「次は、私からいいかな?」
そう言って、レイが軽く手を上げた。
さっきまでの軽やかな進行役という雰囲気はそのままだが、目だけは真剣にこちらを見ている。
「はい、なんでしょう」
私は頷いて応じる。
コピー体――サンゴは、相変わらず微動だにせず、視線だけを前に向けたままだ。
「この子さ、さっきからちょっと触ってみたりしてるんだよ」
その一言で、私の思考が一瞬止まった。
……え?
脳内で警報が鳴るより早く、口が動きそうになる。
「え……セク、」
「ちがうちがうちがう!」
言い切る前に、レイが慌てて両手を振った。
だが、その必死さとは裏腹に、次の言葉が火に油を注ぐ。
「そしたらさ、頭と腰に違和感が――」
そこまで言った瞬間。
ゴン、という鈍い音が部室に響いた。
ミコトの拳が、迷いなくレイの頭頂部に叩き込まれていた。
「セクハラだよ」
冷え切った声。
感情の起伏が少ないはずのミコトの目が、はっきりと“軽蔑”を示している。
ユリもサラも、ほぼ同じ目をしていた。
空気が一気に凍りつく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 弁明を! 弁明をさせてほしい!」
レイは慌てて後ろに下がり、二撃目を回避する。
だが、狼狽え方にまったく反省の色がないのが逆にすごい。
「サンゴちゃんもコハクちゃんもさ、すっごく小さいでしょ? それでいて可愛い。もうこれは撫でるしかないと思って、まずサンゴちゃんの頭を――」
言い終わる前に、再び拳が飛んだ。
今度は、容赦なく鳩尾。
「ぐぇっ……!」
空気が肺から押し出されるような音とともに、レイがくの字に折れ曲がる。
「……ごめん」
ミコトが、こちらを向いて静かに言った。
「うちのバカが」
その声には、心底申し訳なさそうな響きがあった。
ユリとサラも、視線だけで「本当にすみません」と伝えてきている。
私は一瞬だけサンゴの方を見る。
相変わらず、無表情。
動揺も、不快感も、何一つ表に出ていない。
「いえいえ」
私は小さく首を振った。
「私は気にしてませんよ。それに……」
視線をレイに戻す。
「レイさんが言った“違和感”については、どのみち話す予定でしたし」
「おお……!」
床に膝をつきながら、レイが顔を上げる。
「話してもらえるのか。ありがたいね……いやほんと、助かる……」
鳩尾を押さえたまま、よろよろと定位置に戻ってくる。
その姿は完全に被験者側だった。
「私が見たのはね」
レイは一度、深く息を整えてから言った。
「サンゴちゃんの頭。そこに……耳を切り落としたような跡があった」
その言葉が落ちた瞬間。
空気の密度が、また一段階変わった。
ユリの背筋が、ぴんと伸びる。
サラは唇を強く噛みしめ、
ミコトの目からは、さっきまでの冗談じみた空気が完全に消えていた。
私は、静かに息を吸う。
「……レイさんの言う通りです」
そう前置きしてから、サンゴの方へ手を伸ばした。
「ちょっと失礼」
そう言って、指先でサンゴの髪を分ける。
淡い色の髪の奥から、はっきりとした痕が露わになる。
耳があったはずの場所。
そこに残された、滑らかすぎる断面。
「これは、耳を切り落とした跡です」
誰も、言葉を挟まない。
「……ですが」
私は、今度は自分の髪を分けた。
同じ位置。
同じ形の痕。
「サンゴ自身が、耳を切り落としたことはありません」
「……なっ……」
ミコトが、思わず声を漏らす。
狼狽が、隠しきれていない。
「元々、私たち双子には耳と尻尾がありました」
淡々と、事実だけを並べる。
「数年前、私が実験中に耳と尻尾を失いました」
その時の感覚を、思い出す。
鋭い痛みと、それ以上に強烈だった“切り離された”という感覚。
「そして、その瞬間」
視線を、サンゴに戻す。
「なぜか、サンゴの耳と尻尾も、同時になくなったんです」
これは本当。
私が耳と尻尾を失った時、なぜかカイザー理事の元にいたコピー体も、一人残らず耳と尻尾がなくなったのだという。
遠隔で影響が出たのか。
構造が同一だからか。
それとも、もっと別の理由か。
――今でも、わかっていない。
部室は、完全な沈黙に包まれていた。
機材のファン音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……一つ、聞いてもいいかな」
沈黙を破ったのは、レイだった。
さっきまでのおちゃらけた様子は影も形もない。
真っ直ぐで、鋭い視線。
「その実験」
ゆっくりと言葉を選ぶように、続ける。
「コハクちゃんの耳と尻尾がなくなった、その実験って……なんだい」
その表情には、わずかな――しかし確かな怒りが浮かんでいた。
私は、レイの問いを正面から受け止めながらも、肩の力を抜くように一度息を吐いた。
張りつめた空気が、部室の中に薄く膜を張っているのがわかる。
誰もが次の言葉を待っていて、誰もがそれを聞くのを少しだけ怖れている。そんな沈黙だった。
「私が、神秘について研究している、というのは前回話しましたね?それ関連の実験ですよ」
私は、あえて軽い調子を崩さずに、そう切り出した。
重くなりすぎないように。
この話題が持つ本来の重さを、少しでも和らげるために。
椅子に座ったまま、背もたれに体を預け、視線を宙に泳がせる。
自分の言葉を、頭の中でなぞりながら、選ぶ。
「私は、普通の生徒よりも傷の治りが早いです。そりゃあもう、その気になれば――」
そこで一度、間を置いた。
四人の視線が、ぴたりと私に集まるのを感じる。
「手足を一瞬で生やすとかも、できます」
その瞬間、空気が変わった。
目を見開く音が聞こえた気がするほど、全員の反応はわかりやすかった。
ユリは口を半開きにしたまま固まり、ミコトは眉をひそめ、レイは言葉を失ったように瞬きの回数を忘れている。
サラだけは、何かを言おうとして、結局言葉を飲み込んだようだった。
「……まあ、最初は私もびっくりしましたけどね」
私は苦笑しながら続ける。
「その再生能力を試す実験の過程で、耳と尻尾を切り落としたんです」
淡々と。
事実だけを並べるように。
「そしたらなぜか、生えてこなくなっちゃいまして」
言い終えた瞬間、部室の中に、重たい沈黙が落ちた。
笑いで誤魔化せる空気ではないことは、自分でもわかっている。
それでも、私は表情を変えなかった。
椅子が擦れる小さな音がした。
サラが立ち上がり、私の方へ歩み寄ってきたのだ。
一歩一歩が慎重で、ためらいがにじんでいる。
彼女は私の前で立ち止まり、少しだけ俯いたまま口を開いた。
「なんで……そんなに、あっさりと話せるんですか」
その声は、ほんのわずかに震えていた。
責める調子ではない。
けれど、理解できないものを前にした戸惑いと、痛みに寄り添おうとする優しさが、同時に混じっている。
その光景を見た瞬間、胸の奥に小さな既視感がよぎった。
誰だったか。
――小鳥遊ホシノ。
あの時も、こんな目で私を見ていた。
「耳ですよ?尻尾ですよ?」
サラは言葉を選びながら続ける。
「私たちにはありませんが……それでも、そんなに軽々しく失っていいものじゃないってことくらい、わかります」
彼女はぎゅっと拳を握りしめていた。
怒りではない。
納得できない現実に対する、純粋な疑問だ。
「なのに、なんで……貴方は、そんなに平気そうで。何も感じていないみたいに話せるんですか」
その問いは、まっすぐに私の胸に刺さった。
私は少しだけ目を細めて、すぐに答えた。
「耳に関しては、邪魔だったんですよ」
若干、食い気味に。
言葉が、勝手に口をついて出た。
場が、静まり返る。
意外な答えだったのだろう。
「私は昔から、大きな声が苦手でした」
私は視線を落とし、床を見つめながら続ける。
「周りで大きな声を出されると、頭が痛くなって、体に力が入らなくなって……怖かったんです」
記憶の中の音が、耳の奥で蘇る。
怒号、笑い声、割れるような騒音。
それらが一斉に押し寄せてきて、逃げ場がなくなる感覚。
「だから、耳がなくなった時……すっきりしたんですよ」
自分でも、少し驚くほど穏やかな声だった。
「完全に改善されたわけじゃありません。でも、それでも、格段に生きやすくなりました」
私は顔を上げて、はっきりと笑ってみせた。
作った笑顔ではない。
本心からのものだ。
「尻尾は……まあ、最初は結構落ち込みましたけどね」
ほんの一瞬、視線が揺れる。
「でも、思ったよりも、そこまでのショックじゃなかった」
動きにくさはあった。
バランス感覚が変わって、慣れるまでに時間もかかった。
けれど、それは「失ってはいけないものを失った」という感覚とは、どこか違っていた。
「多分、周りに耳や尻尾がない人が大勢いたのが大きいと思います」
私は、部室にいる全員を一度だけ見渡す。
「腕や足は、みんな持ってます。人間として、必ず必要な部位です」
一つ一つ、言葉を置くように。
「でも、耳や尻尾は違う。持ってても、持ってなくても……そう大きくは変わらない」
それが、私の結論だった。
「まあ、強いて言えば……大きな羽を持ってる生徒は、滑空できて便利だなとは思いますけど」
少しだけ冗談めかして言うと、張りつめていた空気が、ほんのわずかに緩んだ。
サラは、しばらく私の顔を見つめていた。
何かを確かめるように。
そして、小さく息を吐くと、静かに自分の席へと戻っていった。
椅子に腰掛けるその背中は、先ほどよりも柔らかく見えた。
少なくとも、私を見る目にあった棘は、確かに消えていた。
部室には再び静けさが戻る。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
ーーーーーー
ホシノ視点 14
砂埃をかぶった壁、ひび割れたコンクリート、長い年月に晒されて色を失った体育館の外壁。
銃声も、風の音に溶けてしまう。
乾いた雑草が、ひょろひょろと力なく揺れている。根を張る土すら失いかけているのに、それでも生きることをやめない草だ。
私は、コハクちゃんをその場所へ連れてきていた。
足元で砂が鳴る。靴底が地面を擦るたび、乾いた音がやけに大きく響いた。
空は高く、雲一つないはずなのに、ここだけ切り取られたみたいに空気が重い。
太陽は確かに昇っている。肌を焼くような光も降り注いでいる。
それなのに、背中を撫でる風は冷たく、体の芯をじわじわと冷やしていった。
「……」
隣を歩くコハクちゃんは、黙ったままだった。
病院服は少し大きすぎて、肩口が落ちそうになっている。歩くたびに布が擦れて、小さく音を立てる。
ほんの数十分前まで、爆発で原型を留めないほど壊れていた体とは思えないほど、今は静かで、弱々しく見えた。
――いや、違う。
弱々しく「見える」だけだ。
この子の中には、私の知る誰よりも危ういものが眠っている。
それを私は、嫌というほど知ってしまった。
シロコちゃんたちは、ついてこなかった。
何も言わず、ただ視線だけを寄越して、黙って私を送り出した。
たぶん、察していたのだと思う。
これは、私とこの子だけで話さなければならないことだと。
正直、ありがたかった。
みんなに聞かせる勇気は、今の私にはなかった。
契約。
黒服。
神秘。
その言葉を口にするだけで、胸の奥が軋む。
私はずっと、それを隠してきた。
アビドスの借金も、責任も、未来も、全部自分一人で背負おうとしてきたのと同じように。
――言えば、止められる。
――言えば、怒られる。
――言えば、悲しませる。
だから言わなかった。
それが正しいと思っていた。
少なくとも、そう信じないとやっていけなかった。
体育館の影に入ったところで、私は立ち止まった。
コハクちゃんも、半歩遅れて足を止める。
風が吹く。
砂が舞い、視界が一瞬霞んだ。
「ついてきましたけど……」
コハクちゃんが、静かに口を開いた。
抑揚のない声。感情を押し殺した、いつもの調子。
「話したいことって、なんです?」
本当に、形だけ聞いている。
そんな態度だった。
私は、すぐには答えられなかった。
言葉を探しているうちに、胸の奥に沈めていたものが、じわじわと浮かび上がってくる。
制服の裾が、風に揺れる。
砂漠特有の熱気が、遅れて肌を刺した。
汗なのか、冷や汗なのか、背中がじっとりと濡れていく。
「……神秘の研究……」
ようやく、絞り出すように声が出た。
自分の声なのに、ひどく遠くに聞こえる。
「それってさ……」
私は俯いたまま、地面のひび割れを見つめる。
そこに顔が映るわけでもないのに、視線を上げることができなかった。
「……あいつと、同じ研究をしてるってことなのかな」
喉がひりつく。
苦々しい感情が、胸いっぱいに広がっていく。
黒服。
あの男の、底の見えない笑み。
こちらを値踏みするような視線。
「崇高」だの「可能性」だの、耳触りのいい言葉で人を縛る、あのやり口。
コハクちゃんは、一瞬だけ瞬きをした。
そして、私から目を逸らすことなく、はっきりと答えた。
「あいつ……黒服さんのことを言っているなら、そうです」
淡々とした声。
感情の起伏はない。
「神秘を研究し、探求し、解明する。そのための研究です」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……そう」
力なく、そう返すのが精一杯だった。
やっぱり、そうだった。
予想していた答えなのに、実際に聞くと、心のどこかが確実に削れていく。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
視界の端で、コハクちゃんの白い髪が風に揺れている。
「それはさ……」
声が震えないように、意識して息を整える。
「黒服に言われてやってるの?
それとも……君自身の意思?」
一番、聞きたくて。
一番、聞くのが怖かった質問。
もし「命令された」と言われたら。
もし「仕方なかった」と言われたら。
私は、何を思えばいいのかわからなかった。
コハクちゃんは、少しだけ考えるように視線を落とした。
そして、すぐに答えた。
「私の意思です」
迷いはなかった。
言い切る声だった。
「元々、個人で神秘の研究をしていました。誰に言われたわけでもなく、自分で始めたことです」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……それで?」
私の声は、少しだけ低くなっていた。
「ある時、黒服さんから声をかけられました。
『あなたの研究の助けとなりたい』って」
やっぱり。
そう思った瞬間、奥歯を強く噛みしめていた。
同じだ。
私と、同じだ。
甘い言葉。
理解者のふり。
選択肢を与えているようで、実際には逃げ道を塞ぐやり方。
「……」
風が吹き抜ける。
乾いた音が、二人の間を通り過ぎていった。
「……対価は、何?」
私は、思わず一歩踏み出していた。
自分でも驚くほど、感情が表に出ていたと思う。
「……あいつは、ただでそんなことしないでしょ」
視線が合う。
コハクちゃんの瞳は、静かだった。
そこには恐怖も、後悔も、怒りもない。
それが、余計に怖かった。
この子は、何を差し出しているのか。
何を、奪われているのか。
目の奥が熱い。
警戒と焦燥が入り混じり、頭の奥がずきずきと痛む。
――お願いだから。
――私と同じ道を、歩いていないで。
そんな願いが、喉元までせり上がってきて。
私は、コハクちゃんを見つめたまま、言葉を待っていた。