ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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第五十一話 親方!空から女の子が! ホシノ視点あり

「……でさ」

 

静まり返った地下の研究室に、レイの声がやけに大きく響いた。

彼女は両手を腰に当て、さっき降りてきたばかりの階段を見上げている。その視線には、はっきりとした嫌悪と疲労が混じっていた。

 

「本当に何にもなかったわけなんだけど……どうする? このまま戻る?」

 

階段の上方は、相変わらず暗く、どこまでも続いているように見える。

さっきまで必死に降りてきた道を、今度は登らなければならない。その事実だけで、体力をごっそり削られる気がしたのだろう。

 

「サンゴちゃんを部室に待たせたまんまだし、ここに至って、やることはもうない。戻っていいと思う」

 

その言葉に、サラとユリも小さく頷いた。

研究室を一通り見回し、確認するべきことは確認した。少なくとも今この場で、これ以上議論を進める意味はない。

 

「じゃあ、戻りますか」

 

私はそう言って踵を返し、自然な流れで階段の方へと足を向けた。

 

……が。

 

二歩ほど進んだところで、違和感に気づいて振り返る。

 

ユリとサラが、なぜか動いていなかった。

 

「……?」

 

私は眉をひそめ、二人に近づく。

 

「どうしたんです? 戻ることには賛成なんでしょう?」

 

返事は、なかった。

代わりに、二人の膝が、小刻みに震えているのが目に入った。

 

生まれたての子鹿。

そんな比喩が、妙にしっくりきた。

 

「ああ……」

 

私は思わず、納得の声を漏らす。

 

「階段を降りてきた時点で、もう足が限界だったんですね」

 

半笑いで言うと、ユリが悔しそうに唇を噛んだ。

 

「そうっすよ……」

 

声には、はっきりとした疲労が滲んでいる。

 

「普段、ほとんど運動なんてしないのに……あんな長い階段を一気に降りてきて……もう、立ってるのがやっとっす……」

 

ユリはその場で体重移動を失敗しかけ、慌てて壁に手をついた。

今にも崩れ落ちそうな様子だ。

 

サラも、申し訳なさそうに視線を伏せる。

 

「私も……恥ずかしながら、同じような状態で……」

 

声は落ち着いているが、足先が震えているのは隠せていない。

 

「うーん……」

 

レイが二人の様子を見て、困ったように頭をかいた。

 

「休めば、回復しそうかい?」

 

「厳しいっすね……」

 

ユリは即答だった。

 

「この感じ、たぶん時間が経ったら筋肉痛が襲ってくるっすよ……」

 

「私は……」

 

サラは、太ももに手を当て、小さく息を吸う。

 

「もう、すでに痺れが……」

 

二人とも、完全に戦力外だ。

 

「あちゃー……」

 

レイは階段と二人を交互に見て、ため息をついた。

 

「どうしようか……」

 

「私もレイも二人ほどじゃないけど、疲れてるのは確か。担いで登るのは……現実的じゃない」

 

地下の空気はひんやりとしているが、ここまで降りてきた疲労は確実に体に溜まっている。

この階段を、人一人抱えたまま登る。それを二人分。

普通に考えれば、無謀だ。

 

「……」

 

一瞬の沈黙の後、私は小さく手を挙げた。

 

「私が運びますよ」

 

その言葉に、四人全員の視線が一斉に集まる。

 

「二人くらいなら、なんてことないと思います」

 

レイは一瞬きょとんとした後、私の身長を上から下まで見て、苦笑した。

 

「コハクちゃん……気持ちは嬉しいんだけどさ」

 

肩をすくめる。

 

「さすがに、コハクちゃんが二人を抱えるのは無理だと思うな……」

 

そして、遠慮なく追い打ちをかけた。

 

「だってコハクちゃん、小学生くらいしか身長ないじゃん」

 

「いや」

 

ミコトが、顎に手を当てて口を挟む。

 

「さっき部室で言ってたでしょ。『私みたいに、普通じゃ考えられない身体能力を持つ生徒もいる』って」

 

じっと、私を見る。

 

「……もしかして、ものすごい力持ちなんじゃない?」

 

私は、その視線を受け止めて頷いた。

 

「そうです」

 

口調は、はっきりとしていた。

 

「一時期、ものすごく体を鍛えてましたから。そこらの生徒とは比べ物にならないくらいの身体スペックはあります」

 

言葉を選ばず、事実だけを述べる。

 

「だから、二人を運ぶくらい、わけありません」

 

「ふーん……」

 

レイは半信半疑のまま、少し考え込む。

 

「じゃあ……お願いしようかな」

 

そして、釘を刺すように付け加えた。

 

「でも、無理はしないように」

 

私は返事の代わりに、親指を立てた。

 

次の瞬間、ユリとサラの前にしゃがみ込み、ためらいもなく二人を肩に担ぎ上げる。

 

「うおっ⁉︎」

 

ユリが素っ頓狂な声を上げる。

 

「ほんとに担いで上がるんすか⁉︎ お、お手柔らかに頼むっすよ!」

 

「ゆっくりで構いませんからね……」

 

サラも驚きながら、私の肩に手を置いた。

 

二人の体重がかかる。

だが、重さは感じない。

足腰に、余裕があるのが自分でもはっきりと分かる。

 

「では」

 

私は階段の方を向き直った。

 

「先に、お二人を地上まで運んできます」

 

そう言って、私は階段の手すりに足をかける。

 

「……え?」

 

レイが目を丸くした。

 

「ちょ……何する気?」

 

ミコトも、わずかに目を見開いている。

 

私は、短く答えた。

 

「飛びます」

 

その瞬間。

 

私は、手すりが悲鳴を上げない、ぎりぎりの力で――

 

跳んだ。

 

三階分ほどを一息で跳び上がり、私は手すりの上に足をかけて着地した。

金属がわずかに軋み、階段全体に振動が伝わる。その振動を感じ取るより早く、私は次の跳躍に移っていた。

 

――跳ぶ。

――着地する。

――また跳ぶ。

 

その動作を、ほとんど呼吸と同じ感覚で繰り返す。

視界の端で、階段の壁が高速で流れていく。コンクリートの色、配管の影、非常灯の赤。すべてが一本の線になって溶けていった。

 

「うわああああああああ⁉︎ 早い! 早いっす‼︎」

 

背中側から、ユリの悲鳴が叩きつけるように聞こえてくる。

風切り音と重なり、その声はひしゃげて、半ば叫びとも悲鳴ともつかない音になっていた。

 

私は特に返事をしなかった。

この速度で口を開けば、彼女の恐怖を余計に煽るだけだ。

 

一方で、サラは――

 

「……」

 

何の反応もない。

不自然なほど、静かだ。

 

ちらりと視線を向けると、サラの首は力なく傾き、瞼は固く閉じられていた。

完全に、意識を手放している。

 

「あー……」

 

私は内心で小さく息を吐いた。

 

「まあ、いいでしょう。地上に着いたら起こしますか」

 

そう結論づけ、動作のリズムを一切落とさないまま、階段を駆け上がり続ける。

 

三段、六段、九段。

距離の感覚は、もはや数値ではなく感覚になっていた。

 

そして――

ほんの一分も経たないうちに、頭上に外光が見えた。

 

地上だ。

 

私は最後の跳躍で手すりを飛び越え、入り口の床に軽く着地する。

風圧が止まり、世界が一気に静かになった。

 

ユリとサラをそっと肩から下ろし、壁際に座らせる。

サラはそのままぐったりと身を預け、ユリは膝に手をつき、荒い息を吐いた。

 

「……な、なんだったんすか今の……」

 

ユリの声は震え、顔色は青白い。

 

「まだ、頭がぐわんぐわんするっすよ……」

 

その少し離れたところで、ユリが小屋の壁にもたれかかっていた。

こちらも同じように、呼吸を整えながら、呆然とした目で私を見ている。

 

「……なんなんすか、あの上り方……」

 

掠れた声で、ユリが言う。

 

「アニメでしか見たことないっすよ……あんな動き……」

 

どうやら、見ているだけでも相当こたえたらしい。

 

サラはしばらくして、ゆっくりと目を開けた。

だが、きょとんとした表情で周囲を見回している。

 

「……あれ? ここは……」

 

「地上です」

 

私が答えると、サラは眉をひそめた。

 

「……すみません。階段を登る直前から、記憶が……」

 

「問題ありませんよ」

 

私は軽く首を振った。

 

「覚えていない方が、むしろ幸せです」

 

その言葉に、ユリが何とも言えない顔をした。

 

「……それ、ほんとっすね……」

 

私は二人の様子を確認し、特に大きな問題がないことを確かめると、踵を返した。

 

「では」

 

そう言って、再び階段の方へ向かう。

 

「私は、レイさんとミコトさんを運んでくるために、もう一度降りますね」

 

その瞬間。

 

「え? ちょ、ちょちょちょ、待ってくださいっす!」

 

ユリが、慌てて四つん這いになり、私の足首を掴んだ。

 

「な、何する気っすか⁉︎」

 

「何って……」

 

私は振り返り、素直に答える。

 

「お二人だけ運ぶのは、後の二人が可哀想でしょう? ですから、もう一度降りて、レイさんとミコトさんを運んでこようかと」

 

「それはわかってるんすよ!」

 

ユリは必死な形相で叫ぶ。

 

「そうじゃなくて! どうやって降りようとしてたっすか⁉︎」

 

「どう降りるって……」

 

私は一瞬考え、特に迷うことなく言った。

 

「自由落下で」

 

ユリの顔から、血の気が一気に引いた。

 

「ダメっすダメっす‼︎」

 

声が裏返る。

 

「いくら身体能力が高いからって、それは危険すぎるっす! 絶対ダメっす!」

 

両手両足で、必死に私を引き留めてくる。

 

「何言ってるんですか」

 

私は落ち着いた声で返す。

 

「言ったでしょう? 私は、どんな怪我でも一瞬で治せるって」

 

「いやいや!」

 

ユリは首を振り続ける。

 

「怪我することに変わりはないじゃないっすか! ダメっす! 横着せずに、ちゃんと階段で――」

 

その言葉が、最後まで言い切られることはなかった。

 

私は、静かに一歩、前へ踏み出した。

 

そして――

 

躊躇なく、飛び降りた。

 

この階段は、四角い螺旋構造だ。

中心部には、地上から地下まで貫く、大きな空洞がある。

 

うまく落ちれば、階段や壁に触れることなく、真下まで落下できる。

 

私は体をわずかに捻り、重力に身を委ねた。

 

――落下。

 

風が耳を打ち、視界が縦に引き伸ばされる。

時間感覚が、少しだけ曖昧になる。

 

五秒ほど。

 

それだけの短い時間で、私は階段の最下部へと到達した。

 

着地――いや。

 

正確には、激突だった。

 

ドンッ‼︎

 

大きな砂袋を、全力でバットで殴りつけたような、鈍く重い音が響く。

床が揺れ、衝撃が周囲に伝播する。

 

私は、意図的に体全体を使って地面に当たった。

一点に力が集中すれば、骨が皮膚を突き破り、外傷として血が噴き出す可能性がある。

 

それを避けるための、“自然な激突”。

 

結果として、体内では――

 

内臓が潰れ、

筋繊維が裂け、

骨が折れた。

 

だが、それらは一瞬のことだった。

 

壊れた臓器が再構築され、

切れた筋が繋がり、

折れた骨が元の形に戻る。

 

痛覚が意味を成す前に、再生は完了する。

 

私は、何事もなかったかのように立ち上がった。

 

そして、顔を上げる。

 

実験室の奥で――

レイとミコトが、言葉を失ったまま、こちらを見ていた。

 

目を見開き、

呼吸を忘れ、

ただ――“それ”を目撃してしまった者の顔で。

 

「ええっと……コハクちゃん?」

 

レイの声は、わずかに上ずっていた。

ついさっきまで張りつめていた緊張が、一気に別の種類の困惑へと変質したような、妙にぎこちない声音だった。

 

「今……何したの?」

 

彼女はそう言いながら、私と床の間を何度も見比べている。

視線の動きが落ち着かない。理解しようとしているのに、理解が追いつかない人間特有の仕草だった。

 

私は首を傾げる。

 

「降りるのが面倒だったので、飛び降りました」

 

自分でも驚くほど、平坦な声だった。

説明というより、事実確認に近い。

 

その瞬間、レイの表情がゆっくりと崩れた。

口角が引きつり、眉が微妙な角度で固まり、ついには片手を額に当てる。

 

「……はあ……」

 

深いため息。

 

「まあ……そうだよね……」

 

ぶつぶつと、独り言のように続ける。

 

「高い身体能力があって、即時再生までできるなら……そういう結論に行き着くのも……理屈としては……うん……」

 

言葉を選びながらも、途中から諦めが滲み出ていた。

論理で納得しようとする理性と、感情が拒絶している現実。その折り合いをつけるための時間稼ぎのようだった。

 

一方で、久遠ミコトはというと――

 

「……じゃあ」

 

床に残った、わずかなヒビや、衝撃の痕跡から目を離し、こちらに視線を戻す。

 

「降りてきたってことは……私たちも、ああやって運んでくれるってこと?」

 

その口調は、驚くほど落ち着いていた。

まるで、先ほどの光景など見ていなかったかのように、あるいは“見たうえで処理を終えた”かのように。

 

「ええ」

 

私は頷き、二人に近づく。

 

「お二人とも、相当疲れているでしょうし。私としても、待ち時間はできるだけ短縮したいので」

 

そう言ってから、少しだけ間を置いた。

 

「合理的でしょう?」

 

ミコトは一瞬だけ口を閉ざし、私の顔をじっと見つめた。

 

「……合理的、ではあるね」

 

短くそう言うと、肩の力を抜いた。

 

レイはその様子を横目で見てから、もう一度ため息をついた。

 

「ああ、うん……わかったよ」

 

諦観と受容が半々に混じった声。

 

「お願いする。もう、ここまで来たら細かいことに突っ込む気力もないしね……」

 

私とミコトが、まるで何事もなかったかのように会話を続けているのを見て、レイは“飛び降り”という事象そのものへのツッコミを、完全に放棄したらしかった。

 

私は二人の前にしゃがみ込み、さっきと同じように手を回す。

 

体重、重心、バランス。

頭の中で自然と計算が走る。

 

「失礼しますね」

 

一言添えて、二人を同時に抱え上げた。

 

レイは一瞬、言葉を失ったような顔をしたあと、

 

「え、ちょ、待っ――」

 

と言いかけたが、その声は途中で裏返った。

 

「うわあああああっ⁉︎ ちょ、ちょっと! 心の準備が――!」

 

階段を蹴り、私は一気に跳躍する。

 

金属の手すりが、再び軋む。

風が巻き起こり、視界が加速する。

 

「やっぱり早い! 早いってば! せめてカウントダウンとか――!」

 

レイの叫び声が、階段の空間に反響する。

 

ミコトはというと、声を上げることはなかった。

ただ、私の肩に掴む手に、ほんのわずか力が入っているのが伝わってくる。

 

――三階分、跳ぶ。

――着地。

――また跳ぶ。

 

リズムは変えない。

無駄な減速はしない。

 

レイの声量だけが、どんどんユリくらいに大きくなっていった。

 

「うわああああああああ‼︎ ちょ、ほんとに速いって‼︎ ねえミコト、これ絶対安全じゃないよね⁉︎」

 

ミコトは短く答えた。

 

「……今さら言っても、遅い」

 

その一言が、なぜか妙に落ち着いていて、私は少しだけ感心した。

 

そして――

ほどなくして、再び地上の光が視界に広がる。

 

私は最後の跳躍で床に着地し、二人をゆっくりと下ろした。

 

レイは足が地面についた瞬間、その場に崩れ落ちる。

 

「……生きてる……私、生きてる……」

 

半ば放心したように呟く。

 

ミコトは深く息を吐き、私を見上げた。

 

「……理解は、追いつかないけど」

 

一拍置いて、

 

「実用性だけは、よくわかったよ」

 

私は軽く肩をすくめる。

 

「それで十分です」

 

その場に、奇妙な静けさが戻った。

 

______

 

ホシノ視点 19

 

私は、少し時間を置いてから、ようやく地面から立ち上がった。

 

脚に力が入らない。立ったというより、無理やり体を引き剥がした、と言った方が近い。視界は妙に白っぽく、焦点が合わない。瞬きをしても、世界の輪郭は戻ってこなかった。

 

目は空っぽで、気力も底を突いている。

 

――当たり前だ。

 

あんなことがあった直後に、平然としていられるほど、私は強くない。

 

胸の奥に沈殿した感情は、名前をつけるのも億劫なほど重く、ぐちゃぐちゃに絡まり合っている。後悔、自己嫌悪、罪悪感、無力感。どれがどれだか分からないまま、ただ一つの塊になって、私の内側を圧迫していた。

 

それでも。

 

それでも、だ。

 

「……はあ」

 

小さく息を吐き、私は顔を上げた。

 

後輩たちに、悟られるわけにはいかない。

 

私が今、どれほど空虚で、どれほど自分を嫌悪しているか。

どれほど自分の存在を、価値のないものだと思っているか。

 

そんなものを、見せてはいけない。

 

今まで、アビドスで被ってきた皮――

『だらしないけど、いざという時は頼れる先輩、小鳥遊ホシノ』

 

それを、今さら脱げるはずがなかった。

 

それを失えば、私は何者でもなくなる。

 

先輩でもない。支えでもない。頼りになる存在でもない。

ただ、過去に囚われて、自己満足で動いて、挙句の果てに後輩すら守れない、情けない大人が残るだけだ。

 

そんな自分を、私は直視できない。

 

――それさえ失えば、私は生きる意味を見失う。

 

冗談でも誇張でもなく、本心だった。

 

私は結局、自分のためにしか生きていない。

誰かのために、なんて綺麗事を言いながら、実際は「役割」を演じていないと、呼吸すらままならない。

 

だから私は、また自分を偽る。

 

自分を守るために。

壊れないために。

いや――壊れていることに気づかないために。

 

それが、笑えるくらいに滑稽だった。

 

「……ほんと、バカみたい」

 

誰にも聞こえない声で呟いて、私は歩き出した。

 

重い足取りを、必死に誤魔化す。

引きずりそうになる脚を叱咤して、いつもの、気だるげで緩い歩き方をなぞる。

 

大丈夫。

私は、ホシノだ。

だらしなくて、昼寝好きで、肝心なところでなんとかしてくれる先輩。

 

そう、何度も自分に言い聞かせる。

 

校舎へ続く道は、いつもと同じはずなのに、やけに長く感じた。

一歩進むたびに、心が置き去りになっていくみたいだった。

 

――戻らなきゃ。

 

後輩たちのところへ。

私の「居場所」へ。

 

「……よし」

 

無理やり口角を上げ、柔らかい表情を作る。

鏡があれば、きっと上手くできているように見えただろう。

 

そうやって、私は部屋の扉を開けた。

 

「みんなー、ただいまー」

 

明るく、間延びした声。

いつも通りの、ホシノ先輩。

 

暗い心を奥に押し込め、何もなかった顔で部屋に入る。

 

「いやー、コハクちゃんに逃げられちゃってさー。我ながら警戒が足らなかったねー」

 

笑い混じりにそう言ってみせる。

 

胸の奥が、きしりと音を立てた。

 

――逃げられた?

 

違う。

逃がしたんだ。

 

私が。

私のエゴと、私の無力さで。

 

そんな言葉は、喉まで出かかって、無理やり飲み込んだ。

 

「逃げたんですか……話はできましたか?」

 

ノノミちゃんが、少し眉を下げてこちらを見る。

 

……そりゃあ、そうだよね。

 

ここを出ていくときの私の顔。

必死で隠したつもりでも、相当ひどかったはずだ。

 

「うん、話したいことは話せたよ」

 

私は曖昧に頷きながら、椅子に腰を下ろした。

 

立ったままじゃ、きっと耐えられなかった。

脚の力が抜けて、床に崩れ落ちてしまいそうだったから。

 

「みんなにも、情報を共有しとくね」

 

淡々と、報告する口調を作る。

先輩としての役割。

それを演じることだけに、意識を集中する。

 

「まずね、私がコハクちゃんを連れ出したわけだけど……」

 

話しながら、心の奥で自分を殴りつける。

 

――嘘つき。

――卑怯者。

 

「コハクちゃんが、私の知ってるやつに騙されてるんじゃないかと思ってね」

 

もっともらしい理由。

過去の経験を持ち出して、正当化する。

 

「私も、昔そいつに騙されたことがあったからさ。もしかしたらって思って」

 

本当は、違う。

 

私は、過去を重ねただけだ。

助けられなかった誰かの影を、勝手にコハクちゃんに重ねて、救われる側に自分を置きたかっただけだ。

 

「それで、みんなに余計な心配をかけないように、二人だけで話したんだ」

 

言葉を並べるたびに、胸が軋む。

 

「踏み入った話でもあったから、多対一だと話しにくいかなって」

 

――全部、後付けだ。

 

本当は、私が「ヒーロー」になりたかっただけなのに。

 

みんなは、うんうんと頷いている。

疑いもせず、私の言葉を信じてくれている。

 

それが、何より苦しかった。

 

「でね、結論から言うと……予想通りだった」

 

わざとらしく、肩をすくめる。

 

「コハクちゃんは、詐欺師に騙されてて、その人の言うことを聞かなきゃいけなくなってた」

 

部屋の空気が、少し重くなる。

 

「今回の襲撃も、その指示だったらしいね」

 

私は、ため息をついてみせた。

演技の一部だ。

 

「それでさ、そんなこと知っちゃったら、助けたくなっちゃうでしょ?」

 

――助けたくなっちゃう。

 

違う。

助けた「かった」。

 

自分のために。

 

「だから、手を貸すって言ったんだけど……断られた」

 

その瞬間、シロコちゃんが首を傾げた。

 

「なんで?」

 

その純粋な疑問が、胸に突き刺さる。

 

「私たちを、巻き込みたくなかったんだってさ」

 

私は、用意していた答えをなぞる。

 

「私たち、ただでさえ借金返済に追われてるでしょ?だから、余計な不幸を背負わせたくなかったんだって」

 

――不幸?

 

本当は、私の「正義」に巻き込まれたくなかっただけかもしれないのに。

 

「それに、私たちまで詐欺師に利用されるのを、恐れたんじゃないかな」

 

少し間を置いて、続ける。

 

「あとね……コハクちゃん、自分のことを自業自得だって言ってた」

 

胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 

「騙された自分が悪い、って」

 

説明し終えた瞬間。

 

椅子が勢いよく鳴り、セリカちゃんが立ち上がった。

 

「何よそれ!」

 

感情を抑えきれない声が、部屋に響く。

 

「騙された方が悪い⁉︎ そんなわけないじゃない!」

 

拳を握りしめ、怒りを隠そうともしない。

 

「騙す方が悪いに決まってるでしょ!コハクちゃんは何にも悪くないじゃない!」

 

私は、視線を落とした。

 

その言葉が、正しすぎて、痛かった。

 

「それなのに……一人で抱え込んでるの⁉︎」

 

セリカちゃんの声が、震える。

 

「ありえない……なんで私たちを頼らないの……」

 

そして、絞り出すように続けた。

 

「私たちは、そんなに頼りないわけ……?」

 

部屋の空気が、完全に沈黙に支配される。

 

誰も、すぐには言葉を発せなかった。

 

私は、ただ俯いたまま、動けずにいた。

 

――違う。

 

頼りないんじゃない。

 

頼れない存在だと、思われたんだ。

 

私が。

私の在り方が。

 

セリカちゃんの怒りも、悲しみも、全部正しい。

それなのに、私はその中心にいながら、何も言えない。

 

「……」

 

喉が、ひりつく。

 

謝りたい。

本当のことを言いたい。

 

全部、私の問題だって。

私が余計なことをしたって。

私のエゴが、コハクちゃんを追い詰めたかもしれないって。

 

でも、それを言えば。

 

『頼れる先輩』は、壊れる。

 

私は、後輩たちの前で、ただの無力で、身勝手な人間になる。

 

それが、怖かった。

 

――結局、私は。

 

誰かを守るふりをして、自分しか守っていない。

 

その事実が、胸の奥で、静かに、しかし確実に私を責め続けていた。

 

部屋に漂う重い空気の中で、私はただ、何も言えずに座っていた。




悩んだんですが、ホシノには自分を偽っていてもらいます。

そうすれば、上部だけは本編ホシノと変わんないからアビドスの歯車が大きくずれることはないはず。

ほんわかした雰囲気のホシノが、内側ではどこまでも深い自己嫌悪に落ちているのってなんか興奮しますよね。

ギャップ萌えってやつです。ホシノには萌えキャラでいて欲しいですからね。しばらくはこのままです。

先生が登場したら、気が向けば晴らします。気が向かなければマジでずっとこのままです。

もしくは、いっそのことアビドスの誰かを殺させるのもいいかもしれませんね。

次回、ホシノ特別編です
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