ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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第五十九話 ありえないもの コハク過去編あり

私は、体についた血液を濡れタオルで丁寧に拭き取っていった。

 

ヘモドライブ義肢のテストでかいた汗と、微細な粉塵と、わずかな体液の跡が肌に残っている。それらを一つひとつ拭い去るたびに、さっきまでの金属的な空気が少しずつ遠ざかっていくような気がした。

 

濡れタオルで一通り拭いたあとは、乾いたタオルで水分を吸い取り、髪の毛の根元や首筋、義肢の付け根のあたりまで念入りに整える。

 

義肢は生身の皮膚とほとんど見分けがつかないが、微妙に温度が違うせいで、触れるとそこだけひんやりとしているのがわかる。

 

「……よし」

 

小さく呟きながら、私は白衣と制服を身につけ、最後に靴を履いた。

 

扉を開けると、外で待っていたスタッフがすぐに姿勢を正し、軽く頭を下げた。

 

「お疲れ様でした」

 

「どうも」

 

私はそれに小さく会釈を返し、そのまま廊下を進む。

背後で扉が静かに閉まる音を聞きながら、さっきまでの訓練室の空気を頭の中で切り替えた。

 

時刻は午前十時半。

待ち合わせまでは、まだ二時間ほどある。トリニティ総合学園までは歩いても十分程度なので、時間にはかなり余裕があった。

 

「……お腹、空いたな」

 

朝早く家を出てきたせいもあって、胃の奥が軽く自己主張を始めている。

武装の用事も済んだ。あとは時間を潰しながら、鷲見セリナとの約束を待つだけだ。

 

「せっかくだし、ちゃんとした昼ごはんにしよう」

 

私は、トリニティの街並みの中へと足を向けた。

石畳の道沿いには、いくつもの飲食店が並んでいる。昼どきにはまだ少し早いが、すでに開店している店も多く、看板からはそれぞれの店自慢の料理の写真が覗いていた。

 

ラーメン屋からは、スープの香ばしい匂い。

天ぷら屋からは、揚げ油の軽やかな香り。

トンカツ屋のショーケースには、分厚いロースの見本が鎮座している。

 

どれも魅力的だ。

しかし、何かが少しだけ違う。

 

「うーん……」

 

私は立ち止まり、通りを見渡す。

今日は、ただ空腹を満たすだけじゃなく、少しだけ“特別”なものを食べたい気分だった。義肢を手に入れ、新しい武装も揃えた今日という日に、ちょっとしたご褒美が欲しい。

 

「焼肉……はさすがに匂いが残りそうだし……」

 

一人で苦笑しながら首を振る。

 

「鍋……いや、これはもう少し寒い日に取っておきたいな」

 

胃袋の求める“ガッツリ感”と、気分の求める“特別感”を両立できるもの。

そう考えながら歩いていると、ひとつの看板が目に入った。

 

「……回転寿司」

 

明るい照明に照らされたチェーン店のロゴが、やけに目立って見える。

その瞬間、頭の中に白いシャリと艶のあるネタのイメージが浮かび、口の中にほんのりとした酢飯の風味が広がった気がした。

 

「……いいかも」

 

回転寿司なら、特別感もあるし、好きなだけ食べられる。

ガッツリいけるし、選ぶ楽しさもある。

 

「よし、ここにしよう」

 

私は店の自動ドアをくぐった。

 

店内は、まだ午前中ということもあって空いている。

客はまばらで、レーンの上を流れる寿司皿の音と、店内BGMが穏やかに混ざり合っている。

 

「いらっしゃいませー」

 

店員の声に軽く会釈を返し、私は奥のほう、レーンの入り口に近い席を選んだ。

 

この席には、ちょっとした理由がある。

最近の回転寿司は衛生管理の関係で、昔のようにランダムな寿司がぐるぐる回ってくることが少なくなった。注文したものだけが、専用レーンで届くスタイルが主流だ。

 

だが、レーンの始点に近いこの場所なら、他の客が頼んだ寿司がいちばん多く目に入る。

 

「あ、あれ美味しそう」と思ってから注文できる。

その“偶然の出会い”が、私はけっこう好きだった。

 

席につき、タブレット端末を手に取る。

画面には今日のおすすめが表示されていた。

 

「……コウイカ、アワビ、穴子煮……」

 

コウイカの透き通るような白さ。

甘辛いタレをまとった穴子。

アワビは……硬くて苦手なのでスキップする。

 

「コウイカと、穴子は食べたいな……」

 

メニューをスクロールすると、“炙り列車”という文字が目に入った。

 

「……炙り列車?」

 

タップしてみると、サーモン、マグロ、海老、ホタテ、肉寿司の五貫セットを、店員が目の前でバーナーで炙ってくれるという演出付きのメニューらしい。

 

「……これは、ちょっと面白そう」

 

特別感、という意味ではこれ以上ない。

 

私は、

・柚皮コウイカ

・穴子煮寿司

・炙り列車

の三つをタブレットで注文した。

 

注文を確定させると、軽い電子音が鳴る。

私はその間に、備え付けの給湯口からコップにお茶を注いだ。緑茶の湯気がふわりと立ち上り、ほのかな渋みの香りが鼻をくすぐる。

 

「……ふう」

 

一口飲むと、体の奥に温かさが広がった。

 

寿司が来るまで、少し時間がある。

私は、ガリの入った容器を開け、箸でひとつつまんで口に運ぶ。

 

「……甘い」

 

ここのガリはかなり甘めで、しかもシャキシャキと歯ごたえがある。

単なる口直しというより、小さなおやつのような存在感だ。

 

ガリをつまみながら、タブレットのメニューを眺める。

マグロ、サーモン、白身、光り物、軍艦巻き……ページをめくるたびに、次は何を頼もうかという考えが頭をよぎる。

 

レーンの向こう側では、誰かが頼んだ寿司が流れてきては、別の席へと運ばれていく。

その様子を眺めながら、私はゆっくりとガリを噛みしめ、これから来る寿司を待っていた。

 

やっぱり回転寿司に来たのなら、マグロとサーモンは外せない――

そんな固定観念のようなものは、私の中にも確かにある。

 

赤身の旨味、脂の甘み。

とろけるようなサーモンの舌触り。

どちらも嫌いなわけがない。むしろ大好きだ。

 

なのに。

 

「今日は、なんか違うんだよな……」

 

私はタブレットを操作しながら、ぼんやりとレーンを眺めていた。

いつもなら、無意識のうちに“まぐろ”“サーモン”“いくら軍艦”の三連コンボを入れているはずなのに、指がどうしてもそこに伸びない。

 

今日は、さっき頼んだ“炙り列車”みたいな、ちょっと変わったものを食べたい気分だった。

いつもと違う味。

いつもと違う体験。

 

「何か変なの、ないかな…」

 

そう思って、メニューを適当にスクロールしていると――

ふと、視界の端に、明らかに異質なものが映り込んだ。

 

レーンの上を、ゆっくりと、あまりにも堂々と流れてくる一皿。

 

その上に乗っているのは、刺身でも、焼き魚でも、野菜でもなかった。

 

「……え?」

 

一瞬、脳が認識を拒否した。

目が見ているものと、常識がぶつかって、思考が止まる。

 

それは――肉。

いや、ただの肉ではない。

 

「嘘でしょ……?」

 

私は思わず小さく呟いた。

 

ローストビーフでも、すき焼き風の牛肉でもない。

もっとこう……下世話で、身近で、そして圧倒的に見覚えのある存在。

 

コンビニチキンだ。

 

どう見ても、何度見ても、あれはコンビニチキンだった。

しかも、よく見ると、その上に白い線が引かれている。

 

「マヨネーズ……?」

 

視線を凝らすと、サクサクの衣の上に、遠慮なくマヨネーズがかけられているのがわかる。

それが、酢飯の上に、まるで当たり前の顔をして鎮座している。

 

私は、レーンを流れていくその皿を、口を半開きにしたまま見送った。

 

「いや……待って」

 

肉寿司ならばまだわかる。

焼いた肉やローストビーフを酢飯に乗せた、いわば“改造寿司”の代表格だ。

 

それはそれで、意外と美味しい。

だから、肉寿司自体に文句があるわけではない。

 

でも――

 

「いくらなんでも……」

 

コンビニチキンは違うだろう。

あれは、寿司の素材として想定されていない。

少なくとも、私の中の“寿司観”には、一切組み込まれていない。

 

なのに、その寿司は、あまりにも自然にレーンを流れていく。

サックサクの衣から漂うスパイスの香り。

マヨネーズのこってりした白さ。

それらが、酢飯のほのかな酸味と混ざり合う未来を、勝手に想像させてくる。

 

「なんでそんな自信満々なんだ…」

 

私は、半ば呆然としながら、その寿司が視界から消えていくのを見送った。

 

頭の中では、

“あれは寿司なのか?”

“でも回転寿司ってルール無用だし……”

“いやでも……”

という思考がぐるぐる回り始める。

 

否定したいのに、気になって仕方がない。

見なかったことにできない。

 

「……味なんて……たぶん想像通りだよね……」

 

コンビニチキンに、マヨネーズ。

そこに酢飯が加わるだけ。

 

きっと、味は“それ”だ。

でも、問題はそこじゃない。

 

“寿司としてどうなのか”という、どうでもいいのにどうしても気になる問いが、私の中で膨らんでいく。

 

そして――

 

「……ああ、もう……」

 

気づけば、私の指はタブレットの画面をタップしていた。

 

『コンビニチキンマヨネーズ寿司(サビ抜き)』

 

注文確認の画面が表示される。

 

コンビニチキンとマヨネーズとワサビを一緒に食べる勇気は、さすがになかった。

 

「……炙り列車に……コンビニチキン寿司……」

 

自分の注文履歴を見て、少し眉をひそめる。

 

「完全に油まみれだな」

 

胃袋が悲鳴を上げる未来が、ありありと想像できる。

このままでは、舌も胃も、脂にやられてしまう。

 

「さっぱりしたのも入れとこう」

 

私はメニューをスクロールし、

「タコ」と「しば漬け巻き」を追加で注文した。

 

タコの歯ごたえと、しば漬けの酸味。

それがあれば、きっと口の中をリセットできる。

 

「これでバランスは取れる……はず」

 

タブレットを置き、私は軽く息をついた。

 

気づけば、最初の注文もまだ届いていないのに、すでに十貫分の寿司を頼んでいる。

少しやりすぎた気もするが、時間はたっぷりある。

 

「まあゆっくり食べよう」

 

私は再びお茶を一口飲み、レーンを眺めながら、これから流れてくるであろう寿司たちを静かに待った。

 

そこから、体感で二分ほど。

レーンの向こうから、私の注文した皿がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

 

透明なカバーの中で、柚子コウイカと穴子煮寿司が、まるで大事に運ばれている宝物みたいに並んでいる。

 

「……来た」

 

私は背筋を少し伸ばして、レーンの動きを目で追った。

自分の席の番号が表示され、皿が静かに止まる。

 

「ありがとうございます」

 

誰に言うでもなく、私は小さくつぶやき、カバーを外した。

 

柚子の爽やかな香りが、ふわりと立ち上る。

白く透き通ったコウイカの身に、淡い黄色の柚子の皮が散らされていて、見た目からして涼やかだ。

穴子煮寿司の方は、つやつやと照りのあるタレをまとって、見るからに甘くて濃厚そうな顔をしている。

 

「……炙り軍艦、ちょっと遅いのかな」

 

私は箸を手に取りながら、レーンの向こうをちらりと見た。

あの、さっき頼んだ“炙り列車”がまだ来ていない。

 

……と思った、そのとき。

 

「失礼します」

 

背後から、落ち着いた声がかかった。

 

振り向くと、黒いエプロンをつけた店員さんが、両手に一枚の大きめの皿を持って立っている。

そこには、寿司がずらりと並んでいた。

 

サーモン、マグロ、海老、ホタテ、そして肉寿司。

どれも、見るからに“炙り前提”の顔をしている。

 

さらによく見ると、サーモン、海老、ホタテの上には、たっぷりとマヨネーズがかかっていた。

 

「おお…」

 

私は思わず声を漏らした。

 

店員さんは、皿を私の目の前に置くと、手際よく小型のガスバーナーを取り出した。

カチリ、と軽い音がして、青白い炎が立ち上がる。

 

「炙りますね」

 

その一言とともに、炎が寿司の上をなぞる。

 

ジュワァ……ッ

 

マヨネーズが、音を立てて溶け、表面が泡立つ。

脂と熱が混ざった、あの独特の香ばしい匂いが、一気に広がった。

 

「ああ……これは」

 

鼻腔をくすぐる、抗いがたい匂い。

魚の脂、マヨネーズのコク、軽く焼かれることで生まれる香ばしさ。

そのすべてが混ざり合って、理性を直接揺さぶってくる。

 

店員さんは、ひとつひとつ丁寧に、焦がしすぎないようにバーナーを動かし、最後に軽く会釈をした。

 

「どうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

私は、思わず少しだけ声を弾ませて答えた。

 

どうせなら、炙りたてを食べたい。

そう思った私は、箸を構え、迷うことなく炙り列車の方に手を伸ばした。

 

「まずはマグロ」

 

黒ずんだ表面が、軽く焼けて、ほのかに湯気を立てている。

その下には、まだ赤みの残る半生の身。

 

「いただきます」

 

口に運んだ瞬間、香ばしさが先に来る。

それからすぐに、マグロの柔らかさと甘みが舌に広がった。

 

「……うま」

 

思わず、間の抜けた声が漏れる。

 

表面の焼き目が、噛むたびに香りを放ち、その下の身はしっとりととろける。

ほんのりと温かいのも、またいい。

冷たい寿司とは違う、別種の“ごちそう”の顔をしている。

 

私は間髪入れずに、サーモンをつまんだ。

 

「これは間違いないやつ」

 

マヨネーズが炙られ、軽く焦げた表面が、サーモンの脂と一体化する。

口に入れると、香ばしさとコクが一気に押し寄せてきて、まるでジャンクフードのような満足感がある。

 

「罪の味……」

 

小さくそう呟きながら、私は次々と寿司を口に運んだ。

 

海老も、ぷりっとした身にマヨネーズのコクが絡んで、想像通りの美味しさ。

肉寿司は、焼いた肉の香ばしさと酢飯の酸味が意外と合う。

 

そして――

 

「ホタテ」

 

最後に残ったそれを、少しだけ慎重に口に運ぶ。

 

炙られた表面の香りと、中のとろりとした甘さ。

マヨネーズのコクが、それを包み込む。

 

「……あ、これ……」

 

私は目を細めた。

 

「思ったより甘い…」

 

予想以上だった。

貝の甘みと、炙りの香ばしさと、マヨネーズの油が、妙に調和している。

 

炙り列車を食べ終えた私は、満足そうに息をついた。

 

「……これは……頼んで正解だった……」

 

少しだけ口の中に残る脂を、お茶で流しながら、私は次の皿に手を伸ばす。

 

「次はコウイカ」

 

柚子コウイカを、そっと箸で持ち上げる。

透き通るような白い身が、わずかに光を反射している。

 

口に入れると――

 

プチプチ、と小さな歯切れの音がして、すぐに、とろりと溶けるような食感に変わった。

 

「新鮮だな〜」

 

柚子の爽やかな香りが、鼻に抜ける。

その後から、コウイカの濃い旨みがじんわりと広がる。

 

さっきまでの脂っこさが、一気に洗い流されるような感覚。

 

「いい切り替えになるかな」

 

私は、思わず頷いた。

 

そして、次は穴子煮寿司。

 

「これはタレが命」

 

醤油はつけず、そのまま口に運ぶ。

 

ふわり、と柔らかい。

歯を立てる前に、もう崩れ始めるほどの柔らかさだ。

 

米と穴子が、口の中で自然に混ざり合い、ねっとりとした舌触りになる。

そこに、極甘のタレが絡みつき、全体を一つの塊のようにまとめ上げる。

 

「……これは」

 

私は、ゆっくりと噛みしめながら、その味を確かめた。

 

「今のところ……一番」

 

小さくそう呟き、もう一貫の穴子を見つめる。

 

つやつやと光るタレの下で、柔らかい身が静かに待っている。

 

今のところ、一番美味しいのは穴子だ。

 

 

 

 

コハク過去編 12

 

「根拠、と言えるほどのものではありませんが……一応、お話ししておきましょう」

 

黒服さんはそう前置きしてから、実験室の壁際にあるコンソールに軽く腰を預けた。白く冷たい光に照らされて、その黒いスーツの輪郭がくっきりと浮かび上がる。彼の視線は私ではなく、宙のどこか、遠い過去の出来事を見つめているようだった。

 

「魂の存在を示そうとする試みは、実は古くから行われています。その中には、眉唾なものも多いですが……いくつかは、無視できない程度の信ぴょう性を持っています」

 

彼は一度、言葉を切った。

 

「1907年、アメリカの医師、ダンカン・マクドゥーガル博士が行った実験をご存じですか」

 

私は首を横に振る。首の拘束がまだ少し窮屈で、わずかに金属が擦れる音がした。

 

「彼は、死の瞬間の人体の重量変化を測定しました。重病の患者を特別なベッド型の体重計に寝かせ、心停止の瞬間に何が起こるかを観察したのです」

 

黒服さんの声は淡々としているが、その内容は、どこか背筋が冷えるようなものだった。

 

「結果、複数の被験者で、死亡の瞬間に体重が減少する現象が観測されました。その値は……平均して、およそ三十二グラム」

 

「三十二……グラム」

 

私は小さく復唱した。

水一口ほどの、あまりにも軽い質量。

 

「もちろん、当時の実験には不備も多く、現在の科学水準では否定される部分もあります。しかし、それ以降も類似の実験はいくつか行われ、死亡時に数グラム単位の質量変化が起こるという報告は、完全には否定されていません」

 

黒服さんは、指で空中に見えない数式を書くような仕草をした。

 

「つまり――魂、あるいはそれに類する“何か”の存在を、真っ向から否定することは、現状ではできないのです」

 

私は、思わず自分の胸のあたりに意識を向けた。

そこに、三十二グラム分の“何か”があるのだとしたら――。

 

「となれば」

 

黒服さんは視線を私に戻す。

 

「コピー体に無くて、あなたにあるものとして“魂”を仮定することには、一定の合理性がある。少なくとも、現時点では」

 

彼の言葉が、実験室の静けさの中に落ちる。

機械の低い駆動音だけが、それを飲み込むように鳴っていた。

 

私はしばらく黙り込んだ。

 

魂。

オカルト。

しかし、私の体で起きている現象自体が、すでに十分オカルトじみている。

 

もし本当に、コピー体に魂が無いのだとしたら――。

 

もし、それを“与える”ことができるのだとしたら――。

 

「……」

 

考えれば考えるほど、頭の奥がざわついた。

魂を錬成する?

移し替える?

そんなもの、魔術師か宗教家の領域だ。

 

それでも、何もしないという選択肢が、私にはどうしても選べない。

 

私がその思考の渦に沈みかけていると、黒服さんが静かに口を開いた。

 

「もっとも、今の話はあくまで仮説です」

 

彼の声が、現実へと引き戻す。

 

「コピー体の性質自体、まだ十分に調べたわけではありません。魂という、非現実的な概念に最初から縛られるのは、研究として健全ではない」

 

彼は小さく肩をすくめた。

 

「ですから、まずは観測できる事実から積み上げていきましょう。それが、最短で答えに辿り着く方法です」

 

「……それも、そうですね」

 

私は、少しだけ息を吐いた。

思考を一度リセットするように。

 

その後の時間は、ほとんど“作業”だった。

 

黒服さんは、私の再生能力が部位ごとに違うのか、腕と脚で差はあるのか、切り離された組織がどの程度まで“私”として振る舞うのか――そういった細かな項目を、次々と検証していった。

 

指一本。

足の指。

筋肉や脂肪層、内臓、脊髄に至るまで細かに。

 

切断され、再生し、観測され、記録される。

私は痛覚のない体で、そのすべてを受け入れながら、時折モニターに映る数値や映像を眺めていた。

 

吐き気がしたりすることはなかった。自分自身、何をされているかはっきりと認識しながらも、肌漠然とその状況を受け入れていた。

 

時間の感覚が曖昧になる。

どれくらい経ったのか、正確にはわからないが、体感では一時間ほどが過ぎた頃、黒服さんが操作を止めた。

 

「……ひとまず、測定はここまでにしましょう」

 

彼が言うと同時に、私を拘束していた金属のバンドが、一つずつ外れていく。カチャリ、カチャリと乾いた音が響く。

 

しかし、体はまだ動かなかった。

首から下が、鉛のように重い。

 

「麻酔が残っていますね。こちらへ」

 

私はアームに抱えられるようにして、すぐ横の台に移された。冷たい金属の感触が、背中越しに伝わる。

 

「しばらく、このまま待っていてください。十分ほどで動けるようになります」

 

天井を見上げたまま、私は頷いた。

 

――今回の測定で、わかったことはいくつもあった。

 

その中でも、特に印象的だったのが、血液の性質だ。

 

普段、私の血は、私の体を離れると、ただの血液になる。赤くて、鉄の匂いがして、普通の生体反応を示す液体。

 

だが、私が意識を失うと、それが変わる。

 

試験管に入れられた私の血は、白い煙を上げて、まるで揮発性の物質のように蒸発し、跡形もなく消えた。その後に残るのは、鼻を突くような、強烈な鉄の匂いだけ。

 

まるで、“私”という存在に紐づいていないと、安定して存在できないかのようだった。

 

毒物に対しては、意外なほど普通だった。

特別な耐性があるわけでもなく、皮膚に触れれば腫れ、炎症も起こる。再生で治るだけで、ダメージそのものはちゃんと受けている。

 

それ以外は、大体、私が知っていた通りだ。

 

――麻酔が抜けるのを待つ間。

 

黒服さんは、少し離れたところの椅子に腰を下ろし、本を開いていた。表紙も、タイトルも、日本語ではない。細かい文字がぎっしりと並んでいて、見るからに難しそうだ。

 

細身で背の高い男が、黒いスーツのまま、静かにページをめくっている。

その姿は、どこか無機質で、マネキンのようで、それでいて妙に絵になっていた。

 

……怪しいけど。

 

私がぼんやりと彼を眺めていると、黒服さんはふと本を閉じ、ポケットから小さな包みを取り出した。

 

チョコレートだった。

一つずつ個包装されたタイプで、指を汚さずに食べられるやつ。

 

カサリ、と小さな音を立てて包装を開け、彼はそれを口に放り込む。

 

……甘い匂いが、かすかに漂ってきた。

 

今の時刻は、おそらく四時前後。

さっきまでの緊張と興奮で忘れていたが、そろそろ小腹が空く時間帯だ。

 

よりにもよって、目の前でおやつを食べられるとは。

 

「……」

 

私は、喉が鳴るのを必死で抑えた。

さすがに、「一つください」とは言えない。

立場的にも、状況的にも。

 

早く、麻酔が解けてほしい。

次の段階に進みたい。

 

そんな思いが、じわじわと強くなっていくのを感じながら、私は天井の光を見つめ続けていた。




見せたい…!ホシノにこの光景を見せたい…!

中学に入って二ヶ月くらいの、12歳の少女が拘束具に固定されて内臓やら脊椎やらを摘出されてなおも抵抗もせずにただそれを見つめている様を!

別に、黒服とコハクの接触を阻止してほしいわけじゃないんだ。ただ、知ってほしい。

ホシノが一番嫌うであろう、小さい子が悪い大人に体を差し出して実験台にされるっていう光景がどんな絵面なのかを知ってほしい。

ホシノは、最初に吐き気を覚えてほしい。
胃の奥がひっくり返るように、さっきまで普通に呼吸していたはずの空気が、突然、毒に変わったみたいに感じてほしい喉が焼けるように痛くなって、何かを吐き出さなきゃいけない気がするのに、何も出てこなくて、ただえずき続ける。

次に、怒りが来てほしい。
理屈じゃない、考えるより先に込み上げる、「こんなことが許されていいはずがない」という原始的な怒り。歯を食いしばって、こめかみが脈打って、頭の中が「壊せ」「止めろ」「奪い返せ」で埋め尽くされる。

でもその怒りは、すぐに呼吸の乱れに変わってほしい。
怒りで胸がいっぱいになりすぎて、息を吸う場所がなくなる。肺がうまく動かなくなって浅い呼吸しかできなくなる。自分が今、息をしているのか、窒息しかけているのか、分からなくなる。

そして、嫌悪。
生理的な、理屈を超えた嫌悪。目の前の光景が、世界の裏側を暴いてしまったみたいで、「見てはいけないものを見てしまった」という感覚が、背骨を這い上がってくる。皮膚の内側がむずむずして、自分の身体まで汚れたような気がしてほしい。

その直後に、戦慄が来てほしい。
怖いのは、黒服だけじゃない。もっと怖いのは、その場で何もできない自分自身だと気づいてしまうこと。足の裏が床に張り付いたみたいに動かなくなって、体温が一気に下がって、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。

そして、コハクが抵抗していないことに気づいて、ホシノは完全に混乱してほしい。
「助けを求めない」「逃げようとしない」その事実が、一番ホシノの心を壊す。なぜ?どうして?頭の中で何十回も問い直して、どれも答えが出なくて、思考が絡まっていく。

やがて、心臓が早鐘を打つ。
胸の中で暴れて、肋骨を内側から叩くみたいに、どくどくと鳴り続ける。息が追いつかなくなって、思わず胸を押さえ込んで、「落ち着け」と自分に言い聞かせるけど、全然、落ち着かない。

視界が、じわじわと狭くなってほしい。
周囲の色が薄れて、真ん中の光景だけがやけに鮮明になって、逃げ場がなくなる。世界がトンネルみたいになって、その先にある地獄から、目をそらせなくなる。

やがて、手足が震え始めてほしい。
寒いわけでもないのに、自分の身体が自分の言うことを聞かなくなる。膝ががくっと折れて、その場に崩れ落ちて、砂漠に放り出された幼い子どもみたいに、何も守るものがない状態になってほしい。

そのとき、ホシノは無力感に飲み込まれてほしい。
武器があっても、意志があっても、「もう起こってしまった」という事実の前では、何も意味を持たない。取り返しのつかないものを、目の前で見せつけられて、ただ、それを見ていることしかできない。

絶望が、遅れてやってくる。
泣き叫びたい衝動が喉まで来て、でも声を出したら、この現実を本当に受け入れてしまう気がして、必死に歯を食いしばって、強がって立とうとする。

逃げたい。今すぐここから消えたい。目を閉じて、見なかったことにしたい。
それでも、「見届けなきゃいけない」という感覚が、ホシノを縛りつける。これは自分への罰で、自分への戒めで、背負わなきゃいけない現実なんだと。

やがて、正義感が歪み始めてほしい。
「守りたい」だけだったはずの気持ちが、「壊してでも止める」に変わっていく。世界が白と黒に分かれて、黒に属するものは、全部、消してしまいたくなる。

そして最後に、復讐心が芽生えてほしい。
静かに、でも確実に、目つきが変わる。涙で滲んだ視界の奥で、何かが冷たく固まっていく。それはもう、ただの優しいホシノじゃなくなる瞬間。守れなかった過去と、見てしまった地獄を、一生、背負う人間の目になってほしい。









…一応断っておくと、私はホシノ推しです。アンチじゃありません。これは愛ゆえのものなのです。
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