ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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食べ物の話で二話つかって申し訳ない。

私が好きなんですよ、食べてるキャラ描くの。

なので、この先も定期的に食レポ回が来ると思いますがどうぞみてやってください。




コハク過去編の方ですが…ちょっと筆が乗ってきましてね、思ったよりも長いこと続けるかもしれません。

多分、終わる頃にはホシノの出番がまた出てきていて、コハク過去編が終わっても星の視点が復活する気がする。

もういっそのことこういうスタイルの小説として売り出していこうかと思う。


第六十話 食べて食べてお腹いっぱい コハク過去編あり

タコとしば漬け巻きが届いたのは、その少し後のことだった。

 

レーンの向こうから、透明なカバーに包まれた二つの皿が、静かにこちらへと流れてくる。

赤と白のコントラストが美しいタコの寿司と、細巻きの中に濃い紫色のしば漬けが覗く巻き寿司。

 

「あ、来たか」

 

私は軽く箸を動かしたが――そのまま、手を止めた。

 

違う。

まだだ。

これらは、“あれ”を食べた後に食べるべきものだ。

 

私はあえて皿に手を伸ばさず、レーンの奥を見つめた。

まるで、嵐が来るのを待つかのように。

 

数分。

ほんの数分のはずなのに、その時間はやけに長く感じられた。

 

周囲の客の話し声、皿がカウンターに置かれる音、奥の厨房から聞こえる金属音。

それらが、すべて遠くに感じられる。

 

そして――

 

ふわり、と。

あの、覚えのある香ばしい匂いが、空気に混じった。

 

油とスパイスと、揚げ物特有の、抗いがたい匂い。

 

「……来たな……」

 

私は、ゆっくりとレーンに目を向けた。

 

それは、まるで雪原を切り裂く除雪車のようだった。

 

回転寿司という名の、静かで秩序だった世界を、何の遠慮もなく押しのけながら、巨大な影がこちらへと近づいてくる。

 

常識。

気品。

伝統。

知性。

理性。

 

そういったものを、まるで“存在しないもの”として扱うかのように、それは進んでくる。

 

コンビニチキンマヨネーズ寿司。

 

白い酢飯の上に、でかでかと鎮座する、黄金色のフライドチキン。

その上には、これでもかとマヨネーズがかけられ、照明を反射して鈍く光っている。

 

そして、レーンが止まり、機械音声が告げる。

 

「商品が到着しました」

 

その声が、なぜかやけに大きく聞こえた。

 

――来てしまった。

私の前に。

 

皿を覆うカバー越しでも、その異様さは十分に伝わってくる。

改めて、目の前にして理解した。

 

これは、異常だ。

 

確かに、回転寿司には改造寿司があふれている。

海老天寿司、ハンバーグ寿司、コーン軍艦、スモークサーモン寿司。

どれも、“寿司とは何か”を一度疑わせるような存在だ。

 

だが――

 

ここまで、酢飯に対して巨大で、なおかつ“米と一緒に食べる前提がない食材”が乗っている寿司が、他にあるだろうか。

 

私は、少しだけ息を整えた。

 

「……いくか……」

 

おそるおそる、箸でその寿司を持ち上げる。

ずしり、と重い。

まるで、寿司ではなく、単なる揚げ物を持ち上げているかのような感触だ。

 

酢飯と、コンビニチキン。

その二つを同時に、口へと運ぶ。

 

「……」

 

最初に感じたのは、スパイスだった。

 

ガツンと来る、これでもかというほどチキンに染み込んだスパイスの刺激。

そこへ、遅れて油が押し寄せてきて、その刺激をさらに増幅させる。

 

酢飯の酸味?

甘み?

そんなものは、完全に背景へと追いやられた。

 

私は、ゆっくりと咀嚼した。

 

どこかチープで、人工的で、それでいて抗えないほどの旨みと塩味の奔流。

それは、寿司というよりも、完全に“コンビニチキンそのもの”だった。

 

「……これ……寿司じゃないな……」

 

小さく呟きながらも、私は箸を止めない。

 

これは、“コンビニチキン寿司”ではない。

“コンビニチキンが、たまたま酢飯の上に乗っているだけの物体”だ。

 

だが――

それでも、うまいものは、うまい。

 

気を抜くと、ここが寿司屋であることを忘れそうになる。

フードコートの一角で、揚げ物をかじっているような感覚。

 

コンビニチキンの味の濃さは、よく知っている。

濃いからこそ、飽きやすい。

しかも、今日はそこにマヨネーズまで加わっている。

 

私は、飽きが来る前に、一気に食べ切った。

 

「……ふう……」

 

最後の一口を飲み込み、軽く息をつく。

口の中は、まるで夜中のコンビニのようだ。

油と塩とスパイスが支配する、ジャンクな世界。

 

「……これは……リセットしないと……」

 

私は、そこでようやく、待たせていたタコの皿に手を伸ばした。

 

赤と白のコントラストが、妙に清潔に見える。

 

一貫、口に運ぶ。

 

歯応えのある身を噛むと、じわっと旨みが滲み出る。

さっぱりとした後味が、コンビニチキンで作られた塩味と油の膜を、少しずつ洗い流していく。

 

「……助かる……」

 

思わず、そう呟いた。

 

続いて、しば漬け巻き。

 

箸でつまみ、口に入れると、ポリポリと小気味よい音がする。

酸味と、独特の発酵した香りが鼻を抜け、口の中の空気が一気に変わる。

 

「……よし……」

 

完全に、リセットされた。

 

油も、スパイスも、ジャンクな余韻も、すべて押し流されて、私は再び“寿司を食べている人間”に戻る。

 

ここからは、第二ラウンドである。

 

私は、回転寿司に来るたびに、ほとんど反射的に頼んでしまうものがある。

 

茶碗蒸しだ。

 

「……やっぱり、これだよね」

 

小さく独りごちて、私はタブレット端末のサイドメニューを開いた。

 

自分でも不思議に思う。

特別、卵料理が好きというわけでもない。

出汁の効いた料理に目がない、というほどの舌を持っているわけでもない。

 

それなのに――

茶碗蒸しだけは、どうしても外せない。

 

あの、スプーンを入れたときの、ぷるんとした抵抗。

すくい上げたときの、柔らかく揺れる表面。

口に入れた瞬間に、ほろりと崩れて広がる、優しい出汁の味。

 

あれは、寿司を食べに来た人間の心と胃袋を、静かに整えてくれる料理だと、私は勝手に思っている。

 

画面には、二種類の茶碗蒸しが並んでいた。

 

『茶碗蒸し』

鶏肉、海老、ほうれん草、かまぼこ、銀杏、椎茸。

 

そして――

 

『海鮮茶碗蒸し』

ホタテ、牡蠣、海老、マグロ、うに、椎茸、ほうれん草。

 

「……これは……」

 

私は、思わず画面に顔を近づけた。

 

ウニが入っている時点で、ただの茶碗蒸しではない。

さらにホタテに牡蠣、マグロまで入っているとなれば、もはや小さな海のようなものだ。

 

「せっかくなら……こっちだよな」

 

指先で、海鮮茶碗蒸しをタップする。

 

ピッ、と軽い音がして、注文が確定した。

 

茶碗蒸しは、出来上がるまでに少し時間がかかる。

蒸し料理だから、どうしても即座には出てこない。

 

「……その間に、何かつまむか」

 

私は、もう一度メニューを眺めた。

 

さっきは変わり種を中心に頼んでいたが、ここからは少し王道に戻ってもいい。

 

カレイのえんがわ。

ブリ。

甘エビ。

 

そして――

最初の方に、なんとなく頼むのをためらっていた、マグロの中トロとサーモン。

さらに、いくら軍艦。

 

「……よし」

 

指先で、次々と注文を入れていく。

 

しばらくして、レーンの向こうから、寿司の皿が流れてきた。

 

透明なカバーに守られたネタたちは、どれも艶やかで、照明を反射してきらきらと光っている。

 

「……これだよ……」

 

思わず、頬が緩んだ。

 

脂の乗った中トロの、ほんのり赤いグラデーション。

サーモンの鮮やかなオレンジ。

甘エビの透明感のある身。

えんがわの、わずかに透けた白。

ブリの、淡く光る皮目。

いくら軍艦の、宝石のような赤い粒。

 

これこそが、回転寿司の幸福な光景だ。

 

私は、順番に寿司を口に運びながら、海鮮茶碗蒸しの到着を待った。

 

えんがわの、こりっとした歯応え。

ブリの、しっかりとした旨み。

甘エビの、舌にまとわりつく甘さ。

中トロの、溶けるような脂。

サーモンの、まろやかなコク。

いくらの、ぷちりと弾ける塩味。

 

どれもが、静かに、しかし確実に私の満足度を積み上げていく。

 

気がつけば、六貫食べていた。ペース配分をミスったかと思った時。

 

「海鮮茶碗蒸しをお持ちしました」

 

レーンではなく、店員の声。

 

私は顔を上げると、小さな盆の上に乗った茶碗蒸しが、そっと目の前に置かれた。

 

「ありがとうございます」

 

私は軽く頭を下げ、スプーンを手に取る。

 

蓋に指をかけ、ゆっくりと持ち上げる。

 

ふわり、と湯気が立ち上った。

 

その奥から、出汁と海鮮の、なんとも言えないいい香りが漂ってくる。

 

「……いい匂い……」

 

思わず、そう呟いてしまう。

 

私は、しばらくのあいだ、その海鮮茶碗蒸しを眺めていた。

 

湯気はゆっくりと細くなり、表面に乗ったウニの輪郭が、よりはっきりと見えてくる。

淡い黄色の卵の中に、オレンジや乳白色の影が混ざり込んでいて、まるで小さな海の断面を切り取ったかのようだ。

 

「……見た目からして、もう勝ってるな」

 

小さくそう言って、私はスプーンをそっと沈めた。

 

ぷるん、とした抵抗が指先に伝わる。

表面を割ると、ふわりと出汁の香りが立ち上り、湯気と一緒に鼻腔をくすぐった。

 

まずは、ウニの乗った部分をすくう。

 

卵とウニが一緒にスプーンに乗り、少し重みを感じさせる。

 

「いただきます」

 

口に運んだ瞬間、最初に広がったのは、ウニの濃厚な甘みだった。

舌の上で、とろりと溶けるような舌触りとともに、海の旨みがじわりと広がる。

 

その直後に、卵のやさしい出汁の味がそれを包み込む。

ウニの主張を邪魔せず、むしろ輪郭を際立たせるように、静かに寄り添ってくる。

 

「……これは……」

 

思わず、息を漏らした。

 

ウニ単体では重くなりがちな旨みが、茶碗蒸しの卵と出汁によって、驚くほどなめらかに整えられている。

濃厚なのに、後味がくどくない。

 

私は、次の一口をすくった。

 

今度は、少し深く、器の中を探るように。

 

スプーンの先に、ぷりっとした感触が当たる。

ホタテだ。

 

卵と一緒に口に入れると、ホタテの甘みが、じわっと広がった。

火が通っているのに、身は硬くならず、ふっくらとしている。

 

「ホタテ……強いな……」

 

思わず、頬が緩む。

 

茶碗蒸しのやさしい世界の中で、ホタテの甘さと旨みが、はっきりと存在感を放っている。

それでも浮くことはなく、卵と出汁に溶け込んで、全体として一つの味になっている。

 

次は、牡蠣。

 

少しだけ、慎重になる。

牡蠣は、強い。良くも悪くも、味の主張がはっきりしている。

 

スプーンですくい、そっと口に運ぶ。

 

……来た。

 

独特の、海の香りと、濃厚なコク。

しかし、それが不思議と嫌味にならない。

 

茶碗蒸しの出汁が、牡蠣のえぐみやクセをやわらかく削ぎ落とし、旨みだけを残している。

 

「……ああ……」

 

思わず、うなずいてしまう。

 

これは、牡蠣が苦手な人でも、きっと食べられる味だ。

それでいて、牡蠣好きにはたまらない。

 

続いて、マグロ。

 

刺身として食べ慣れているはずのマグロが、茶碗蒸しの中に入ると、まるで別の食材のように感じられる。

 

少し火が入ったマグロは、身が締まりすぎず、ほろっと崩れる。

卵と一緒に口に入れると、赤身の旨みが、出汁の中でふわりとほどけていく。

 

「……これも、いいな……」

 

魚の旨みが、出汁に溶け込み、茶碗蒸し全体の味を、さらに深くしているのがわかる。

 

海老も、ぷりっとした食感で存在感を主張しつつ、卵の中でやさしく丸められている。

椎茸の旨みと、ほうれん草のわずかな苦味が、全体の味を引き締めてくれる。

 

私は、スプーンを動かしながら、少しずつ、しかし確実に茶碗蒸しを減らしていった。

 

器の中は、最初の頃よりも、だいぶ低くなっている。

 

卵のなめらかさ。

出汁の深さ。

海鮮それぞれの旨み。

 

それらが混ざり合って、最後の一口まで、味が薄くならない。

 

「……ほんとに、よくできてるな……」

 

最後のスプーンですくい上げたのは、卵と出汁だけの部分だった。

もう具はほとんど残っていない。

 

それを口に入れると、これまで溶け込んできた魚介の旨みが、すべてこの一口に集まっているように感じられた。

 

私は、ゆっくりと噛みしめるように味わい、そして飲み込む。

 

器の中は、きれいに空になっていた。

 

「……ごちそうさま」

 

小さくそう呟いて、私はスプーンを置いた。

 

腹の具合は、満足するほどだが、まだすこし余裕がある

 

胃の中に、心地よい重みと温度があって、さっきまで口にしていた寿司や茶碗蒸しの余韻が、まだゆっくりと体の奥に溶けていくのがわかる。

 

「……よし、ここまでだな」

 

私は小さく頷き、席を立った。

時間にも余裕がある。だが、寿司はここらで引き上げる。

 

レーンの脇を通り、カウンターへ向かう。

レールの上では、相変わらず寿司たちが静かに流れている。さっき私が見送った炙りサーモンが、誰かの席で止まり、次の人の口へと運ばれていくのがちらりと見えた。

 

「お会計、お願いします」

 

店員に声をかけると、慣れた手つきで私の席番号を確認し、端末を操作する。

 

「お会計、二千六百五十円になります」

 

「……思ったより安いな」

 

思わず、口に出てしまった。

 

あれだけ食べて、この値段。

寿司の鮮度も良かったし、炙り列車や海鮮茶碗蒸しの満足感を考えると、むしろ安く感じるくらいだ。

 

私は財布を取り出し、現金を差し出した。

 

「ありがとうございます」

 

軽い会釈とともにレシートを受け取り、出口へ向かう。

 

自動ドアが開いた瞬間、外の空気が流れ込んできた。

トリニティの午前中の空気は、どこか澄んでいて、ほんのりと冷たい。

 

「……いい店だったな」

 

独り言のように呟きながら、私は歩き出す。

 

今の時刻は十一時半。

店に入ったのが十時半頃だったから、ちょうど一時間ほど、あの回転寿司で過ごしていたことになる。

 

約束までは、まだ時間がある。

かといって、今すぐ向かえば早すぎる。

 

私は、自然と次の目的地を思い浮かべていた。

 

――甘いものが、欲しい。

 

寿司を食べると、どうしても塩分と旨味が口と体に残る。

そういうときに欲しくなるのは、決まって糖分だ。

 

だから私は、あえてさっきの寿司で満腹にならなかった。

この“余白”は、デザートのためのスペースなのだ。

 

向かう先は、コンビニ。

 

派手さはないが、どこにでもあって、いつ行っても一定以上の満足をくれる。

それがコンビニスイーツの強さだ。

 

私は、近くのコンビニの自動ドアをくぐった。

 

店内に入ると、冷房の涼しさと、わずかに甘い匂いが混ざった空気が広がる。

スイーツコーナーへ直行し、ガラスケースの前に立った。

 

ロールケーキ。

モンブラン。

ショートケーキ。

チョコレートケーキ。

ティラミス。

どれも、整った見た目で私を誘ってくる。

 

「……うーん……」

 

しばらく、ケースの中を眺め回し、私は小さく首をかしげた。

 

今の気分は、こってりしたケーキではない。

もっと、シンプルで、なめらかで、口の中を優しく洗い流してくれるもの。

 

「……プリンだな」

 

私は、迷いなく棚の奥にあった「北海道産ミルクのなめらかプリン」を手に取った。

シンプルなカップに入ったそれは、余計な装飾がなく、逆にそれが自信の表れのようにも見える。

 

レジで会計を済ませ、スプーンも一緒にもらう。

 

「ありがとうございます」

 

店員の声を背に、私は再び外に出た。

 

近くのベンチに腰を下ろし、プリンのフタをそっと剥がす。

 

ふわりと、ミルクとカラメルの甘い香りが立ち上った。

表面はつるんと光っていて、ほんのりと震えている。

 

「……いい見た目だ」

 

私は、スプーンをプリンの端に差し込んだ。

 

抵抗はほとんどなく、すっと中へ入っていく。

一口分をすくい上げると、なめらかな断面がきれいに崩れずについてくる。

 

「いただきます」

 

口に運ぶと、まず舌に触れたのは、冷たくて柔らかな感触。

次の瞬間、ミルクのやさしい甘さが、じんわりと広がった。

 

「……ああ……」

 

思わず、息が漏れる。

 

寿司の後に欲しかった味、そのものだ。

塩気と旨味で満たされていた口の中が、ゆっくりとリセットされていく。

 

カラメルのほろ苦さが、後から追いかけてきて、甘さを引き締める。

それがまた、次の一口を欲しくさせる。

 

私は、スプーンを動かしながら、少しずつプリンを減らしていった。

 

とろり、ぷるん、とした食感が、何度口に入れても心地いい。

重すぎず、軽すぎず、ちょうどいいコク。

 

「……やっぱり、プリンで正解だったな」

 

最後の一口をすくい、名残惜しさを感じながら口に入れる。

 

カップの底には、わずかに残ったカラメルの色だけが見えていた。

 

 

 

コハク過去編 13

 

スイッチが押された、その瞬間だった。

 

何かが「入ってきた」。

 

外から侵入した、という感覚ではない。

もともと体の奥深くに存在していた暗闇が、突然こちらを向いて立ち上がった、そんな感覚だった。

 

それは感情ではなかった。

恐怖という言葉では、到底足りない。

 

思考が始まるより先に、**「終わりだ」**という結論だけが、完成された形で脳裏に叩き込まれる。

 

「あ……」

 

声にならない音が、喉の奥から漏れ落ちる。

 

理由はない。

原因もない。

何かをされたわけでもない。

 

それなのに、確信だけがあった。

 

――私は、ここで終わる。

 

死ぬ、という言葉すら生ぬるい。

未来が、可能性が、選択肢が、存在ごと削り取られる感覚。

「死ぬ」のではなく、「なかったことになる」。

 

ヘイローが、視界の端で不規則に明滅する。

光が点滅するたびに、思考が一つずつ剥がれていく。

 

呼吸の仕方を、忘れた。

 

肺が動いているのかどうかすら、もうわからない。

吸っているのか、吐いているのか、そんな区別すら意味を失う。

 

――逃げなければ。

 

その一念だけが、残った。

 

私は、がむしゃらに腕を動かした。

吊り下げられた両腕が、鎖を鳴らして暴れる。

 

皮膚が削れ、肉が削れる。しかしその痛みに割く意識なんて今の私にはなかった。

 

意味がないと、理性は叫んでいる。

外れない。壊れない。無駄だ。

 

それでも、体は動く。

 

それは意志ではなかった。

条件反射でもなかった。

 

「ここから出ろ」

という命令が、細胞一つ一つに直接書き込まれているようだった。

 

皮膚が引き伸ばされ、感覚が薄れ、逆に痛みだけが鋭くなる。

関節の位置が、少しずつ「正しくない」方向へずれていくのがわかる。

 

それでも、止まらない。

 

止まれない。

 

叫ぼうとした。

だが、声帯が震える前に、喉の奥が固まった。

 

音にならない悲鳴が、頭の内側で反響する。

その反響が、さらに恐怖を増幅させる。

 

視界が、狭くなる。

色が抜け、輪郭が崩れ、世界が遠ざかっていく。

 

時間が、異様に引き延ばされる。

 

一瞬が、終わらない。

次の瞬間が、永遠に来ない。

 

筋肉が、勝手に収縮する。

命令を出した覚えはない。

なのに、体は限界を超えて動こうとする。

 

どこまでが自分で、どこからが反射なのか、わからない。

 

――助けて。

 

その言葉すら、形になる前に溶けた。

 

理性が、剥がれ落ちていく。

言語が、意味を失っていく。

 

最後に残ったのは、

「嫌だ」

という感覚だけだった。

 

何が嫌なのかも、もうわからない。

ただ、ここにいることそのものが、耐え難い。

 

視界が白く染まり、

音が遠ざかり、

身体という輪郭が、溶け始める。

 

拘束されている感覚すら、薄れていく。

 

思考が、そこで途切れた。

 

私の意識は、闇に沈んだ。

 

ーーー

 

目が覚めた

 

その事実を理解するまでに、随分と時間がかかった。

まぶたが開いているのかどうかすら定かではなく、ただ「暗くない」という状態だけが、ぼんやりと続いている。光があるわけではない。闇がないだけだ。上下も左右も前後もなく、距離という概念も希薄で、私は自分がどこに存在しているのかを判断できずにいた。

 

長い旅を終えた――そんな言葉が、なぜか真っ先に浮かんだ。

だが、どこからどこへ行ってきたのかは思い出せない。

歩いた記憶も、景色の記憶もない。ただ、時間だけを消費した感覚がある。悠久とも呼べるほどの、何も起こらない空間に、延々と漂っていたような後味だけが残っていた。

 

……私は、私だっただろうか。

 

その疑問すら、疑問として成立していない。

「私」という単語が、意味を持たないまま頭の中に浮かんで、すぐに溶けて消える。

 

腕を動かそうとして、動かし方が分からないことに気づく。

 

どうやって、腕って、動かすんだっけ。

 

命令を出す場所が分からない。

どこに力を込めればいいのか、どの感覚が正解なのか、判断できない。

息を吸おうとして、吸い方を忘れていることに気づく。

 

どうやって……息を、するんだっけ。

 

肺という言葉は知っているはずなのに、それがどこにあるのかが曖昧だ。

胸が上下するという仕組みも、頭では理解しているはずなのに、実感が伴わない。

 

ここは……どこなんだっけ。

 

問いが浮かぶたびに、答えのないまま霧散する。

思考が形を保てない。

何かを思い出そうとする行為そのものが、ひどく疲れる。

 

――ああ。

 

その瞬間、脳の奥で、何かがパチンと音を立てて繋がった。

 

視界に輪郭が生まれる。

床があり、壁があり、天井がある。

重力が戻り、体の重さが一気にのしかかってくる。

 

同時に、記憶が、雪崩のように流れ込んできた。

 

装置。

拘束。

恐怖。

黒服。

そして――。

 

思い出した途端、胃がひっくり返った。

 

「――っ、ご……」

 

喉が勝手に開き、内容物が逆流する。

自分の意志とは無関係に、体が前のめりになり、床に向かって吐き出した。

 

酸っぱい匂いが一気に広がる。

胃液が喉を焼き、涙が滲む。

咳き込みながら、何度もえずく。

 

「……か、は……」

 

声にならない声が、床に落ちる。

両手をつこうとして、力が入らず、肘から崩れ落ちる。

吐瀉物の温度が、やけに生々しい。

 

まるで、世界中の人間が抱えている恐怖を、圧縮して、無理やり流し込まれたみたいだった。

一人分ではない。十人分でも、百人分でもない。

死に際の後悔、無力感、絶望、拒絶、後悔、痛み――それらが分別されないまま、感情の濁流となって体を通過していった、その残滓が、今も内側にこびりついている。

 

こうもなるだろう、と思った。

むしろ、これで済んでいるのが不思議なくらいだ。

 

殺人を目撃した、とか。

戦争に参加した、とか。

そんな、具体的な出来事に紐づく恐怖ではない。

 

恐怖そのものを浴びた。

理由も文脈もなく、ただ「恐怖である」という性質だけを、直接。

 

私は、しばらくの間、動けなかった。

 

床に落ちた吐瀉物を、ぼんやりと見つめる。

それが自分の一部だったという事実すら、どこか他人事のように感じられた。

 

呼吸が、浅い。

吸っても、肺の奥まで空気が届かない気がする。

手足の先が、微かに震えている。

 

周囲に、人の気配はない。

 

黒服さんの姿も、声も、見当たらなかった。

あれだけ存在感のあった人物が、嘘のように消えている。

 

どれくらい、意識を失っていたのだろう。

数秒か、数分か、数時間か。

あるいは、もっと長い時間か。

 

時間感覚が、まだ戻ってこない。

 

ただ、少しずつ、少しずつ、頭の中の霧が薄れていく。

思考が連続性を取り戻し、世界の解像度が上がっていく。

 

私は、顔を上げた。

 

その瞬間、ようやく「周り」が見えた。

 

――そこは、実験室だったはずの場所だった。

 

だが、記憶しているそれとは、あまりにも違っていた。

 

床には、金属片が散乱している。

いや、金属片というには大きすぎる。

外装の剥がれたフレーム、歪んだアーム、砕けた関節部――ロボットの残骸、と呼ぶしかないものが、無秩序に転がっていた。

 

壁には、焼け焦げた跡がある。

配線が垂れ下がり、所々で火花を散らしたまま固まっている。

天井の照明は半分以上が破壊され、点灯しているものも、不規則に明滅していた。

 

鼻を突く、強烈な匂い。

 

火薬。

油。

焦げた金属。

 

まるで、ここで小規模な戦闘でも起きたかのような光景だった。

いや、それ以上だ。

整然とした実験室の面影は、ほとんど残っていない。

 

私は、その中心にいた。

 

自分がなぜ無事でいるのか、理解できないまま、ただ立ち尽くす。

破壊の痕跡に囲まれた空間で、私は、ようやく現実に帰ってきたのだと、遅れて実感していた。

 




六十話ということでね、またしばらく本編を休載致します。

理由は、一月も半ばに入りまして私の自動車教習が進み、覚えることやしなくてはならないことが増えたからです。

休載中も、感想欄は毎日チェックいたしますので、何卒思ったことや評価の方を書いていただけると嬉しいです。

忙しい時期を過ぎましたら、また連載を開始いたします。その時までどうか、私を忘れないでやってください。


最後に、30000UA突破ありがとうございます。
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