「まず、私が神秘についての研究をしているのは、もう知っていますよね?」
そう切り出すと、部室に張り詰めていた空気が、わずかに揺れた。
四人はそれぞれ、ほんの小さく頷く。
銃は下ろされていない。だが、引き金にかかっていた指の力が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
私はそれを確認してから、言葉を続ける。
「最初は、本当に単なる好奇心でした」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
胸の奥ではまだ緊張が脈打っているのに、表に出る声だけは妙に冷静だった。
「ただ、気になった。それだけです。神秘って何なんだろう、どうして私たちはこんな力を持っているんだろう……それを知りたかっただけ」
部室の窓から差し込む光が、埃の粒を照らしている。
その光の中で、ホワイトボードに書かれた数式や走り書きが、ぼんやりと浮かび上がっていた。
「でも、研究を続けるうちに気づいたんです。この研究は、単なる自己満足や好奇心で終わらせていいものじゃない、って」
私は指先で机の縁をなぞりながら、言葉を選ぶ。
「神秘の研究によって、もたらされるものの大きさに気づいたんです。これは……人類全体に関わる問題だ、って」
一瞬、間を置く。
レイは腕を組んだまま、鋭い視線をこちらに向けている。
ミコトは相変わらず銃を構えたままだが、その目には先ほどのような激情よりも、観察するような冷たさが混じっていた。
「まず、医学です」
私は少しだけ身を乗り出して言った。
「キヴォトスの生徒って、異常なくらい耐久力が高いですよね。銃撃を受けても即死しない。重傷を負っても回復する。それが当たり前みたいに扱われている」
自分の腕を軽く叩いてみせる。
「もし、その特性を……キヴォトス外の人間にも適応できたら、どうなると思います?」
誰も答えない。
私は続けた。
「もし、私の再生能力を、私以外でも再現できたら。事故や病気で命を落とす人の数は、今よりも格段に減ると思いませんか?」
レイたちは、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、考えるような仕草を見せた。
だが、警戒が完全に解けることはない。
「次に、身体的特徴です」
私は立ち上がり、ゆっくりと部室を歩きながら話す。
「ゲヘナやトリニティの生徒が持っている羽。中には、実際に滑空が可能な生徒もいる。私みたいに、普通じゃ考えられない身体能力を持つ生徒もいる」
窓の外を指さす。
「それらが一般化できたらどうなるでしょう。人類の生活様式は、大きく変わります。移動手段、建築、災害救助……あらゆる分野で、基礎的な機動力が進歩する」
私は、言葉に熱を込めていく。
「地面に縛られた二次元的な生活から、もっと三次元的な生活へ。人類は、確実に次の段階へ進める」
その言葉に、ユリがごくりと喉を鳴らしたのが見えた。
サラは、まだ銃を構えながらも、私の話を真剣に聞いている。
「……それが」
ミコトが低い声で割り込んだ。
「それが、そのコピー体と、どう関係あるの?」
疑いの目は、弱まっていない。
私は正面からミコトを見返す。
「関係、大いにありますよ」
そう言って、少し息を吸った。
「医学の現実って、知ってますか?」
私は、ゆっくりと言葉を区切る。
「人は、もう『人』でしか救えない段階に来ているんです」
部室の空気が、さらに重くなる。
「現代医学は、すでに限界に達している。動物実験では人間を完全には再現できない。シミュレーション医療は、あくまで平均値の話でしかない」
私は、指を一本ずつ折りながら説明する。
「治験はどうです?実際の人間で試して、失敗して、初めて限界がわかる。つまり今の医療は、人を救うために、人を危険に晒す構造から、一歩も抜け出せていない」
一瞬、沈黙が落ちる。
「私は……」
声が、少しだけ低くなる。
「人体実験をやめるために、人体を完全に再現できるモデルを作っているんです」
その言葉を口にした瞬間、レイの眉がぴくりと動いた。
実際のところ、そこまで高尚な理想を最初から持っていたわけじゃない。
でも、筋は通っている。
私は、そう思っている。
「……だとしても」
ミコトが言った。
「いかに大義のためでも、あなたが国際条例を違反していることの言い訳にはならない」
その声は、怒りよりも疲労を含んでいた。
「その国際条例ですがね」
私は、思わず鼻で笑いそうになるのを堪え、顔を顰めた。
「私は、そもそも納得がいっていない」
嫌悪感を隠そうともせず、言い放つ。
「人のクローンは倫理に反するからダメ?何を言っているんですか」
今度は、レイが強く言い返した。
「当たり前だろう。動物のクローンですら、問題視された時期があった。人間のクローンなど、到底受け入れられるものではない」
その正論に、私は即座に首を振った。
「その点が、私にはどうしても不思議で仕方がないんだ」
語気が強くなり、気づけば敬語が外れていた。
「今の時代、人工知能には人権がある。彼らは私たちの隣人として扱われている。にもかかわらず、彼らが『生産されて誕生する存在』であることは変わっていない」
私は、一歩前に出る。
「何が違う?クローンとの差は何だ?」
自分でも驚くほど、胸の奥に溜まっていた疑問が溢れ出してくる。
「ロボ市民たちは……」
レイが何か言いかけて、言葉に詰まる。
「そもそも、人間と人工知能の境界が薄まった現代において」
私は、畳みかけるように言った。
「ロボットとクローンの違いなんて、ほとんどありません。だったら、古臭いクローンへの嫌悪をいつまでも引きずって、技術の進歩を止める理由はどこにある?」
部室に、重苦しい沈黙が落ちる。
レイたちは、私の主張を否定する言葉を探しているようだった。
けれど、すぐには見つからないらしい。
私は、その沈黙の中で、ただ静かに立ち尽くしていた。
「大元の話をすると――サンゴは、クローンじゃない。人造人間の類だ」
私は、もう口調を戻すことなく言い切った。
部室の空気が、わずかに揺れる。銃口は下がっている。それでも、誰も気を抜いてはいない。
「クローンが倫理的に問題だと言われている最大の理由、分かるか?」
問いかけるように言いながら、私はサンゴの肩に手を置いた。
彼女は相変わらず、表情一つ変えずにそこに座っている。呼吸は一定、姿勢は正確すぎるほど正しい。
「クローンで誕生した人間は、精神疾患や発達障害、生殖能力の欠如が起こりやすい。人格の不安定さも問題にされてきた。……でもな」
私は、サンゴを一瞥してから、再び四人に視線を戻す。
「サンゴには、そもそも“心”がない」
その言葉が落ちた瞬間、サラが息を呑む音が聞こえた。
ユリは、理解が追いついていないのか、眉をひそめたまま口を半開きにしている。
「私の完全なコピーなんだ。肉体構造も、遺伝子も、内臓も、すべて同じ。障害が発生する余地はない。生殖能力も、理論上は正常なはずだ」
淡々と述べながら、私は自分の胸に指を当てる。
「問題は“心”だけだ。もしここに、安定した人格と自我を植え付けられたら……それはもう、普通の人間だろう?」
問い詰めるように言葉を重ねる。
「それがダメだと言うなら、人間の定義そのものを問い直すことになる。生まれ方か?魂か?自我か?どこからが“人”なんだ?」
言い終えたあと、部室はしばらく静まり返った。
ミコトは相変わらずこちらを鋭く見据えているが、他の三人の空気は、明らかに変わっていた。敵意というよりも、考え込むような沈黙だ。
やがて、レイがゆっくりと口を開いた。
「……結局さ」
その声は、さっきまでの緊張が嘘のように落ち着いていた。
「君は、サンゴちゃんに心を植え付けて、何がしたいんだい?」
いつの間にか、レイの銃は完全に下ろされていた。
私は、それを確認してから答える。
「サンゴを、人間にしたい」
一切の飾りもなく、正直に言った。
「その上で、研究や治験に耐えられる再生能力を持った人材として利用する」
言葉を選ばなかった。
建前を並べる必要は、もうない。
「……隠さないんだね」
レイは、少しだけ感心したように、そして呆れたように言った。
「どうせ中途半端に正義っぽいことを言っても、信じないでしょう?」
私は肩をすくめる。
「行動原理は示しました。だから、正直に話します。……まあ、さっきまでの話は、建前が多分に混じってますけど」
内心では、ほんの少しだけ緊張していた。
この本音を出して、どう転ぶかは分からない。
「なるほどね……はぁ」
レイはそう言って、その場にどさっと座り込んだ。
床に座る音が、妙に大きく響いた気がした。
「なんか……とんでもない話を聞いちゃったなぁ」
その声音には、もはや怒りも恐怖もなかった。
疲労と、諦観と、そして少しの納得が混じっている。
「レイ?」
ミコトが、私から目を離さないまま、横目でレイを見る。
「なんでそんなにリラックスしてるの?コハクが言ってること、相当やばいよ。そこは変わってない」
鋭い指摘だ。
ミコトの警戒心は、最後まで揺らいでいない。
「うん、分かってるよ」
レイは後頭部を掻きながら、苦笑した。
「でもさ、悪意はない。少なくとも、誰かを不幸にしたくてやってるわけじゃない。……それに、言ってること、全部が全部的外れでもない」
そう言って、ちらりと私を見る。
「ロボットとクローンの区別が、もう曖昧になってるって話。あれは、正直刺さったよ。私たち、そこを深く考えないまま“常識”で線引きしてただけかもしれない」
レイの言葉に、サラも小さく頷いていた。
彼女はすでに銃を下ろし、胸の前で両手を組んでいる。
ユリも、よく分かっているとは言い難い表情ながら、レイとサラの様子を見て、慌てて武装を解除していた。
「私は……」
ミコトが低く言う。
「まだ、コハクは危険要素があると思ってる」
その言葉は、まっすぐだった。
「考え方も、やってることも、正直かなり危うい。でも……」
一瞬、言葉を探すように視線を落とす。
「他のみんながそこまで言うなら、完全に否定するのも違う気がしてきた」
私は、その様子を黙って見ていた。
ここが、分岐点だ。
「じゃあ、こうしましょう」
私は、軽く手を叩いて空気を切り替えた。
その音に、全員の視線が集まる。
「私の研究室に、あなたたちが自由に出入りできるようにします」
今度は、きちんと敬語に戻した。
「研究内容、進捗、実験記録。すべて開示します。あなたたちは、私の研究を自由に監視していい」
ミコトの眉が、わずかに動く。
「監視……そこまで?」
「ええ」
私は即答した。
「あなたたちの誰か一人でも、危険だと判断したら、すぐにセミナーに報告してください。それで構いません」
それは、私にとってかなり大きな譲歩だった。
だが、最初から覚悟していたことでもある。
「あなた方は、私の研究を進める上で、絶対に必要なんです」
少しだけ、声に力を込める。
「今回のことで信用を損なったのは事実です。その疑いが晴れるなら、できることは何でもします」
本音を言えば、サンゴに最初に解決策を聞いた時点で、こうするつもりだった。
でも、それを口に出す必要はない。
「それに……」
私は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「研究を共有できた方が、私としても、やりやすいですから」
ミコトは、難しい顔をしたまま黙り込んだ。
その沈黙に、レイが口を挟む。
「いいんじゃない?」
軽い調子で、しかし真剣に。
「ミコトが自分の目で見て判断できるなら、それに越したことはないよ。外から決めつけるより、ずっと健全だと思う」
その言葉に、ミコトは小さく息を吐いた。
「……わかった」
短く、しかしはっきりと。
「それでいい。その代わり――」
鋭い視線が、私に突き刺さる。
「私が問題だと判断したら、すぐにセミナーに行くからね」
その言葉を、私は真正面から受け止めた。
____
ホシノ視点 17
直後だった。
乾いた音がした。
金属がコンクリートを引っ掻く、耳障りな音。反射的に視線を落とすと、コハクちゃんが足元に落ちていた一本の釘を拾い上げていた。錆びついて、先端は歪み、明らかに危険なそれ。おそらく、崩れかけた体育館裏の資材か何かが、長い時間をかけて地面に埋もれていたのだろう。
コハクちゃんの指先が、わずかに震えているのが見えた。
それは恐怖ではない。焦りだ。追い詰められた者特有の、冷静さを保とうとするがゆえに滲み出る、切迫した緊張。
額には、はっきりと冷や汗が浮かんでいた。砂漠の乾いた風の中で、それだけが異質に光っている。
「動かないでください」
声が、変わっていた。
ついさっきまでの、柔らかくて、どこか距離を測るような声ではない。襲撃時に聞いた、あの冷え切った声。感情を切り離し、目的だけを残したような、芝居がかった冷徹さ。
その声音を聞いた瞬間、背筋がひやりとした。
ああ、これは――本気だ。
「何をするつもりかな?」
私は、できるだけ平静を装って口を開いた。喉の奥が張り付くように乾いているのが分かる。呼吸が浅くなりそうなのを、意識的に抑えた。
「そんな釘で、私をどうにかするつもり?」
言葉とは裏腹に、全神経が警戒態勢に入っていた。右手は、自然と腰のホルスターに近づいている。銃を抜く準備。撃つつもりはない。ただ、何が起きても対応できる位置に、指を置くだけだ。
釘一本で、この私をどうにかできるはずがない。
そんなこと、彼女自身が一番よく分かっているはずだった。
「いいえ」
コハクちゃんは、即座に否定した。
その声音には、迷いがない。迷いがないからこそ、恐ろしかった。
「あなたに、釘はそもそも刺さらないでしょうから。それは、ないです」
そう言って、彼女は一歩、こちらから距離を取った。
そして――
迷いなく、自分の首元に釘を当てた。
一瞬、世界が止まった。
視界が、ぐらりと歪む。音が遠のき、風の音すら聞こえなくなる。ただ、彼女の白い喉元と、そこに押し当てられた錆びた金属だけが、異様なほど鮮明に見えていた。
「……けど」
コハクちゃんは、静かに続けた。
「私には、刺さると思いませんか?」
その言葉が、遅れて理解として頭に落ちてくる。
理解した瞬間、血の気が一気に引いた。
「――っ!」
声にならない声が、喉の奥で詰まる。
まさか。
また?
また、自分を傷つけることで、私を止めようとするのか。
さっきまで、助けないでくれと言っていたその口で。これ以上関わるなと、優しさで突き放してきたその人が、今度は自分の命を盾に取る。
頭の中が、真っ白になった。
どうすればいい。
撃つ? 無理だ。論外だ。
飛びかかる? 距離がある。間に合わないかもしれない。
説得する? 言葉が、見つからない。
一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生む。その現実が、重く、圧し掛かる。
私は、完全に動きを止めていた。
銃に触れかけていた指も、そのまま凍りつく。抜けば刺激する。動けば、彼女は本当にやるかもしれない。
思考だけが、空回りする。
――見ているだけでいいのか?
――また、目の前で誰かが、自分を壊すのを?
脳裏に、さっきの光景が蘇る。
血に塗れた身体。千切れかけた腕。蒸発する血。再生する肉。
あの時は、間に合った。
でも、今度は?
自分の意思で、釘を突き立てようとしている相手を、私は止められるのか。
息が、詰まる。
心臓が、耳元で鳴っているみたいにうるさい。
「……コハクちゃん」
名前を呼ぼうとして、失敗した。
声が、震えている。自分でも分かるくらい、情けないほどに。
彼女の目は、私を真っ直ぐに捉えていた。
逃げ場を探している目じゃない。
助けを求めている目でもない。
これは――覚悟を決めた人間の目だ。
その事実が、何よりも私を追い詰めた。
私は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
足が、鉛のように重い。
一歩も、動けない。
言葉も、選べない。
「……どういうこと」
私は、喉の奥に引っかかった何かを無理やり押し下げるようにして、言葉を吐き出した。声は、自分でも驚くほど掠れていた。まるで、砂を噛んだみたいにざらついている。
コハクちゃんは、釘を首元に当てたまま、ほんのわずかに視線を逸らした。その仕草が、妙に事務的で、決意というより“処理”に近いものに見えて、胸の奥がひくりと痛んだ。
「私は、そろそろ失礼します」
淡々とした口調だった。別れの言葉としては、あまりにも簡潔で、あまりにも冷たい。
「追ってくるなら――この釘を、頭に打ち込みます」
世界が、また一段階、深く沈んだ気がした。
理解した瞬間、胃の底がきゅっと縮み、吐き気にも似た感覚が込み上げる。これは交渉じゃない。脅しでもない。彼女なりの、最終手段だ。逃げるための、最後の安全装置。――自分自身を犠牲にするという、最悪の。
「……まさか」
言葉が、勝手に零れた。
「自分を人質にするのか。これは……まいったね……」
軽口のつもりだった。場を和らげるためでも、時間を稼ぐためでもなく、ただ、そうでも言わないと心が折れそうだったからだ。頭に手をやり、乱暴に髪を掻く。指先が、微かに震えているのが分かる。
胸の奥で、何かが崩れていく音がした。
――まただ。
また、私は選ばされている。
追えば、彼女は自分を壊す。追わなければ、彼女は一人で闇の中へ消えていく。
どちらを選んでも、救えない。
「……けどさ」
私は、必死に言葉を探した。理屈でも、冗談でも、何でもいい。彼女の足を止められる可能性が、ほんの一欠片でもあるなら。
「その服で逃げられるの? 多分、途中で脱げるよ」
自分でも分かっていた。あまりにも苦し紛れで、情けない言葉だ。命がかかった場面で、服のサイズの話なんて、滑稽にも程がある。
でも、それでも。
それくらいしか、もう縋れるものがなかった。
コハクちゃんは、一瞬だけ目を瞬かせた。そして、どこか困ったように、けれどすぐに覚悟を固めたような顔で、小さく息を吐いた。
「確かに、サイズは合ってませんからね」
淡々と、事実を述べるように。
「けど、全裸くらい……なんてことないです」
その言葉を聞いた瞬間、胸がずきりと痛んだ。
ああ、そうだった。
この子は、自分の体を守ることを、最初から選択肢に入れていない。装備ごと自分を吹き飛ばすことを躊躇しない子だ。羞恥も、恐怖も、痛みも、目的の前では後回しになる。
私が差し出した“足止めの可能性”は、あまりにも弱く、脆かった。
分かっていた。分かっていたのに、言わずにはいられなかった自分が、惨めで仕方がない。
「……そうだよね」
喉の奥で、かろうじて呟いた。
罪悪感が、じわじわと全身を侵食していく。
――私が、もっと早く気づいていれば。
――もっと上手く、関わり方を選べていれば。
――追い詰める前に、別の手が打てていれば。
どれも、今さらだ。
「では、さようなら」
コハクちゃんは、最後にそう言った。
「できれば……もう、会いたくないですね」
その言葉は、刃物みたいに鋭くはなかった。ただ、静かで、疲れ切った声だった。それが逆に、胸に深く刺さる。
私は、反射的に一歩踏み出した。
理性が止めるより先に、体が動いた。伸ばした手は、彼女の肩に届くはずだった。指先に、かすかでもいいから、触れられると思った。
――引き止められる。
――まだ、何か言える。
そう信じたかった。
けれど。
掴もうとした手は、空を切った。
砂を含んだ風だけが、指の間をすり抜けていく。
コハクちゃんは、振り返らなかった。足取りは速く、迷いがない。釘を握ったままの小さな背中が、乾いた体育館裏の景色に溶け込んでいく。
足音が、遠ざかっていく。
一歩、また一歩。
それを、私はただ聞いていることしかできなかった。
追えない自分。
止められなかった自分。
選ばせてしまった自分。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。息を吸うたびに、罪悪感と後悔が肺に溜まっていくみたいだった。
――結局、私は何もできなかった。
助けたいと言いながら、助けられない。
信じたいと言いながら、踏み込めない。
無力感が、重くのしかかる。
足音が、完全に消えた。
砂埃をかぶった壁と、ひび割れたコンクリートだけが残る。風に揺れる乾いた雑草が、かさかさと音を立てている。
私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
伸ばしたままの手を、ゆっくりと下ろす。
指先が、冷たかった。
胸の奥に残ったのは、助けられなかったという事実と、それを選んでしまった自分自身への、どうしようもない後悔だけだった。