私は、購買へ向かうためにミレニアムの校舎を歩いていた。
昼休みの校舎は、朝や放課後とはまるで別の顔をしている。
廊下のあちこちに生徒が腰を下ろし、窓際では光を背に受けながら弁当箱を広げる者がいる。階段の踊り場には、座り込んで談笑するグループ。中庭に面したガラス張りの通路からは、外で昼食を取る生徒たちの笑い声が微かに聞こえてきた。
どこからか、焼きそばパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
別の方向からは、甘いクリームの匂い。購買が近づいている証拠だ。
「……昼時、だね」
誰に向けるでもなく、小さく呟く。
感情制御アルゴリズム部の部室は、ミレミアムの中心部からやや外れた場所にある。
そのせいで、購買まではそれなりの距離を歩くことになるのだが、私にとっては問題になるほどではない。
体力的にも、精神的にも、この程度の移動で消耗することはない。
むしろ、こうして人の流れの中を歩く時間は、頭の中を整理するのにちょうどよかった。
先ほどの部室での光景が、自然と脳裏に浮かぶ。
机に突っ伏した四人。
力なく垂れた腕。
疲労と諦観が混じった、あの空気。
「……まあ、無理もないか…」
あの地下施設への移動と、あの階段の上り下り。
一般的な生徒からすれば、ちょっとした悪夢だっただろう。
ユリの絶叫と、レイの悲鳴が、まだ耳の奥に残っている気がする。
私は歩きながら、購買で何を買うかを考え始めた。
四人分の昼食。
量は多めがいい。
レイは多分、何でもいいだろう。そういうの気にしなさそうだ
ユリは……何でも食べるんだろうが、特に疲れてたからガッツリ目がいいだろう。
ミコトは、何か運動をしてそうだし、セルシーなのにするか。
サラは……正直、好みが分からないが、無難なものを選べば問題ないだろう。
そんなことを考えていると、ふと視界の端に、見覚えのある白が映った。
白髪。
背筋の伸びた立ち姿。
書類を抱えた、落ち着いた雰囲気。
「あ……」
思わず、足を緩める。
生塩ノアさん。
セミナーの書記であり、新入生歓迎会の際、早瀬ユウカさんの隣に立っていた人物。
記憶に残りやすい外見と、淡々とした話し方が印象的だった。
今は特に用事もない。
それに、購買へ向かう途中でわざわざ立ち止まる理由もない。
私はそのまま、彼女の横を通り過ぎようとした。
――そのときだった。
「すいません」
背後から、声がかかる。
「少し、止まってもらえますか?」
透き通るような声だった。
音そのものが澄んでいる、というより、余計な感情や圧が一切含まれていない声。
白髪という外見も相まって、空気に溶け込むように耳へ届く。
私は足を止め、振り返った。
「……何でしょうか?」
身に覚えはない。
だが、無視をする理由もない。
ノアさんは、私を正面から見つめ、軽く首を傾げた。
「突然すみません。確認なのですが……」
一拍、間を置いてから、続ける。
「あなたは、真田利コハクさんで、間違いありませんか?」
自分の名前を、はっきりと口にされる。
「あ、はい。そうですが」
自然と、背筋が伸びた。
名指しされたということは、私個人に用があるということだ。
ただし、ノアさん自身が用事を抱えている、という雰囲気ではない。
「何か、ありましたか?」
私がそう尋ねると、ノアさんは小さく首を横に振った。
「いえ。私があなたに直接用がある、というわけではありません」
そう前置きしてから、続ける。
「明星ヒマリという方から、あなたに伝言を頼まれまして」
その名前を聞いた瞬間、思考が一瞬だけ止まった。
明星ヒマリ。
特異現象捜査部の部長。
……なぜ?
こちらからは、何も接触していない。
研究室の件も、正式な手続きを踏んでいるはずだ。
「……伝言、ですか」
私の問いに、ノアさんは淡々と頷いた。
「はい。内容は、こうです」
一語一句、正確に伝える、という意識が伝わってくる口調で、彼女は言った。
「『三日以内に部室へ来なさい。さもなくば、有る事無い事を広めますよ』――とのことです」
一瞬、理解が追いつかなかった。
「…………」
内心で、言葉にならない声が上がる。
――ブチギレている。
それも、かなりの勢いで。
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れた。
「えっと……理由は、何か聞いていますか?」
一応、確認してみる。
ノアさんは、申し訳なさそうに目を伏せる。
「いいえ。私は、伝言をそのまま伝えるように言われただけなので」
「……ですよね」
やっぱりか。
私は、こめかみを軽く押さえた。
身に覚えが、本当にない。
研究室の件も、手続きは正式。
特異現象捜査部の管轄に引っかかるようなことは、まだ何もしていないはずだ。
……はず、なのだが。
「わかりました。伝言、ありがとうございます」
私がそう言うと、ノアさんは静かに一礼した。
「いえ。お伝えする役目でしたので」
それだけ言って、彼女は再び歩き出した。
その背中は、相変わらず静かで、昼休みの喧騒から少しだけ浮いて見えた。
私は、その場に一瞬立ち尽くしてから、再び歩き出す。
購買へ向かう足取りは、先ほどよりも少しだけ重い。
「……三日以内、か」
口の中で、小さく反芻する。
面倒ごとの匂いが、はっきりと漂っていた。
だが、今は考えても仕方がない。
とりあえず、昼ごはんを買って部室に戻らなければならない。
私は、疑問と微かな不安を胸の奥に押し込みながら、人混みの中を進んでいった。
購買に着いた。
昼休みが始まってから、すでに少し時間は経っている。
だが、購買前の広場は思ったよりも混雑していなかった。人の波はあるものの、長蛇の列というほどではない。どうやら今日は機械調理ラインが多く稼働しているらしく、品切れの札もほとんど見当たらなかった。
油のはぜる音。
スープが温め直される蒸気の音。
トレイが積み重なっていく乾いた金属音。
それらが混ざり合い、昼休み特有の喧騒を作り出している。
「……よし」
私は軽く息を整え、タッチパネルの前に立った。
画面にはずらりとメニューが並び、写真付きで表示されている。どれもこれも美味しそうで、視線を動かすたびに胃が小さく鳴った。
まずは、レイの分。
炭水化物とタンパク質、そして野菜。余計な飾りは要らない。
・ご飯
・唐揚げ8個
・キャベツ山盛り
・味噌汁
画面をタップしながら、頭の中でレイの顔を思い浮かべる。
唐揚げの数を見て、きっと満足そうに頷くだろう。
次はユリ。
あの疲れ様だ。ただのカレーでは再稼働しないだろう。
・カツカレー(中辛)
・サラダ(申し訳程度)
・紙パックコーヒー
サラダの量は控えめだが、まあ、本人も気にしないだろう。
次はミコト。
ミコトは、健康管理とかカロリー計算とかしてそうだな。スポーティーな雰囲気だし、ヘルシーなものを頼もう。
・蒸し鶏と雑穀ご飯のプレート
・温野菜サラダ(胡麻ドレ)
・わかめスープ
ドレッシングってカロリー高かったっけ?まあいいだろう。
サラの分。
サラは、食に関しての印象がないから、無難なところで行こう。
重すぎず、しかし物足りなくならない構成。
・焼き魚定食(サバ or シャケ)
・白ご飯
・味噌汁
・小鉢(ひじき)
魚の種類は、当日の仕入れ次第だろう。
どちらでも問題ない。
次は私自身。
ここは遠慮しない。
疲労もあるし、何より腹が減っている。
・汁だく牛丼
・醤油ラーメン
・たらこドリア
・フライドポテト
画面に並ぶ自分の注文を見て、我ながら少し多いとは思った。
最後に、コピー体――サンゴの分。
彼女は私と同じ体を持っているが、食べる量はわからない。こちらも無難なところを行こう。
・ハンバーグ定食
(ご飯、ハンバーグ、付け合わせ、スープ)
・100%オレンジジュース
ここまで入力して、全体を見直す。
「……うん、こんなものでいいだろう」
私は注文内容を確定し、送信ボタンを押した。
画面が切り替わり、受付番号が表示される。
料理が運ばれてくるまで、少し時間がかかる。
私は購買横に設置されたベンチへ移動し、腰を下ろした。
周囲には、同じように待っている生徒が何人もいる。
袋を抱えた者、トレイを膝に乗せて食べ始めている者、友人と雑談しながらスマホをいじっている者。
そして、漂ってくる匂い。
揚げ物の香ばしい油の匂い。
カレーのスパイスが混じった濃厚な匂い。
ソースの甘さと酸味が混ざった、食欲を直接刺激する匂い。
「……」
胃袋が、はっきりと主張してきた。
私は普段から、よく食べる方だ。
再生能力の影響で代謝が異常に高く、少し動くだけでもエネルギーが消えていく。そのぶん、補給も欠かせない。
それに、この空間。
嗅覚への暴力とも言える状況で、空腹を無視する方が難しい。
時間が、妙に引き伸ばされて感じられた。
まだか、まだかと受付番号の表示を何度も確認してしまう。
だが、現実の時間はきちんと流れていた。
しばらくして、注文した料理がまとめて運ばれてくる。
トレイに乗せられた数々の料理は、湯気を立て、ついさっき完成したばかりだと主張している。
それらはすぐに、慣性固定の箱へと移し替えられた。
エンジニア部の発明品。
どれだけ振っても、中身が揺れない特殊な箱。
しっかりと密閉され、匂いも外には漏れない。
だが、目の前で料理を詰められたせいで、私の空腹はさらに加速した。
「……早く戻ろう」
箱を両手で持ち上げ、重さを確認する。
問題ない。
この箱があるなら、多少無茶をしても料理は無事だ。
私は、購買の外に出た。
ここは屋外。天井もなく、多少跳んでも問題にならない。
周囲を軽く見渡し、人が密集していないことを確認する。
そして、しゃがみ込んだ。
「……よし」
足に、神秘を込める。
まさか、食欲のために神秘を使う日が来るとは思ってもいなかったが、今は一刻も早く腹を満たしたい。
次の瞬間。
私は跳んだ。
両足の内部で、骨が弾ける感触。
筋繊維が一瞬で潰れ、力が爆発的に放出される。
だが、皮膚は破れない。
血も出ない。
空中で、すぐさま再生が始まる。
砕けた骨が繋がり、筋肉が元の形を取り戻す。
視界が一気に流れ、地面が遠ざかる。
この一跳びで、およそ五十メートル。
着地と同時に、再びしゃがみ、次の跳躍。
それを五回ほど繰り返した。
校舎が近づき、適当な位置で私は跳躍を止め、入口から中へ入る。
かなりの短縮だった。
箱の中の料理も、まだ出来立ての温度を保っている。
私の腹も、まだ限界までは達していない。
「……よし、間に合った」
私は足早に廊下を進み、部室の扉を開けた。
ーーー
コハク過去編 7
私は、とりあえず一泊してみることにした。
決断としては、あまりにも軽い。
そう自分でも思う。
だが、ここまで来てしまえば、たった一泊が何を意味するかなど、もはや誤差みたいなものだ。
仮にこの一晩で何か致命的な問題が起こったとしても、後戻りはできない。
契約はすでに交わされ、私はもうゲマトリアの一員で、黒服の男と生活を共にすることは既定路線なのだから。
「……まあ、考えても仕方ないか」
そう呟いて、私はその場を後にした。
最低限の生活用品と、どうしても連れてきたい存在を回収するため、一度だけ自分の“家”へ戻る。
家、と言っても、あの倉庫だ。
夜の倉庫は、昼間よりも静かで、ひどく広く感じた。
コンクリートの床はひんやりとしていて、足音がやけに大きく響く。
奥に進むと、そこに――私のコピー体がいた。
ベッド代わりにしている簡易寝台の上で、眠っているわけでもなく、ただ静かに横たわっている。
呼吸はある。
目も、閉じたり開いたりはしている。
だが、その視線に焦点が合うことはない。
「……ごめんね」
誰に聞かせるでもなく、私はそう言った。
流石に、一晩中この倉庫に置いておくのは、かわいそうだと思った。
コピー体に感情がどこまであるのか、自分でもまだ分からない。
それでも、“放置する”という行為だけは、どうしても引っかかってしまう。
私はコピー体の腕を取り、慎重に起こす。
体重は私と同じはずなのに、不思議と軽く感じた。
「行こう。今日から、少し環境が変わるよ」
返事はない。
だが、それでいい。
私はコピー体を連れて、再びアビドスのオフィス街へと戻った。
今度は、あの重厚な正面扉――客室へ通じる入口は使わない。
黒服さんに案内された、サイドにある裏口……というより、こちらが本来の玄関らしい。
「正面が客室で、裏が玄関って……」
口に出してから、少し可笑しくなる。
「なんか、逆じゃない?」
誰に向けたわけでもない独り言をこぼしながら、私は鍵を開けて中へ入った。
玄関は、拍子抜けするほど普通だった。
靴箱があって、マットが敷かれていて、照明も柔らかい。
コピー体を部屋へ運び、自分の部屋のベッドにそっと横たえた。
「今日はここで寝ていいから」
やはり返事はない。
だが、ベッドに寝かせた瞬間、コピー体の表情がほんの僅かに緩んだ気がした……ような、気がするだけかもしれない。
私は部屋を出て、リビングへ向かった。
リビングでは、黒服さんがすでに机に向かっていた。
ノートパソコンを開き、画面に視線を落とし、淡々とキーボードを叩いている。
カタカタ、という音が、規則正しく部屋に響く。
(仕事中、かな)
その背中からは、声をかけづらい雰囲気が漂っていた。
私は邪魔をしないよう、そっとソファに腰を下ろし、持ってきた本を開く。
ページをめくる音すら、少し気を遣ってしまう。
……なんだろう、この感じ。
親戚の家に泊まりに来たときの、それに似ている。
気まずいわけでもない。
かといって、気楽でもない。
互いに干渉せず、同じ空間にいるだけ。
会話はないまま、時間が過ぎていく。
時計を見ると、すでに一時間ほど経っていた。
私たちは、相変わらず無言で、それぞれの作業を続けている。
その静寂を破ったのは、黒服さんだった。
「……少し、よろしいですか」
いつの間にか、彼は席を立ち、私の近くまで来ていた。
手には、小さな箱を持っている。
「使用許可が取れましたので」
そう言って、その箱を私に差し出す。
「約束のものを、先に渡しておきます」
「……約束の?」
受け取りながら、私は首を傾げた。
箱は軽く、掌に収まる程度の大きさ。
蓋を開けると、中にはケースに収められたコンタクトレンズが入っていた。
「……?」
私は、思わず黒服さんを見る。
「これ……コンタクトですよね?」
別に欲しいと言った覚えはない。
「それが、あなたが欲しがっていた装置です」
「……え?」
「神秘を観測できる装置ですよ」
淡々とした説明に、一瞬、理解が追いつかなかった。
「……これが?」
黒服さんは、ケースからコンタクトを一枚取り出し、私に渡してくる。
「装着してください。既存の視覚情報に干渉しない設計です」
半信半疑のまま、私は洗面所へ行き、手を洗い、鏡の前でコンタクトをつけた。
普通のコンタクトより、少しだけ厚みがある。
だが、違和感はほとんどない。
「……つけましたけど」
リビングに戻り、辺りを見渡す。
――何も変わらない。
家具も、黒服さんも、部屋の雰囲気も、いつも通りだ。
「……?」
私は眉をひそめ、自分の手を見る。
その瞬間、息を呑んだ。
私の体から、何かが立ちのぼっている。
煙のようで、霧のようで、しかしはっきりと“流れ”を持ったもの。
体の表面をなぞるように、循環するように動いている。
色は、黒。
重くも軽くもなく、ゆったりと波打つような動き。
「……これ……」
声が、震えた。
「これが……神秘……?」
視線を動かすと、それは確かに私自身から発している。
幻覚ではない。
装置越しとはいえ、私は今、初めて“それ”を見ている。
言葉が、出てこない。
胸が高鳴る。
だが、叫び出したくなるような興奮とは、少し違う。
試しに、私は腕に意識を集中させた。
神秘を、込める。
すると――
身体中を漂っていた黒い波が、引き寄せられるように腕へと集まっていく。
まるで、そこだけ重力が増したかのような集まり方。
腕が、ずしりと重く感じる。
その一方で、胴体や脚を流れていた神秘は、先ほどよりも薄く、弱々しくなっていた。
「……すごい……」
無意識に、そう呟く。
集中を解く。
すると、腕に集まっていた神秘が、またゆっくりと全身へ戻っていく。
元の循環へと、自然に溶け込む。
なんとも、不思議な光景だった。
自分の内側で起こっているはずの現象を、こうして“外側”から観測できる。
その事実が、ただただ新鮮で、静かな感動をもたらす。
私は、もっと打ち震えるほどの喜びを感じるものだと思っていた。
長年の夢だったのだから。
だが、実際に胸に広がったのは、じんわりとした達成感と――
そして、それ以上に、抑えきれない次への好奇心だった。
(……これで、やっとスタートラインだ)
私は、ゆっくりと息を吸い、黒い波が身体を巡るのを、ただ見つめていた。