その後――
「とりあえず、研究室を見ないことには何も判断できない」
誰からともなく、そんな結論に落ち着いた。
言い出したのはレイだった気がするし、ミコトが無言で頷いたことで確定した気もする。いずれにせよ、この場で議論を続けるより、現物を見たほうが早いという判断だった。
「言っときますけど」
私は、歩き出す前に一応の忠告を入れておく。
「本当に何もありませんよ? やましいことがないとかじゃなくて、設備自体が、です」
言葉を選んだつもりだったが、我ながら微妙な言い回しだった。
レイは一瞬きょとんとしたあと、くすっと笑う。
「それ、逆に気になる言い方じゃない?」
「気にならないでください。がっかりするだけですから」
そう言ったものの、四人の反応を見る限り、止める気はなさそうだった。
特にレイとユリは、半ば遠足にでも行くような顔をしている。サラは控えめながらも好奇心を隠していない様子だ。
唯一、久遠ミコトだけが違った。
彼女は終始、私の背中を一歩引いた位置から見据え、周囲の状況にも気を配っている。完全に「監視役」として同行する姿勢だった。
――説得は、概ね成功した。
少なくとも、即座に拘束される未来は消えたらしい。
レイとユリに至っては、むしろ私への印象が少し良くなっている気さえした。それが良いことなのかどうかは、判断に困るが。
私は踵を返し、歩き出す。
「じゃあ、案内します。迷っても困りますし」
そう言って、四人を連れて廊下を進んだ。
―――
どれくらい歩いただろうか。
ミレニアムの校舎は広い。廊下が続き、角を曲がり、階段を一つ降り、また別の通路へ。人の往来も徐々に減り、窓の外に見える景色も、だんだんと校舎の端に近づいているのが分かる。
部室までの道のりは、体感で半分を過ぎたあたりだった。
「……もう無理っす」
そう言って、ついにユリが立ち止まった。
肩で息をし、膝に手をついている。
「どんだけ遠いんすか〜、コハクさんの研究室……」
「そんなに歩いてませんよ」
私は振り返って言った。
「ここから、だいたい十分くらいで入り口が見えてきます」
その一言で、ユリの顔が露骨に歪んだ。
レイも同時に、嫌そうな表情を浮かべている。
「十分……? 遠いねー。ミレニアムの端っこなんじゃないの、そこ」
呆れたように言いながらも、歩みは止めないあたり、完全に文句を言いたいだけらしい。
「実際、端っこですよ」
私は正直に答えた。
「私が求める条件に合う場所が、そこしかなかったので」
「条件?」
サラが小さく首を傾げる。
「ただで使える、頑丈な施設って言う条件です」
「あー…確かに新しく始めるってなるとそうなってくるのか…」
「私の場合、新学期が始まってすぐってのもあるかもしれませんけどね」
頭をかきながらそう返すと、ミコトが小さく鼻を鳴らした。
「研究意欲が高すぎて、先走って研究室だけでも用意したかった結果、端っこしかなかったんでしょ」
その通りなので、反論はしなかった。
―――
さらに歩き、校舎の端を抜ける。
外に出ると、朝の空気が一段と冷たく感じられた。人の気配はほとんどなく、遠くで工事用ドローンの低い駆動音が聞こえるだけだ。
そして、私たちは目的地に辿り着いた。
「着きました。ここが、私の研究室の入り口です」
私が指さした先にあったのは――
校舎とは不釣り合いな、小さな小屋だった。
金属製の外壁はくすみ、所々に補修の跡がある。看板もなければ、所属を示すプレートもない。周囲に植えられた雑草が、手入れされないまま伸びている。
「……ここが研究室?」
レイが、目を瞬かせて言った。
「随分、小さいな……」
「いえ、ここはあくまで入り口です」
私は、扉の前に立って答える。
「本体は地下ですよ。この下に降りると、研究室があります」
「地下、ねえ」
レイは興味深そうに小屋を見回す。
「それっぽいじゃん。急にワクワクしてきた」
「期待しないでください。本当に何もないので」
そう言いながら、私は扉を開けた。
中は、外見以上に質素だった。
狭い空間の中央に、ぽっかりと口を開けた階段があるだけ。壁には最低限の照明と、年代物の制御盤が取り付けられている。
「じゃあ、降りましょうか」
私は階段の前で立ち止まり、振り返る。
「結構長いですから、足元気をつけてください」
そう言って、先頭で降り始めた。
―――
一歩、また一歩。
金属製の階段は、踏むたびに低く響く音を立てる。照明は等間隔に設置されているが、下の方は薄暗く、どこまで続いているのか見えない。
「うわ……」
ユリが、手すりから身を乗り出して下を覗いた。
「この階段、長すぎじゃないっすか? 底、見えないっすよ」
「だから言ったでしょう」
私は振り返らずに答える。
「途中で引き返したくなっても、もう遅いですよ」
「脅さないでほしいっす……」
サラは、階段の壁や天井を注意深く観察しながら降りてきていた。
「ミレニアムの端に、こんな地下構造があったなんて……知りませんでした」
「知られてない場所を選びましたから」
そう言うと、今度はミコトが口を開く。
「……配管が多いね」
彼女は、階段に沿って走る太い管や電線に視線を向けていた。
「しかも、最近のじゃない。結構前の規格のものが混じってる」
「よく気づきましたね」
私は少しだけ感心する。
「元々あった地下設備を、最低限使わせてもらってるだけです。新設すると、どうしても目立つので」
ミコトはそれ以上言わず、黙って階段を降り続けた。
レイは相変わらず楽しそうに、ユリは半ば文句を言いながら、サラは静かに周囲を観察しながら。
それぞれ違う反応を見せつつ、四人は私の後に続いて、ゆっくりと地下へと降りていった。
階段は、まだ終わらない。
「長いっす……」
階段の途中、ユリがついに力尽きたように腰を下ろした。金属製の段に直接座り込み、背中を手すりに預けて大きく息を吐く。その呼気が、地下の冷たい空気に白く溶けた気がした。
「もう、どれくらい降りたかわかんないっすけど……長すぎるっす……」
足をぶらぶらと揺らしながら、半ば抗議のように呟く。
その様子を見て、数段下にいたレイも諦めたように座り込んだ。
「確かに長いね。普通じゃないよ、これ」
肩をすくめ、階段の上と下を交互に見やる。
「なんでこんなに長いのやら……エレベーターとか作れなかったの?」
「無理ですね」
私は一段上で立ち止まり、振り返って説明する。
「地下鉄や主要電線、他の地下施設を避けて作った結果、こうなったらしいです。直線で下に掘れなかったんですよ」
「らしいって……」
レイは少し笑った。
「つまり、ここ作った人も『なんでこんなに深いんだ』って思いながら作ったってこと?」
「多分」
否定はしなかった。
サラは、休む二人を横目に見ながら、手すりに触れ、階段を見上げていた。
「……それにしても、深いですね。ここ」
その声には、疲労よりも純粋な驚きが混じっている。
「元々は戦闘演習場だったそうです」
私は、思い出すように言った。
「地下鉄や周辺施設に衝撃が伝わらないようにするためには、よっぽど深く掘る必要があった。結果として、こんな深度になったとか」
「ああ〜……」
レイが納得したように、間延びした声を出す。
「爆発とか、そういうの前提の施設だったわけね。そりゃ深いわ……」
ミコトは、誰よりも無言だった。
座ることもなく、階段の壁に沿って走る配管やケーブルをじっと見つめている。指先で空間をなぞるようにしながら、視線だけで情報を拾っている様子だった。
「……でも、古い」
ぽつりと、彼女が言った。
「戦闘演習場にしては、設備が古すぎる。相当昔の設計ね」
「そうですね」
私は頷いた。
「使われなくなって、長い間放置されていたみたいです。だから、ここを使う許可も比較的簡単に降りました」
「誰も使わないから、誰も気にしない……か」
ミコトは小さく息を吐き、それ以上は言わなかった。
―――
しばらく休憩した後、再び階段を降り始める。
今度は誰も文句を言わなかった。ただ、足音だけが規則正しく響く。
やがて、階段の先に平らな床が見え始めた。
金属と油の混じった、どこか懐かしい鉄の匂いが、空気に混じってくる。
「……あ、そこ、見えてきた」
レイが前を指さす。
「ようやく終わりっすか……」
ユリは、ほとんど救われたような声だった。
階段を降り切ると、そこには分厚い鉄の扉があった。
長年使われてきたことを物語る錆と傷。蝶番の部分には、何度も開閉された痕跡が残っている。
「ここですね」
私は扉の前で足を止めた。
レイが近づき、扉をまじまじと見る。
「……分厚いね〜」
指の関節で軽く叩くと、鈍く低い音が返ってきた。
「ウチの部室とは大違いだよ。下手したら戦車でも止められそう」
「そこまでじゃないですけど」
そう言いながら、私は認証パネルに手をかざした。
短い電子音。
続いて、内部ロックが解除される重い音が響く。
「じゃあ、中に入りますね」
私は扉を押し開けた。
―――
扉の向こうには、広い空間が広がっていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、ほんのりと洗剤の匂いが鼻をかすめる。少し前に清掃した名残だ。それ以外に、特別な匂いはない。油の臭いも、薬品の刺激臭もない。
床は整然としており、壁や天井にも目立った汚れは見当たらない。
ただ、広い。とにかく広い。
やはり、いつ見ても思う。
この広さには、まだ慣れない。
私は、部屋の奥へと数歩進み、壁際にあるスイッチへ手を伸ばした。
カチリ、と小さな音。
次の瞬間、天井に設置された照明が一斉に点灯し、白い光が空間全体を照らし出した。
影が消え、輪郭がはっきりと浮かび上がる。
「……うっわ」
レイが、思わず声を漏らした。
「すごい広いね……」
視線を巡らせ、何もない空間を見渡す。
「そんでもって、ほんとに何にもない……」
その言葉通りだった。
作業台も、機材も、ケーブル一本すら置かれていない。あるのは、空間と、壁と、天井と、床だけ。
ユリも口をぽかんと開けている。
「想像してた研究室と違うっす……もっとこう、怪しい機械とか、よくわかんない装置とかがあるのかと……」
「まだ、です」
私は振り返って言った。
「器具は、まだ運び込んでいません。なので、今はこんな感じですね」
サラは、ゆっくりと一歩踏み出し、床を確かめるように歩いた。
「……本当に、何もないんですね」
「ええ」
私は頷く。
「もう少ししたら、器具や設備を入れます。そうすれば、見栄えも……」
言いかけて、少し言葉を探す。
「……今よりは、研究室らしくなると思います」
ミコトは、部屋の中央に立ち、天井を見上げていた。
照明の配置、換気口の位置、壁の継ぎ目。すべてを一つ一つ、無言で確認している。
「……確かに」
彼女は低く言った。
「今は、空っぽね」
私は、その言葉を否定も肯定もせず、ただ静かにその場に立っていた。
______
ホシノ視点 18
私は、体育館裏で呆然と立ち尽くしていた。
さっきまで確かに、ここにコハクちゃんがいた。乾いた風に制服の裾を揺らしながら、淡々とした顔で、私に背を向けて歩き去っていった。その残像だけが、まだ視界の端に焼き付いているような気がして、何度も瞬きをした。
――止められなかった。
その事実だけが、砂埃のように喉の奥に溜まり、息をするたびにざらついた。
でも、それは「止める力がなかった」からじゃない。
もっと正確に言うなら、「止めてあげられるほど、信用されなかった」からでもない。
そこが、一番、惨めだった。
コハクちゃんは、私のことを分かっていた。驚くほど、正確に。まるで、私自身よりも私の思考の癖や行動原理を把握しているかのように。
私が、誰かに頼られたら放っておけないこと。
助けを求められたら、どんな無茶でも引き受けてしまうこと。
そして、その裏側で――それを「自分の価値」にすり替えてしまうこと。
私に頼れば、私は全力を尽くす。
寝る時間を削っても、危険を引き受けても、他のものを犠牲にしてでも。
それを、コハクちゃんは分かっていた。
だからこそ、頼らなかった。
いや、頼れなかった、のかもしれない。
それが、私には堪え難かった。
「……私って、そんなにお人好しに見えるのかな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた声は、風に攫われて消えた。
違う。
違う、違う。
私は、首を横に振った。
お人好しなんかじゃない。
断じて、そんな綺麗なものじゃない。
――自己満足だ。
胸の奥で、その言葉が鈍く反響する。
私は、人を助けたいわけじゃない。
正確に言えば、「助けたい気持ち」自体は、確かにある。でも、それは決して純粋な善意なんかじゃない。
私は、自分を許したいだけだ。
ユメ先輩を助けられなかった自分。
何もできず、何も守れず、ただ時間が過ぎていくのを見ていることしかできなかった自分。
その事実を、直視する勇気がないから。
だから私は、「今度こそ誰かを助ける」という役割に、すがりついている。
後輩を守る自分。
頼られる先輩である自分。
困っている人の手を引ける自分。
そうやって、自分に役割を与えていないと、私は自分を肯定できない。
助けることでしか、自分の存在価値を感じられない。
――なんて、歪で、卑怯で、みっともない生き方なんだろう。
胸が、じわじわと痛くなる。
私は、コンクリートの壁に背を預け、ずるずると腰を落とした。体育館裏の冷たい影が、身体を包み込む。昼間だというのに、ここだけ時間が止まったみたいに静かだった。
砂漠の風が、乾いた音を立てて雑草を揺らす。
その音が、やけに耳につく。
――コハクちゃんは、それに気づいていたのだろうか。
私が「助けたい」と言うたびに、その裏にある打算や、自己正当化を、見抜いていたのだろうか。
もしそうなら――。
喉の奥が、きゅっと縮む。
私が彼女を助けようとすることは、彼女にとっては「善意」ではなく、「私の自己満足に付き合わされること」だったのかもしれない。
だとしたら。
私は、彼女を救おうとしているつもりで、実際には自分を救おうとしていただけだ。
そんなの、最低じゃないか。
「……ほんと、最低だな、私」
声に出してみると、その言葉は妙にしっくりきた。
否定できない。
反論もできない。
胸の奥が、ひたすら重い。
コハクちゃんは、「あなたのあり方が好きだ」と言ってくれた。
あの言葉が、どれほど私を救ったか、本人は知らないだろう。
でも、今は――その言葉すら疑ってしまう自分がいる。
本当は、あれもただの社交辞令だったんじゃないか。
それとも、別れ際の情けだったのか。
あるいは、本当に好きだったとしても――それは「距離を取った上での好意」だったのかもしれない。
近づきすぎると、互いに壊れてしまうから。
そう考えた瞬間、胸の奥で何かがひび割れた。
――私は、危険な存在なんだ。
善意の顔をした、厄介な存在。
関われば関わるほど、相手の選択肢を奪ってしまう。
助けるという名目で、相手を自分の物語に引きずり込んでしまう。
だから、線を引かれた。
それだけのことなのに。
それを理解していながら、私はまだ「拒絶された」ような気分になっている。
なんて、身勝手なんだろう。
「放っておくもんか、って……」
自嘲気味に笑いそうになって、結局、笑えなかった。
さっきまでの私は、確かにそう思っていた。
たとえ拒絶されても、たとえ嫌われても、コハクちゃんを放っておかない、と。
正義感?
責任感?
違う。
それは、私が「正しい側」に立ち続けるための、ただのポーズだ。
本当に相手のことを思うなら、相手が引いた線を尊重するべきだった。
それが分かっていながら、「それでも助ける」と言い切ろうとしていた自分が、今はひどく醜く思える。
――もう、いない。
コハクちゃんは、行ってしまった。
私が追わなかったから。
追えなかったから。
いや、追う資格がないと、どこかで理解してしまったから。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような感覚が広がる。
そこから、冷たい空気が流れ込んでくるみたいだった。
私は、ゆっくりと膝を抱えた。
守れなかった。
救えなかった。
それどころか、自分の在り方すら、信じられなくなった。
今の私は、ただの空っぽだ。
頼られる先輩でもなく、
誰かを助ける存在でもなく、
ましてや、正しい人間でもない。
残っているのは、
過去を引きずり、
自己満足にすがり、
それを見抜かれて拒絶された――
情けない一人の人間だけ。
風が、また一陣吹いた。
砂埃が舞い上がり、視界が一瞬白む。
私は、その中で目を閉じた。
――自分が、ひどく嫌いだ。
それだけが、今はやけに、はっきりしていた。
ヤッベェ…ホシノを落ち込ませ過ぎた…
この後シロコたちと合流して色々説明させにゃならんのにどうしようか…
ホシノ、機械になれ。お前は頼れる先輩を演じる機械や。
感情を押し殺して先輩をまっとうしてくれ。じゃないと進まん。
それか立ち直れ。無理だろうけど。
余談ですが、コハク・黒服宅のイメージ図ができました。
【挿絵表示】
こんなのをイメージしてます。
左下の洋室が、みなさんお馴染みの黒服が座ってるとこです。
コハクの部屋は右上、黒服の部屋は真ん中上です。
内装はTwitterで投稿したのでよかったら見てみてください。