ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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コハク『コハク過去編は一旦終わりといったな?』

私  『そ!そうだコハク!』

コハク『あれは嘘だ』

私  『ウアー!(執筆)』

なんか本編だけ書いてても寂しいので、コハク過去編を復活させます。


第五十三話 お使い コハク過去編あり

あのあと私たちは、しばらくのあいだ地下から戻ってきた直後の場所で休憩をとり、ようやく体力と正気を取り戻してから部室へと戻ってきていた。

 

……と言っても、「戻ってきた」と表現するには、やや語弊があるかもしれない。

 

実質的には、私がユリとサラを担いで移動した、という形だったからだ。

 

左右の肩にそれぞれ一人ずつ。

人目を引かないわけがない。

 

廊下を歩くたびに、通りすがりの生徒たちが一瞬こちらを見て、二度見し、三度見してから目を逸らす。

その中で、たまたま通りかかった運動部の生徒が、屈託のない笑顔でこう言った。

 

「おっ、珍しいトレーニングだね!ウエイト負荷?それとも体幹?」

 

私は一瞬、言葉に詰まりかけたが、すぐに口角を引き上げた。

 

「……ええ、まあ。そんな感じです」

 

声が裏返らないように、表情が引きつらないように、全神経を使って“普通の笑顔”を作る。

内心では、穴があったら入りたい気分だったが、ここで説明する気にもなれなかった。

 

担がれている当の本人たちはというと、ユリは半死半生で「うう……」と小さく唸っているだけだし、サラは完全に魂が抜けたような顔で天井を見つめていた。

この状態で誤解を解くのは、どう考えても無理だった。

 

結局、私はそのまま何事もなかったかのように歩き続け、部室の前に辿り着いた。

 

ドアを開けると、見慣れた空間が広がる。

机と椅子、ホワイトボード、壁際に積まれた資料の箱。

さっきまでの地下研究室の無機質な広さと比べると、ここはやけにm狭く、そして安心感があった。

 

私はユリとサラを、それぞれ椅子に座らせる……というより、ほとんど“降ろす”に近い動作で配置した。

 

その直後だった。

 

レイ、ミコト、ユリ、サラ――私を除く四人全員が、ほとんど同時に机に突っ伏した。

 

ドン、ドン、ドン、ドン、と鈍い音が連続して響く。

 

「あー……疲れた……」

 

最初に声を出したのはレイだった。

机に額を押し付けたまま、まるで寝起きのように掠れた声を出す。

 

「研究室を見に行くだけで……こんなに運動することになるなんて……聞いてないよ……」

 

最後のほうは、ほとんど愚痴というより独り言に近い。

 

「コハクちゃんの研究室の監視……月一回でもきついぞ、これ……」

 

はあ、と大きなため息が部室に落ちた。

 

その音に引きずられるように、他の三人からも似たような呼吸音が漏れる。

誰も顔を上げようとしない。

それだけで、どれほど疲弊しているかが伝わってきた。

 

私は自分の席に向かいながら、その様子を静かに眺める。

 

「コハクちゃんは……」

 

レイが、顔の向きも変えずに言った。

 

「……あんな大きな研究室で……何する気なのさ……」

 

声にはもう警戒心はなく、純粋な疑問と疲労だけが滲んでいた。

 

「当面は、私とサンゴの体を使った実験ですね」

 

私は椅子に腰を下ろしながら答える。

 

「戦闘実験とか。今までできなかったことを、いろいろ試したいです」

 

「へぇ……戦闘実験……」

 

レイが、わずかに顔をこちらへ向けた。

 

「それって……サンゴちゃんとコハクちゃんが、戦うってこと?」

 

「ええ、そうです」

 

私は頷く。

 

「今までは、コピー体がどの規模で戦闘行動を取るのか分からなかったですし、誰にもバレずに戦闘できる施設もありませんでしたから」

 

その言葉に、ユリがピクリと反応した。

 

「誰にもバレずに、って……なんでっすか?そこらへんの基地とか、演習場借りてやればいいじゃないっすか……」

 

声は弱々しいが、疑問は真っ当だった。

 

「それがですね」

 

私は少し言葉を選んでから答える。

 

「私もコピー体も、戦闘時に……かなり大量に出血するんです。公共の場所だと、どうしても問題になりますから」

 

「……大量に出血?」

 

その単語に反応したのはレイだった。

今度ははっきりとこちらを向き、眉をひそめる。

 

「ちょっと待って。どういう戦闘を想定してるの?」

 

「防御を無視した撃ち合いと殴り合いですね」

 

私は両手で軽くジェスチャーを交えながら説明する。

 

「回復能力がある前提で、相手の攻撃を無視して距離を詰める。切り合い、殴り合い、撃ち合い。そういう訓練です」

 

「……防御を無視して……?」

 

レイの顔が、さらに歪んだ。

 

「なんで切り合いになるのさ……」

 

「私は、相手の攻撃を無視して近づけるので、接近戦の適性が高いんです」

 

淡々と続ける。

 

「コピー体も、同じ判断をするはずなので。結果的に、殴り合いになるかと」

 

「うっわぁ……」

 

レイは、完全に嫌そうな顔をした。

何か具体的な光景を想像してしまったのだろう。

 

「まあ……うん……」

 

しばらくして、力の抜けた声で言う。

 

「君がそれでいいなら……私からは、もう何も言わないよ……」

 

その表情は、半ば諦め、半ば現実逃避だった。

 

「しかし……」

 

レイは、ふと別のことを思い出したように言葉を続ける。

 

「……どうしようかね、これ」

 

「これ、とは?」

 

私は首を傾げた。

 

「私たちが全員ダウンしてることだよ」

 

レイは、机に突っ伏したまま指先だけ動かす。

 

「このままじゃ、お昼ご飯も食べられない……」

 

「あ……」

 

私は壁の時計を見た。

 

「もう、そんな時間でしたか……確かに、どうしましょう」

 

流石に、全員分の昼食の世話まで私がするのは、正直気が進まない。

 

……いや。

 

私は、ふと横に立っているサンゴに視線を向けた。

 

そうだ。

 

「サンゴ」

 

名前を呼ぶと、コピー体は即座に反応する。

 

「はい」

 

「四人に、お昼ご飯を食べさせてあげて」

 

せっかくいるのだ。

活用しない手はない。

 

「わかりました」

 

サンゴはすぐに立ち上がり、私を見る。

 

「では、食事の場所を教えてください」

 

「ええ⁉︎」

 

レイが、思わず声を上げた。

 

「サンゴちゃんに……食べさせてもらうのかい⁉︎ それはちょっと……」

 

「じゃあ、立てそうですか?」

 

私は冷静に問い返す。

 

「腕、動かせますか?」

 

レイは、試しに体を起こそうとして――

 

「うう……」

 

小さく呻き、すぐに元の姿勢に戻った。

 

「……だめだ。動かない」

 

「でしょう?」

 

私は肩をすくめる。

 

「お昼を食べないか、食べさせてもらうか。どちらにします?」

 

「……」

 

数秒の沈黙。

 

「……今の状態で……お昼まで抜いたら……」

 

レイは、弱々しく言った。

 

「……いよいよ死んでしまう……」

 

「決まりですね」

 

私は即断する。

 

「では、お昼ご飯の場所を教えてください」

 

「私たちは普段、購買でお弁当を買って食べてるよ」

 

レイが言う。

 

「買いに行かないと、部室にはない」

 

「そうですか……」

 

私は少し考えてから頷いた。

 

「なら、私が買ってきますね。アレルギーを持っている方はいますか?」

 

「誰も持ってないよ」

 

レイは、もう抵抗する気力もなさそうだった。

 

「適当に買ってきてくれ」

 

「わかりました」

 

私はそう返事をして、椅子から立ち上がった。

 

そのまま部室のドアへ向かい、振り返ることなく外へ出た。

 

ーーーーーーー

 

コハク過去編 6

 

アビドスのオフィス街は、昼夜を問わず独特の静けさを湛えている。

ミレニアムの喧騒とも、ゲヘナの雑多さとも違う、乾いた空気と無機質な建物群。

砂色を帯びた街並みの中に、規則正しく並ぶ高層ビルは、まるで人の営みそのものを管理するために存在しているかのようだった。

 

その中でも、ひときわ存在感を放つビルの前で、私は立ち止まっていた。

 

高い。

とにかく、圧倒的に高い。

 

ガラスと黒い外装材で構成されたその建物は、空を切り取るように垂直に伸びており、見上げるだけで首が痛くなりそうだった。

反射する空の色すら計算され尽くしているかのようで、建築物というより「権威」そのものが形になったような印象を受ける。

 

「……ここ、ですか?」

 

思わず、そんな言葉が口から漏れた。

 

隣に立つ黒服の男――ゲマトリアの構成員であり、私の研究パートナーであり、そして今や“同居人”になるらしい存在――は、何でもないことのように頷いた。

 

「ええ。こちらが、今後あなたが生活の拠点とする場所になります」

 

「生活の拠点……」

 

その言葉を反芻しながら、私はビルを見上げ直した。

研究施設、監視拠点、あるいはラボ付きの仮住まい。

そういったものは想像していた。

 

だが、“同じ家に住む”という発想は、正直なところ完全に想定外だった。

 

最初にその話を聞いた時のことを思い出す。

 

――24時間の行動監視の一環として、同じ居住空間を共有してもらいます。

 

あまりにもさらっと言われたせいで、私は一瞬、意味を理解できなかった。

 

「……え? 同じ、家?」

 

思考が追いついたのは、その数秒後だった。

慌てて問い返した私に対して、黒服さんは「ええ」と当然のように肯定しただけだった。

 

今、その“当然”の結果として、私はこの場に立っている。

 

「……まあ、今さら驚いても仕方ない、か」

 

小さく呟きながら、私はビルのエントランスへと足を踏み出した。

 

自動ドアは近づく前から静かに反応し、音もなく左右に開く。

中に入った瞬間、外の乾いた空気とはまるで別世界のような、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。

 

床は磨き上げられた黒い石材で、私の白衣の裾と、黒服の男の革靴が、くっきりと映り込んでいる。

天井は高く、照明は直接光源が見えない間接照明。

視界の端々に配置された観葉植物ですら、どこか人工的な整い方をしていた。

 

「……すご……」

 

思わず、感嘆の息が漏れる。

 

ここまで来ると、研究施設というより、高級ホテルか、あるいは国家機関の要人用施設のようだ。

 

「こちらです」

 

黒服さんに促され、私は広いロビーを横切る。

足音がやけに響くのが気になって、自然と歩幅が小さくなった。

 

やがて、ロビー奥に設置された巨大なエレベーターの前に辿り着く。

 

普通のビルで見かけるものより、一回りも二回りも大きい。

扉の高さも幅も余裕があり、内部を想像するだけで、何十人も同時に運べそうだと分かる。

 

「……これ、何人乗りですか?」

 

「正確な定員は把握していませんが、想定としては四、五十人程度でしょうか」

 

「でしょうか、って……」

 

内心で突っ込みを入れつつも、私は黙ってエレベーターに乗り込んだ。

 

扉が閉まる。

重厚な金属音が低く響き、密閉された空間に私と黒服の男だけが取り残される。

 

広い。

 

あまりにも広い。

 

床面積の余裕に対して、乗っている人数が二人しかいないせいで、かえって落ち着かない。

視線のやり場に困り、私はなんとなく壁の表示パネルを眺める。

 

「……静かですね」

 

沈黙に耐えきれず、私はそう口にした。

 

「防音と振動制御が徹底されていますから」

 

黒服さんは淡々と答える。

 

次の瞬間、エレベーターが動き出した。

ゴウン、という少し大きめの低音とともに、体がふわりと持ち上げられる感覚。

 

上昇している。

 

それがはっきりと分かるほど、速度も加速度も容赦がない。

 

(……高層階、だよね……)

 

耳が少し詰まるような感覚に、思わず唾を飲み込む。

表示される階数が、みるみるうちに増えていく。

 

やがて、エレベーターはゆっくりと減速し、低い音を立てて停止する。

 

チン、という控えめな到着音。

 

扉が開く。

 

そこに広がっていたのは、エレベーターの中とはまた違った意味で、現実感の薄い空間だった。

 

廊下だ。

だが、ただの廊下ではない。

 

床には深い色合いのカーペットが敷かれ、足音を吸い込むように柔らかい。

壁は淡い色調で統一され、一定間隔で設置された照明が、まるで高級ホテルの廊下のような落ち着いた光を放っている。

 

空調の音すら聞こえない。

静かすぎて、自分の呼吸音がやけに大きく感じられた。

 

「……住居、って言いましたよね?」

 

「ええ。ここがそうです」

 

廊下の奥、正面に見えるのは、ひときわ存在感のある扉だった。

 

大きい。

そして、重厚だ。

 

黒を基調とした扉には、艶やかな木目が浮かび上がっており、装飾は最低限ながらも、圧倒的な格式を感じさせる。

取っ手に触れなくても分かる。

これは、安物の素材ではない。

 

私は、その場で一瞬、立ち止まってしまった。

 

自分の格好を、無意識に見下ろす。

 

血の染みは落としたつもりだが、完全には消えきれていない白衣。

長時間の研究でくたびれた袖口。

床や薬品の匂いが、まだ微かに残っている。

 

(……場違い、だよね……)

 

ここは、あまりにも“整いすぎている”。

 

今まで私が出入りしていた倉庫や、簡易ラボとは、何もかもが違う。

気品、密度、隔絶。

そういった言葉が、次々と頭に浮かぶ。

 

「……入りますか?」

 

黒服さんの声に、私ははっとして顔を上げた。

 

「……はい」

 

小さく返事をして、私は扉の前に立つ。

 

取っ手に手を伸ばすと、ひんやりとした感触が指先に伝わった。

軽く押しただけなのに、扉はほとんど抵抗なく、しかし重みを感じさせながらゆっくりと開いていく。

 

その感触は、木というより金属に近い。

密度が高く、内側に何かが詰まっているような、不思議な重さ。

 

私は、息をひとつ整えながら、扉を押し開けた。

 

そこは、私が頭の中で思い描いていた光景とは、あまりにも大きくかけ離れていた。

 

扉を開ける瞬間まで、私は高級マンションの一室のような空間を想像していたのだ。

広いリビングに、ガラス張りの窓。

最新式の家具と、無機質で洗練された生活感のない居住空間。

 

だが、現実は違った。

 

扉の先に広がっていたのは――

まるで企業の最上階にある社長室、あるいは秘密結社の幹部が密談を交わすための応接室のような空間だった。

 

「……え?」

 

思わず、間の抜けた声が漏れる。

 

天井は高く、照明は抑えめで、柔らかくも威圧感のある光を落としている。

壁一面には、落ち着いた色合いのパネルが張られ、装飾は最小限。

しかしそのどれもが、一目で高価だと分かる素材で作られていた。

 

部屋の中央には、ひときわ目を引く大きな机。

艶やかに磨き上げられた天板は、深い色を湛え、まるで鏡のように周囲を映し込んでいる。

その向こう側には、背もたれの高い椅子が一脚。

 

――ああ、これだ。

 

アニメや漫画でよく見る、悪役のボスがゆったりと腰掛けて、主人公を見下ろす時に座っている、あの椅子。

威厳と威圧を形にしたような、堂々たる存在感。

 

「……これは……」

 

私は、思わず部屋を見回しながら言葉を探した。

 

「家、というより……会議室? それとも、執務室……?」

 

正直な感想が、そのまま口から漏れる。

 

「家には、見えませんが」

 

そう言ってから、私は自分の声が少し上ずっていることに気づいた。

緊張と困惑が、じわじわと混ざり合ってきている。

 

黒服さんは、そんな私の様子を特に気にした風もなく、部屋の中を数歩進むと、落ち着いた声で説明を始めた。

 

「ああ、こちらは客室です」

 

「……客室?」

 

「来客対応や、打ち合わせ、あるいは公式な場で使用するための空間ですね」

 

そう言って、彼は部屋の端にある、あまり目立たない扉を指差した。

 

「居住スペースは、こちらになります」

 

言われるままに視線を向けると、確かに、先ほどまであまり意識していなかった場所に、もう一枚扉があった。

客室の格式ばった雰囲気に溶け込むように設えられていて、言われなければ気づかなかったかもしれない。

 

黒服さんは、その扉を開ける。

 

すると、その先に現れたのは――

先ほどまでの重厚さとは、まるで別世界のような光景だった。

 

「……あ」

 

自然と、声が漏れる。

 

そこには、マンションの一室でよく見るような、細長い廊下が続いていた。

白すぎない、柔らかな色合いの壁。

足元には、温かみのあるフローリング。

 

先ほどまで感じていた、張り詰めるような緊張感が、嘘のように薄れていく。

 

「……普通、ですね」

 

私がそう呟くと、黒服さんは小さく頷いた。

 

「ええ。居住スペースについては、あえて一般的な構成にしています」

 

廊下を進むにつれ、次々と部屋が現れる。

 

「……ここが、私の?」

 

「ええ。あなた用に用意しました」

 

ドアを開けると、そこには意外なほど“普通”な部屋が広がっていた。

 

シングルサイズのベッド。

勉強机と椅子。

壁際には、本棚と収納棚。

 

派手さはないが、落ち着く。

研究室や倉庫とは違い、ちゃんと“休むための場所”として作られているのが分かる。

 

「……ちゃんと、部屋ですね」

 

思わず、そう言ってしまった。

 

続いて案内されたのは和室。

畳の匂いが、ほんのりと鼻をくすぐる。

 

「和室……?」

 

「ええ。日本的な空間の方が落ち着く、という生徒も多いので」

 

「……黒服さんも、ここ使うんですか?」

 

「必要があれば」

 

その言い方から察するに、普段はあまり使っていないのだろう。

 

さらに進むと、リビングとキッチン。

 

ソファとローテーブル。

テレビ。

キッチンには、必要十分な調理器具と家電。

 

どれも特別高級というわけではないが、安っぽくもない。

まさに、“一般的な家庭”のそれだった。

 

「あなたは、あまり装飾過多な空間よりも、こういったものの方が落ち着くと思いまして」

 

黒服さんは、淡々とそう言う。

 

「生活に支障が出ないよう、必要なものは一通り揃えています。

 不足があれば、後で調整しましょう」

 

「……なんというか……」

 

私は、部屋全体をぐるりと見回した。

 

さっきまで見ていた、あの威圧感のある客室とは、あまりにも違う。

同じフロアにあるとは思えないほど、空気が柔らかい。

 

「……シェアハウス、みたいですね」

 

思ったことを、そのまま口に出す。

 

「そう捉えていただいて構いません」

 

黒服さんは、否定も肯定もせず、そう返した。

 

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、ふっと緩むのを感じた。

 

(……案外、普通なんだ)

 

失礼かもしれないが、正直な感想だった。

 

見た目は異形で、立場も危険で、やっていることも常軌を逸している。

それなのに、住居はこんなにも“普通”。

 

そのギャップに、私は少しだけ可笑しくなった。

 

同時に、現実感が、ゆっくりと押し寄せてくる。

 

――ここで、暮らすのだ。

――他人と、しかもこの黒服の男と。

 

新鮮さ。

不安。

期待。

 

それらが、複雑に絡み合って、胸の中で渦を巻く。

 

「……これから、よろしくお願いしますね」

 

私は、自然とそう言っていた。

 

黒服さんは、少しだけ間を置いてから、静かに答える。

 

「こちらこそ。今後の研究と生活、双方が円滑に進むことを期待しています」

 

形式的な言葉。

だが、その響きは、先ほどまでよりもどこか柔らかい。

 

私は、自分の部屋の入口に立ちながら、もう一度だけ部屋全体を見渡した。

 

ここが、新しい住居。

ここが、新しい日常の舞台。

 

胸の奥で、わずかに期待が膨らむのを感じながら、私はゆっくりと息を吐いた。

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