「はい。では行きます」
私はメモに視線を落としたまま、ペン先を整えるように軽く指で弾いた。
紙の上には、箇条書きで並んだ質問項目。だが、それは単なるチェックリストではない。
言葉の端々、間の取り方、視線の揺れ――それらすべてが、答えの一部になる。
「まずは、ごく大雑把なものからです」
そう前置きしてから、私は顔を上げ、セリナの表情を正面から捉えた。
「何か、自分は他人にこれだけは負けない、と思う特技などはありますか?」
一瞬、セリナはきょとんとした顔をした。
拍子抜けしたようでもあり、質問の意図を測りかねているようでもある。
「特技……ですか」
視線を少し上に向け、考える仕草。
指先が無意識に、自分の袖口を軽く摘んでいる。
「そうですね……」
数秒の沈黙の後、彼女は小さく笑った。
「包帯を巻くのが、早いです」
その言葉は、ひどく実務的で、飾り気がなかった。
「早い?」
思わず、私は聞き返す。
「はい。きれいに、外れにくく、相手が動いても痛くならないように巻くのが、早いってよく言われます」
「なるほど」
私はペンを走らせながら頷いた。
救護騎士団。
それも現場に立つ者らしい、地に足のついた回答だ。
突出した異能や、本人の自覚する“特別”ではない。
だが、無意識に研ぎ澄まされた技能というものは、時に神秘の温床になる。
「ありがとうございます。では、次に進みます」
私は紙を一枚めくった。
「ここからは、日常感覚に関する質問です。
違和感がないかどうかを確認するものなので、深く考えず、直感で答えてください」
セリナは姿勢を正し、真剣な表情で頷いた。
蒼森ミネは、少し離れた位置から二人の様子を見守っている。
介入はしないが、すべてを見逃さない、という立ち位置。
「最近、『周囲の音がうるさすぎる』『逆に静かすぎる』と感じることはありますか?」
「特にありません」
即答だった。
間も、迷いもない。
「人混みにいると、理由なくひどく疲れることは?」
「いいえ」
「何もしていないのに、時間が飛んだように感じたことは?」
「それも……いいえ」
淡々と、しかし雑ではない。
質問一つひとつをきちんと受け止め、正確に返している。
「初めての場所なのに、『ここを知っている』と感じたことはありますか?」
ここで、セリナは少しだけ言葉を探した。
「……たまには、あります」
ほんの一瞬、視線が揺れる。
「“たまに”ですね?」
「はい。初任務で行った場所なのに、何となく地図が頭に浮かぶ、みたいなことは」
「なるほど」
それは、経験と勘で説明できる範囲。
私は、ペン先を止めずに続ける。
「誰かに触れられる前に、その感触を予測できたことは?」
「いいえ」
「寝不足でも、異様に頭が冴える日がありませんか?」
「時々ありますね」
「強く集中すると、周囲の気配が薄れることは?」
「いいえ」
「機械や道具が、あなたの手だと壊れやすい、あるいは長持ちしやすいことは?」
「ないと思います」
「何かを考えていると、偶然それが起きた経験は?」
「それも……時たま、です」
「感情が高ぶると、周囲で小さな異変が起きたことは?」
「ないですね」
すべてが、穏やかだ。
突出も、欠落もない。
私は心の中で整理する。
――偶然の範囲。
――日常に埋もれる程度。
――自覚なき異常は、今のところ顕在化していない。
「ありがとうございます」
そう言ってから、私は少しだけ間を置いた。
カフェに、カップが置かれる音が静かに響く。
注文した飲み物が届いたらしいが、誰もまだ手を付けない。
「次は、身体や反射、生理に関する質問です」
声の調子を、わずかに落とす。
ここからは、無意識の領域に踏み込む。
「痛みに対して、鈍い、あるいは鋭すぎると感じますか?」
「いいえ」
「怪我の治りが、周囲より早いと言われたことは?」
「……いいえ」
「無意識に、危険を避けていた経験はありますか?」
「何度か」
今度は、即答ではなかった。
だが、迷いではなく、思い出すための間。
「反射的に体が動き、後から理由を理解したことは?」
「それは……」
セリナは一瞬、言葉を切り、そして小さく息を吸った。
「たまにあります」
その瞬間、私はペンを止めた。
「たまにですか」
「はい。例えば、人の上に落ちてくる落下物に気付いたり、誰かが転びそうになった時に体が先に動いたり……あとで『どうして分かったんだろう』って思うことが、たまにあります」
声は落ち着いている。
誇張も、自慢もない。
「心拍や呼吸を、意識的にコントロールできますか?」
「いいえ」
「極端な寒さや暑さに、耐えられる方だと思いますか?」
「強い方だとは、思います」
「長時間動き続けても、急に限界が来ることは?」
「いいえ」
「自分の体の異常を、医者より先に察知したことは?」
「それは……はい。
救護騎士団ですし、どうしても」
「身体感覚が、『自分のものではない』と感じた瞬間は?」
「ないですね」
「体が軽く感じる、あるいは重く感じる波はありますか?」
「ありません」
私は、最後の質問を書き留め終え、ゆっくりとペンを置いた。
――危険の前兆がわかる?
――理由は、後から理解する。
――それがたまにある。
表情には出さず、心の中で印を付ける。
気にしておこう。
私は一度、深く息を吸ってから、次のページをめくった。
紙が擦れる音が、妙に大きく耳に残る。
ここから先は、より繊細な領域だ。
自覚の有無よりも、「どう答えるか」「答えるまでの間」に意味が宿る。
「次は、知覚や認識に関する質問です。
少し抽象的なものもありますが、思ったままで構いません」
セリナは背筋を伸ばし、小さく頷いた。
「他人の感情が、言葉より先にわかることはありますか?」
「顔を見れば、わかることがあります」
即答に近い。
だが、その声色は控えめで、断言というより経験談に近い。
「視線を向けられると、理由なく気づくことは?」
「ありませんね」
「嘘をつかれると、身体的な違和感がありますか?」
「いいえ」
「空間の広さや距離を、感覚だけで正確に把握できますか?」
「いいえ」
質問が進むにつれ、指が無意識にカップの縁をなぞるようになっている。
「文字や図形を、『意味』ではなく『塊』として捉えることは?」
「いいえ」
「人の名前や顔を、極端に覚えすぎる、あるいは覚えられないことは?」
「ないですね。普通だと思います」
「同時に複数のことを考えても、混乱しませんか?」
ここで、少しだけ苦笑が混じった。
「混乱しますね」
「音や色に、感情や意味を感じることは?」
「ありませんね」
「何かを見ると、その“先”を想像してしまいますか?」
「……たまに」
「現実が、『少しだけズレている』と感じることは?」
「ありません」
次のページへ。
「次は、記憶や時間に関する質問です」
セリナの視線が、ほんの一瞬だけ私のメモに落ちる。
「昔の記憶を、映像のように思い出せますか?」
「ものによりますね」
「未来の出来事を、夢で見たことは?」
「ありません」
「同じ日を、何度も生きている感覚はありますか?」
「いいえ」
「ある選択を、『やり直したい』と強く思ったことは?」
ここで、ほんのわずかに間があった。
「……ありますね」
声は静かだが、否定しなかった。
私はそのまま、先へ進める。
「過去の出来事を、感情抜きで再体験できますか?」
「感情抜きで……できませんね」
「時間が、極端に遅く、あるいは早く感じる瞬間は?」
「本を読んでる時とかは、時間が早く感じますね」
「他人の記憶を、自分のもののように感じたことは?」
「ないです」
「まだ起きていないことを、『懐かしい』と感じたことは?」
「ないです」
「時計を見ずに、正確な時間がわかることは?」
「ないです」
「重要な瞬間だけ、鮮明に残る傾向はありますか?」
「……たまに」
最後のページ。
「次は、対人関係や社会的影響についてです」
蒼森ミネが、わずかに姿勢を変えたのが視界の端に入る。
団長として、ここは特に注意深く見ているのだろう。
「初対面なのに、相手が警戒したり、逆に信頼したりすることは多いですか?」
「普通だと思います」
「あなたの一言で、場の空気が変わった経験は?」
「患者さんが脱走した、と報告した時は……場が凍りつきましたね」
一瞬、苦笑。
「それ以外は、特に」
「何もしなくても、人が集まることは?」
「ないですね」
「無意識に、相手の行動を誘導していると感じたことは?」
「いいえ」
「あなたのそばだと、他人が本音を漏らすことは?」
少し考え込む。
「どうなんでしょうか……あって欲しいですね」
「指示していないのに、思い通りに物事が進むことは?」
「たまに……あります。医療現場などで」
「人から、極端に好かれる、あるいは嫌われる傾向は?」
「特には」
「権威ある人間が、理由なく譲歩したことは?」
「ないですね」
「誰かの決断を、後押ししてしまった感覚は?」
「患者さんの相談に乗ったりしていると……たまに」
「自分が中心にいると、物語が進む気がしますか?」
「いいえ」
私は、すべてを書き終えた。
ペン先を紙から離し、静かにメモを閉じる。
質問は、あらかた終わった。
――そして、傾向も。
私は顔を上げ、セリナをまっすぐに見た。
「最後に、一つだけ確認させてください」
カフェの喧騒が、遠のいたように感じる。
「救護者がいる場所に、誰よりも早く到着できる、と思ったことはありますか?」
セリナは、少し驚いたように目を瞬かせた。
だが、すぐに小さく息を整え、頷く。
「それは……はい」
確信に近い答えだった。
やっぱり。
私は、内心でそう呟いた。
鷲見セリナの神秘は、もう――おおまかには、把握できたと思った。
「そうですね……」
私はそう小さく呟きながら、手元のメモを閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
視線を横に滑らせ、蒼森ミネの方を見る。
「蒼森ミネさんの方にも、少し確認を取ってもいいでしょうか?」
突然振られたにもかかわらず、彼女は眉一つ動かさず、こちらを見返した。
「私ですか? 構いませんが」
その声音は落ち着いていて、警戒とも無関心とも取れない、実に団長らしい温度だった。
「ありがとうございます。では、率直にお聞きします」
私は背筋を正し、言葉を選ぶ。
「鷲見セリナさんが、通常ではありえないほどの速度で救護者、あるいは負傷者の元に到着したことはありますか?
もしあるとしたら、それは一度きりではなく、複数回でしょうか」
蒼森ミネは一瞬だけ視線を上に向け、記憶をなぞるように考え込んだ。
その横顔は彫像のように硬質で、だが次の瞬間には自然に口が開く。
「そうですね……何度か、あります」
淡々とした答えだった。
「なるほど……」
私は小さく頷く。
「それについて、不自然だと思われたことは?」
「いえ。正直に言えば、疑問には思いませんでした」
そう言って、蒼森ミネは肩をすくめる。
「偶然、近くにいたのだろう、と。
救護騎士団という組織において、そういう偶然は決して珍しいものではありませんから」
「……なるほど。確かに、普通はそう考えますよね」
私はペンを指で転がしながら、視線を落とした。
カップの縁に残るコーヒーの輪染みが、妙にくっきりと目に入る。
少し、考える時間が欲しかった。
静かな沈黙が、三人の間に落ちる。
周囲では、食器が触れ合う音や、低い話し声がかすかに流れているが、こちらのテーブルだけが切り取られたように感じられた。
やがて、私は顔を上げる。
「……おそらく、ですが」
声に、わずかな確信が混じる。
「鷲見セリナさんは、救護者、もしくは怪我人の元へ、異常なまでの最短経路で辿り着くことができる。
あるいは、怪我をする人間そのものを、事前、もしくは発生と同時に把握している」
私は、今度は真正面からセリナの目を見た。
「つまり、救護という行為そのものに特化した、極めて限定的で、しかし非常に強力な神秘を有している可能性があります」
セリナは少し目を丸くしたが、すぐに表情を和らげた。
「……そうですか」
驚きよりも、納得の色が強い。
「薄々、そんな気はしていました。
でも……能力、だったんですね」
感心したように言いながらも、声は落ち着いている。
まるで、長年一緒にいた同僚の正体を知っただけ、というような反応だった。
蒼森ミネも同じだ。
大仰に驚くこともなく、ただ静かに頷いている。
私は心の中で、苦笑した。
――本当に、多種多様だ。
私自身の「再生」の神秘。
鷲見セリナの「救護」の神秘。
一ノ瀬アスナの、異常としか言いようのない「勘」。
キヴォトスという街は、才能の見本市のような場所だ。
いや、才能というより、歪みの博覧会か。
私たちはその後、しばらく雑談を交わした。
内容は取り留めのないものだ。
最近の救護騎士団の忙しさ、学園内の小さなトラブル、季節限定のカフェメニューの話。
やがて、セリナが立ち上がる。
「すみません、そろそろ業務に戻らないと」
「ええ、今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
そう言って、彼女は一礼し、軽やかな足取りでカフェを後にした。
残されたのは、蒼森ミネと、私。
カフェの喧騒が、少しだけ現実味を取り戻す。
「……蒼森ミネさんは、戻らなくていいんですか?」
私は何気なく尋ねた。
セリナの話では、彼女は常に忙殺されているはずだ。
「ええ」
蒼森ミネはそう答え、カップを手に取る。
「少し、気になることがありますので」
そう言って、コーヒーを一口啜った。
その所作は、意外なほど静かで、丁寧だった。
一拍置いてから、彼女は口を開く。
「私は、救護騎士団の団長を務め、ヨハネ分派の首長としての立場もあります」
唐突な自己開示だった。
「日々、人の上に立つ者として、精進してきたつもりです。 ですが……政治に関しては疎い方で、頭を使った駆け引きが得意ではないことも、自覚しています」
「……はあ」
私は曖昧に相槌を打った。
正直、脈絡が見えない。
「そんな私ですが」
蒼森ミネは、そこで一度言葉を切り、私を真っ直ぐに見た。
「一つだけ、誇れるものがあります」
空気が、少し張り詰める。
「嗅覚です。 救護すべき人民を嗅ぎ分ける嗅覚」
その言い方は比喩だが、冗談ではないとわかる。
「たとえ本人が隠している病であっても。心の病であっても。抱えている闇であっても」
そう言って、蒼森ミネは、私をじろりと睨むように見た。
――ああ。
私は内心で、ため息をついた。
「多分、勘違いですよ」
努めて軽い調子で返す。
「私はいたって健全です。心も体も。
病んでませんし、問題なくやってます」
だが、その言葉が通じないことは、言い終わる前からわかっていた。
「あなたの意見など、関係ありません」
蒼森ミネは即座に切り捨てる。
「先ほどまでの、鷲見セリナさんとの会話で確信しました。
あなたは、救護すべき人民です」
その目つきが、一層鋭くなる。
――うわ、怖。
私は内心でそう叫んだ。
天才という人種は、こういうところが嫌いだ。
こちらがどれだけ必死に隠していても、勘や直感で全部ひっくり返してくる。
小鳥遊ホシノ然り、蒼森ミネ然り。
私は蒼森ミネの前では、かなり注意して話していたはずだ。
怪しい素振りなんて、一切見せていない。
それなのに、なぜ私に救護の矢印が向くのか。
「……はあーーーーー」
私は、思い切り大きなため息をついた。
肩の力が、どっと抜ける。
「蒼森ミネさん」
私は顔を上げ、彼女を見る。
「私は、救護なんて望んでないんですよ。本当に
今のところ、現状に不満もありませんし、うまくやってます」
「いいえ」
蒼森ミネは立ち上がり、私を見下ろした。
「コハクさん。あなたは、道を踏み外している」
その声は、静かで、しかし断定的だった。
「私にはわかりません。あなたが何を成し、どういう人生を歩み、どういうふうに道を踏み外しているか」
一歩も引かない視線。
「すべてを理解しているわけではありません。ですが、あなたの歩む道が間違っていると、私の勘が告げているのです」
――ああ、これは。
私は椅子に深く背中を預け、心の中で呟いた。
これは……相当、めんどくさいぞ。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る、かすかな音。
それだけで、空気が一段階、硬くなる。
腰をわずかに落とし、背中に担いだアンツィオ20mmライフルの重みを再確認する。
肩に食い込むストラップ、金属の冷たさ。
いつでも、構えられる。
構えなければならない状況だと、体が理解している。
視線の先で、蒼森ミネもまた、同じように動いた。
盾が前に出され、ショットガンが自然な角度で構えられる。
無駄のない動き。
演習でも訓練でもない、実戦の構えだ。
言葉は、ない。
お互いに、もう理解している。
これ以上の説得は、存在しない。
私たちは、ほぼ同時に踵を返し、カフェのカウンターへと向かった。
私はポケットから紙幣を取り出し、蒼森ミネは硬貨を置く。
店員は一瞬だけこちらを見て、何かを察したのか、それ以上何も言わずに会計を済ませた。
カフェの扉が、静かに開く。
外の光が、流れ込んできた。
時刻は12時半過ぎ。
昼休みはまだ半ばで、トリニティの敷地内は普段よりも人が多い。
芝生の上で談笑する生徒たち。
購買袋を下げて歩く者。
日陰のベンチで食事をとるグループ。
いつも通りの、平和な昼の光景。
だが、その光景は、私たちが一歩外に出た瞬間、音を立てずに崩れた。
盾とショットガンを構えた蒼森ミネを認識した生徒たちは、ほんの一瞬だけ固まり、次の瞬間には一斉に動き出す。
回れ右。
距離を取る。
視線を逸らす。
まるで、猛獣を見たかのような反応だ。
……正直なところ、その生徒たちと同じ行動を取りたかった。
今すぐ踵を返して、何事もなかったようにこの場から立ち去りたい。
視界の端で、何も見なかったことにして。
だが、それができないことは、痛いほどわかっている。
蒼森ミネ。
おそらくキヴォトス全体を見渡しても、単純な戦闘能力で彼女に勝てる存在は、片手で数えられるほどしかいない。
それも、条件付きで、だ。
日々、逃げ惑う“救護者”を追いかけ、救護(制圧)してきた人物。
その経験値は、数字では測れない。
正直に言って、逃げ切れる気がしない。
私は昨日までとは違う。
アンツィオ20mmライフルを携行し、ヘモドライブ義肢も装着している。
それでも、だ。
この状態で逃げ仰せるのは、無理だと断言できる。
なぜなら、蒼森ミネは、キヴォトスでも随一の機動力と耐久力を誇る人物だからだ。
走行中の車に、後方から飛び乗った。
装甲車を正面から止めた。
戦車に突っ込んで、制圧した。
そんな噂話が、山ほどある。
その全てが事実だとは思わない。
だが、火のないところに煙は立たない。
少なくとも、それに近いことを、彼女は実際にやってきたのだろう。
私は、視線だけで周囲を観察する。
開けた中庭。
規則正しく並ぶ建物。
逃げ場は、限られている。
どうするべきか。
状況からして、蒼森ミネの言う“救護”とは、おそらく二択だ。
一つは、私が改心するまで、徹底的に叩き直すこと。
物理的にも、精神的にも。
もう一つは、精神カウンセリングという名目の長期拘束。
どちらも、私にとっては悪夢でしかない。
最悪なのは、病棟への監禁。
蒼森ミネなら、やりかねない。
いや、やる。
実際、そういう噂はすでにトリニティ内に出回っている。
「団長に目をつけられたら、白い部屋に連れていかれる」
そんな、冗談とも本気ともつかない話だ。
それだけは、なんとしてでも避けなければならない。
私は、喉の奥で小さく息を吐いた。
逃げ道は、ない。
交渉の余地も、ない。
となれば、残された選択肢は一つだけだ。
突破する。
どうにかして、意表を突き、蒼森ミネの注意を逸らし、トリニティの敷地から脱出する。
簡単な話ではない。
成功率は、限りなく低い。
それでも、やるしかない。
私は、アンツィオの位置を、わずかに調整する。
義肢の内部で、駆動音が小さく鳴る。
視線の先で、蒼森ミネは一歩、前に出た。
盾の縁が、光を反射する。
彼女の目は、まっすぐに私を捉えていた。
一切の迷いも、躊躇もない。
ああ、本当に。
たのむから放っておいてくれ。
私は、そう思いながらも、視線を逸らさなかった。
コハク過去編 16
私は、気づけば走り出していた。
「……っ」
コピー体の目前で立ち止まり、私はその身体を、上から下まで舐めるように確認した。
服は無残だった。
裂け、焼け、引きちぎられ、もはや衣服としての形を保っていない。
血液が乾いて黒ずんだ部分と、まだ生々しく赤い部分が混在し、異様な臭いを放っている。鉄と血と、わずかに焦げた布の匂い。
だが――
私は、震える指先で、コピー体の腕に触れた。
「……」
切り傷も、裂け目も、腫れもない。
肩、鎖骨、腹部、脚。
どこを触っても、異常は見当たらない。
「……服こそ、こんななのに……」
思わず、独り言が零れた。
「お前……」
私は、コピー体の顔を見上げた。
相変わらず無表情で、精巧な人形のようだ。
「……なんで、ここにいる……?」
それは確認というより、現実を疑うための問いだった。
黒服さんがすぐ後ろにいることなど、完全に意識の外に追いやられていた。
敬語も忘れて取り乱していたのだ。
コピー体は、ほんの僅かに首を動かし、こちらを向いた。
動作は最小限。
感情の揺らぎは、一切感じられない。
「助けて。と指令がありましたので」
抑揚のない声が、淡々と空気を切る。
「本体の安全確保に向かったのです」
それだけ。
命令を処理し、実行しただけ。
「……そう、か」
私は、喉の奥で息を詰まらせた。
おそらく、私の体が暴走していたのと理由は同じ。
「……」
私は、視線を横へ逸らし、歪んだ正面扉を見た。
内側へと、異常なほどに凹んだ分厚い金属。
建物そのものが、殴られたかのような痕跡。
「……この扉の凹みは」
ゆっくりと、問いを投げる。
「お前が、やったのか?」
コピー体は即座に頷いた。
「はい」
「……どうやって、やった」
声が、知らず低くなる。
「本体の居場所まで向かう際、扉に阻まれたため、突破を試みました」
「手段は?」
一拍も置かず、返答が返る。
「素手です」
「……は?」
思考が、一瞬止まった。
「す……素手……?」
言葉が、まともに出てこない。
「そんな、馬鹿な……」
私は、コピー体の手と、扉とを交互に見た。
「私は……自分で言うのもなんだけど、かなり力は強い。でも……」
言葉を探す。
「こんな……何十センチあるかもわからない金属の扉を、素手で……曲げられるわけがないだろ……」
常識が、音を立てて崩れていく。
重火器でも無理だ。
黒服さん自身が言っていた。
ミサイルが直撃しても、歪まない設計だと。
――じゃあ、これは何だ。
「……え?」
背筋に、ぞわりと寒気が走る。
「ってことは……」
私は、コピー体の小さな手を見つめた。
「お前……ミサイルよりも……強い殴打を、出せるってことか……?」
私と同じ、細い指。
小さな掌。
そのギャップが、理解を拒絶させる。
そのとき、横から落ち着いた声が割って入った。
「素手、とは、具体的にどういった手段なのですか?」
黒服さんだった。
彼は、恐怖よりも好奇心を優先させた目で、コピー体を観察している。
コピー体は、ほんの僅かな間を置き、答えた。
「再生能力を応用した戦闘方法です」
淡々と、説明が続く。
「手足を切断し、高速で再生することで、瞬間的に高威力の打撃を生み出します」
「……」
「結果として、パイルバンカーに近い攻撃が可能ですので。それを行いました」
そう言って、コピー体は、建物の右側を指差した。
嫌な予感が、確信に変わる。
私は、ゆっくりと、そちらへ視線を向けた。
そこには――
手足があった。
腕。
脚。
指。
膝から下。
肘から先。
切断されたそれらが、無造作に、しかし異様な量で積み上げられている。
何十、いや、何百。
血に濡れ、床に貼り付き、絡まり合い、まるで網で引き揚げられた魚の群れのようだった。
「…………は?」
声が、喉で引っかかる。
「え……なに、それ……?」
視界が、揺れる。
「私……そんなの……知らない……」
自分の声が、どこか遠い。
「なんで……私が知らないことを……お前が……」
胸の奥に、得体の知れない不安が広がる。
神秘。
制御。
応用。
――できていいのか、こんなこと。
「……なんで、今まで黙ってたんだ」
私は、苛立ちと、好奇心と、恐怖が入り混じった感情のまま問いかけた。
コピー体は、即答する。
「質問がなかったためです」
――そうだ。
こいつは、自律的に判断しない。
聞かれなければ、答えない。
私は、大きく息を吐いた。
「……はぁ……」
頭が痛い。
考えることが、多すぎる。
「ここで話し続けるのも、なんですし」
黒服さんが、穏やかに言った。
「一旦、自宅に戻りましょう。血で染まったコピー体を、このまま放置しておくのは、流石に問題です」
「……そうですね」
私は、ゆっくりと頷いた。
「誰かに見られたら、説明が面倒ですから」
「……行きましょう」
数歩歩き出してから、ふと振り返る。
「あの……あそこにある、大量の手足は……?」
黒服さんは、すでにタブレットを操作しながら答えた。
「清掃ロボットに指令を送りました。程なく回収されるでしょう」
「……ありがとうございます」
私は、小さく頭を下げた。
その後、私と黒服さん、そして血に染まったコピー体は、何事もなかったかのように、黒服さんのビルの自宅へと戻った。