机の上には、相変わらずの光景が広がっていた。
レイ、ユリ、サラ――三人はまるで電源を切られた機械のように、机に突っ伏したまま微動だにしていない。背中の上下で、かろうじて生きていることがわかる程度だ。
唯一の例外は久遠ミコトで、彼女だけは椅子から立ち上がり、壁際でゆっくりとストレッチをしていた。腕を伸ばし、肩を回し、太ももを軽く叩きながら血流を促している。その表情はまだ疲労の色を残しているものの、最低限の自己管理は怠らないという意志が見て取れる。
コピー体――サンゴはというと、私が出て行った時とまったく同じ姿勢で椅子に座っていた。背筋は伸び、両手は膝の上。瞬きの回数すら一定で、まるで部屋の一部のように溶け込んでいる。
私は慣性固定の箱を机の上に置き、留め具を外した。
「昼ごはん、持ってきましたよー」
その一言が合図だったかのように、レイとミコトが顔を上げた。
レイは目を細め、焦点が合うまでに少し時間がかかっている様子だ。
「ああ……持ってきてくれたか……ありがとう……」
声はかすれていて、普段の軽快さは微塵もない。
それでも礼を言うあたり、彼女らしい。
私は箱の中から、ひとつひとつ料理を取り出して机に並べていった。
フタを開けるたびに、湯気と共に匂いが立ち上る。
唐揚げの油の匂い。
カレーのスパイス。
魚の焼けた香ばしさ。
蒸し鶏と胡麻の優しい香り。
そして、牛丼とラーメンの暴力的な存在感。
一瞬で部室の空気が変わった。
「……っ」
ミコトが、思わず目を見開いた。
さっきまで疲労を隠していた彼女の顔に、はっきりとした期待の色が浮かぶ。
その匂いに反応したのは、ミコトだけではなかった。
「……おお……」
机に突っ伏していたユリが、ゆっくりと顔を上げる。
髪は少し乱れ、目は半開きだが、鼻だけはしっかりと仕事をしている。
「……ありがたいっす……もう腹ペコで……ほんとに……」
その声は、レイ以上に力がなく、まるで魂だけで喋っているようだった。
私はサラの方へ視線を向ける。
「……サラさん?」
呼びかけてみるが、反応はない。
机に突っ伏したまま、完全に沈黙している。
「……まだ起きないみたいですね」
私はそう判断し、小さく息をついた。
「じゃあ、先に食べちゃいましょうか。冷めると美味しくないですし」
誰からも反対は出なかった。
というより、反対する体力が残っていない。
私はそれぞれの料理を、本人の前に配置していく。
レイの前には山盛りの唐揚げ定食。
ユリの前には、カツカレーとサラダ。
ミコトの前には、蒸し鶏と雑穀ご飯のプレート。
サラの前には、焼き魚定食をそっと置いておく。
そして、サンゴの前にはハンバーグ定食。
最後に、自分の分をまとめて机の端に置いた。
「……とはいえ」
私はレイとユリを見て、少し考える。
「今の状態だと……レイさんもユリさんも、一人で食べるのは厳しそうですね」
レイは試しに腕を動かそうとして、途中で止めた。
「……うん、無理だね。腕が言うこと聞かない」
その様子を見て、ミコトが静かにレイの隣へ移動した。
「レイは、私が食べさせておく」
そう言って、自然な動作でスプーンを手に取る。
まるで以前にも何度かあったかのような、迷いのない動きだった。
「助かる……」
レイは抵抗する気力もないのか、素直に身を任せている。
「じゃあ……」
私は視線をユリへ向ける。
「ユリさんは、サンゴに食べさせてもらいましょうか。
サンゴ、ユリさんにカツカレーとサラダ、お願い」
「わかりました」
指示を出した瞬間、サンゴは椅子から立ち上がった。
動作に一切の淀みはない。
まずユリの背中に手を添え、ゆっくりと姿勢を正す。
次に、どこから取り出したのかタオルを肩にかけ、服が汚れないように整える。
その一連の動きは、まるで訓練された介護士のように的確だった。
スプーンでカレーをすくい、適温かどうかを一瞬だけ確認してから、ユリの口元へ運ぶ。
「……はい、どうぞ」
「……うっわ……」
ユリは少し照れたように目を逸らしながらも、素直に口を開けた。
「なんか……介護されてるみたいで……むずむずするっすね……」
そう言いながらも、咀嚼のペースは早い。
よほど空腹だったのだろう。
サンゴは無言で、しかし確実に次の一口を用意する。
口元を汚さないように角度を調整し、食べ終わるたびにナプキンで軽く拭く。
その様子を横目で見ながら、ミコトも同じようにレイに食べさせていた。
唐揚げを小さく切り、口元へ運ぶ。
「……ん、美味しい……」
レイは目を閉じ、心底幸せそうな表情を浮かべる。
部室の中には、食器の小さな音と、ゆっくりとした咀嚼音だけが響いている。
先ほどまでの疲労と緊張が、少しずつ溶けていくのがわかる。
私は、その様子を一歩引いた位置から眺めていた。
「……さて」
小さく息を吐き、椅子に腰を下ろす。
「私も……食べますか」
目の前には、自分用に用意した料理が並んでいる。
湯気はまだ立ち、香りは十分。
箸で牛丼をすくい上げた瞬間、汁だく特有の重みが指先に伝わった。
白米の隙間という隙間にまで染み込んだつゆが、わずかに糸を引くように垂れ、照明の光を反射して艶を放っている。牛肉は薄切りで、火を通しすぎていないからか、繊維がほろりとほどけそうだ。玉ねぎも、透明感を残したまま柔らかく煮込まれている。
私は一度だけ香りを吸い込んでから、口に運んだ。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
甘辛い。
だが、ただ甘いわけでも、ただ辛いわけでもない。
醤油の角は丸く、砂糖の甘さは舌の奥に残る程度で、牛脂の旨味が全体を包み込んでいる。汁だくにした分、白米は完全に脇役だ。主役は、つゆそのものと言っていい。
噛むたびに、じゅわっと音がしそうなほど水分が溢れ、喉を通る瞬間に一気に体温が上がる感覚があった。
「……やっぱり、疲れた後はこれですね」
誰に向けたわけでもなく、独り言のように呟く。
再生能力のせいか、私は空腹を感じる頻度が異常に高い。その代わり、こうして食べ物を口にした時の幸福感も、普通の生徒より強い気がしていた。
牛丼を数口食べ進める。
箸の動きが止まらない。
汁を吸った米が、舌の上でほぐれ、噛む前にほとんど溶ける。牛肉の脂が喉を滑り落ちていき、胃に到達した瞬間、じんわりと熱が広がる。
ふと顔を上げると、レイがこちらをちらりと見ていた。
「……コハクちゃん、すごい幸せそうな顔してるね」
ミコトに唐揚げを食べさせてもらいながら、そんなことを言う。
「え、そうですか?」
「うん。さっきまでの理屈っぽい顔と全然違う」
「それは……」
私は箸を止め、少しだけ考えてから答えた。
「単純に、お腹が空いてたからだと思います」
「それでそこまで変わるの、逆にすごいよ」
レイは苦笑しつつ、また口を開けて唐揚げを受け取っていた。
私は再び視線を自分の食事に戻す。
牛丼を半分ほど平らげたところで、一度区切りをつけ、次は醤油ラーメンに手を伸ばした。
蓋を開けた瞬間、湯気がふわりと立ち上る。
鶏ガラと醤油が混ざった、どこか懐かしい匂い。油膜が表面に薄く張っていて、スープは透き通った琥珀色をしている。
レンゲでスープをすくい、まずは一口。
「……はぁ」
今度は、自然とため息が出た。
牛丼の甘辛さとは対照的に、こちらはすっきりとした塩味と醤油のコクが前面に出ている。だが薄いわけではない。喉を通った後、じわじわと旨味が追いかけてくる。
私は箸で麺を持ち上げた。
細めのストレート麺。湯切りも適切で、べたつきはない。
ずず、と音を立てて啜る。
麺が歯に当たった瞬間、ほどよい弾力が返ってくる。噛み切ると、小麦の香りが鼻に抜け、スープと絡んで完成する。
「……これも、いいですね」
ラーメンは、単体で完成された食事だが、牛丼の後に食べることで、また別の顔を見せる。甘さをリセットし、口の中を一度まっさらにしてくれる役割を果たしていた。
スープを飲み、麺を啜り、チャーシューを一口かじる。
柔らかく、脂身はとろりと溶ける。
その間にも、横ではユリがサンゴに食べさせてもらいながら、何やらぼやいていた。
「……なんか、味がいつもより美味しく感じるっす……」
「それは、疲労と空腹が重なっているためだと推測されます。エネルギーが不足した状態で食事を摂ると、脳の報酬系からドーパミンが放出されます。この快楽物質が「美味しい」という感覚を増幅させ、脳に「生きるために必要なエネルギーを摂取した」という喜びを与えます」
サンゴは淡々と答えながら、次の一口を用意している。
「解説しなくていいっす……普通に食べさせてほしいっす……」
そんなやり取りを聞きながら、私はラーメンを半分ほど食べ終えた。
次に手を伸ばしたのは、たらこドリアだった。
表面は、こんがりと焼けたチーズの膜に覆われている。
スプーンを入れると、チーズがゆっくりと伸び、その下から白いソースと、ほんのりピンク色のたらこが顔を出した。
一口分をすくい、口へ運ぶ。
「……っ」
今度は、言葉にならない。
牛丼とラーメンが「力」の食事だとしたら、たらこドリアは「甘やかし」だ。
クリーミーで、塩気は控えめ。たらこの粒がぷちぷちと弾け、バターの香りが鼻腔を満たす。
舌に乗せた瞬間、温度と共に幸福感が広がる。
「……危険ですね、これは」
思わずそんな感想が漏れる。
食べる手が止まらなくなるタイプの味だ。
ホワイトソースとご飯が一体化し、スプーンを動かすたびに形を崩していく。
噛む必要すらない。
飲み込むだけで、体が「満たされていく」。
「コハクちゃん、それ一人で全部食べる気?」
レイが、半ば呆れたように聞いてくる。
「ええ。ちゃんと、全部」
「すごいね……」
「代謝がいいので」
私は真顔でそう答え、再びスプーンを動かした。
ドリアを食べ終える頃には、さすがに胃の存在をはっきりと意識するようになっていた。それでも、不快感はない。ただ、確かな重量感があるだけだ。
最後に残ったのは、フライドポテト。
紙袋を開けると、塩の匂いと揚げ油の香りが立ち上る。
カリッと揚がった細めのポテト。表面には、細かな塩が均一に振られている。
一本つまみ、口へ。
外側はカリッと、中はほくほく。
シンプルだが、これほど完成度の高い食べ物もそう多くない。手軽、それでいて満足感がありながら、いつだっていくらでも食べたくなる。
ジャガイモの品種、揚げ方、下準備を変えることで、さまざまな姿に変わる。
一つとして頂点はなく、シンプルさも複雑さも兼ね備えた、ジャンクフードの顔だ。
ポテトは、今まで食べた三品の「締め」に最適だった。
甘さも、塩気も、油も、すべてを程よくまとめてくれる。
一本、また一本と、無心で口に運ぶ。
気づけば、袋の底が見えていた。
私は、最後の一本をゆっくりと噛みしめ、飲み込む。
そして、深く息を吐いた。
「……ごちそうさまでした」
机の上には、空になった容器だけが並んでいる。
胃の中には、確かな満足感。
頭の中には、久しぶりに余計な思考のない静けさ。
私は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
この一時だけは、研究も倫理も、神秘も関係ない。
ただ、食べて、生きているだけの時間。
それが、今はとても心地よかった。
ーーー
コハク過去編 8
私は、コンタクトレンズをつけたまま、しばらく自分の体を観察したり、部屋の中を歩き回ったりしていた。
視線を向けるたびに、私自身から立ち上る黒い神秘の流れが、わずかに揺らぎ、環境や意識に応じて微妙に形を変えていくのが分かる。呼吸が深くなれば緩やかに脈打ち、思考を一点に集中させれば、波は鋭さを帯びる。
(……見える、というだけで、こんなにも情報量が違うんだ)
これまで、感覚と勘だけで扱ってきた神秘が、いまや可視化された“現象”としてそこにある。
私は夢中になり、時間の感覚さえ忘れていた。
そのときだった。
「……そろそろ、よろしいでしょうか」
背後から、静かな声がかかる。
振り向くと、黒服さんが、いつの間にかソファのそばに立っていた。先ほどまで机に向かっていたはずなのに、足音ひとつ立てずに近づいてきたらしい。
「私は契約内容を達成しました。気に入っていただけたようで、何よりです」
その言葉に、私は思わず笑みを浮かべたまま頷く。
「はい……正直、想像以上です。これだけでも、十分すぎるくらいで……」
「でしょうね」
黒服さんは、満足そうでもあり、どこか冷静でもある曖昧な表情を浮かべた。
「さて」
彼は一拍置いてから、続ける。
「今度は、あなたにもこちらの求めるものを差し出してもらいますよ?」
その言葉は、柔らかい声色とは裏腹に、はっきりとした境界線を引くものだった。
私は、胸の奥で小さく息を吸う。
「……いよいよ、ですか」
「ええ」
黒服さんはそう言って踵を返し、リビングの出口へ向かう。
「ついてきてください。私の研究施設に向かいますよ」
私は、未だ興奮が冷めきらないまま、その背中を追った。
恐怖がないわけではない。
だが、それ以上に、未知への期待が私の足を前へと進めていた。
エレベーターに乗り込み、下降する。
箱の中で、機械音が低く唸り、わずかな浮遊感が胃の奥を揺らす。
やがて扉が開き、私たちはビルの外へ出た。
夜のアビドスのオフィス街は、昼とは違い、無機質な光に満ちている。
街灯やビルの窓明かりが直線的に並び、人の気配はほとんどない。
足音だけが、やけに大きく響いた。
黒服さんは迷いなく別のビルへと向かう。
その建物も、外観だけ見ればごく普通のオフィスビルだ。
中へ入り、再びエレベーターに乗る。
今度は上昇。
数字がひとつ、またひとつと増えていく。
「……ここ、本当に研究施設なんですか?」
思わずそう聞くと、黒服さんは肩越しにちらりとこちらを見た。
「ええ。表向きは、ただの空きフロアですがね」
やがて、目的の階でエレベーターが止まる。
「着きました。ここです」
扉が開いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、想像していた“研究室”という言葉の枠を、はるかに超えた空間だった。
巨大だ。
ほぼ立方体に近い構造で、一辺は軽く百メートルを超えているように見える。
天井は高く、見上げると照明が星のように点在している。
壁は、黒い炭素鋼のような金属で覆われ、鈍い光を反射していた。
触れれば冷たく、硬く、容易には傷ひとつつかなさそうだ。
床も同様で、歩くたびに、低く乾いた音が返ってくる。
部屋の各所には、大小さまざまな装置が配置されていた。
どれも、見たことのない形状ばかりだ。
円筒状のもの、アームのついたもの、宙に浮いているように見えるものまである。
(……これ、本当に人が作ったもの?)
「すごいですね……」
私は、思わず呟いていた。
「圧巻です……」
大きな研究施設だとは覚悟していた。
だが、ここまでとは思っていなかった。
黒服さんは、私の反応を特に気にする様子もなく、部屋の中央へと歩いていく。
「それで」
私は、彼の背中に声をかける。
「私は、何をするのでしょうか?」
問いかけには、不安よりも期待が滲んでいた。
何をされるか、というよりも、何を体験できるのか――そんな感覚だ。
黒服さんは、部屋の中央付近に設置された、ひときわ異様な黒い装置の前に立っていた。
それは、椅子とも台ともつかない形状で、複数の固定具が突き出している。
腕、脚、胴体、首。
人を拘束するために最適化された形だと、一目で分かる。
彼は、装置のパネルを操作しながら、淡々と説明を始めた。
「こちらの装置に固定されてもらいます」
指し示される固定具を見て、私は小さく喉を鳴らす。
「……見るからに、それっぽいですね」
「でしょう」
黒服さんは、どこか楽しそうに続ける。
「これは、ヘイローを持つ生徒に、恐怖を流し込む装置です」
さらりとした口調で、とんでもない単語が出てくる。
「神秘と感情は、大きく関係しています。希望や幸福といった正の感情によって神秘は増幅され、反対に、恐怖や絶望といった負の感情によって減衰する」
彼は、装置の一部を叩きながら説明する。
「これを、完全に神秘が無くなるまで恐怖を流し込み続けると、何が起こるのか。それを観察します」
穏やかな表情で、えげつない内容をすらすらと語るその姿は、まさしく悪役そのものだった。
だが、不思議なことに。
説明を聞いても、私の心には、ためらいがほとんど湧かなかった。
それどころか――
(……感情と、神秘が、連動……?)
私の思考は、すでに別の方向へと全力で走り出していた。
そんな話は、今まで聞いたことがない。
理論として考えたこともなかった。
もしそれが事実なら、神秘の制御や増幅、あるいは抑制の方法論が、根本から変わってくる。
(どうやって、そんなことを突き止めたんだろう……)
想像すると、背筋が少し寒くなる。
同時に、研究者としての好奇心が、猛烈に刺激された。
この短時間で、私はすでに二つの大きなものを手に入れている。
神秘を“見る”ための装置。
そして、神秘と感情がリンクしているという、決定的な新情報。
目の前の男が、危険な人物であることは、もはや疑いようがない。
自分自身の身に、明確な危険が迫っていることも、理解している。
それでも。
それでも私は、この人と契約して正解だったと、心の底から思っていた。
食レポをな、食レポを書くのをやめられんのじゃ。
ちっちゃい子がうまそうに飯を食べてるのが好きなもんで、コハクの食レポに熱が入ってしましました。