の存在を、把握されている。

 

直接言及はしていないが、ここまで具体的に語られれば、否定のしようがない。

 

「……なるほど」

 

私は、あえて平静を装って頷いた。

 

「つまり、私って相当“珍しい”わけですね」

 

「ええ。非常に」

 

男は即答した。

 

「研究者として、これほど魅力的な対象はありません」

 

その言い方が、妙に正直で、逆に背筋が寒くなった。

 

「まあ、大体の意図はわかりましたけど……」

 

私は、少し間を置いてから尋ねる。

 

「具体的には、何をするつもりなんですか?」

 

男は、一瞬だけ視線を落とした。

 

「そうですね……」

 

言葉を選んでいる様子だ。

 

「詳細については、今後の要相談になりますが……」

 

そう前置きしてから、さらりと言った。

 

「現時点では、二十四時間の行動監視」

 

「……は?」

 

一瞬、思考が止まった。

 

「それと」

 

男は続ける。

 

「あなた自身を“実験台”に、いくつかの検証をさせてもらえないかと」

 

「……え?」

 

頭の中で、言葉が渋滞する。

 

「ちょ、ちょっと待ってください」

 

私は、思わず身を乗り出していた。

 

「私で……実験?」

 

「ええ」

 

「しかも、二十四時間監視?」

 

「そうですね」

 

「……なんで、そんな極端な話になるんですか」

 

声が、我ながら情けないくらいに上ずっていた。

 

あまりの内容に、思考が追いつかない。

 

雰囲気的に、相応の要求をしてくるだろうとは思っていた。

けれど、ここまで直球で来るとは。

 

「正直……」

 

私は、額に手を当てた。

 

「引いてます」

 

「そうでしょうね」

 

男は、あっさりと肯定した。

 

悪びれた様子は、まるでない。

 

「でも、効率を考えれば当然です」

 

「当然って……」

 

私は、思わず乾いた笑いを漏らした。

 

「まさか、こんな場所で人体実験を申し込まれるとは思いませんでしたよ」

 

フォークを持ったまま、天井を仰ぐ。

 

「完全に、悪の組織の勧誘じゃないですか……」

 

言い終わってから、自分でも苦笑した。

 

冗談のつもりだった。

半分は。

 

けれど、男は否定しなかった。

 

ただ静かに、私を見つめている。

 

私は、口を開けたまま、しばらく言葉を失っていた。

 

「まあまあ……」

 

私は、軽く手を振りながら男の言葉を遮った。

声の調子は努めて落ち着かせているつもりだったが、内心では別のものが渦巻いている。

 

「仮にですよ。仮に、その条件を全部呑むとして……」

 

指先を組み、男を見据える。

 

「私に、どんなメリットがあるんですか?

 そんな条件を受け入れられるくらいの“大きな見返り”が、ちゃんと用意されているんですか?」

 

理性的な質問だ。

少なくとも、表面上は。

 

男は、私の視線を正面から受け止め、わずかに口角を上げた。

 

「ええ。あなたが納得できる条件は、提示できると思っていますよ」

 

その言い方が、妙に自信に満ちていて――

同時に、どこか“試す”ようでもあって。

 

胸の奥が、じわりと熱を帯びる。

 

「……聞きましょう」

 

私は、自然と身を乗り出していた。

 

男は、一拍置いてから告げた。

 

「私があなたの神秘を観測した際に使用している装置。

 それを含めた、各種観測機器、解析機器の提供です」

 

――その瞬間だった。

 

「やります」

 

言葉が、考えるより先に口から飛び出していた。

 

「……はい?」

 

男が、明らかに間の抜けた声を出す。

 

「協力要請、呑みます」

 

私は、即答した。

 

一切の迷いも、逡巡もない。

さっきまでの警戒心や警戒姿勢は、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。

 

「はあ……?」

 

男は、完全に予想外だったらしい。

大きな光る目が、わずかに見開かれている。

 

「なぜ急に?

 まだ、メリットの説明は終わっていませんが……」

 

「いえいえいえ」

 

私は、ぶんぶんと首を振った。

 

「十分です。もう十分すぎます」

 

声が、自然と弾む。

抑えようとしても、どうしても抑えきれない。

 

「神秘を観測できる装置が使えるんですよ?

 それも、あなたが実際に“私の覚醒を捉えた”レベルのもの」

 

想像しただけで、背筋がぞくりとした。

 

「そんなもの……」

 

私は、思わず両手で自分の頬を押さえた。

 

「そんなものがあれば……今まで仮説止まりだったことが、全部、全部、検証できるじゃないですか……!」

 

男の反応など、もう半分どうでもよかった。

思考が、一気に研究の方へ雪崩れ込んでいく。

 

(神秘の発生タイミング……

 再生時の出力変動……

 自己複製時の神秘分配量……)

 

(ああ、そうだ、コピー体側に神秘は残っているのか?

 あるとしたら、私とのリンクは?

 遮断できる?

 逆に共有は?)

 

「はあ……素晴らしい……」

 

私は、恍惚とした溜め息を漏らしていた。

 

「その装置があれば……

 今まで安全性の問題で断念していた実験も、全部できる……

 いや、危険性を正確に測れるから、むしろ“安全に”できる……!」

 

目の前に、無限に広がる研究の地平が見える。

 

「この身をよくわからない実験の実験台にしたっていい。

 二十四時間監視されたって構わない」

 

私は、胸に手を当てて、はっきりと言い切った。

 

「その装置が手に入るなら……安いものです」

 

むしろ、破格だ。

釣り合っていないとすら思う。

 

男は、私の様子を見て、ほんの一瞬、言葉を失っていた。

 

「……まあ」

 

少ししてから、咳払いをひとつ。

 

「一応、補足しておきますと」

 

「はいはい?」

 

私の声は、完全に浮き足立っている。

 

「二十四時間監視といっても、何もあなたを施設に閉じ込めるわけではありません。

 小型のカメラやセンサーを装着して、日常行動を観測する、という形式です」

 

「ええ!ええ‼︎」

 

私は、食い気味に頷いた。

 

「そのくらい、全然問題ありません!

 むしろ、神秘の自然発現データが取れるなら、そっちの方がありがたいです!」

 

「……」

 

男は、シロノワールに視線を落としたまま、黙っていた。

 

「カメラの位置とか、データ取得間隔とか、あとで相談できますか?

 あと、神秘出力と同期できるなら、私の方で簡易的なログも取りますけど!」

 

「……」

 

「あと、コピー体にも装着できます?

 あ、無理ならいいですけど、比較対象としてはかなり重要で……!」

 

私は、矢継ぎ早に言葉を重ねる。

 

息をするのも忘れているくらいだった。

 

「……コハクさん」

 

男が、ようやく口を開いた。

 

その声には、わずかな――

ほんのわずかな、引きつったニュアンスが混じっている。

 

「……あなた、相当ですね」

 

「はい!」

 

私は、満面の笑みで即答した。

 

「今、人生で一番楽しいです!」

 

男は、深く、深く、溜め息をついた。

 

「まあ……あなたの熱意は、十分すぎるほど伝わりました」

 

男は、先ほどまでの私の異様なハイテンションにわずかに乱れた空気を、丁寧に整えるように背筋を伸ばした。

黒いスーツの襟元を指で正し、その動作だけで、場の雰囲気が一段引き締まる。

 

「条件もすべて呑んでくださるとのこと。

 私としても、これ以上なく喜ばしい結果です」

 

その声は淡々としているが、どこか確信めいた響きを帯びていた。

まるで、この展開自体が最初から想定されていたかのように。

 

私はまだ興奮の余韻を引きずりつつも、椅子に深く腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。

心臓が早鐘を打っている。

だが、不安よりも期待が勝っていた。

 

「では」

 

男は、静かに一歩こちらへ身を乗り出す。

 

「私との契約を、より確実なものとするために――

 ひとつ、“儀”をお願いしたい」

 

「儀……?」

 

その言葉に、私は一瞬だけ瞬きをした。

契約、研究、装置――そういった単語は予想していたが、「儀」と言われると、途端に空気が変わる。

 

男は答える代わりに、ゆっくりと右手を差し出してきた。

 

指は長く、節くれだった様子もない。

人間の形をしてはいるが、どこか“作られたもの”のような均整があった。

 

「分かりました……」

 

私は小さく頷き、椅子から腰を浮かせる。

一瞬だけ、ためらいがよぎった。

 

(……まあ、今さらか)

 

そう思って、私はその手を取った。

 

――瞬間。

 

私と男の触れ合った手のひらを中心に、淡い緑色の光が弾けるように広がった。

 

「……っ!」

 

声にならない息が、喉から漏れる。

 

光は眩しいというより、内側から滲み出るような、不思議な輝きだった。

それは周囲を照らすのではなく、私自身の輪郭をなぞるように広がっていく。

 

次の瞬間、私は奇妙な感覚に包まれた。

 

まるで、全身を薄い透明の膜で覆われたかのような感触。

外界の空気と自分との間に、はっきりとした“境界”が生まれたのが分かる。

 

(……なに、これ……)

 

皮膚の上ではなく、もっと内側。

神経と神経の隙間に、何かが滑り込んでくる感覚。

 

不快ではない。

むしろ、妙に落ち着く。

 

「これは……?」

 

私は、思わず男の顔を見上げた。

 

緑の光が、彼の黒い皮膚を照らしている。

その光の中で、彼の大きな眼だけが、よりいっそう異質に輝いて見えた。

 

「ご安心ください」

 

男は、静かに、しかしはっきりと答えた。

 

「今ので、私とあなたの契約は“形式的なもの”ではなくなりました」

 

彼は、ゆっくりと言葉を選ぶように続ける。

 

「互いに交わした条件は、絶対的なものとなり。

 一方的に破ることも、無効にすることもできません」

 

私は、手を握られたまま、その言葉を聞いていた。

 

「契約の破棄には、双方の明確な了承が必要となり。

 また、意図的な条件違反は――」

 

男は、そこで一拍置いた。

 

「“不可能”になります」

 

その言葉は、脅しではなく、事実の説明として淡々と告げられた。

 

男は満足そうに微笑むと、私の手をそっと離した。

光は、手が離れると同時に、嘘のように消え去る。

 

残ったのは、確かな余韻だけだった。

 

体の内側に、何かが“固定された”感覚。

戻ろうとしても戻れない場所に、一本の杭を打ち込まれたような、そんな感じ。

 

「おめでとうございます」

 

男は、軽く会釈をする。

 

「今この瞬間から、あなたは私たち――ゲマトリアの一員です」

 

その言葉が、静かに胸に落ちてくる。

 

「今後とも、よろしくお願いしますね」

 

彼は、最後に私の名前を呼んだ。

 

「――真田利コハクさん」

 

私は、数秒だけ黙り込んだ。

 

胸の奥で、何かがじんわりと熱を帯びていく。

緊張と、興奮と、そして説明しがたい高揚感。

 

(……すごいことになったな)

 

そう思いながらも、私は自然と口角が上がっていた。

 

「……まあ、いいでしょう!」

 

私は、勢いよく返事をする。

 

「こちらこそ、よろしくお願いします!

 正直、ちょっと怖いですけど……それ以上に、楽しみなので!」

 

男は、一瞬だけ目を細めたように見えた。

それが笑みだったのかどうかは、分からない。

 

こうして。

 

中学一年生の初夏。

私は、昼下がりの珈琲店で、黒服の男との出会いを経て――

ゲマトリアの一員となった。




これにてコハク過去編、一旦終わりになります。

コハクが神秘に興味を持ってから、黒服と契約をするまでを描きました。

もしも、今後機会がありましたら、続きを書くかもしれません。

次回からは、今まで通りの本編です。
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