そして今年も、物語を読んでくださる覚悟をありがとうございます。
小鳥遊ホシノを中心に、さまざまなキャラクターが感情の海に沈んでいく物語を、今年もお届けします。
ええ、曇らせます。容赦はあまりありません。
新年は特に、
「まだ曇っていないキャラ」
「今は元気そうなキャラ」
そういった存在に、積極的に光を当てていく予定です。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
年賀はがきの代わりとして、今回はいつもよりもボリューミーなホシノ視点をお届けします。
ホシノ視点 13
医務室の扉を、私は半ば蹴り飛ばすようにして開け放った。
金属が軋む音が、やけに大きく響いた気がした。
中に誰かがいたかどうかなど、気にしている余裕はなかった。
「こっち……!」
声が裏返るのを自覚しながら、入口から一番近いベッドへ向かう。
腕の中の重み――いや、重みのなさが、胸の奥をえぐる。
ベッドに下ろす動作ですら、指先が震えた。
少しでも衝撃を与えれば、もう取り返しがつかなくなる。
そんな確信めいた恐怖が、私の身体を縛りつけていた。
ノノミちゃんが、ほとんど反射的に棚へ向かう。
消毒液、包帯、止血用のシート。
使えるものを、片っ端から引き寄せてくる。
「……やります、ホシノ先輩」
声は、かろうじて落ち着いていた。
けれど、その手ははっきりと震えている。
彼女が処置を始めるのを、私はただ見ていた。
――いや、見ていることしか、できなかった。
意味があるのかどうか。
この状況で、それを考えること自体が、逃げのように思えた。
目の前に横たわる少女の身体は、もはや“怪我”という言葉で表現できる段階をとうに超えていた。
熱と衝撃が奪ったものの多さを、脳が必死に理解しようとする。
呼吸が、浅くなる。
胸が、上下しているのかどうかすら、はっきりとは分からない。
視線を向けるたびに、現実が容赦なく突き刺さってくる。
止まらない。
どれだけ押さえても、どれだけ包んでも、状況は好転しない。
シートが色を変えていくのを見た瞬間、私ははっきりと息を乱した。
「……っ……」
吸えない。
吐けない。
肺が縮こまり、喉が狭まっていく。
過呼吸だと理解するのに、数拍遅れた。
――また、か。
脳裏に、嫌な感覚が蘇る。
また、私は助けられないのか。
誰かを、目の前で失う側に立つのか。
何もできなかった、と後から自分を責める役目を、また引き受けるのか。
そんな考えが、止めどなく溢れ出す。
違う。
違う違う違う。
こんなところで、諦めるわけにはいかない。
「……大丈夫……」
誰に言ったのかも分からないまま、声が零れた。
少女に向けてか。
それとも、自分自身に向けてか。
心の奥で、必死に叫ぶ。
こんな終わり方、許されるはずがない。
けれど、現実はあまりにも冷酷だった。
時間だけが、無意味に流れていく。
一秒一秒が、引き延ばされた刃のように、神経を削っていく。
胃の奥が、嫌な感覚で満たされる。
込み上げてくるものを、歯を食いしばって押し殺した。
逃げるな。
目を逸らすな。
ここにいる。
ここで、見届けなければならない。
ふと、思考が別の方向へと流れ出す。
――どうして、あんなところまで追い詰めた?
――もっと、別の言い方があったんじゃないか?
――もっと、早く手を伸ばせなかったのか?
後悔が、洪水のように押し寄せる。
声を荒らげた瞬間。
拘束すると言った言葉。
逃げ場を塞いだ判断。
一つ一つが、鋭利な刃となって、胸の内側を切り裂いていく。
私が、殺したんじゃないのか。
そんな考えが浮かび上がった瞬間、全身が冷えた。
違う、と否定したい。
けれど、完全には否定できない。
医務室の静けさが、異様に重く感じられる。
機械の音も、誰かの足音もない。
あるのは、止まらない処置の音と、
自分の荒い呼吸だけ。
私は、ベッドの傍らに立ち尽くしたまま、
ただ、祈ることしかできなかった。
――お願いだから。
――まだ、終わらせないで。
「ホシノ先輩! ……あれを、見てください」
ノノミちゃんの声は、明らかに震えていた。
それまで必死に処置を続けていた彼女が、動きを止め、廊下の方へと視線を向けている。
絶望感に押し潰され、視界すらまともに焦点を結べなくなっていた私は、その声に半拍遅れて反応した。
まるで、水の中から引き上げられたような感覚だった。
「……え?」
喉から、かすれた音が漏れる。
私は反射的に、ノノミちゃんの視線の先を追った。
医務室の外、半開きになった扉の向こう。
廊下の床に、不自然な光景が広がっていた。
そこには、確かに“何か”があった。
だが、それは形を保っていなかった。
赤黒い痕跡。
床にぶちまけられた絵の具のように広がっていたそれが、音を立てて変化している。
――シュー……シュー……。
耳を澄ますと、微かな音が聞こえた。
水滴が熱せられた鉄板に落ちた時のような、そんな音。
「……え?」
頭が、追いつかない。
赤い痕跡は、まるで霧になるように、少しずつ薄れていく。
消えているのだ。
床に染み込むのでもなく、拭き取られるのでもなく。
――蒸発している。
「……血が……蒸発してる?」
自分でも信じられない言葉が、口をついて出た。
ノノミちゃんが、唇を噛みしめたまま、小さく頷く。
「……はい。ここに運び込む途中、廊下に……」
彼女は、それ以上言葉を続けられなかった。
代わりに、鼻を突く匂いが、私の思考を現実に引き戻す。
鉄のような匂い。
熱を帯びた、重たい空気。
医務室全体に、異様な気配が満ちていく。
まるで、この場所そのものが、何かを目撃してしまったかのようだった。
「……何、これ……」
理解できない。
これは、普通じゃない。
――まさか。
「……この子は……!」
私は、弾かれたように振り返った。
視線が、ベッドへと戻る。
そこに横たわる少女の身体。
そして――。
「……っ……」
息が、止まった。
信じられない。
彼女の身体からも、同じ現象が起きていた。
先ほどまで、止まることのなかったものが、音もなく消えていく。
それだけではない。
明らかに、変化している。
傷ついていたはずの箇所が、ゆっくりと形を変えていく。
時間を早送りした映像のように、段階を踏んで。
最初は、ただ表面が落ち着いていくように見えた。
次に、薄い膜のようなものが、輪郭をなぞる。
そして、少しずつ、確かに――“戻っていく”。
「……うそ……」
声が、掠れた。
ありえない。
ありえないはずなのに。
現実が、目の前で書き換えられている。
「……治ってる……?」
思わず、呟いていた。
その言葉が、あまりにも軽く感じられて、すぐに後悔する。
治る?
そんな簡単な言葉で、表現していい現象じゃない。
それは、回復というより――再構築だった。
失われたものが、時間を巻き戻すように、元の在り方を取り戻していく。
ノノミちゃんも、完全に動きを止めていた。
消毒液を握ったまま、目を見開き、ただそれを見つめている。
「……ホシノ先輩……」
呼ばれた気がした。
けれど、返事ができない。
頭が、真っ白だった。
ついさっきまで、私は何を考えていた?
絶望。
後悔。
自責。
助けられなかったと、
また失うのだと、
そう思い込んでいた。
その前提が、今、音を立てて崩れていく。
胸の奥に、かすかな熱が灯る。
それは、希望と呼ぶには、あまりにも弱く、脆いものだった。
でも――。
「……助かる……?」
その可能性が、ゼロではないと気づいてしまった瞬間、
心臓が、痛いほどに脈打った。
期待してはいけない。
裏切られた時の反動が、あまりにも大きい。
分かっている。
分かっているのに。
目の前で起きていることが、あまりにも“奇跡”に近すぎた。
漫画やアニメの中でしか見たことのない光景。
非現実の象徴のような現象。
それが、今、現実として、医務室のベッドの上で起きている。
「……なに、これ……」
ノノミちゃんの声は、ほとんど囁きだった。
恐怖なのか、希望なのか。
畏怖なのか、安堵なのか。
感情の名前が、見つからない。
私たちは、ただ立ち尽くしていた。
状況を把握することも、次の行動を決めることもできず。
現実が、私たちの理解を拒んでいた。
それでも――。
先ほどまで、確かにそこにあった“死の気配”が、
今は、少しだけ遠ざかった気がした。
それだけで、胸が、苦しいほどに締め付けられる。
この奇跡が、本物であることを、
私は、心の底から願っていた。
医務室に漂っていた、焦げと鉄の混じった重たい空気が、わずかに動いた。
足音だった。
廊下の向こうから、慌ただしく、それでいて無駄のない足取りが近づいてくる。
扉が開く。
「……遅くなった」
最初に姿を見せたのは、シロコちゃんだった。
両腕には、見慣れた医療機材がいくつも抱えられている。人工呼吸器、血液循環機、点滴用の器具。肩にかけたバッグの中では、ガラス容器が小さくぶつかり合う音を立てていた。
その後ろから、息を切らしたセリカちゃん。
さらにその後ろで、慎重に足を運ぶアヤネちゃんが、落とさないようにと両手で液体の入ったケースを支えている。
「これで……足りると思うけど」
シロコちゃんは、機材を床に下ろしながら、淡々とした口調でそう言った。
「追加で、必要なものある?」
その声は落ち着いていたけれど、視線は無意識のうちに、ベッドの方へと引き寄せられていた。
「……みんな」
私は、短く声をかけた。
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「ちょっと……これ、見てほしい」
四人の視線が、一斉に集まる。
ベッドの上。
白いシーツの上に横たわる、あの少女の身体へ。
一歩、また一歩と近づくにつれて、全員の動きが自然と遅くなっていく。
まるで、見てはいけないものを前にしているかのように。
「……え……?」
最初に言葉を失ったのは、セリカちゃんだった。
いつもの勢いはなく、目を見開いたまま、息をするのも忘れたように立ち尽くしている。
シロコちゃんは、何かを言いかけて、そのまま口を閉ざした。
喉の奥で、言葉が凍りついてしまったのが、見て取れた。
「……これは……」
アヤネちゃんが、小さく息を吸う音が聞こえた。
「……何が、起こっているのでしょうか……」
その声は、震えていた。
恐怖というよりも、理解できないものを前にした、人間としての本能的な戸惑い。
ベッドの上では、確かに“変化”が続いていた。
目に見えて派手なものではない。
だが、さっきまでとは明らかに違う。
呼吸が、ある。
浅いけれど、確かに、生きている音。
そして、皮膚の表面が、少しずつ、少しずつ、整っていく。
無理やり修復されているのではなく、最初からそうであったかのように、自然に。
「……傷の治りが早い、ってレベルじゃないね」
シロコちゃんが、低く呟いた。
彼女は冷静だった。
冷静であろうとしていた。
けれど、その瞳の奥には、確かな動揺が浮かんでいる。
「……これ……」
セリカちゃんが、ゆっくりと指を伸ばす。
もちろん、触れはしない。
触れてはいけない気がしたのだろう。
「……この調子だったらさ……」
一拍、間を置いて。
「……三十分くらいで、全部……治っちゃいそうだよ……」
楽観的な言葉のはずだった。
けれど、その声には、笑いはなかった。
それは、希望ではなく、事実を見た上での、戸惑いの混じった推測だった。
「……この子が……」
アヤネちゃんが、ベッドの脇にしゃがみ込む。
視線を合わせるように、そっと顔を覗き込みながら。
「……ホシノ先輩や、セリカちゃんが言っていた……」
小さく、息を吐く。
「……あの子、なんですね……」
「……うん」
私は、短く答えた。
「……もっと……」
アヤネちゃんは、一瞬、言葉を探すように視線を泳がせた。
「……こう……落ち着いた時に、会いたかったですね……」
その一言が、胸に刺さった。
私は、ゆっくりと立ち上がる。
足の裏が、床に張り付いたみたいに重かった。
「……この子はね」
言葉を選びながら、口を開く。
「……見た感じ、いつ起きてもおかしくはなさそうだ」
眠っている。
だが、それは、昏睡ではない。
ただ、休んでいるだけのように見えた。
「……どの段階で、意識が戻るかは、正直わからない」
みんなの顔を見る。
一人ひとりと、視線を合わせる。
「……だから、私が、ここに残る」
一瞬の沈黙。
「……目を覚ました時、周りに大勢いたら……」
続きを、言わなくても、伝わった。
セリカちゃんが、軽く頷く。
シロコちゃんも、ノノミちゃんも、アヤネちゃんも。
「……みんなは、いつも通り、お願い」
それは、命令じゃなかった。
信頼だった。
「……起きたら、呼んでくださいね!」
ノノミちゃんが、いつもの明るさを、ほんの少しだけ取り戻して言った。
「……何かあったら、大声で知らせて」
シロコちゃんが、短く付け加える。
みんなは、もう一度だけ、ベッドの方を振り返り、
そして、何も言わずに医務室を後にした。
扉が閉まる。
静寂が、戻ってきた。
私は、ベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろす。
軋む音が、やけに大きく響いた。
少女は、眠っている。
静かに、穏やかに。
私は、その顔から目を離せなかった。
――私が、判断を誤った。
その事実が、胸の奥に、ゆっくりと沈んでいく。
言い訳も、正当化もできない。
もし、あの時。
もし、違う選択をしていたら。
後悔が、何度も、何度も、頭の中を巡る。
それでも――。
少女の、微かな呼吸音が、耳に届いた。
それだけで、胸の圧迫感が、ほんの少しだけ和らぐ。
生きている。
確かに、生きている。
傷は、確実に、癒えていく。
時間をかけて、ゆっくりと。
私は、視線を逸らさなかった。
もう、目を背けない。
もう、逃げない。
この子が、目を覚ますその瞬間まで。
そして、その先も。
私は、ここにいる。
静かな医務室で、
ただひたすらに、彼女の存在を見守り続けていた。
⸻
二十分ほどが経過していた。
医務室の時計は、秒針が進むたびに小さな音を立てている。
その音が、やけに大きく感じられた。
ベッドの上の少女は、静かに横たわっている。
さっきまで全身を覆っていたはずの惨状は、もうどこにも残っていなかった。
見える範囲の傷は、すべて消えている。
火傷も、裂けた皮膚も、血の跡すらも。
まるで最初から、そんなものは存在しなかったかのように。
呼吸も、安定している。
浅くもなく、乱れもない。
規則正しく、胸がゆっくりと上下している。
――本当に、さっきまで死にかけていたのか?
そんな疑問が、頭をよぎる。
それほどまでに、彼女の身体は「健康」そのものだった。
流石に、あのままでは色々と問題がある。
そう判断して、シロコちゃんが持ってきてくれた病院服を着せていた。
サイズは、少しだけ大きい。
袖が指先を隠して、裾が膝のあたりでもたついている。
それが、やけに現実感を与えていた。
私は、ベッドの横の椅子に腰掛けたまま、窓の外を眺めていた。
夕方に差し掛かる時間帯。
空は、薄くオレンジ色に染まり始めている。
――あと、どれくらいで目を覚ますんだろう。
そんなことを考えていた。
早い回復速度。
安定した呼吸。
理屈では、もう起きてもおかしくない。
でも、実際に目を覚ます瞬間を想像すると、胸の奥がざわついた。
何を言うだろう。
どんな表情をするだろう。
私を見て、何を思うだろう。
そんなことを考えていると――。
「知らない…天井だ…」
不意に、声がした。
一瞬、理解が追いつかなかったが、ベットの子から声がしたのだと気づいた。
反射的に、視線をベッドへ戻す。
少女が、目を開けていた。
天井を見上げたまま、焦点の合わない目で、ぽつりと呟いている。
「……」
沈黙。
次の瞬間、その子は苦笑いしていた。
「……まさか」
またポツリとつぶやいた。
「……実際に、そのセリフを言う日が来るなんてな……」
少女は、まだぼんやりしたまま、天井を見つめている。
私としても、アニメや漫画の中でしか聞いたことのない言葉を、現実で耳にすることになるとは思っていなかった。
「うへー」
肩の力を抜くように、わざと軽い調子で続ける。
「そんなベタなセリフ、最近じゃあんまり聞かないよねー」
少女の視線が、ゆっくりと動く。
天井から、壁へ。
そして、私へ。
こちらを認識したらしい。
じっと、私を見ている。
上から下まで。
頭のてっぺんから、足元まで。
まるで、何かを確認するように。
「でもまあ」
私は、彼女の視線を気にしないふりをして、言葉を続けた。
「そんなセリフが出るくらいなら、意識は問題なさそうだねー」
少しだけ、安心した。
本当に、少しだけ。
「相当な爆発だったんだけどさ」
軽口を叩く。
これは、自分のためでもあった。
「君、結構頑丈だよねー。私でも、あれは正直、きつかったと思うよ」
少女は、黙ったまま、私の話を聞いている。
「タンクの才能、あるかもねー」
笑ってみせる。
敵意はない。
脅かすつもりもない。
――私は、敵じゃないよ。
そう伝えるための、柔らかい声。
少女は、その変化に気づいたのか、ほんの一瞬だけ、目を見開いた。
警戒と、戸惑いが混じったような表情。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……私の、装備は……」
声は、かすれているが、落ち着いている。
「……ちゃんと、粉々に……なりましたか?」
一瞬、理解できなかった。
「……え?」
思考が、止まる。
「……粉々に、って……」
嫌な予感が、背筋を走る。
「……もしかして……」
声が、少しだけ上ずった。
「それ目的で……自爆したの……?」
少女は、少しだけ首を傾げた。
「……そうですよ」
当たり前のことのように、さらりと。
「あの装備は、依頼主からの支給品ですから」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……証拠に、なります」
あまりにも、冷静な言葉。
確かに、そうだ。
私たちが彼女を拘束できていたら、装備を調べて、依頼主を特定しようとしたかもしれない。
でも――。
「……そこまでして……」
喉が、震えた。
「……依頼主を、隠すんだね……」
自分でもわかるくらい、声が震えている。
やっぱり。
私が、追い詰めたからだ。
逃げ場を塞いで。
選択肢を奪って。
だから、彼女は――。
少女は、そんな私を見て、ほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
「……そう、いう仕事ですから」
淡々とした言葉。
でも、その奥に、何かを隠している気がした。
「……とりあえず」
私は、立ち上がった。
これ以上、ここにいたら、余計なことを言ってしまいそうだった。
「目が覚めたこと、みんなに伝えてくるね」
少女の状態は、安定している。
この感じなら、みんなを呼んできても大丈夫だろう。
そう、判断した。
扉に向かいながら、振り返る。
「……逃げないでよ」
念のため。
ここは四階だ。
普通なら、逃げようとは思わない。
でも、この子は、普通じゃない。
足が折れることも、命を落とすことも、躊躇しないかもしれない。
少女は、肩をすくめた。
「……逃げませんよ」
小さく、苦笑する。
その表情が、妙に大人びて見えて。
私は、何も言えなくなった。
――本当に、この子は、何者なんだろう。
そんな疑問を胸に抱いたまま、私は医務室を出た。
扉が閉まる直前、
ベッドの上の少女が、天井を見上げて、小さく息を吐くのが見えた。
それは、安堵なのか。
それとも、別の何かなのか。
まだ、わからなかった。
ーー
私は、みんなを呼んできた。
幸いにも、全員いつもの部屋に集まっていた。
緊張が解けきらない空気の中で、それぞれが自分の役割に戻ろうとしていたところだったらしい。
シロコちゃんとアヤネちゃんは、端末を広げて何か調べ物をしていた。
画面には細かいデータと地図のようなものが映っていたが、私が事情を話すと、二人ともすぐにそれを中断して立ち上がってくれた。
誰も、文句は言わなかった。
医務室へ向かう廊下は、まだ微かに消毒液と焦げた匂いが混じっていた。
床には清掃の跡が残っているが、よく見れば、完全には消えきれていない赤黒い染みがところどころにある。
それを見て、胸の奥が少しだけ軋んだ。
医務室の前で立ち止まり、深く息を吸う。
そして――。
ドアを、がらりと開けた。
「おお、ちゃんと逃げずに待ってたね。えらいえらい」
できるだけ、いつも通りの調子で。
軽く、冗談めかした声で。
ベッドの上の少女は、こちらを見ていた。
病院服に身を包み、上半身を少し起こした姿勢で。
みんなが入ってくると、視線が一斉に彼女へ集まる。
数秒間、誰も言葉を発さなかった。
あの爆発の後だ。
無理もない。
「……自爆した時は、正直どうなることかと思いましたが」
最初に声を出したのは、ノノミちゃんだった。
柔らかく、穏やかな笑みを浮かべて、ベッドの近くまで歩み寄る。
「こうして意識が戻って、本当に良かったです」
その声には、警戒よりも安堵が勝っていた。
あの惨状を見た後では、もう「敵だからどうこう」という感情は、薄れてしまっているのだろう。
「服は、それしかなかった。……我慢して」
シロコちゃんは、少し距離を取った位置から言った。
声は落ち着いているが、目だけは鋭い。
完全に警戒を解いたわけではない。
それでも、銃口は向けていない。
ベッドの少女が体を起こしているので、病院服のサイズ感がはっきりと分かる。
寝ている間は、少し大きめ、くらいに見えていた。
けれど、こうして起き上がると――。
明らかに、合っていない。
肩はずり落ちそうで、胸元も心許ない。
少し動いただけで、服がずれそうな危うさがある。
この子は、その服以外、何も身につけていない。
もしずり落ちたら……。
まあ、考えるまでもない。
「……本当に、全部治ってる」
セリカちゃんが、ベッドのすぐ横まで来て、少女の腕や肩、首元をじっと見つめる。
触れることはしないが、視線は真剣だ。
「さっきまで、あんなだったのに……」
信じられない。
その気持ちが、そのまま声に滲んでいる。
無理もない。
治る過程を最初から最後まで見ていた私でさえ、まだどこか現実感が薄いのだから。
「……さっきも思いましたけど」
アヤネちゃんが、少し首を傾げながら言った。
「本当に……すごく、小さいですね」
彼女の視線は、純粋な観察のそれだった。
アヤネちゃんは、ずっとドローン越しに状況を把握していた。
この少女を、直接、こうして間近で見るのは、ほぼ初めてだ。
だからこそ、誰よりも冷静に、誰よりもじっくりと見ている。
そして――。
みんなに囲まれているベッドの少女は、少し居心地が悪そうだった。
一度、小さく咳払いをする。
それから、こちらを見て、口を開いた。
「……まず、聞きたいのですが」
声は、落ち着いている。
だが、どこか遠慮がちでもある。
「なぜ、私はベッドに寝かされているんですか?」
一瞬、医務室の空気が止まった。
「……拘束、すべきですよね?」
ごく当然の疑問。
立場を考えれば、正論だ。
私は、一瞬だけ言葉に詰まった。
確かに、そうだ。
敵対行動を取った相手。
しかも、自爆までした。
普通なら、即拘束して事情聴取だろう。
でも――。
「いやー……それはね」
私は、頭の後ろを掻きながら、少し困ったように笑った。
「君に事情があるのは、もう分かってるって言ったでしょ?」
できるだけ、柔らかく。
「だからさ、強引に拘束する気は、最初からなかったんだよね」
それは、本音だった。
追い詰めて、爆発に追い込んで。
その上で、さらに縛り付けるなんて、できなかった。
「……私を、励ましてくれた時の目」
続けて、セリカちゃんが言う。
「嘘とか、騙しとかじゃないって、思った」
少女は、わずかに目を見開いた。
「だから……悪い子じゃないって、思ったんだけど……」
言葉の最後は、少し曖昧に消えた。
「悪意は、感じなかった」
シロコちゃんは、短く、端的に。
それだけで十分だった。
「勝てないって分かってるのに立ち塞がって」
ノノミちゃんが、続ける。
「ヘルメット団が逃げる時間を稼いだ。その姿……」
にこりと、優しく微笑む。
「正直、好感が持てました。なので、一旦は信じてみようかな、って」
少女は、何も言わずに聞いている。
「……私は」
最後に、アヤネちゃんが口を開いた。
少しだけ、視線を落としながら。
「あなたを運んできた時……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「血だらけで、服も装備も消し飛んでて……本当に、ボロボロで……」
その光景が、はっきりと脳裏に蘇っているのだろう。
「そんな状態の子を……拘束なんて、できませんでした」
その言葉に、誰も反論しなかった。
医務室には、静かな沈黙が落ちる。
ベッドの上の少女は、しばらく俯いていたが――。
やがて、小さく息を吐いた。
それが、安堵なのか。
戸惑いなのか。
あるいは、諦めなのか。
女の子は、しばらく黙ったまま、医務室にいる全員の顔を順番に見回した。
ノノミちゃんの柔らかい表情。
シロコちゃんの油断のない視線。
セリカちゃんの、戸惑いと心配の表情。
アヤネちゃんの、戸惑いと心配が混ざった顔。
そして、私。
その視線が一周して、最後に自分の手元へと戻る。
病院服の袖口を、ぎゅっと握りしめるような仕草をしてから――。
女の子は、意を決したように口を開いた。
「……私、どんな状態で、運び込まれたんですか?」
声は小さく、慎重だった。
まるで、答えを聞くのが怖い、とでも言うように。
その問いを聞いた瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。
私は一瞬、どう答えるべきか迷った。
正直に言うべきか。
それとも、少しぼかすべきか。
でも――。
この子は、自分の命を投げ出すような真似をした子だ。
都合のいい嘘で守っていい相手じゃない。
そう思って、私は、少しだけ視線を逸らしながら答えた。
「……相当、やばかったよ」
声は、自然と低くなった。
「体中から血が出てたし、爆弾とか装備の破片が、あちこち刺さってた」
言葉を選びながらも、止めない。
「顔もね……正直、どこがどうなってるのか、分かんないくらいだった」
一瞬、医務室の空気が重くなる。
本当は、もっと酷かった。
でも、それ以上は言わなかった。
思い出したくもない。
視界の隅に、あの光景がちらつく。
昔、たまたま見た戦争映画。
瓦礫の中で倒れている人たち。
あの、現実味のない惨状。
それと、完全に重なっていた。
「……うわぁ……」
女の子は、ぽつりと呟いた。
声の調子は、不思議なほど他人事だった。
自分のことを聞いているはずなのに、まるで第三者の話を聞いているような顔。
眉をひそめて、少しだけ口を歪める。
「そんな感じだったんですか……」
その反応が、逆に胸に刺さる。
「正直ね」
私は、息を吐いて続けた。
「長くないんじゃないかって、思ったよ」
誰も、口を挟まない。
「でも、すぐ血は止まるし、顔も戻るし、傷も……二十分くらいで、ほとんど塞がるし」
そこで、思わず苦笑が漏れた。
「……それはそれで、わけわかんないけどね」
言葉とは裏腹に、声は震えていたと思う。
「運んでいる時も……」
ノノミちゃんが、静かに続ける。
「本当に、血が……止まらなくて」
あの時の光景を、彼女も思い出しているのだろう。
目が、少し潤んでいる。
「床に、赤い跡がずっと続いていて……」
そこまで言って、言葉を切った。
「……でも、しばらくしたら」
今度は、セリカちゃんが口を開く。
「血が、全部なくなってた」
まっすぐに、女の子を見る。
「どうやったの?」
それは、私たち全員が、ずっと抱えていた疑問だった。
女の子は、一瞬だけ視線を落とした。
迷っている、というよりは――。
言うべきかどうか、ではなく、
どこまで言うか、を考えているような表情。
数秒の沈黙の後、彼女は、ためらいなく話し始めた。
「……体質、です」
淡々とした声。
「傷は、すぐに塞がります」
「血とかも……一定時間が経つと、消えてなくなるんです」
まるで、当たり前のことを説明するみたいに。
その言葉に、セリカちゃんが即座に反応した。
「体質ってレベルじゃないでしょ!」
思わず、声が大きくなる。
「あんな状態から、何事もなかったみたいに治るなんて……普通じゃ、ありえないわよ!」
それは、怒りというより、困惑だった。
理解できないものに対する、正直な感情。
私も、心の中では同じだった。
「普通じゃない部分なんて……」
女の子は、少しだけ微笑んだ。
それは、自嘲とも、諦めとも取れる笑み。
「誰にでも、あると思いますよ」
静かに、続ける。
「人間みんな、何かしら……普通じゃない部分とか、事情とか、抱えてるものです」
その言葉は――。
以前、私に向けて言ったものと、ほとんど同じだった。
事情。
事情、ね。
私は、しばらく黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「……その事情」
声のトーンを、できるだけ穏やかにする。
「話してもらえるかな?」
正直、期待はしていなかった。
でも、聞かずにはいられなかった。
女の子は、私を見た。
一瞬だけ、何か言いかけるような仕草をして――。
そして、首を横に振った。
「……前にも言いましたが」
声は、はっきりしていた。
「無理です」
迷いのない答え。
私は、小さく息を吐いた。
「そっか」
それ以上、踏み込むつもりはなかった。
「……残念」
その一言に、悔しさも、諦めも、全部込めた。
「……納得はできない」
セリカちゃんは、そう前置きしてから、一度小さく息を吸った。
言葉を選んでいる、というよりは。
自分の中で、感情を整理しようとしているような仕草だった。
「でも、理解はした」
視線は、ベッドの上の少女――コハクちゃんから外れない。
「あなたは、襲撃なんてやりたくなかった」
その声は、いつもの強気な調子よりも、ほんの少し低い。
「でも、命令されて……しかたなく、やった」
最後の言葉は、自分自身に言い聞かせるようだった。
「……そういうこと、なんでしょ」
一瞬、医務室の中が静まり返る。
誰もが、その言葉の重さを、それぞれの形で受け止めていた。
「……随分と、優しいんですね」
コハクちゃんは、セリカちゃんの方を見て、そう言った。
皮肉でも、揶揄でもない。
ただ、事実を述べるような声音。
その目には、少しだけ困惑が混じっていた。
「……優しい、かな」
セリカちゃんは、小さく肩をすくめる。
「私は、ただ」
そこで言葉を切り、視線を落とす。
「割り切れないだけだよ」
その会話を、遮るように。
「……私からも、聞きたい」
静かな声が、医務室に響いた。
シロコちゃんだった。
彼女は、銃を構えている。
両手でしっかりと保持し、引き金に指をかけたまま。
姿勢は崩れていない。
その目は、明確に“敵を見る目”だった。
警戒。
疑念。
そして、わずかな躊躇。
それらが複雑に絡み合った、冷たい視線。
「名前」
一語、一語、区切るように。
「所属学校」
銃口が、ほんのわずかに持ち上がる。
「所属組織」
その様子を見て、私は一瞬、声をかけようか迷った。
――なぜ、自己紹介を聞くだけで、銃を構えるのか。
だが、シロコちゃんが無意味な行動を取るとは思えない。
彼女なりの、確かな意図があるのだろう。
だから、私は何も言わなかった。
「……わかりました」
コハクちゃんは、銃を向けられているという状況にも関わらず、驚くほど落ち着いていた。
怯える様子も、反発する様子もない。
まるで、順番待ちをしていたかのように、淡々と口を開く。
「名前は、真田利コハク」
はっきりとした発音。
「所属学校は、ミレニアムサイエンススクール」
一年生です、と続けようとして、言葉が止まる。
一瞬、空気が張り詰めた。
「……所属組織は?」
シロコちゃんが、促す。
声は低く、短い。
「……所属していません」
ほんの一拍、間を置いてからの答えだった。
その間が、妙に長く感じられた。
「言って」
シロコちゃんは、さらに一歩踏み込む。
銃口が、コハクちゃんにより近づく。
今にも、引き金が引かれそうな緊張感。
その空気に、さすがに私は割って入った。
「ちょっと、シロコちゃん」
できるだけ穏やかな声を意識する。
「所属してないって、言ってるじゃない」
しかし、シロコちゃんは、私の方を一切見なかった。
視線は、コハクちゃんに固定されたまま。
「……さっき、アヤネに頼んで調べた」
静かに、しかし確信を持った口調。
「名前も、学校も、出た」
「でも」
銃口が、わずかに揺れる。
「所属の欄に、“あり”って出てる。でも、組織名がない」
「……どういうこと?」
どうやら、先ほど教室で中断していた調べ物は、この件だったらしい。
「……すでに、調べていましたか」
コハクちゃんは、少しだけ目を見開いた。
だが、それも一瞬で、すぐに落ち着いた表情に戻る。
「嘘をつくのは、困るよ」
シロコちゃんの声には、感情がほとんど乗っていない。
だからこそ、重い。
「そうされると、信用できない」
コハクちゃんは、しばらく黙っていた。
視線を、ゆっくりと私の方へ向ける。
その仕草に、少しだけ違和感を覚えた。
「……言います」
そう前置きしてから、続ける。
「ただ、一つだけ」
なぜか、シロコちゃんではなく、私に向かって言ってきた。
「先に、言わせてください」
「?」
思わず、間の抜けた声が出る。
コハクちゃんは、念を押すように、はっきりと告げた。
「その組織は、私一人だけです」
「活動は、ほぼありません」
「そして……契約とは、関係ありません」
私は、正直、何を言われているのか、よくわからなかった。
だが、今はそれを整理している余裕もない。
「……分かった」
とりあえず、そう答える。
コハクちゃんは、一度だけ小さく頷いた。
そして。
静かに、しかし確かに、言葉を紡ぐ。
「所属組織は――神秘研究会です」
神秘研究会――。
その言葉が、空気を切り裂くように医務室に落ちた瞬間、私は自分の中で何かが軋む音を聞いた気がした。
神秘。
たった二文字のはずなのに、その響きは異様に重く、胸の奥に沈み込んでくる。
頭の中で記憶が、意志とは無関係に引きずり出されていく。
「……神秘研究会。神秘、か……」
自分の声が、思った以上に乾いていた。
喉の奥がひりつく。
「それって……神秘を研究してる、ってことであってるよね……?」
言葉にした瞬間、自分でもわかるほど、顔が引きつっていたと思う。
信じられない。
いや、信じたくない。
なのに。
頭のどこかで、最悪の符合が、静かに組み上がっていく。
――神秘を研究し、崇高に至る。
あの黒服の男が、まるで宗教の教義でも語るかのように、楽しげに口にしていた言葉。
――そのためには、アビドス最大の神秘を宿す貴方の身体が必要なんですよ。
耳に残っている。
忘れようとしても、消えてくれなかった声音。
「はい」
コハクちゃんは、私の動揺など意に介さない様子で、あっさりと頷いた。
驚きも、戸惑いもない。
まるで、私がそう反応することを、最初から知っていたかのように。
それが、余計に胸をざわつかせる。
「……個人で?」
私は、もう一度確認するように聞いた。
自分の中で、何かが壊れないように、慎重に。
「そうです」
返事は短く、明確だった。
逃げも、誤魔化しもない。
「……そう」
それ以上、言葉が続かなかった。
頭の中で、情報が絡まり合って、うまく整理できない。
考えようとすればするほど、思考が深みに沈んでいく感覚。
視界の端で、ノノミちゃんが私とコハクちゃんを交互に見ているのがわかった。
「えっと……」
困惑を含んだ、柔らかい声。
「神秘、って……神秘属性とか、ヘイローとかで合ってますか?」
慎重に、言葉を選びながらの質問。
「そうです」
コハクちゃんは、淡々と答えた。
そのやり取りを聞いて、今度はセリカちゃんが、私の方をじっと見つめてくる。
「……じゃあ、なんでホシノ先輩、そんな顔してるの?」
違和感を覚えたのだろう。
無理もない。
神秘という言葉自体は、この世界では決して珍しいものじゃない。
それなのに、私だけが、異常なほど反応している。
「……本人が話してないなら、言えません」
コハクちゃんが、はっきりとそう言った。
まるで、線を引くように。
――やっぱり。
胸の奥が、ひどく重くなる。
この子は、知っている。
私が、あの黒服の男と、どんなやり取りをしてきたのか。
どんな契約を持ちかけられ、どこまで踏み込まれそうになっているのか。
そして、それを――
私が、みんなに隠していることも。
「答えて」
低く、抑えた声。
シロコちゃんだった。
銃口が、さらにコハクちゃんへと近づく。
距離が縮まるにつれて、空気が冷えていくような錯覚。
「……」
医務室に、重たい沈黙が落ちた。
しかし、コハクちゃんは一切怯まなかった。
背筋を伸ばしたまま、銃を真正面から見据え、まるで――
撃てるものなら撃ってみろ と言わんばかりの態度。
「これは」
静かに、しかし確固とした口調で。
「小鳥遊ホシノ本人の口から、聞くことです」
その言葉が放たれた瞬間、空気が粘ついた。
誰も、すぐには反応できなかった。
時間が、止まったようだった。
心臓の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。
一拍、一拍が、異様に長い。
私は、深く息を吸い込んだ。
胸の奥に溜まっていた感情――
恐怖、怒り、後悔、そして、逃げ続けてきたものすべてを、無理やり押し込める。
「……ねえ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
喉が、わずかに震える。
「ちょっと向こうで、話せるかな?」
それだけを、口にした。