ミレニアムの秘密の研究室   作:まったり愛好家

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第六十三話 総当たり コハク過去編あり

「はい。では行きます」

 

私はメモに視線を落としたまま、ペン先を整えるように軽く指で弾いた。

紙の上には、箇条書きで並んだ質問項目。だが、それは単なるチェックリストではない。

言葉の端々、間の取り方、視線の揺れ――それらすべてが、答えの一部になる。

 

「まずは、ごく大雑把なものからです」

 

そう前置きしてから、私は顔を上げ、セリナの表情を正面から捉えた。

 

「何か、自分は他人にこれだけは負けない、と思う特技などはありますか?」

 

一瞬、セリナはきょとんとした顔をした。

拍子抜けしたようでもあり、質問の意図を測りかねているようでもある。

 

「特技……ですか」

 

視線を少し上に向け、考える仕草。

指先が無意識に、自分の袖口を軽く摘んでいる。

 

「そうですね……」

 

数秒の沈黙の後、彼女は小さく笑った。

 

「包帯を巻くのが、早いです」

 

その言葉は、ひどく実務的で、飾り気がなかった。

 

「早い?」

 

思わず、私は聞き返す。

 

「はい。きれいに、外れにくく、相手が動いても痛くならないように巻くのが、早いってよく言われます」

 

「なるほど」

 

私はペンを走らせながら頷いた。

 

救護騎士団。

それも現場に立つ者らしい、地に足のついた回答だ。

突出した異能や、本人の自覚する“特別”ではない。

だが、無意識に研ぎ澄まされた技能というものは、時に神秘の温床になる。

 

「ありがとうございます。では、次に進みます」

 

私は紙を一枚めくった。

 

「ここからは、日常感覚に関する質問です。

 違和感がないかどうかを確認するものなので、深く考えず、直感で答えてください」

 

セリナは姿勢を正し、真剣な表情で頷いた。

蒼森ミネは、少し離れた位置から二人の様子を見守っている。

介入はしないが、すべてを見逃さない、という立ち位置。

 

「最近、『周囲の音がうるさすぎる』『逆に静かすぎる』と感じることはありますか?」

 

「特にありません」

 

即答だった。

間も、迷いもない。

 

「人混みにいると、理由なくひどく疲れることは?」

 

「いいえ」

 

「何もしていないのに、時間が飛んだように感じたことは?」

 

「それも……いいえ」

 

淡々と、しかし雑ではない。

質問一つひとつをきちんと受け止め、正確に返している。

 

「初めての場所なのに、『ここを知っている』と感じたことはありますか?」

 

ここで、セリナは少しだけ言葉を探した。

 

「……たまには、あります」

 

ほんの一瞬、視線が揺れる。

 

「“たまに”ですね?」

 

「はい。初任務で行った場所なのに、何となく地図が頭に浮かぶ、みたいなことは」

 

「なるほど」

 

それは、経験と勘で説明できる範囲。

私は、ペン先を止めずに続ける。

 

「誰かに触れられる前に、その感触を予測できたことは?」

 

「いいえ」

 

「寝不足でも、異様に頭が冴える日がありませんか?」

 

「時々ありますね」

 

「強く集中すると、周囲の気配が薄れることは?」

 

「いいえ」

 

「機械や道具が、あなたの手だと壊れやすい、あるいは長持ちしやすいことは?」

 

「ないと思います」

 

「何かを考えていると、偶然それが起きた経験は?」

 

「それも……時たま、です」

 

「感情が高ぶると、周囲で小さな異変が起きたことは?」

 

「ないですね」

 

すべてが、穏やかだ。

突出も、欠落もない。

 

私は心の中で整理する。

 

――偶然の範囲。

――日常に埋もれる程度。

――自覚なき異常は、今のところ顕在化していない。

 

「ありがとうございます」

 

そう言ってから、私は少しだけ間を置いた。

カフェに、カップが置かれる音が静かに響く。

注文した飲み物が届いたらしいが、誰もまだ手を付けない。

 

「次は、身体や反射、生理に関する質問です」

 

声の調子を、わずかに落とす。

ここからは、無意識の領域に踏み込む。

 

「痛みに対して、鈍い、あるいは鋭すぎると感じますか?」

 

「いいえ」

 

「怪我の治りが、周囲より早いと言われたことは?」

 

「……いいえ」

 

「無意識に、危険を避けていた経験はありますか?」

 

「何度か」

 

今度は、即答ではなかった。

だが、迷いではなく、思い出すための間。

 

「反射的に体が動き、後から理由を理解したことは?」

 

「それは……」

 

セリナは一瞬、言葉を切り、そして小さく息を吸った。

 

「たまにあります」

 

その瞬間、私はペンを止めた。

 

「たまにですか」

 

「はい。例えば、人の上に落ちてくる落下物に気付いたり、誰かが転びそうになった時に体が先に動いたり……あとで『どうして分かったんだろう』って思うことが、たまにあります」

 

声は落ち着いている。

誇張も、自慢もない。

 

「心拍や呼吸を、意識的にコントロールできますか?」

 

「いいえ」

 

「極端な寒さや暑さに、耐えられる方だと思いますか?」

 

「強い方だとは、思います」

 

「長時間動き続けても、急に限界が来ることは?」

 

「いいえ」

 

「自分の体の異常を、医者より先に察知したことは?」

 

「それは……はい。

 救護騎士団ですし、どうしても」

 

「身体感覚が、『自分のものではない』と感じた瞬間は?」

 

「ないですね」

 

「体が軽く感じる、あるいは重く感じる波はありますか?」

 

「ありません」

 

私は、最後の質問を書き留め終え、ゆっくりとペンを置いた。

 

――危険の前兆がわかる?

――理由は、後から理解する。

――それがたまにある。

 

表情には出さず、心の中で印を付ける。

 

気にしておこう。

 

私は一度、深く息を吸ってから、次のページをめくった。

紙が擦れる音が、妙に大きく耳に残る。

 

ここから先は、より繊細な領域だ。

自覚の有無よりも、「どう答えるか」「答えるまでの間」に意味が宿る。

 

「次は、知覚や認識に関する質問です。

 少し抽象的なものもありますが、思ったままで構いません」

 

セリナは背筋を伸ばし、小さく頷いた。

 

「他人の感情が、言葉より先にわかることはありますか?」

 

「顔を見れば、わかることがあります」

 

即答に近い。

だが、その声色は控えめで、断言というより経験談に近い。

 

「視線を向けられると、理由なく気づくことは?」

 

「ありませんね」

 

「嘘をつかれると、身体的な違和感がありますか?」

 

「いいえ」

 

「空間の広さや距離を、感覚だけで正確に把握できますか?」

 

「いいえ」

 

質問が進むにつれ、指が無意識にカップの縁をなぞるようになっている。

 

「文字や図形を、『意味』ではなく『塊』として捉えることは?」

 

「いいえ」

 

「人の名前や顔を、極端に覚えすぎる、あるいは覚えられないことは?」

 

「ないですね。普通だと思います」

 

「同時に複数のことを考えても、混乱しませんか?」

 

ここで、少しだけ苦笑が混じった。

 

「混乱しますね」

 

「音や色に、感情や意味を感じることは?」

 

「ありませんね」

 

「何かを見ると、その“先”を想像してしまいますか?」

 

「……たまに」

 

「現実が、『少しだけズレている』と感じることは?」

 

「ありません」

 

次のページへ。

 

「次は、記憶や時間に関する質問です」

 

セリナの視線が、ほんの一瞬だけ私のメモに落ちる。

 

「昔の記憶を、映像のように思い出せますか?」

 

「ものによりますね」

 

「未来の出来事を、夢で見たことは?」

 

「ありません」

 

「同じ日を、何度も生きている感覚はありますか?」

 

「いいえ」

 

「ある選択を、『やり直したい』と強く思ったことは?」

 

ここで、ほんのわずかに間があった。

 

「……ありますね」

 

声は静かだが、否定しなかった。

私はそのまま、先へ進める。

 

「過去の出来事を、感情抜きで再体験できますか?」

 

「感情抜きで……できませんね」

 

「時間が、極端に遅く、あるいは早く感じる瞬間は?」

 

「本を読んでる時とかは、時間が早く感じますね」

 

「他人の記憶を、自分のもののように感じたことは?」

 

「ないです」

 

「まだ起きていないことを、『懐かしい』と感じたことは?」

 

「ないです」

 

「時計を見ずに、正確な時間がわかることは?」

 

「ないです」

 

「重要な瞬間だけ、鮮明に残る傾向はありますか?」

 

「……たまに」

 

最後のページ。

 

「次は、対人関係や社会的影響についてです」

 

蒼森ミネが、わずかに姿勢を変えたのが視界の端に入る。

団長として、ここは特に注意深く見ているのだろう。

 

「初対面なのに、相手が警戒したり、逆に信頼したりすることは多いですか?」

 

「普通だと思います」

 

「あなたの一言で、場の空気が変わった経験は?」

 

「患者さんが脱走した、と報告した時は……場が凍りつきましたね」

 

一瞬、苦笑。

 

「それ以外は、特に」

 

「何もしなくても、人が集まることは?」

 

「ないですね」

 

「無意識に、相手の行動を誘導していると感じたことは?」

 

「いいえ」

 

「あなたのそばだと、他人が本音を漏らすことは?」

 

少し考え込む。

 

「どうなんでしょうか……あって欲しいですね」

 

「指示していないのに、思い通りに物事が進むことは?」

 

「たまに……あります。医療現場などで」

 

「人から、極端に好かれる、あるいは嫌われる傾向は?」

 

「特には」

 

「権威ある人間が、理由なく譲歩したことは?」

 

「ないですね」

 

「誰かの決断を、後押ししてしまった感覚は?」

 

「患者さんの相談に乗ったりしていると……たまに」

 

「自分が中心にいると、物語が進む気がしますか?」

 

「いいえ」

 

私は、すべてを書き終えた。

ペン先を紙から離し、静かにメモを閉じる。

 

質問は、あらかた終わった。

 

――そして、傾向も。

 

私は顔を上げ、セリナをまっすぐに見た。

 

「最後に、一つだけ確認させてください」

 

カフェの喧騒が、遠のいたように感じる。

 

「救護者がいる場所に、誰よりも早く到着できる、と思ったことはありますか?」

 

セリナは、少し驚いたように目を瞬かせた。

だが、すぐに小さく息を整え、頷く。

 

「それは……はい」

 

確信に近い答えだった。

 

やっぱり。

 

私は、内心でそう呟いた。

鷲見セリナの神秘は、もう――おおまかには、把握できたと思った。

 

「そうですね……」

 

私はそう小さく呟きながら、手元のメモを閉じ、ゆっくりと顔を上げた。

 

視線を横に滑らせ、蒼森ミネの方を見る。

 

「蒼森ミネさんの方にも、少し確認を取ってもいいでしょうか?」

 

突然振られたにもかかわらず、彼女は眉一つ動かさず、こちらを見返した。

 

「私ですか? 構いませんが」

 

その声音は落ち着いていて、警戒とも無関心とも取れない、実に団長らしい温度だった。

 

「ありがとうございます。では、率直にお聞きします」

 

私は背筋を正し、言葉を選ぶ。

 

「鷲見セリナさんが、通常ではありえないほどの速度で救護者、あるいは負傷者の元に到着したことはありますか?

 もしあるとしたら、それは一度きりではなく、複数回でしょうか」

 

蒼森ミネは一瞬だけ視線を上に向け、記憶をなぞるように考え込んだ。

その横顔は彫像のように硬質で、だが次の瞬間には自然に口が開く。

 

「そうですね……何度か、あります」

 

淡々とした答えだった。

 

「なるほど……」

 

私は小さく頷く。

 

「それについて、不自然だと思われたことは?」

 

「いえ。正直に言えば、疑問には思いませんでした」

 

そう言って、蒼森ミネは肩をすくめる。

 

「偶然、近くにいたのだろう、と。

 救護騎士団という組織において、そういう偶然は決して珍しいものではありませんから」

 

「……なるほど。確かに、普通はそう考えますよね」

 

私はペンを指で転がしながら、視線を落とした。

カップの縁に残るコーヒーの輪染みが、妙にくっきりと目に入る。

 

少し、考える時間が欲しかった。

 

静かな沈黙が、三人の間に落ちる。

周囲では、食器が触れ合う音や、低い話し声がかすかに流れているが、こちらのテーブルだけが切り取られたように感じられた。

 

やがて、私は顔を上げる。

 

「……おそらく、ですが」

 

声に、わずかな確信が混じる。

 

「鷲見セリナさんは、救護者、もしくは怪我人の元へ、異常なまでの最短経路で辿り着くことができる。

 あるいは、怪我をする人間そのものを、事前、もしくは発生と同時に把握している」

 

私は、今度は真正面からセリナの目を見た。

 

「つまり、救護という行為そのものに特化した、極めて限定的で、しかし非常に強力な神秘を有している可能性があります」

 

セリナは少し目を丸くしたが、すぐに表情を和らげた。

 

「……そうですか」

 

驚きよりも、納得の色が強い。

 

「薄々、そんな気はしていました。

 でも……能力、だったんですね」

 

感心したように言いながらも、声は落ち着いている。

まるで、長年一緒にいた同僚の正体を知っただけ、というような反応だった。

 

蒼森ミネも同じだ。

大仰に驚くこともなく、ただ静かに頷いている。

 

私は心の中で、苦笑した。

 

――本当に、多種多様だ。

 

私自身の「再生」の神秘。

鷲見セリナの「救護」の神秘。

一ノ瀬アスナの、異常としか言いようのない「勘」。

 

キヴォトスという街は、才能の見本市のような場所だ。

いや、才能というより、歪みの博覧会か。

 

私たちはその後、しばらく雑談を交わした。

内容は取り留めのないものだ。

最近の救護騎士団の忙しさ、学園内の小さなトラブル、季節限定のカフェメニューの話。

 

やがて、セリナが立ち上がる。

 

「すみません、そろそろ業務に戻らないと」

 

「ええ、今日はありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

そう言って、彼女は一礼し、軽やかな足取りでカフェを後にした。

 

残されたのは、蒼森ミネと、私。

 

カフェの喧騒が、少しだけ現実味を取り戻す。

 

「……蒼森ミネさんは、戻らなくていいんですか?」

 

私は何気なく尋ねた。

セリナの話では、彼女は常に忙殺されているはずだ。

 

「ええ」

 

蒼森ミネはそう答え、カップを手に取る。

 

「少し、気になることがありますので」

 

そう言って、コーヒーを一口啜った。

その所作は、意外なほど静かで、丁寧だった。

 

一拍置いてから、彼女は口を開く。

 

「私は、救護騎士団の団長を務め、ヨハネ分派の首長としての立場もあります」

 

唐突な自己開示だった。

 

「日々、人の上に立つ者として、精進してきたつもりです。 ですが……政治に関しては疎い方で、頭を使った駆け引きが得意ではないことも、自覚しています」

 

「……はあ」

 

私は曖昧に相槌を打った。

正直、脈絡が見えない。

 

「そんな私ですが」

 

蒼森ミネは、そこで一度言葉を切り、私を真っ直ぐに見た。

 

「一つだけ、誇れるものがあります」

 

空気が、少し張り詰める。

 

「嗅覚です。 救護すべき人民を嗅ぎ分ける嗅覚」

 

その言い方は比喩だが、冗談ではないとわかる。

 

「たとえ本人が隠している病であっても。心の病であっても。抱えている闇であっても」

 

そう言って、蒼森ミネは、私をじろりと睨むように見た。

 

――ああ。

 

私は内心で、ため息をついた。

 

「多分、勘違いですよ」

 

努めて軽い調子で返す。

 

「私はいたって健全です。心も体も。

 病んでませんし、問題なくやってます」

 

だが、その言葉が通じないことは、言い終わる前からわかっていた。

 

「あなたの意見など、関係ありません」

 

蒼森ミネは即座に切り捨てる。

 

「先ほどまでの、鷲見セリナさんとの会話で確信しました。

 あなたは、救護すべき人民です」

 

その目つきが、一層鋭くなる。

 

――うわ、怖。

 

私は内心でそう叫んだ。

 

天才という人種は、こういうところが嫌いだ。

こちらがどれだけ必死に隠していても、勘や直感で全部ひっくり返してくる。

 

小鳥遊ホシノ然り、蒼森ミネ然り。

 

私は蒼森ミネの前では、かなり注意して話していたはずだ。

怪しい素振りなんて、一切見せていない。

 

それなのに、なぜ私に救護の矢印が向くのか。

 

「……はあーーーーー」

 

私は、思い切り大きなため息をついた。

肩の力が、どっと抜ける。

 

「蒼森ミネさん」

 

私は顔を上げ、彼女を見る。

 

「私は、救護なんて望んでないんですよ。本当に

 今のところ、現状に不満もありませんし、うまくやってます」

 

「いいえ」

 

蒼森ミネは立ち上がり、私を見下ろした。

 

「コハクさん。あなたは、道を踏み外している」

 

その声は、静かで、しかし断定的だった。

 

「私にはわかりません。あなたが何を成し、どういう人生を歩み、どういうふうに道を踏み外しているか」

 

一歩も引かない視線。

 

「すべてを理解しているわけではありません。ですが、あなたの歩む道が間違っていると、私の勘が告げているのです」

 

――ああ、これは。

 

私は椅子に深く背中を預け、心の中で呟いた。

 

これは……相当、めんどくさいぞ。

 

私は、ゆっくりと立ち上がった。

 

椅子の脚が床を擦る、かすかな音。

それだけで、空気が一段階、硬くなる。

 

腰をわずかに落とし、背中に担いだアンツィオ20mmライフルの重みを再確認する。

肩に食い込むストラップ、金属の冷たさ。

いつでも、構えられる。

構えなければならない状況だと、体が理解している。

 

視線の先で、蒼森ミネもまた、同じように動いた。

 

盾が前に出され、ショットガンが自然な角度で構えられる。

無駄のない動き。

演習でも訓練でもない、実戦の構えだ。

 

言葉は、ない。

 

お互いに、もう理解している。

これ以上の説得は、存在しない。

 

私たちは、ほぼ同時に踵を返し、カフェのカウンターへと向かった。

私はポケットから紙幣を取り出し、蒼森ミネは硬貨を置く。

店員は一瞬だけこちらを見て、何かを察したのか、それ以上何も言わずに会計を済ませた。

 

カフェの扉が、静かに開く。

 

外の光が、流れ込んできた。

 

時刻は12時半過ぎ。

昼休みはまだ半ばで、トリニティの敷地内は普段よりも人が多い。

 

芝生の上で談笑する生徒たち。

購買袋を下げて歩く者。

日陰のベンチで食事をとるグループ。

 

いつも通りの、平和な昼の光景。

 

だが、その光景は、私たちが一歩外に出た瞬間、音を立てずに崩れた。

 

盾とショットガンを構えた蒼森ミネを認識した生徒たちは、ほんの一瞬だけ固まり、次の瞬間には一斉に動き出す。

回れ右。

距離を取る。

視線を逸らす。

 

まるで、猛獣を見たかのような反応だ。

 

……正直なところ、その生徒たちと同じ行動を取りたかった。

 

今すぐ踵を返して、何事もなかったようにこの場から立ち去りたい。

視界の端で、何も見なかったことにして。

 

だが、それができないことは、痛いほどわかっている。

 

蒼森ミネ。

おそらくキヴォトス全体を見渡しても、単純な戦闘能力で彼女に勝てる存在は、片手で数えられるほどしかいない。

 

それも、条件付きで、だ。

 

日々、逃げ惑う“救護者”を追いかけ、救護(制圧)してきた人物。

その経験値は、数字では測れない。

 

正直に言って、逃げ切れる気がしない。

 

私は昨日までとは違う。

アンツィオ20mmライフルを携行し、ヘモドライブ義肢も装着している。

 

それでも、だ。

 

この状態で逃げ仰せるのは、無理だと断言できる。

 

なぜなら、蒼森ミネは、キヴォトスでも随一の機動力と耐久力を誇る人物だからだ。

 

走行中の車に、後方から飛び乗った。

装甲車を正面から止めた。

戦車に突っ込んで、制圧した。

 

そんな噂話が、山ほどある。

 

その全てが事実だとは思わない。

だが、火のないところに煙は立たない。

 

少なくとも、それに近いことを、彼女は実際にやってきたのだろう。

 

私は、視線だけで周囲を観察する。

 

開けた中庭。

規則正しく並ぶ建物。

逃げ場は、限られている。

 

どうするべきか。

 

状況からして、蒼森ミネの言う“救護”とは、おそらく二択だ。

 

一つは、私が改心するまで、徹底的に叩き直すこと。

物理的にも、精神的にも。

 

もう一つは、精神カウンセリングという名目の長期拘束。

 

どちらも、私にとっては悪夢でしかない。

 

最悪なのは、病棟への監禁。

 

蒼森ミネなら、やりかねない。

いや、やる。

 

実際、そういう噂はすでにトリニティ内に出回っている。

「団長に目をつけられたら、白い部屋に連れていかれる」

そんな、冗談とも本気ともつかない話だ。

 

それだけは、なんとしてでも避けなければならない。

 

私は、喉の奥で小さく息を吐いた。

 

逃げ道は、ない。

交渉の余地も、ない。

 

となれば、残された選択肢は一つだけだ。

 

突破する。

 

どうにかして、意表を突き、蒼森ミネの注意を逸らし、トリニティの敷地から脱出する。

 

簡単な話ではない。

成功率は、限りなく低い。

 

それでも、やるしかない。

 

私は、アンツィオの位置を、わずかに調整する。

義肢の内部で、駆動音が小さく鳴る。

 

視線の先で、蒼森ミネは一歩、前に出た。

 

盾の縁が、光を反射する。

 

彼女の目は、まっすぐに私を捉えていた。

一切の迷いも、躊躇もない。

 

ああ、本当に。

 

たのむから放っておいてくれ。

 

私は、そう思いながらも、視線を逸らさなかった。

 

 

コハク過去編 16

 

私は、気づけば走り出していた。

 

「……っ」

 

コピー体の目前で立ち止まり、私はその身体を、上から下まで舐めるように確認した。

 

服は無残だった。

裂け、焼け、引きちぎられ、もはや衣服としての形を保っていない。

血液が乾いて黒ずんだ部分と、まだ生々しく赤い部分が混在し、異様な臭いを放っている。鉄と血と、わずかに焦げた布の匂い。

 

だが――

 

私は、震える指先で、コピー体の腕に触れた。

 

「……」

 

切り傷も、裂け目も、腫れもない。

 

肩、鎖骨、腹部、脚。

どこを触っても、異常は見当たらない。

 

「……服こそ、こんななのに……」

 

思わず、独り言が零れた。

 

「お前……」

 

私は、コピー体の顔を見上げた。

 

相変わらず無表情で、精巧な人形のようだ。

 

「……なんで、ここにいる……?」

 

それは確認というより、現実を疑うための問いだった。

 

黒服さんがすぐ後ろにいることなど、完全に意識の外に追いやられていた。

敬語も忘れて取り乱していたのだ。

 

コピー体は、ほんの僅かに首を動かし、こちらを向いた。

 

動作は最小限。

感情の揺らぎは、一切感じられない。

 

「助けて。と指令がありましたので」

 

抑揚のない声が、淡々と空気を切る。

 

「本体の安全確保に向かったのです」

 

それだけ。

 

命令を処理し、実行しただけ。

 

「……そう、か」

 

私は、喉の奥で息を詰まらせた。

 

おそらく、私の体が暴走していたのと理由は同じ。

 

「……」

 

私は、視線を横へ逸らし、歪んだ正面扉を見た。

 

内側へと、異常なほどに凹んだ分厚い金属。

建物そのものが、殴られたかのような痕跡。

 

「……この扉の凹みは」

 

ゆっくりと、問いを投げる。

 

「お前が、やったのか?」

 

コピー体は即座に頷いた。

 

「はい」

 

「……どうやって、やった」

 

声が、知らず低くなる。

 

「本体の居場所まで向かう際、扉に阻まれたため、突破を試みました」

 

「手段は?」

 

一拍も置かず、返答が返る。

 

「素手です」

 

「……は?」

 

思考が、一瞬止まった。

 

「す……素手……?」

 

言葉が、まともに出てこない。

 

「そんな、馬鹿な……」

 

私は、コピー体の手と、扉とを交互に見た。

 

「私は……自分で言うのもなんだけど、かなり力は強い。でも……」

 

言葉を探す。

 

「こんな……何十センチあるかもわからない金属の扉を、素手で……曲げられるわけがないだろ……」

 

常識が、音を立てて崩れていく。

 

重火器でも無理だ。

黒服さん自身が言っていた。

ミサイルが直撃しても、歪まない設計だと。

 

――じゃあ、これは何だ。

 

「……え?」

 

背筋に、ぞわりと寒気が走る。

 

「ってことは……」

 

私は、コピー体の小さな手を見つめた。

 

「お前……ミサイルよりも……強い殴打を、出せるってことか……?」

 

私と同じ、細い指。

小さな掌。

 

そのギャップが、理解を拒絶させる。

 

そのとき、横から落ち着いた声が割って入った。

 

「素手、とは、具体的にどういった手段なのですか?」

 

黒服さんだった。

 

彼は、恐怖よりも好奇心を優先させた目で、コピー体を観察している。

 

コピー体は、ほんの僅かな間を置き、答えた。

 

「再生能力を応用した戦闘方法です」

 

淡々と、説明が続く。

 

「手足を切断し、高速で再生することで、瞬間的に高威力の打撃を生み出します」

 

「……」

 

「結果として、パイルバンカーに近い攻撃が可能ですので。それを行いました」

 

そう言って、コピー体は、建物の右側を指差した。

 

嫌な予感が、確信に変わる。

 

私は、ゆっくりと、そちらへ視線を向けた。

 

そこには――

 

手足があった。

 

腕。

脚。

指。

膝から下。

肘から先。

 

切断されたそれらが、無造作に、しかし異様な量で積み上げられている。

 

何十、いや、何百。

血に濡れ、床に貼り付き、絡まり合い、まるで網で引き揚げられた魚の群れのようだった。

 

「…………は?」

 

声が、喉で引っかかる。

 

「え……なに、それ……?」

 

視界が、揺れる。

 

「私……そんなの……知らない……」

 

自分の声が、どこか遠い。

 

「なんで……私が知らないことを……お前が……」

 

胸の奥に、得体の知れない不安が広がる。

 

神秘。

制御。

応用。

 

――できていいのか、こんなこと。

 

「……なんで、今まで黙ってたんだ」

 

私は、苛立ちと、好奇心と、恐怖が入り混じった感情のまま問いかけた。

 

コピー体は、即答する。

 

「質問がなかったためです」

 

――そうだ。

 

こいつは、自律的に判断しない。

聞かれなければ、答えない。

 

私は、大きく息を吐いた。

 

「……はぁ……」

 

頭が痛い。

考えることが、多すぎる。

 

「ここで話し続けるのも、なんですし」

 

黒服さんが、穏やかに言った。

 

「一旦、自宅に戻りましょう。血で染まったコピー体を、このまま放置しておくのは、流石に問題です」

 

「……そうですね」

 

私は、ゆっくりと頷いた。

 

「誰かに見られたら、説明が面倒ですから」

 

「……行きましょう」

 

数歩歩き出してから、ふと振り返る。

 

「あの……あそこにある、大量の手足は……?」

 

黒服さんは、すでにタブレットを操作しながら答えた。

 

「清掃ロボットに指令を送りました。程なく回収されるでしょう」

 

「……ありがとうございます」

 

私は、小さく頭を下げた。

 

その後、私と黒服さん、そして血に染まったコピー体は、何事もなかったかのように、黒服さんのビルの自宅へと戻った。

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